第三十話 使える町①
「今日は絶対に県庁の話しねえからな」
朝からそう言った勇吉に、妻は味噌汁をよそいながら顔も上げなかった。
「誰に言ってるの?」
「誰って……」
「私、県庁の話なんてしてないけど」
「そういうことじゃなくて……まあ、そうなんだけどさ」
「じゃあ早く食べて。今日は朝から来るんでしょう」
言われて、勇吉は黙って箸を持った。
このところ、どこへ行っても県庁の話ばかりだった。加兵衛のところへ行けば紙を広げられ、清兵衛に会えば誰がどこの土地を持っているかと聞かれる。宗助まで、人を泊められる家や馬をつなぐ場所を探し始めていた。
浦和へ行って役所を見てきたと思えば、今度は岩槻に使える建物がないという。
県庁が岩槻に決まったなら、あとは向こうでどうにかするのではないのか。勇吉には、なぜ蕨の納屋まで調べることになるのか、まだよく分からなかった。
「よし。今日は仕事だけする」
「それなら、昼からも家にいるのね」
「いるよ」
「昨日、お隣のお婆さんが来てほしいって言ってたから、昼過ぎに行くって伝えておくわ」
「ああ、分かった」
返事をしてから、勇吉は妻を見た。
「それ、先に言ってくれよ」
「今、言ったでしょう」
確かにそうだった。朝から自分が何の話をしていたのか思い返すと、あまり強くも言えない。
味噌汁をすすり、残った飯を口へ運んだ。少なくとも今日は、来た人の身体を見ていればいい。どこが動かしにくいか、何をすると痛むか。それなら勇吉にも聞くべきことが分かる。
ところが、一人目から予定が狂った。
「勇さん、権蔵さんが何か聞いて回ってるけど、ありゃ何だ?」
うつ伏せになった男は、頬を横へ向けたまま尋ねた。勇吉は背中へ置いた手を止めず、指先の位置だけを少し変えた。
「俺に聞く?」
「誰がどこの家を持ってるとか、空いてる建物はねえかとかよ」
「だったら権蔵さんに聞けよ」
「勇さんも一緒に何かやってんじゃないのか?」
「今はお前の背中揉んでんだろ」
「そりゃ見りゃ分かるけど」
「見えてねえだろ、そっち向いてんだから」
男が笑うと、手の下で背中が張った。勇吉は押すのをやめ、息が落ち着くのを待ってから、背骨の脇へ指を添え直した。
「この辺か?」
「おお、そこ。そこが突っ張るんだよ」
「じゃあ、喋らねえで息吐いてみな」
長く息を吐くにつれて、持ち上がっていた肩が下がっていく。その動きに合わせて手を進めると、男はしばらく大人しくしていたが、やがて顔だけをこちらへ向けようとした。
「そういや、うちの裏の納屋なら空いてるぞ」
「だから喋るなって。首も戻せ」
「いや、権蔵さんが聞いてたからよ」
「それを俺に言ってどうすんだよ」
「会ったら言っといてくれ」
「自分で言えよ」
「勇さんの方が会うだろ」
勇吉は男の首が無理なく戻るのを確かめ、腰の方へ手を移した。県庁の話をしないと決めた朝に、さっそく伝言が一つ増えている。
「納屋って、前に藁積んであったところか?」
「そうそう。今は端に少し残ってるだけだ」
「あそこ、戸が閉まらなかっただろ」
「よく覚えてんな。下が擦るんだよ。持ち上げりゃ閉まる」
「直せよ」
「使ってねえからなあ」
男は面倒そうに答えたが、そのあとで「貸すんなら直すけどよ」と付け足した。
勇吉は返事をしかけて口を閉じた。貸すつもりがあるのか、何に使えるのか。聞き始めたら、背中を揉みながら権蔵の仕事までやることになる。
「ほら、もう一回息吐いて」
「分かった分かった。納屋のこと、頼んだぞ」
「背中の話をしてんだよ」
*
次に来たのは、右肩が上がりにくい女だった。
腰を下ろすなり、今日はここまで上がると腕を持ち上げたので、勇吉は慌てて肘へ手を添えた。
「分かったから、ゆっくりやれって」
「前はここで痛かったのに、今日は平気なのよ」
「だからって、勢いつけて上げなくてもいいだろ」
もう一度、今度はゆっくり動かしてもらう。前に引っかかっていたところを通る時にも、女は顔をしかめなかった。ただ、腕を下ろす途中で首をすくめるので、勇吉はそちらへ回って張りを確かめた。
「こっちはまだ硬えな。昨日、何か持った?」
「買い物くらいよ」
「どっちで持った?」
「こっち」
女が右手を少し上げた。
「反対で持てばいいだろ」
「帰ってから気づいたのよ。そういえば宗助さんがね、人を泊められる家を知らないかって」
「話変わったな」
「うちの隣、息子夫婦が東京へ行ってから部屋が余ってるのよ。三人くらいなら寝られると思うんだけど」
勇吉は首の付け根から背中へ手を滑らせた。女はよく話す。黙っていると身体の具合が悪いのかと気になるくらいなので、話すこと自体は構わない。ただ、今日は行き着く先がどうもよくない。
「それ、宗助に言ったのか?」
「まだ会ってないもの」
「じゃあ、会ったら言ってやれよ」
「勇さん、会うでしょう?」
「俺だって毎日会ってるわけじゃねえぞ」
「じゃあ、先に会った方ね」
それなら自分が引き受けたことにはならない。そう思って返事をしかけたが、女はもう隣家の間取りを話していた。
