第二十九話 浦和から見た蕨
# 第二十九話 浦和から見た蕨①
昨夜の岡田家では、結局、話が長引いた。
県庁は岩槻に決まった。それなのに役所は浦和にある。最初はそれだけの話だったはずが、清兵衛たちは次に何を調べるかで盛り上がり、勇吉が帰る頃にはすっかり夜も更けていた。
町のために熱心なのは結構だが、土地の広さだの馬の置き場だのという話が続くと、さすがに付き合いきれない。
おまけに酒も出なかった。
それだけはよく覚えている。
おかげで今朝は二日酔いにもならず、目覚めは悪くない。それが何となく腹立たしくて、朝飯を前にした勇吉は箸を持ったまま首を捻った。
「なんか損した気がするな」
「何が?」
「大したことじゃねえよ」
「なら朝からぶつぶつ言ってないで早く食べなよ」
お春に急かされて飯をかき込み、店を開けたものの、朝一番の客はまだ来ていなかった。
中山道にはいつものように人が行き交い、荷を積んだ馬が通れば、蹄の音に混じって荷縄の軋む音が聞こえてくる。向かいの家では店先を掃く音がして、その先からは飯を炊く匂いが流れてきた。
勇吉は戸口に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
今日は誰にも呼ばれないといい。
そんなことを考えながら煙を吐いていると、向こうから宗助が歩いてきた。
嫌な予感しかしねえ。
「おい、勇吉」
「嫌だ、絶対嫌だ。碌な話じゃねえ、俺には分かってるんだ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「昨日も聞いた。それに同じ顔してる」
「どんな顔だよ」
「いいから来いって顔」
宗助は笑ってごまかすように、中山道の先へ顎を向けた。
「今日は違うって。浦和から庄さんが来てる」
「庄さん?」
「昨日話しただろ」
勇吉は煙草を指に挟んだまま少し考えた。
「ああ、鰻の人か」
「それ本人には絶対言うなよ」
「昨日もおんなじこと言われたな」
「だったら覚えとけって」
朝早くから来ていた庄兵衛は、宗助の旅籠だけでなく近くの宿まで覗いて回り、何人泊められるのか、馬はどうするのか、急に客が増えたら飯は出せるのかと聞いていたらしい。
自分が泊まるにしては聞くことが妙に細かく、そのうえ今度は馬を置けそうな場所を見たいと言い出したという。
「庄さん、馬連れてきたの?」
「一頭だけな」
「じゃあ一頭置けばいいじゃん。別におかしくねえだろ」
「まあ、そうなるよな」
「だろ?」
「だから俺にもよく分からんのよ。勇吉、ちょっと付き合ってくれ」
「宗助、俺に聞いて分かると思う?」
宗助は返事に詰まった。
「だろ! 俺が行っても分かんねえよ」
「……まあ、そう言うなって」
庄兵衛がわざわざ浦和から来たというのなら、顔くらい出してもいい。向こうでは随分世話になったし、久しぶりに会うのも悪くなかった。
ただ、朝から店を空けるのは気が進まない。
勇吉は家の奥にいるお春へ声をかけ、客が来たら少し待ってもらうよう頼んでから、宗助と一緒に外へ出た。
庄兵衛はすぐに見つかった。
昨日、馬を置くならこの辺りかと見ていた場所で、清兵衛と何か話している。清兵衛は土地の奥を見ながら広さでも測るように指を動かしていたが、庄兵衛は土地へ入ろうともせず、道の端に残った荷車の轍を眺めていた。
「おう、勇さん」
「庄さん、何してんの?」
「見りゃ分かるだろ」
言われた通りに見てみたが、土しかない。
「あはは、全く分かんねえよ」
「勇さんに聞いた俺が悪かったかな」
「何でだよ」
「馬だよ、勇吉」
清兵衛が土地を指した。
「馬なんていないじゃん」
「置く場所だ」
「またそれ?」
「まただ」
