閑話 岩槻という町
閑話 岩槻という町
県庁が岩槻に置かれると聞いてから、喜平次の店では米俵が一つ増えた。
店を広げるつもりはないし、献立も変える気はない。ただ、客が増えてから米が足りなくなるのも困るので、いつもの仕入れに一俵足した。それだけのことだった。
「また増やしたのね」
朝の仕込みをしていた妻が、壁際の俵に気づいた。
「一俵だけな」
「昨日は味噌が届いたし、置き場所がなくなるわよ」
「米はこっちへ置けばいいだろ」
喜平次が俵を壁へ寄せる間に、妻は鍋の蓋を開けた。煮えている大根を箸でつつき、一つ味見をしてから、少し醤油を足している。
「県庁が来るから?」
「まあ、来るって決まったんだから、客も多少は増えるだろ」
「そうね」
それきり鍋へ向き直ったので、喜平次は俵に掛けていた手を離した。もう少し何か言われると思っていたのに、妻は大根の煮え具合の方が気になるらしい。
「米なら普段でも使うしな。余ったところで困るもんでもねえし」
「誰も怒ってないわよ」
「いや、そういうことじゃねえけど」
「じゃあ、そこの葱を取って」
言われた葱を渡しながら、確かにその通りだと思った。一俵余ったところで、そのうち使い切る。朝から言い訳をするほどの買い物でもなかった。
「大根、今日は少し濃いか?」
「いつもよりはね。どう?」
差し出された小皿から一つ口へ入れると、まだ熱かった。慌てて息を吐く喜平次を、妻が呆れた顔で見ている。
「鍋から出したばかりでしょう」
「分かってるよ」
分かっていても熱いものは熱い。しばらく口の中で転がしてから飲み込むと、醤油の味がいつもより残った。
「飯には合うな」
「じゃあ、今日はこれで」
妻はまな板へ向き直り、喜平次は米を研ぐために桶を引き寄せた。県庁の話はそこで終わり、店の中には葱を刻む音が続いた。
*
昼前、暖簾をくぐった客に飯を出し始めると、喜平次は仕入れのことなど忘れていた。
飯をよそい、汁をつぎ、空いた膳を下げる。顔見知りと二言三言交わすうちに、また次の客が入ってくる。
「喜平次、いつもの」
「大盛りだろ」
「今日は普通でいい」
声の主を見て、喜平次は杓文字を止めた。
「どうした。具合でも悪いのか?」
「飯を減らしただけで病人にするなよ。朝から食ってねえから、いきなり詰め込むと腹が重いんだ」
「食ってねえなら大盛りだろ」
「お前に俺の腹を任せた覚えはねえぞ」
馴染みの男はいつもの場所へ腰を下ろすと、勝手に箸を取った。喜平次もそれ以上は言わず、本当に普通によそった飯と、汁、大根の皿を並べてやった。
「お、大根か」
「今日は少し濃くしてある」
「珍しいな」
「嫌なら食うなよ」
「まだ食ってもいねえだろ」
男は一つ口に入れ、噛み終わる前に飯へ箸を伸ばした。それを見届けて次の膳を用意していると、背後から声がした。
「そういや、県庁、すぐには来ねえみたいだな」
喜平次はよそった飯を客へ渡し、男の方を振り返った。
「何だ、それ」
「聞いてねえのか。役所に使う建物がどうとかで、すぐには移せねえらしいぞ」
「建物? 城があるだろ」
「俺に言われてもなあ」
男は大根を箸で割りながら答えた。そののんびりした様子に、喜平次の方が落ち着かなくなる。
「でも、岩槻に決まったんだろ?」
「俺もそう聞いてるよ」
「じゃあ、いつ来るんだ」
「そこまでは知らねえな。なあ、これ、もう少しあるか?」
箸の先は大根の皿を指していた。
「……あるけどよ」
「ちょっとくれ。今日のは旨い」
喜平次が皿を受け取って鍋へ向かうと、男は思い出したように付け足した。
「ああ、しばらく浦和でやるって話もしてたな」
「浦和?」
「前から役所があるだろ。こっちの支度ができるまで、そっちを使うんじゃねえかって」
大根をよそいながら、喜平次は少し考えた。使える役所があるなら、ひとまずそこを使う。そういうことなら分からなくもない。
「誰から聞いたんだ?」
「朝、会った奴だよ」
「そいつは役所の者か?」
「違うよ。そいつも人から聞いたんだろ」
聞くほどに話の出所が遠くなる。喜平次は皿を男の前へ置き、空いた膳を下げに戻った。
「まあ、そのうち来るんじゃねえか。岩槻に決まったんだから」
「そうだよな」
「それより、飯も少し足してくれ」
「普通でいいって言ったろ」
「大根食ったら腹が減った」
「おかしな腹だな」
差し出された椀を受け取り、今度は少し多めによそってやった。男は文句も言わずに食べ始め、隣の客が妻へ汁のお代わりを頼んだ。
喜平次も次の膳へ取り掛かったが、鍋の蓋を開けたところで、さっきの話がまた気になった。
しばらくというのは、どのくらいなのだろう。
尋ねようと顔を上げると、男は椀に残った飯をかき込み、大根の汁まできれいにさらっていた。あれほど旨そうに食われると、また呼び止める気にもなれなかった。
