第三十一話 使える町②
隣の婆さんは、勇吉の顔を見るなり膝のことを話し始め、途中から嫁が持ってきた漬物の話になった。
歩くところを見せてもらい、座って膝を曲げ伸ばししているうちにも話は続く。漬物はうまかったのかと聞けば、塩が強いから息子に食べさせたという。
「じゃあ婆さんは食ってねえのか」
「味見はしたよ」
「じゃあ、味は分かったんだな」
「だから、塩が強かったんだよ」
婆さんは呆れたように言った。勇吉は笑いながら膝から手を離し、座っている脇の板を軽く叩いた。
「今度は、ここへ手をついて立ってみな」
用が済んで外へ出た頃には、清兵衛との約束を半分忘れかけていた。家へ戻ろうとして、門のそばで待っている清兵衛を見つけ、そうだったと思い出した。
「呼ぶって言ったろ」
「近くまで来たからな」
「ずっと待ってたのか?」
「少しだよ。どうだった」
「立つ時は前より楽そうだ」
「そうか」
清兵衛はそれ以上聞かず、勇吉と並んで歩き出した。
通りには荷を運ぶ者がいて、軒先で話し込んでいる者もいる。二人が角を曲がるまでに、勇吉は二度呼び止められた。一人には肩の具合を聞き、もう一人には、近いうちに来るよう言った。
「お前と歩くと、なかなか着かねえな」
「清さんが一緒に来いって言ったんだろ」
「そうだったな」
清兵衛が笑ったところで、門の脇の大きな石が見えた。奥には柿の木があり、枝の下に置かれた籠へ、落ちた葉が何枚かたまっている。
勇吉が声を掛けると、縁側の障子が開いた。
「おう、勇さん。ちょうどよかった」
老人は清兵衛へ軽く会釈したあと、すぐ自分の腰へ手を当てた。
「この前はよかったんだがな。昨日、裏を片づけたら、また少し張ってよ」
「何を片づけたんだよ」
「薪を動かしただけだ」
「どのくらい」
「少しだよ」
少しという返事を、勇吉はあまり当てにしていなかった。老人が縁側へ腰を下ろすのを見ながら、清兵衛へ顔を向ける。
「ちょっと待っててくれ」
「案内だけじゃなかったのか」
「腰が張るって言ってんだからしょうがねえだろ」
老人は二人を交互に見た。
「今日は腰を見に来たんじゃねえのか?」
「清さんが、裏の土地のことを聞きたいんだと」
「裏を?」
そこでようやく清兵衛が前へ出た。蕨で空いている場所や建物を確かめていること、すぐ借りると決まった話ではないことを説明すると、老人は頷いたものの、少し困った顔になった。
「広くはあるが、空いちゃいねえぞ」
「何にお使いで?」
「薪だの、畑で使う物だの、置いてある。見てくれりゃ分かるよ」
立ち上がりかけたので、勇吉はその膝へ手を置いた。
「先にこっち。俺を呼び止めたんだろ」
「ああ、そうだったな」
*
老人の腰を見てから、三人で裏へ回った。
家の横を抜ける道は、二人が並ぶには狭かった。片側には浅い溝があり、反対側は家の軒が張り出している。いまは乾いているが、土の上には車輪の跡が残っていた。
「ここだよ」
勇吉が足を止めると、清兵衛は屈んで道を見た。
「前に来た時は、この辺まで水がたまってた」
「雨のあとだったか」
「ああ。草履を抜こうとしたら足だけ出そうになってよ」
「ここは昔から水が引かねえんだ」
老人が後ろから言った。
「雨が降った日は、重い物を入れねえようにしてる」
「では、荷車もこちらから?」
「入れる時はな。大きいのは表で止めて、人が運ぶよ」
清兵衛は立ち上がり、軒先と溝の間をもう一度見渡した。勇吉には、前に草履を汚した道でしかなかったが、清兵衛は通る物の幅まで考えているらしい。
細い道を抜けると、確かに裏は広かった。
ただ、端には薪が積んであり、使いかけの竹や古い桶も並んでいる。中央は空いているように見えたが、老人によれば、畑から運んだ物を広げる時に使うのだという。
「いつも何かあるわけじゃねえが、何も置くなと言われると困るな」
「全部でなくてもいいんです。どこまでなら空けられるか、それを知りたくて」
「それなら、あの小屋はどうだ」