昨日一日付き合わされたばかりなのに、今日は浦和から来た庄兵衛まで同じ場所を見ている。ただ、清兵衛が土地の広さを気にしているのに対し、庄兵衛は道の方を見ている時間が長かった。
「清さん、最近雨降ったか?」
「いや」
「じゃあ降ったらここ、どうなる?」
「ぬかるむだろうな」
「だよな。荷車を入れるなら、こっちじゃ少し狭くないか?」
清兵衛は庄兵衛の立っている場所へ移り、道から土地の奥を見通した。先ほどまで気にしていた広さとは別に、荷車を入れる道幅の問題が見えてきたらしい。
「……なら入口を変える」
「そうなると、こっちは誰の土地だ?」
「庄さん、そこから先は教えられねえな」
「何だよ、ここまで見せといて」
「浦和の商売人に全部喋るほど人が良くねえんだよ」
清兵衛は笑っていたが、それ以上は土地の話をしなかった。庄兵衛も無理には聞かず、轍をもう一度眺めてから中山道へ戻っていく。
「庄さん、どこ行くの?」
「せっかく来たんだ。もう少し蕨を見せてもらうよ」
「清さんに案内してもらえばいいじゃん」
「勇吉、行くぞ」
「俺も? そんなに暇じゃないんだけど」
「ここまで来たんだから付き合え」
「それ理由になってなくねえ?」
宗助に笑われながら、勇吉も仕方なく三人の後を追った。
*
庄兵衛は蕨を見物に来たと言うわりに、見ているものが妙だった。
旅籠の前を通れば軒先につながれた馬を見て、荷車が来れば積んでいる物より、どこで止まって誰が荷を下ろすのかを見ている。飯屋の前では足を緩めるくせに、漂ってくる匂いには大して興味を示さず、暖簾をくぐる客や出てきた客の方へ目が向いていた。
勇吉なら、とっくに飯のことを考えている。
「なあ庄さん、腹減ってねえの?」
「そこかよ」
「さっきから飯屋ずっと見てるから」
「飯を見てるんじゃないよ」
「じゃあ何見てんの?」
「人だよ。どんな客が来て、どれくらいで帰るのか。そういうのが気になるんだ」
「ふうん。俺は飯の方が気になるけどな」
「勇さんらしいよ」
庄兵衛は笑って先へ歩き出したが、清兵衛は飯屋の前で少し足を止めた。
昼にはまだ早いというのに、暖簾をくぐる客が何人もいる。荷を運ぶ男もいれば、旅の途中らしい者もいた。
その少し先では、荷を積んだ馬が道を塞ぎ、四人は端へ寄って通り過ぎるのを待つことになった。
荷車を引いていた男は近くの店の前で止まり、俵を抱えて中へ運び込んだ。荷を下ろし終えると、今度は車の向きを変えようとするが、通りかかった馬を避けなければならず、なかなか街道へ戻れない。
庄兵衛はその様子を黙って見ていた。
「何か気になるのか?」
清兵衛が尋ねると、庄兵衛は道の幅を確かめるように目を動かした。
「人が増えりゃ、こういうことも増えるんだろうな」
「荷車が通れなくなるってことか?」
「それもある。荷を下ろす場所が足りなくなりゃ、道で待つしかないだろ。馬も人も増えるとなれば、今のままじゃ困ることが出てくる」
清兵衛は何も言わず、荷車が入ってきた道と店の位置を確かめた。
勇吉には、二人が何を考えているのか少し分かってきた。
昨日までは馬を置く土地さえあればいいと思っていたが、どうやらそう簡単な話でもないらしい。
もっとも、そこまで考えるのは清兵衛たちの仕事だ。
「なあ、もう行こうぜ。道の真ん中で立ってても邪魔だろ」
勇吉に言われ、三人も歩き出した。
宗助の旅籠まで戻ると、庄兵衛は朝にも見たはずの中をもう一度覗いた。
「宗さん、朝も聞いたけど、急に十人増えたらどうする?」
「十人なら何とかするよ。寝かせるだけならな」
「飯までとなると?」
「急なら少し厳しいな。よそにも頼むことになる」
「そうか」