*
午後になって客が途切れると、喜平次は店先へ出た。
暖簾の片側が少し下がっていたので掛け直し、そのまま通りを眺めていると、向かいから来た顔見知りの商人に声を掛けられた。
「どうだ、忙しくなりそうか」
「まだ何も変わらねえよ」
「県庁が来たら、俺も飯の時分は外して来るかな」
「お前一人くらい座れるだろ」
「そう言って、立って食わせるなよ」
商人は笑って歩いていった。喜平次も笑って見送ったものの、いつ来るか知っているかと聞きそびれた。
あの男も、来ると思っている。
自分だけが早まって米を増やしたわけではないらしい。それで少し気が楽になったところへ、洗った椀を抱えた妻が奥から出てきた。
「さっきから何してるの?」
「暖簾を直してた」
「もう直ってるでしょう」
確かに、これ以上触るところもなかった。喜平次は店へ戻りかけ、妻の抱えた椀を半分受け取った。
「昼に聞いたんだけどな。県庁、すぐには来ねえかもしれないんだと」
「あら、そうなの」
「建物の支度ができねえから、しばらく浦和でやるらしい」
「じゃあ、少し遅くなるのね」
妻は棚へ椀を重ねていった。その横へ自分の分を置きながら、喜平次は返事を待ったが、続きはなかった。
「お前は気にならねえのか?」
「いつ来るかってこと?」
「ああ」
「気にはなるけど……いつまで、って話はなかったの?」
「それが分からねえんだよ」
「そう」
妻も少し手を止めたが、外した鍋の蓋に気づくと、そちらへ目を向けた。
「今夜、大根をもう少し煮ておこうか。よく出たから」
「……そうだな」
「じゃあ、裏から持ってきて」
喜平次は言われた通り裏へ回った。土のついた大根を選んでいると、店先で人の声がした。
「だから、当分は浦和の方でやるんだと」
「当分って、ずっとか?」
「そこまでは分からんよ。今ある役所を使うって話だ」
大根を抱えて戻ったときには、二人はもう店の前を通り過ぎていた。
また浦和だ。昼の男だけが言っているなら、聞き違いかもしれないと思えたのに。
「それ、こっちに置いて」
妻に声を掛けられ、喜平次は抱えていた大根を下ろした。
「どうしたの?」
「いや。今、通った奴らも浦和って言ってた」
「そう」
妻は一本手に取ると、残っていた葉を落とした。喜平次も隣へ座り、もう一本を引き寄せたが、包丁を入れる前に、つい店先の方へ顔を向けてしまった。
*
最後の客が帰ると、妻が暖簾を外した。
喜平次は膳を拭いて重ね、明日の分の米を確かめた。今ある分で足りる。朝に買い足した俵は、まだ開けなくてよさそうだった。
「これ、もう少し奥へ寄せない?」
妻に言われて見ると、俵の端が通り道へ出ていた。朝はうまく収めたつもりだったが、桶を持って通るには少し狭い。
「そっち持ってくれ」
二人で持ち上げて壁際へ寄せる。置き直した拍子に落ちた藁を拾っていると、妻が俵へ手を置いたまま聞いた。
「そんなに気になる?」
「……決まったって聞いたからな」
「うん」
「来るもんだと思うだろ、普通」
「私も思ってたわよ」
妻は腰を伸ばしながら、飯をよそう台の方を見た。
「忙しくなったら、あそこへもう一つ飯櫃を置いた方がいいかしらね」
「あそこじゃ膳が置けねえだろ」
「だから、どうしようかと思ってたの」
喜平次は台へ目をやった。今の飯櫃を少し端へ寄せれば置けそうだが、そうすると今度は汁の鍋が遠くなる。客が増えても、店の中まで広くなるわけではない。
「お前は、別に気にしてねえのかと思ってた」
「気にしてなかったら、味噌を余分に買ったりしないわよ」
昨日届いた味噌は、まだ封も切っていない。残っているのにと思いながら何も言わなかったのは、自分も米を増やすつもりでいたからだ。
「お前も当てにしてたんじゃねえか」
「そりゃね。味噌が切れてから買いに走るのも嫌でしょう」
「……米だって同じだよ」
「だから、何も言ってないじゃない」
朝もそんなことを言われた。喜平次が黙ると、妻は少し笑い、拾い集めた藁を受け取って奥へ戻っていった。
自分ばかり浮き足立っていたわけではなかったらしい。そう思うと、昼から落ち着かなかった気分が少し収まった。
喜平次も米の桶へ戻った。
明日の朝になれば飯を炊き、汁を作り、大根を煮る。昼にはあの男が来て、大盛りだの普通だのと言い出すかもしれない。今日と同じだけ客が来れば、買い足した米にもじきに手がつく。
それなら困ることはないはずだった。
桶を置き、俵に残っていた藁くずを払う。米屋に一俵多く頼んだときには、客が増えた店で飯をよそうつもりでいた。いつ来るのか聞いておこうなどとは、考えもしなかった。
奥では妻が大根を洗っている。その水音を聞きながら、喜平次は小さく呟いた。
「……県庁ってのは、決まったら来るもんじゃねえのか?」