老人が指した先に、戸を閉めた小さな建物があった。勇吉も覚えている。以前は老人の弟が使っていると聞いた気がしたが、この日も人のいる様子はなかった。
「あそこ、今は使ってねえのか?」
「弟が息子のところへ移ってな。月に一度、荷物を見に来るくらいだ」
老人は懐から鍵を出し、清兵衛へ渡そうとした。勇吉が先に受け取ると、老人が不満そうに手を引っ込める。
「戸を開けるくらいできるぞ」
「さっき立つ時に顔しかめてただろ。座ってろって」
「座ってばかりじゃ、かえって具合が悪い」
「じゃあ、そこで立って見ててくれ」
戸は少し引っかかったが、上へ持ち上げると開いた。朝に聞いた納屋のことを思い出し、使わない建物はどこも似たようなものなのかと、勇吉は一人で納得した。
中には長持と棚があり、壁際へ束ねた物が寄せてあった。奥には畳の部屋が見え、閉め切っていたせいか、少しこもった匂いがした。
清兵衛はすぐ中へ入らず、老人に断ってから敷居をまたいだ。
「弟さんが、ここで暮らしておられたんですね」
「ああ。飯はこっちで食ってたがな」
「雨漏りは?」
「俺が知る限りはねえ。弟にも聞いてくれ」
清兵衛は窓の位置を見て、床を踏み、棚の前で足を止めた。広い裏庭を見に来たはずなのに、今はこの小さな建物の方を念入りに確かめている。
「ここなら、雨の日も人が入れますね」
「泊めるのか?」
「それも、使い方の一つとして聞いています。まだ、どこを何に使うかまでは決まっていませんが」
老人は入口から中を覗いた。
「弟の物を動かさなきゃならねえな。俺だけでいいとは言えねえよ」
「もちろんです。今度お見えになるのは、いつ頃ですか」
「あと四、五日もすれば来ると思うが」
清兵衛はそこで初めて、小さく畳んだ紙を出した。勇吉が横から見ると、土地の場所や人の名前がいくつも書かれていた。
「その時に、もう一度お邪魔してもよろしいですか」
「来るのは構わねえが……貸す話なら、金も出るんだろうな」
老人は少し言いにくそうに尋ねた。清兵衛はすぐ頷くことも、笑って済ませることもしなかった。
「借り賃も含めて、ご相談することになります。ただ、今はまだ借り手も使い道も決まっていませんので、今日ここで決めてくれという話ではありません」
「そうか。なら、弟が来た時に話そう」
話はそれで止まったが、清兵衛は紙に何かを書き足した。
勇吉には、借りられるとも決まっていないのに書くことがあるのが不思議だった。覗き込むと、建物のことの横に、弟に相談、と小さく添えてあった。
*
戸を閉めて表へ戻る時、勇吉は庭の反対側にある木戸へ目を向けた。
「あっちから出られなかったか?」
「出られるよ。畑へ行く時に使ってる」
「清さん、あっちも見てみれば。こっちより広かった気がする」
清兵衛が勇吉を見た。
「お前、そっちも通ったのか」
「前に、この爺さんが柿持ってけって言うからよ。籠を返しに回ったんだ」
「それを先に言えよ」
「今、思い出したんだよ」
老人は、見ていけと言って木戸を指した。
開けてみると、向こうには家の裏を通る道があった。入口の辺りは踏み固められ、家の横より幅もある。清兵衛が数歩出て左右を確かめたところで、老人が声を掛けた。
「そっちは隣の畑へ行く道だ。俺の土地じゃねえぞ」
清兵衛の足が止まった。
「荷を通すなら、隣へ聞かなければいけませんね」
「そうだな。人が通る分には何も言われねえが、車はどうだろうな」
勇吉は木戸に手を掛けたまま、道の先を見た。歩いて抜けられるなら使えると思ったが、そう簡単でもないらしい。
「通れるだけじゃ駄目なのか」
「人の土地だからな。荷車が何度も通って道を荒らしたら、黙っちゃいねえだろ」
「まあ、そりゃそうか」
清兵衛は隣の家の場所を聞き、紙の端へ書き加えた。建物を借りる前に、その弟へ聞くことがある。道を使う前には、隣へ聞くこともある。一軒訪ねただけで、会わなければならない相手が増えていた。
帰り際、老人は勇吉に、柿を持っていけと言った。
