第三十二話 待っている町
岩槻へ出かける朝、勇吉は妻に、帰りは遅くなるかもしれないと伝えた。
「そう」
妻は握り飯を包みながら答えた。もう少し何か言われると思っていたので、勇吉は戸口へ向けかけた足を戻した。
「遊びに行くんじゃねえぞ」
「分かってるわよ」
「清さんたちと、話を聞きに行くだけだからな」
「それも聞いたわ」
包みを渡され、勇吉は受け取った。まだ少し温かい。
「何か聞かれたら、今日は留守だって言っといてくれ」
「出かける前から、そんなことばかり気にして。帰ってから聞けばいいでしょう」
それもそうだった。勇吉は包みを懐へ収め、今度こそ戸口へ向かったが、外へ出る前に妻が声を掛けた。
「向こうで何か分かったら、帰ってから教えてね」
「お前も気になんの?」
「何度も出かけるんだもの。何をしてるのかくらい、知りたいわよ」
勇吉は返事の代わりに手を上げた。自分も、今日は少し分かるつもりで出かけるのだ。
*
宗助は、歩きながら岩槻の宿の話をした。
以前、泊まりきれなくなった客の行き先を世話したことがあり、その後も人づてにやり取りがあるのだという。親しいというほどではないらしいが、いきなり訪ねて追い返される間柄でもない。
「それで、何を聞くんだ?」
勇吉が尋ねると、清兵衛が横から答えた。
「役所に使う建物がねえという話が、どこまで本当なのかだな」
「宿の人に分かんのか?」
「分かるところまでだよ。分からねえなら、誰に聞けばいいかを教えてもらう」
宗助はそう言って、道の先へ目を戻した。
「宿に人が来る話なら、俺にも聞ける。役所の中のことをいきなり尋ねたって、向こうも困るだろ」
「そうだな」
清兵衛が頷いたので、勇吉は少し意外に思った。
誰かを訪ねれば、知りたいことを順番に聞けるものだと思っていた。清兵衛も宗助も、そうではないらしい。今日は何が分かるか、行ってみなければ分からないのだ。
道端で休んだ時に握り飯を食べると、宗助が包みの中を覗いた。
「うまそうだな」
「やらねえぞ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「その顔で分かるよ」
清兵衛が自分の包みを開きながら笑った。
「岩槻で飯を食うんじゃなかったのか」
「食うよ。これは途中の分だ」
「だったら一つくらい」
「宗助、お前も持ってきてるだろ」
宗助は懐から包みを出した。勇吉より一つ多かった。
*
岩槻へ入ると、宗助は道を確かめながら先を歩いた。
通りには荷を運ぶ者がいて、店先で客と話している者もいる。戸板を直している男が、通りかかった知り合いに手を貸せと呼び掛けていた。勇吉が想像していたより、ずっといつもの町だった。
県庁が来ると決まった町だからといって、通りの様子まで変わるわけではないらしい。
「どの辺だよ」
「もう少しだ」
「さっきもそう言ったぞ」
「さっきよりは近い」
宗助が角を曲がると、軒先で女が掃き掃除をしていた。宿の名を告げて取り次ぎを頼むと、女は箒を立て掛け、すぐ奥へ入っていった。
出てきた主人は、宗助の顔を見ると目を細めた。
「おや。蕨の」
「ご無沙汰しております」
「どうした、三人も連れて。泊まりか?」
「今日は話を伺えればと思いまして」
宗助が清兵衛と勇吉を紹介すると、主人は三人を土間から上がったところへ招いた。奥では布団を運んでいるらしく、女たちの声がしている。
「忙しいところへ来たか」
宗助が尋ねると、主人は手を振った。
「今のうちなら構わねえよ。夕方になると落ち着かなくなるからな」
茶が出され、宗助はまず以前に世話になった客の話をした。主人も覚えていて、あの人は声が大きかった、連れの方が何度も謝っていたと笑った。
勇吉が茶を半分ほど飲んだ頃、ようやく宗助が県庁の話を持ち出した。
「こちらも、これから人が増えるんでしょうね」
「増えりゃありがたいがね」
主人は湯呑を置き、奥の方へ一度目をやった。
「部屋の空きを聞きに来た者はいたよ。幾人泊められるか、長く泊まるならどうなるかってな」
「もう、お泊まりになる人数は決まってるんですか」
「いや。それを聞きたいのは、こっちだ」