庄兵衛はそれ以上聞かなかったが、宗助は自分の旅籠を見回しながら考え込んでいた。
「まあ、客が増えるのはありがたいけどな。急に何十人も来られたら、宿場全体で何とかしなきゃならねえだろうな」
「そういうことだよ」
庄兵衛は頷いた。
清兵衛が横から口を挟んだ。
「庄さん、朝から随分細かく見るな」
「見物だよ」
「浦和じゃ旅籠の飯の数まで聞くのが見物なのか?」
「清さん、俺が何しに来たと思ってんだ?」
「さっきからそれを聞いてんだよ」
庄兵衛は笑っただけで答えなかった。
勇吉にも、何となく分かってきた。
庄兵衛はただ蕨を見に来たわけではない。
土地そのものを調べている清兵衛とは違い、ここを通る人間や馬、荷車の動きまで見ている。
何か商売でも考えているのだろうか。
そんなことを思いながら歩いていると、向こうから来た男が勇吉へ手を上げた。
「勇吉、この前は助かったよ」
「おう。腰どう?」
「だいぶいい」
「ならいいけど、まだ無理すんなよ」
「分かったよ」
男と別れた直後には、店先の女から「勇吉さん」と呼ばれ、今度は膝の悪い爺さんの話になった。
「また痛いって言ってるよ」
「歩きすぎじゃないの?」
「本人に言ってやってよ」
「連れてきたら見るよ」
「あとで行かせるから」
「分かった」
二、三言で別れ、昼飯のことを思い出したところで、庄兵衛がこちらを見ていることに気づいた。
「何?」
「いや。勇さん、ちゃんと仕事してんだな」
「何で浦和の人ってみんなそれ言うんだよ」
「みんな?」
「昨日来た浦和の腰も言ってた」
「浦和の腰って……あいつか。名前くらい聞いてやれよ」
「名前より先に腰の具合を覚えちまうんだよ」
「それもどうかと思うけどな」
庄兵衛は笑った。
「そういや、昨日あいつが戻ってきてな。腰がすっかり楽になったって喜んでたぞ」
「そりゃよかった」
「それで蕨の話を聞かされたんだ。お前たちが土地を見て回ってるだの、県庁を迎えたいらしいだの、随分賑やかになってるってな」
「それで今日来たの?」
「まあな。前から気にはなってたんだが、あいつの話を聞いたら、ちょっと自分の目で見てみたくなってよ」
「だったら最初からそう言えばいいじゃん」
「言ったら勇さん、朝から付き合ってくれたか?」
「……どうだろうな」
「ほらな」
庄兵衛は笑ったが、その後も勇吉が町の者に声をかけられるたび、何となく様子を見ていた。
さっきまで荷車や飯屋を眺めていた時と、どこか似ている。
勇吉には自分まで見物されているような気がして、何となく面白くなかった。
「庄さん」
「何だい?」
「蕨で何かやる気だろ」
庄兵衛は意外そうに勇吉を見た。
「やっとそこまで来たか、勇さん」
「やっぱりな」
「まだ何も決めてないよ」
「“まだ”って言ったな」
すぐに拾ったのは清兵衛だった。
「庄さん、浦和から蕨まで見物に来たんじゃなかったのか?」
「だから見物してるんだよ。商売人が町を見りゃ、そういう目にもなるだろ」
「蕨で商売する気か?」
「清さん、気が早いな。何が足りないのかも分からんのに、何を始めるんだよ」
勇吉にもようやく、朝から庄兵衛が何を見ていたのかがつながった。
「じゃあ庄さん、蕨でも儲けたいの?」
「勇さんはもう少し言い方を覚えた方がいいな」
「違うの?」
「……違わないけどさ」
「ほら」
「何で勝った顔してんだよ」
宗助が吹き出し、清兵衛まで笑っている。
「何だよ。清さんだって同じこと聞いてたじゃん」
「俺はもう少し上手く聞いた」
「一緒だろ」
「一緒じゃねえ」
そんなことを言いながら歩いているうちに、日がずいぶん高くなっていた。
庄兵衛はまだ帰ろうとしない。
朝から旅籠を見て、馬を見て、荷車を眺め、飯屋の前で足を止め、それでも何をするかは決めていないらしい。