「今日はいいよ。それより、薪を一人で動かすなよ」
「少しずつならいいだろ」
「その少しが分かんねえんだよなあ」
清兵衛が横で笑っていた。
*
通りへ戻ると、勇吉は自分の家の方へ身体を向けた。
「じゃあ、俺は帰るぞ」
「ああ。助かった」
「結局、裏の広いところは使えねえんだろ」
「使い方によるな。重い荷を何度も入れる場所には向かねえだろうが、小屋の方は話を聞く値打ちがある」
清兵衛は紙を開き、書いたところを指で押さえた。
「弟が来たらもう一度行く。裏の道も聞く。それで無理なら、別を探す」
「手間かかるな」
「広い、空いてる、それだけで借りられるなら楽なんだけどな」
勇吉は朝から預かった話を思い出した。
「そういや、宗助が泊まれる家を探してんだろ。部屋が余ってる家の話、聞いたぞ」
「誰から」
場所を伝えると、清兵衛はまた紙を開いた。勇吉は途中で、家の主にはまだ話していないことと、荷物が残っているらしいことを付け足した。
「だから、泊めてくれるかまでは分かんねえぞ」
「ああ。宗助にそう伝える」
「それと権蔵さんには、納屋が一つ。ただ、戸が擦るってよ。貸すなら直すとは言ってた」
言い終わってから、勇吉は清兵衛の顔を見た。笑われるかと思ったが、清兵衛は場所を確かめながら書いていた。
「まだあるか?」
「ねえよ。俺は聞いて回ってるわけじゃねえんだから」
「分かってるよ」
清兵衛が紙を畳んだところで、勇吉は朝から気になっていたことを口にした。
「でも、こういう小屋が幾つもあれば、県庁って置けるのか?」
「それは、俺にも分からねえ」
「分かんねえのに探してんの?」
「何があるかも知らずに、蕨ならできますとは言えねえだろ」
そう言われれば、その通りだった。
ただ、弟が時々荷物を見に来る小屋と、浦和で見た役所が、勇吉の中ではうまくつながらない。役人が働く場所と、寝る場所と、荷を置く場所。それぞれ別でよいのか、一か所に必要なのかさえ、誰からも聞いていなかった。
「岩槻に建物がねえってのも、何がねえんだろうな」
清兵衛はすぐには答えなかった。
「城はあるんだろ。あれじゃ駄目で、あの小屋なら話を聞くって、俺にはよく分かんねえよ」
「……そうだな」
今度の返事は、さっきまでより遅かった。
「加兵衛さんに、そこを聞いてみる。俺たちが集めてる物と、向こうで足りねえ物が違ってたら、話にならねえ」
「それは聞いてくれよ」
勇吉はようやく清兵衛と別れ、自分の家へ戻った。
妻が戸口で、どこまで行っていたのかと尋ねたので、柿の木のある家だと答える。清兵衛に頼まれて裏を見たことを話すと、妻は何か言いたそうな顔になった。
「腰も見たぞ。ちゃんと仕事もした」
「その人、また薪でも動かしたの?」
「何で分かるんだよ」
「前も同じこと言ってたから」
勇吉より妻の方が覚えているらしかった。
夕方、最後の客が帰ったあとで、清兵衛がもう一度顔を出した。
「加兵衛さんに話してきた」
「何だって?」
「建物が使えねえという話は届いてるが、何がどう足りねえのかまでは、まだ分からねえそうだ」
「じゃあ、聞くしかねえな」
「ああ。宗助が岩槻の宿に心当たりがある。まず、そこを訪ねる」
勇吉は片づけていた布を畳み直した。宿なら泊まりに来る者もいる。町でどんな準備をしているかくらいは、聞けるのかもしれない。
「それなら少し分かるか」
「分かるところからだな。それで、いつなら空いてる?」
布を重ねようとしていた手が止まった。
「誰が」
「お前が」
「何で俺が行くことになってんだよ」
清兵衛は戸口へ肩を預けた。
「城があっても駄目なのは何でだって、さっき気にしてただろ」
「気にしただけだよ」
「だったら一緒に聞いてくれ。俺も、何を聞けばいいのか全部分かってるわけじゃねえんだ」
勇吉は返事をせず、畳んだ布を重ねた。明日来ると言っていた客の顔を思い浮かべ、それから、明後日は誰かと約束していただろうかと考えてしまった。