主人は笑ったが、宗助は笑わなかった。
「部屋は空けておけと?」
「そこまでは言われてねえ。だから、いつもの客を断るわけにもいかんだろ。来る日も分からねえのに、部屋だけ遊ばせておける商売じゃない」
宗助は頷き、泊まる日数も分からないのかと尋ねた。
人数も日数も、まだ決まった話はないらしい。ただ、いずれ人が増えると考え、傷んでいた寝具を直したり、使っていなかった部屋を片づけたりはしているという。
奥で布団を下ろす音がして、今夜の客に使う部屋を確かめる声がした。主人は顔だけを向けて返事をし、足りない分をどこから運ぶかまで伝えると、また三人へ向き直った。
「うちだけじゃねえよ。どこも少しずつ支度はしてる」
勇吉は湯呑を置いた。来るかもしれない客の話をしている間にも、今夜の客の支度は進んでいる。さっきまで聞き流していた奥の足音が、今度は少し気になった。
「役所の建物がすぐには使えず、当分は浦和で仕事をするという話を聞いたのですが」
清兵衛が尋ねると、主人は、ああ、と頷いた。
「その話は俺も聞いた」
「こちらでは、何と?」
「使う建物の支度ができねえとか、直さなきゃならねえとか。人によって言うことが違うんだ」
「城があるだろ」
勇吉が言うと、主人は顔を向けた。
「俺もそう思ったよ」
「じゃあ、城じゃ駄目なのか」
「だから、そこが分からねえんだ。俺が中へ入って確かめたわけでもねえしな」
勇吉は清兵衛を見た。清兵衛は何か尋ねかけたものの、言葉を止め、しばらく湯呑の縁へ指を置いていた。
岩槻へ来れば、岩槻の者は知っていると思っていた。だが、宿の主人も聞かされた話を待っている側らしい。
「その、部屋を聞きに来た方へ、もう一度確かめられますか」
清兵衛が尋ねると、主人は少し考えた。
「次に来れば聞けるが、いつ来るかは分からねえな。俺からどこへ訪ねればいいかも聞いてねえ」
「そうですか」
「悪いな。せっかく来てもらったのに」
「いえ。宿の用意も、まだ決まった話が来てからということですね」
「そうだな。できる支度はしておくが、来るか分からねえ客のために、今いる客を追い出すわけにはいかねえから」
宗助は、もう一度ゆっくり頷いた。
そのあとで、主人が逆に蕨の様子を尋ねた。
「そっちはどうなんだ。何か話があるのか」
清兵衛は湯呑から手を離した。
「町に空いている建物や、荷を置ける場所がどのくらいあるか、確かめているところです」
「役所を呼ぶつもりか?」
勇吉は口を開きかけたが、清兵衛が先に答えた。
「そういう話も町では出ています。ただ、誰かに来てもらえると決まったわけではありません。まず、何ができるかを調べています」
主人は清兵衛をしばらく見たあと、茶を一口飲んだ。
「蕨は道の上だからな。人も荷も通る」
「ええ」
「こっちは来ると聞いてるんだ。来るなら、こっちも商売はさせてもらうよ」
言い方は穏やかだった。宗助も、そりゃそうです、と頷いた。
勇吉は茶の残りを飲んだ。県庁の話で喧嘩になるとは思っていなかったが、蕨へ来ればいいと、この場で気軽に言えるものでもなかった。
*
宿を出る時、宗助が近くで飯を食えるところを尋ねると、主人は道を指して教えてくれた。
「喜平次のところへ行きな。今ならまだ座れるだろ」
言われた店は、少し戻った通りにあった。
暖簾をくぐると、客が二人、向かい合って飯を食べている。奥から出てきた女が三人を見て、空いている場所を手で示した。
「飯、三人分あるかい」
宗助が聞くと、竈のそばにいた男が顔を上げた。
「あるよ。普通でいいか?」
「俺は大盛りで」
勇吉が答えると、宗助も同じにしてくれと言った。
「途中で食っただろ」
「お前も食ったじゃねえか」
清兵衛は二人を見てから、普通で、と頼んだ。
出てきた膳には飯と汁、それに大根が盛られていた。勇吉が一つ口へ入れると、思ったより熱く、しばらく返事ができなくなった。
「うまいな、これ」
宗助は先に飯へ箸を伸ばしていた。
「飯に合うだろ」
店の男が言ったので、勇吉も頷いた。どうやらこの男が喜平次らしい。
客の一人が勘定を済ませ、もう一人も続いて出ていくと、店が少し静かになった。喜平次は膳を下げながら、どこから来たのかと尋ねた。
