第二十八話 県庁は岩槻②
勇吉が店の道具を片づけていると、戸口から清兵衛の声がした。
「勇吉、いるか?」
顔を上げると、清兵衛が立っていた。朝から仕事を続け、ようやく一息つけると思っていたところだったので、勇吉はその顔を見ただけで何となく察した。
「今日はもう終わりだよ」
「何が終わったんだ」
「仕事に決まってるだろ。早く桜屋に行って酒でも飲んでこい」
「まだ何も言ってねえだろ」
「お前の顔が県庁だもん」
「どんな顔だよ」
「知らねえけど、たぶんそんな顔」
清兵衛は呆れたように笑ったが、いつものように言い返してはこなかった。
「加兵衛のところに行くぞ。ちょっと大事な話がある」
「明日じゃ駄目か?」
「今日のうちに聞いといた方がいい」
普段ならもう少し言い合いになるところだが、清兵衛の声がいつになく真面目だったので、勇吉もそれ以上は断らなかった。
「……酒は出るのか?」
「知らねえよ」
「昨日も同じこと言ってたぞ」
「昨日も同じこと聞いただろ」
勇吉は苦笑しながら道具を片づけ終えると、店の戸を閉めて清兵衛と一緒に歩き出した。
夕暮れの中山道には、仕事を終えた人々が行き交っていた。旅籠の前では馬に水を飲ませる男がおり、荷を下ろしたばかりの車のそばでは、主人と客が何やら話し込んでいる。
少し先では宗助が宿の主人らしい男と話しており、権蔵も顔見知りの者に声をかけていた。二人ともこちらに気づくと、話を切り上げて岡田家へ向かった。
昨日から町を調べていた二人は、今日もそれぞれ動いていたらしい。
勇吉はそんな姿を見ながら、よくもまあ飽きずにやるものだと思った。もっとも、蕨のために何かしようというのは悪いことではない。清兵衛も宗助も、頼まれたから仕方なく動いているわけではないのだろう。
ただ、それに毎回自分まで付き合うとなると話は別だった。
岡田家へ着くと、加兵衛が奥の座敷で待っていた。
いつもなら先に茶でも出てくるところだが、今日は加兵衛の前に一通の書状が置かれている。勇吉たちが座るのを待って、加兵衛はその書状を手に取った。
「役所の事情に通じた者から知らせが届いた」
清兵衛の表情が引き締まった。
「何か決まったのか?」
「ああ。新しくできる埼玉県のことだ」
勇吉は清兵衛と宗助を見比べた。
「県庁の話か?」
「そうだ。県庁を置く場所が定められたらしい」
加兵衛は一度言葉を切り、書状を畳の上へ戻した。
「岩槻だ」
誰もすぐには口を開かなかった。
清兵衛は眉を寄せ、宗助は腕を組んだまま考え込んでいる。権蔵も書状を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「岩槻か……」
勇吉は三人の顔を見回した。
東京まで足を運び、浦和を見て、昨日は蕨の土地を歩き回った。清兵衛たちは馬を置く場所や宿の数まで調べ、権蔵は土地の持ち主に話を聞いていた。
それが岩槻に決まったという。
「じゃあ終わりじゃん」
勇吉がそう言うと、清兵衛は首を振った。
「いや、まだそうとは限らねえ」
「決まったんだろ?」
「決まったのは確かだ。だが、話がそれで全部終わったわけじゃねえんだよ」
清兵衛は加兵衛へ目を向けた。
「今、役所は浦和にある。岩槻へ移すって話も書いてあるのか?」
「そこまでは分からん。県庁を置く場所は岩槻と定められたが、今のところ役所の仕事は浦和で続いているそうだ」
「じゃあ、すぐに移るわけじゃねえのか」
「そのあたりを確かめる必要がある」
勇吉は二人の話を聞きながら首を傾げた。
「県庁は岩槻に決まったのに、役所は浦和にあるのか?」
「そういうことだ」
「変な話だな」
清兵衛も苦笑した。
「俺だってそう思うよ」
宗助はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「浦和の連中は落ち着かねえだろうな。役所があるから泊まる客もいるし、馬を使う者もいる。岩槻へ移るとなれば、商売のやり方も変わってくる」
「そういや、今日うちに来た浦和の男も似たようなこと言ってたぞ」
勇吉が何気なく言うと、加兵衛が顔を上げた。
「浦和の男?」
「ああ。この前、向こうで腰を診た奴だよ。わざわざ蕨まで来てくれてな」
「そいつが何か言ってたのか?」
「蕨が県庁を欲しがってるって、浦和でも噂になってるんだと。役所が移ったら困るって奴もいるらしいぞ」
加兵衛は清兵衛と顔を見合わせた。
「もう向こうまで話が伝わってるのか」
「俺たちも浦和へ行ってるからな。隠して動いてたわけでもねえし、誰かが聞いててもおかしくねえ」
清兵衛が答えると、勇吉は思い出したように続けた。
「そうだ。庄さんも気にしてるらしいぞ」
「高梨庄兵衛さんか?」
「ああ。蕨は本気なのかって聞いてたんだと」
加兵衛はしばらく考え込んだ。
「庄兵衛さんなら、浦和の事情もよく知っている。いずれ話を聞く必要があるな」
「ただ、浦和の連中が心配するのも分かるよ」
宗助が言った。
「役所が移るとなりゃ、宿屋も馬を扱う者も影響を受ける。こっちが喜ぶことでも、向こうじゃ困る話になるからな」
清兵衛は頷いた。
「それはそうだ。だが、蕨にとっちゃ大きな機会になるかもしれねえ。最初から諦めることもないだろ」