街道の向こうをしばらく眺めたあと、庄兵衛がぽつりと言った。
「まあ、浦和が寂れるのは困るけどな」
清兵衛は庄兵衛の顔を見た。
「蕨で商売はしたいのに?」
「清さんまで勇さんみたいなこと言うなよ」
「違うのか?」
「それとこれとは別だよ」
さっきまでなら笑いながら返していた庄兵衛が、今度はそれだけで話を終わらせた。
浦和には浦和の商売があり、そこで暮らしている人間がいる。庄兵衛だって、その一人だった。
蕨に新しい商売の可能性を感じたからといって、長年付き合ってきた町が寂れるのを喜べるわけではないのだろう。
清兵衛もそれ以上は尋ねなかった。
勇吉には、まだ少し分からない。
蕨で商売をしたいなら、蕨に人が増えた方がいいはずだ。浦和が寂れるのは嫌だと言うなら、わざわざ蕨まで来て朝から調べて回らなくてもいい。
どっちなんだよ。
そう聞こうとしたところで、街道の向こうから加兵衛が歩いてくるのが見えた。
「清兵衛!」
声まで飛んできた。
普段なら岡田家へ人を呼ぶ加兵衛が、自分から探しに来ている。
また何かあったらしい。
「加兵衛さん、どうした?」
「探したぞ。宗助も一緒か……庄さんまでいるとは思わなかったが」
「朝からお邪魔してるよ」
加兵衛は庄兵衛を見たあと、街道を行き交う人へ目をやった。近くを荷車が通り過ぎるのを待ってから、少し声を落とした。
「岩槻のことで話が入った」
清兵衛の表情が変わった。
「何か分かったのか?」
「岩槻の事情を知る者から聞いたんだが、県庁を置くと決まったのは間違いない。ただ、すぐ役所として使えるような建物がないらしい」
「ない?」
宗助が聞き返すと、加兵衛は「らしい、だ」と念を押した。
「俺も聞いたばかりだ。今すぐ役所を移して仕事を始めるのは難しいかもしれん」
「ちょっと待ってよ」
勇吉には、昨日から何が何だか分からない。
「岩槻に決まったんだよな?」
「そうだ」
「でも建物ないの?」
「そういう話だ」
「じゃあ何で岩槻に決めたんだよ」
「それは俺に聞くな」
「俺、昨日それで夜中まで付き合わされたんだけど」
「それはご苦労だったな」
「そう思うなら、昨日酒くらい出してくれよ」
「まだ言ってるのか」
いつもなら清兵衛が笑うところだったが、今日は誰も笑わなかった。
「だったら浦和だろ」
庄兵衛だった。
さっきまで何を聞かれても一度笑ってから答えていた男が、その時だけは早かった。
「庄さん、そうなるか?」
「なるだろ、清さん。今もう役所があるんだ。建物もあるし、人も動いてる。岩槻へすぐ移せないなら、浦和で続けりゃいい」
「県庁は岩槻に決まったんだぞ」
「決まってても始められないんじゃ仕方ないだろ」
「まだ始められないと決まったわけじゃねえ」
「それは同じようなもんだろ」
「同じじゃねえよ」
今度はどちらも笑わなかった。
朝から蕨を見て回り、ここで何か商売ができないかと考えていた庄兵衛が、浦和の話になると急に頑固になる。
清兵衛も譲らなかった。
県庁を迎えられるかもしれないという話が、ようやく蕨の中で動き始めたところだった。岩槻に決まったからといって、まだ何も確かめずに諦めるつもりはないのだろう。
勇吉は二人の話を聞きながら、ふと妙なところが気になった。
「なあ」
清兵衛も庄兵衛も聞いていない。
「なあって、ちょっと聞けよ」
「何だ、勇吉」
「岩槻の人はどうすんの?」
清兵衛も庄兵衛も、すぐには答えなかった。
「だって岩槻に決まったんだろ?」
「ああ」
「それで建物がないから、やっぱり浦和ってなったらさ……」
そこまで言えば、自分が何を気にしているのか勇吉にも分かった。
「岩槻の人、怒らねえの?」