蕨だと答えた途端、喜平次の手が止まった。
「蕨か。じゃあ、浦和の方の話も聞くかい」
「どういう話だ?」
勇吉が尋ね返すと、喜平次は膳を重ねた。
「県庁だよ。当分は浦和でやるって聞いたんだが、どのくらいか知ってるかと思ってな」
勇吉は箸を持ったまま清兵衛を見た。さっきまで自分たちが尋ねていたことを、今度はこちらが聞かれている。
「俺たちも、それが分からなくてね」
清兵衛が答えた。
「こちらへ来れば、何か分かるかと思ったんだが」
「そうなのか」
喜平次はそれだけ言うと、膳を奥へ運んだ。
勇吉は大根をもう一つ食べた。よく味が染みている。飯を口へ入れながら、喜平次が戻るのを待った。
「もう人が来ると思って、支度してんのか?」
「支度ってほどじゃねえよ。飯屋だからな。客が増えりゃ、飯を多く炊くだけだ」
「それでも、急に増えたら困るだろ」
「そりゃ、少しはな」
喜平次は壁際へ目をやったが、すぐに汁の鍋へ向き直った。
「だが、来るって決まったんだから、来るんだろ。いつかは」
そうだな、と答えかけた。
喜平次がこちらを向いたので、勇吉は口を閉じた。自分が何か聞いていると思わせてしまうかもしれない。今日ここまで来て、来る日も、遅れている訳も分からなかったのに、請け合うようなことは言えなかった。
奥から妻が出てきて、宗助の空いた皿に気づいた。
「大根、もう少し召し上がる?」
「いいんですか」
「まだありますよ」
「じゃあ、お願いします」
勇吉も皿を少し前へ出した。清兵衛はまだ一つ残していたので、二人分だけ足してもらうことになった。
喜平次が鍋の蓋を取る間に、勇吉は言った。
「飯、うまいよ」
「そうかい」
「人が来たら、忙しくなるな」
言ってから、余計だったかと思った。
喜平次はよそった大根を二人の前へ置き、少し笑った。
「忙しくなってくれりゃいいんだけどな」
妻がその脇を通りながら、まず今いるお客さんの飯、と声を掛けた。喜平次は宗助の椀を見て、足すかと尋ねた。
「お願いします」
「お前、また食うのかよ」
「大根が増えたからな」
宗助の返事に、喜平次が声を出して笑った。
*
店を出てから、三人はしばらく黙って歩いた。
通りの先では、来る時に戸板を直していた男が、今度は一人で道具を片づけていた。店の中から呼ばれて返事をし、残っていた木片を足で寄せている。
勇吉はその横を通り過ぎてから、清兵衛へ声を掛けた。
「待ってんだな」
「誰が」
「宿の人も、飯屋の人も」
「ああ」
「建物がねえって言うから、どうにもならなくて困ってるのかと思ったけど、まだ分かんねえんだな」
清兵衛は頷いた。
「使えねえ建物があるのか、直せば使えるのか。それも、今日は確かめられなかった」
「じゃあ、何しに来たんだってことになんねえか」
「そうでもねえよ」
答えたのは宗助だった。
「部屋を聞かれてる宿がある。向こうも準備はしてる。ただ、人数も日も分からねえ。そこは聞けた」
「うちで聞いてた話より、細けえな」
「それに、空いてるから泊められるってもんでもねえ。いつ来るか分かんなきゃ、いつもの客の寝るところがなくなる」
宗助は飯屋にいた時より、ずっと真面目な顔をしていた。
清兵衛も懐から紙を出したが、歩きながらでは書けないと思ったのか、すぐにしまった。
「戻ったら、加兵衛さんに話そう。岩槻は何もできねえと決めつけるのは早い」
勇吉は少し気が楽になった。
自分たちが蕨を調べることと、喜平次の店に客が来ることが、どうつながるのかはまだ分からない。ただ、あの店の主人が何も考えずに待っているわけではないことは、分かった。
*
蕨へ戻る頃には、日が傾いていた。
勇吉はそのまま家へ帰るつもりだったが、清兵衛に、顔だけ出していこうと言われた。顔だけで済んだことはあまりない。それでも、聞いた話を忘れる前に伝えた方がいいと思い、加兵衛のところへ向かった。
権蔵も来ていた。
清兵衛が岩槻の宿で聞いたことを話す間、加兵衛は紙へ書き留め、何度か聞き返した。建物の事情は宿の主人も確かめていないこと、泊まる人数も日程も決まっていないこと。その二つは、念を押していた。