庭に面した部屋だから明るいこと、息子夫婦の荷物がまだ少し残っていること、家の主が一人では広すぎるとこぼしていたこと。
「でも、泊めていいって言ってんのか?」
「そこまでは聞いてないわよ」
「じゃあ、まだ分かんねえじゃん」
「聞いてみればいいでしょう」
「誰が」
「宗助さんが」
女は当然という顔で答えた。勇吉は少し考えてから、確かに自分が聞く話ではないと思い直し、腕をもう一度動かしてもらった。
今度は途中で首をすくめずに上がった。女はそれが嬉しかったらしく、すぐ続けて大きく回そうとしたので、勇吉は肘を支えて止めた。
「試しすぎだって。明日も使う肩だろ」
「動くと、ついやりたくなるのよ」
「今日はそれでやめときな。買い物も反対の手な」
「分かった。宗助さんのこともお願いね」
「そっちは分かってねえな」
女は笑いながら帰っていった。見送った勇吉は、隣家の話をもう一度思い返してしまい、それがいけないのだと気づいた。
聞いた話は、相手の顔を見ると思い出す。思い出せば一言伝えるくらいはする。そうしているうちに、皆がこちらへ置いていくようになったらしい。
昼までに四人の身体を見て、そのうち三人から似たような話を聞いた。
納屋に空き部屋、馬をつなげる裏手の場所。誰もが、勇吉なら誰かに会うと思っている。自分で調べたわけでもないのに、昼になる頃には、出かける前より知っていることが増えていた。
*
隣のお婆さんのところへ行く前に飯を済ませようと、勇吉が外へ出ると、向こうから清兵衛が歩いてきた。
こちらを見つけるなり足を速めたので、すぐ用があると分かった。
「勇吉」
「無理だ」
「まだ何も言ってねえ」
「どうせ土地だろ」
「今日は持ち主を聞きたいんだよ」
「同じじゃねえか」
清兵衛は取り合わず、勇吉の前で足を止めた。
「前にお前が呼ばれて行った家、あっただろ。裏が広いところ」
「それだけで分かるかよ」
「腰やった爺さんだ」
「腰悪いやつが何人いると思ってんだよ」
「歳は六十過ぎくらいで……庭に柿の木があったな」
柿の木と聞いて、縁側から降りようとしていた老人の姿が浮かんだ。右へ体重を掛けるのを嫌がるくせに、庭の柿を取っていけと何度も言うので、座っていろと押し戻したことがある。
「ああ、右の腰が悪い爺さんか」
「腰の左右までは知らねえよ。場所、分かるか?」
「二つ目の角を曲がって、少し行ったところ。門の脇にでかい石がある」
「そうだ、そこだ。名前は?」
「……何だったかな」
「家まで行ってるんだろ?」
「顔は出てんだよ。名前が出てこねえんだ」
呼ばれた時に名乗られた覚えはある。だが、いま浮かぶのは、立つ時に右膝へ置いていた手と、腰の痛む位置ばかりだった。
「右の腰が悪いのは覚えてんだけどな」
「名前も覚えとけよ」
「清さんだって知らねえんじゃねえか」
「だから聞いてんだろ」
清兵衛は呆れたように笑い、教えられた方へ目を向けた。
「まあいい。行けば分かる」
「裏を見るなら気をつけろよ。あそこ、雨が降るとぬかるむから」
歩き出しかけた清兵衛が足を止めた。
「どの辺だ」
「裏へ入るところ。前に草履が取れかけたんだよ」
「道がか?」
「ああ。庭の奥まで同じかは知らねえけど」
清兵衛は通りの先を見たまま黙った。広い場所を聞いた時とは違い、今度はすぐ次の問いが来なかった。
「荷車、通れそうだったか?」
「空なら通るんじゃねえか。荷を積んで、あの泥にはまったらどうだろうな」
「表から回れねえのか」
「それこそ見なきゃ分かんねえよ。俺は身体を見に行ったんだから」
「じゃあ、一緒に来てくれ」
「何でそうなるんだよ」
言わなければよかったと思ったが、清兵衛はもう、案内が決まったような顔をしている。
「飯食ってから、お隣の婆さんを見に行くんだよ。今日は仕事するって言ったんだ」
「それが済んでからでいい」
「清さん一人で行けるだろ」
「家は分かっても、泥の深さまでは分からねえ。今日は乾いてるしな」
清兵衛は足元の土を草履の先で軽く擦った。この数日は降っていない。勇吉が言ったところで、見に行けばただの細い道に見えるかもしれなかった。
「……案内だけだぞ」
「ああ」
「家まで行ったら帰るからな」
「分かったよ。で、婆さんのところはいつ終わる」
「身体見なきゃ分かんねえだろ」
「じゃあ終わったら呼んでくれ。俺も先に飯にする」
清兵衛は返事を待たず、近くの飯屋へ向かった。
勇吉も腹が減っていた。同じ暖簾をくぐれば食べながらまた話を聞かされるに決まっているが、よその店まで歩くのも面倒だった。
少し遅れて入ると、清兵衛はもう腰を下ろし、隣を空けている。
「飯食ってる間は、その話すんなよ」
「分かった分かった」
その返事が、朝、背中を揉んだ男と同じだった。
勇吉は何か言おうとしたが、店の者が飯の盛りを尋ねに来たので、先に大盛りを頼んだ。
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