「俺も諦めろとは言ってねえよ。ただ、役所が来れば人も馬も増える。宿の数も足りるか分からねえし、町の者がみんな喜ぶとも限らねえ」
宗助の言葉を聞いて、権蔵が静かに口を開いた。
「その通りだな。昨日見た土地だって、持ち主は貸す気がなかった。役所が来るからって、昔から守ってきた土地を簡単に手放すわけじゃねえ」
清兵衛は権蔵へ目を向けた。
「それは分かってる。無理に借りようなんて思っちゃいねえよ」
「ああ、お前がそういうつもりじゃねえのは知ってる。ただな、県庁が来るって話が大きくなれば、町の連中もいろいろ考えるだろう。商売が増えると喜ぶ奴もいれば、今まで通りがいいって奴もいる」
権蔵はそこで一度言葉を切った。
「蕨をよくしたいって気持ちは同じでも、何をよしとするかは人によって違うからな」
清兵衛はすぐには答えなかった。
昨日、土地を貸さないと言った男の顔を思い出したのだろう。あの男にも、長年守ってきた土地があり、家族の暮らしがある。県庁のためなら何でも差し出してくれるというわけではない。
「……そうだな」
清兵衛は小さく頷いた。
「だからこそ、ちゃんと調べなきゃならねえんだろうな」
加兵衛は三人の話を黙って聞いていたが、やがて書状へ手を伸ばした。
「岩槻に決まったからといって、今まで調べたことが無駄になるわけじゃない。だが、向こうのことを知らずに蕨へ迎えたいと言っても、話にならん」
「岩槻を調べるのか?」
清兵衛が尋ねた。
「ああ。県庁を置くと定められた場所が、実際にはどういうところなのか。役所を置く建物はあるのか、人や馬の出入りはどうなっているのか。それを確かめたい」
宗助が頷いた。
「宿場の様子も見ておいた方がいいな。浦和とは人の流れが違うだろうし」
「土地のことなら、向こうに知り合いがいないか当たってみるよ」
権蔵もそう言った。
清兵衛はしばらく考えてから、加兵衛へ向き直った。
「俺は岩槻を見てみたい。浦和と蕨を歩いたんだ。比べるなら、実際に見なきゃ分からねえ」
「そうだな。まずは行ける者で調べてこよう」
加兵衛がそう答えると、話は少しずつ次の段取りへ移っていった。
勇吉はその様子を眺めていた。
岩槻に決まったと聞いた時には、これで話が終わるものだと思った。ところが清兵衛たちは、もう次に何を調べるか考え始めている。
自分から進んで土地を調べようとは思わないが、清兵衛たちが町のために動いている姿を見るのは嫌いじゃない。あれこれ意見を出し合い、何とかしようとしているのだから、大したものだと思う。
ただ、一つ気になることがある。
「なあ」
勇吉が口を開くと、清兵衛が振り返った。
「何だ?」
「岩槻には誰が行くんだ?」
「まだ決めてねえよ」
「そうか」
勇吉は少し安心した。
ところが、加兵衛がこちらを見て笑った。
「勇吉、お前も来るか?」
「俺?」
「ああ。浦和でも随分役に立ってくれたからな」
「俺は腰を診てただけだぞ」
「それが役に立ったんだよ。向こうの人間と知り合うきっかけにもなっただろ」
勇吉は少し考えた。
確かに浦和では、腰を痛めた男を診たことから話が広がった。今日だって、その男がわざわざ蕨まで訪ねてきてくれたのだから、悪いことばかりではない。
それでも、また何日も店を空けるとなれば話は別だった。
「まあ、行くのはいいけどよ。俺も仕事があるからな」
「分かってるよ。無理に連れ出そうってわけじゃねえ」
「本当だな?」
「本当だ」
清兵衛が横から笑った。
「お前、岩槻でも腰の悪い奴がいたら診るんだろ?」
「そりゃ、目の前で困ってりゃ放っとけねえよ」
「だったら、向こうでも役に立つかもしれねえな」
「だからって、腰の悪い奴を探しに行くわけじゃねえぞ」
宗助まで笑い出した。
勇吉もつられて笑ったが、清兵衛の顔を見ると、また何か企んでいるような気がしてならなかった。
「まったく、お前らといると仕事が増えるばっかりだ」
「悪いな」
「そう思ってるなら、今度こそ酒くらい奢れよ」
「また酒かよ」
「またって何だよ。まだ奢ってもらってねえぞ」
加兵衛も笑ったが、やがて書状を手に取り、皆の顔を見回した。
「ともかく、岩槻のことは調べてみよう。浦和の役所がどうなるのかも確かめる。そのうえで、蕨に何ができるのか考えればいい」
清兵衛たちが頷いた。
勇吉も、今度は何も言わなかった。
県庁が蕨に来れば、町は今より賑やかになるかもしれない。宿も増え、商売を始める者も出てくるだろう。そうなれば、腰や肩を痛めて店へ来る者も増えるかもしれない。
それはそれで、悪くない。
ただ、岩槻に決まったというのに、役所は浦和にある。しかも清兵衛たちは、まだ蕨へ迎えることを諦めていない。
勇吉は加兵衛の前に置かれた書状を眺めながら、ふと思った。
「なあ、加兵衛」
「何だ?」
「結局、県庁はどこに落ち着くんだ?」
加兵衛は書状へ目を落とした。
「それが分かれば、こんなに苦労はしねえよ」
加兵衛の返事に清兵衛たちは苦笑したが、誰も諦めようとは言わなかった。
勇吉はそんな連中を眺めながら、また面倒なことになりそうだと思った。それでも、皆が次の話を始めるのを見ていると、悪い気はしなかった。