「では、岩槻で受け入れられないと決まった話ではないんですね」
「ああ。そこは違うと思う」
清兵衛が答えると、加兵衛は書いたところへ小さく印をつけた。
「こちらも、調べた場所を全部使えるように書くわけにはいきませんね」
「そうなんだよ」
宗助が身を乗り出した。
「人を泊めるなら、何人を、何晩か。それが来ねえと、部屋を空けとけとは言えねえ」
「今、泊まっている人もいますからね」
「そう。岩槻の宿も、それを言ってた」
勇吉が聞いていると、権蔵が横から声を掛けた。
「お前が話してた納屋、見てきたぞ」
「戸、閉まったか?」
「そこからか」
「閉まんなかっただろ」
「直してあったよ。貸す話があるならと、持ち主が削ったそうだ」
勇吉は少し驚いた。背中を揉みながら聞いた時には、面倒だから放ってあると言っていた戸だ。
「残ってた藁も片づける。少しの間、荷を預かるなら構わねえと。ただし、置きっぱなしにされちゃ困るそうだ」
「そりゃそうだな」
「何日置くかと、何を置くかは先に聞く。借り賃も、その時に話すことになった」
加兵衛が、納屋のことを書いた紙を手元へ寄せた。
宗助も、泊まる者が少人数なら自分のところで受けられるが、日によっては別へ頼むことになると話した。清兵衛は、馬をつなぐ場所と水について、先に確かめておくと言った。
少し前まで、空いている家がある、裏が広い、と話していたのに、今は何日ならよいか、何人までなら受けられるかという話になっている。
勇吉は三人の間を見ながら、喜平次の店で食べた大根を思い出した。客が来れば飯を炊く。それにも、米がいる。鍋もいるし、よそう手もいる。
「急に全部来たら、困るんだろうな」
口にすると、宗助が顔を向けた。
「だから、先に聞くんだよ」
「先に聞いても、言ったより多かったら?」
「その時は……何とかするしかねえだろ」
「何とかできる分を、先に決めておきましょう」
加兵衛が言うと、宗助は膝に置いていた手を引き、部屋ごとに何人寝られるか数え始めた。清兵衛も紙を寄せ、荷を置く場所とは別に、人と馬のことを書き足していく。
*
話が一段落したところで、加兵衛は新しい紙を出した。
「浦和へも、今のところを伝えておきます。荷を置く場所と、人や馬を休ませる場所について、相談には乗れると」
「何でも引き受けるとは書くなよ」
宗助が言った。
「まず、荷の量と日取りを知らせてもらう。それから、こちらで確かめて返事をする形にします」
清兵衛が頷き、権蔵もそれならよいと言った。
勇吉は紙に書かれていく文字を眺めていた。
県庁は岩槻に置かれると聞いている。それがいつになるのか、蕨で進めている支度がどこまで役に立つのかは、まだ分からなかった。
それでも、あの納屋の持ち主は戸を直した。今度会えば、貸す話はどうなったかと聞かれるかもしれない。勇吉は加兵衛の書く手元へ、少し身を寄せた。
「返事が来たら、また声を掛けるぞ」
清兵衛に言われ、勇吉は顔を上げた。
「俺にも?」
「お前が教えた納屋だろ」
「教えたら、ずっと俺の用事になんのかよ」
そう言いながら立ち上がると、脚が少し重かった。一日歩いたあとに座り込んだせいらしい。膝を伸ばしている勇吉を見て、宗助が自分の肩を揉み始めた。
「勇吉、帰る前に少し――」
「明日来い」
最後まで聞かずに答えると、宗助は渋々手を下ろした。
外へ出た時には、店々の灯りが通りへこぼれていた。勇吉は家へ向かいながら、妻に何から話そうか考えたが、飯を炊く匂いがどこからか漂ってくると、昼に食べた大根を思い出した。
家の戸を開けると、妻が奥から顔を出した。
「何か分かった?」
「少しな」
「お腹は?」
「減った」
妻は笑いもせず、飯をよそいに戻った。勇吉も上がって腰を下ろす。
「岩槻で、大根のうまい店があってよ」
「まず、その話なのね」
「それも今日の話だろ」
椀を受け取りながら、勇吉は続きを話し始めた。県庁がいつ来るのかと尋ねられて、何も答えられなかった飯屋のことからだった。
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