第61話 休めない男
翌朝、清兵衛のところへ、昨日米を運んだ若い男が顔を出した。
手には折り畳まれた書付を持っている。
「清兵衛さん、昨日の米、ちゃんと届けましたよ」
「おう! そうか!」
清兵衛は思わず男に近づいた。
書付を受け取り、八俵すべてが無事に届いたことを確かめると、胸の奥に詰まっていたものがようやく下りた気がした。
「間違いねえな?」
「八俵、確かに受け取ってもらいました。数も合ってます」
「そうか……助かったよ」
「親方もよろしく言ってました」
「こっちこそ礼を言ってくれ。高かったけどな」
若い男は笑った。
「それ、親方にも言っておきます」
「言わなくていい!」
清兵衛も笑った。
書付を米問屋へ持っていくと、主人は受け取りの証しと八俵の数を確かめ、満足そうに頷いた。
「約束は守ってもらえたな。助かったよ」
「ご迷惑をお掛けしました」
「まあ、今回は仕方ねえ。だが、次からはもう少し余裕を持ってくれよ。お前さんたちが無理をして仕事を続けられなくなったら、こっちだって困るんだからな」
「……ええ。次はもう少しうまくやります」
「頼むよ。また荷があれば声を掛けるからな」
清兵衛は頭を下げて店を出た。
米八俵の仕事は、これで終わった。
儲けはほとんど残らなかったが、米問屋との取引は切られずに済んだ。次の仕事についても、また相談に乗ってくれるという。
それだけでも、昨日の苦労が少しは報われた気がした。
しかし、その足で柿の木の家へ向かうと、納屋の前は今日も朝から騒がしかった。
権蔵が荷車の位置を指示し、加兵衛は帳面を片手に、運び出す荷と残す荷を確かめている。
「おう、清さん。米はどうなった?」
加兵衛が声を掛けてきた。
「無事に届いたよ」
「そうか。よかったな」
「運んでくれた二人のおかげだよ」
「新しく見つけた馬方か?」
「ああ。仕事は早いし、荷の扱いも丁寧だった。もっとも、運び賃は高かったけどな」
加兵衛は笑いながら帳面を閉じた。
「まあ、約束を守れたならよかったじゃねえか。次からは気をつけりゃいい」
「そうなんだけどよ……」
清兵衛は納屋の前を見回した。
荷を積む男、縄を結ぶ男、馬を引く男。
誰もが忙しそうに動いている。
少し前まで古い俵や木箱が積まれているだけだった納屋に、今では毎日のように荷車が出入りしている。浦和や岩槻の商人まで訪れるようになり、蕨の仕事が増えているのは確かだった。
「なあ、加兵衛」
「何だ?」
「今、藤蔵以外に、すぐ動ける人足って誰がいる?」
「すぐにか?」
「ああ」
加兵衛は少し考えた。
「権蔵のところに何人かいるが、今日はここの荷を動かしてるしな。ほかにもいるだろうが……」
「誰がどこで働いてるか、分かるか?」
「全部は分からねえよ」
「だよな」
清兵衛は懐から帳面を取り出した。
空いた頁へ藤蔵の名前を書き、その下に一昨日、事故の後始末を手伝ってくれた人足たちの名前を書き足していく。
加兵衛が覗き込んだ。
「何やってんだ?」
「人足の名前を書いてる」
「見りゃ分かるよ。何のためだ?」
「次に急な仕事が入った時、誰に声を掛けりゃいいのか分かるようにしようと思ってな」
「……なるほど」
「昨日みてえに朝から歩き回るのは、もう御免だからよ」
加兵衛は笑った。
「そりゃそうだな。だったら権蔵にも聞いてみりゃいい。あいつは人足の顔をよく知ってるからな」
「そうだな」
清兵衛はさらに二人ほど名前を書き足した。
もちろん、これで人手不足が解消するわけではない。名前を書いたところで、その人間が別の仕事を抱えていれば頼むこともできないし、怪我でもしていれば動けるはずがなかった。
それでも、誰が何をしているのか分からないまま仕事を引き受けるよりは、いくらかましになるだろう。
「清さん!」
そこへ藤蔵がやって来た。
昨日よりは少し顔色が戻っている。
「米、届いたんだって?」
「ああ。何とか間に合ったよ」
「よかったな」
「お前も今日は無理すんなよ。昨日の疲れが残ってんだろ」
「平気だよ。それより、何やってんだ?」
藤蔵が帳面を覗き込む。
「人足の名前を控えてんだ。お前の知ってる奴も教えてくれ」
「名前?」
「ああ。今どこで誰が働いてるか、少しでも分かるようにしときてえんだよ」
藤蔵は不思議そうな顔をしたが、説明を聞くうちに頷いた。
「なるほどな。そういうことなら、ほかにも知ってる奴がいるぞ」
「本当か?」
「ああ。ただ、腕のいい奴は大抵仕事を抱えてるからな。急に頼むとなると難しいかもしれねえけど」
「それでもいい。名前だけでも分かりゃ、あとで話ができる」
藤蔵は帳面を覗き込み、知っている人足の名前を幾つか教えた。
清兵衛がそれを書き留めていると、藤蔵がふと思い出したように言った。
「そういや、竹松のことなんだけどよ」
清兵衛の筆が止まった。
「どうした?」
「今朝、戸田の方から来た奴に聞いたんだが、まだ足が随分痛むらしい」
「そうか……」
「昨日は家で寝てたそうなんだがな」
藤蔵は少し言いにくそうに口をつぐんだ。
清兵衛は顔を上げた。
「何だよ。まだ何かあるのか?」
「いや……あいつ、今朝になって仕事へ出ようとしたらしいんだ」
「仕事?」
「ああ」
「足を怪我してんだろ?」
「そうなんだが、本人は休んでられねえって言ってるらしい」
清兵衛は帳面を閉じた。
「……そりゃ無茶だろ」
「俺もそう思う。足を引きずってるって話だしな」
藤蔵は小さく息を吐いた。
「竹松も、こういう時に限って頑固だからな」
「こういう時だけか?」
「……いや、いつもか」
二人は少し笑った。
だが、清兵衛はすぐに真顔に戻った。
「誰かに診せたのか?」
「さあ。そこまでは聞いてねえ」
「だったら勇吉に診せた方がいいな。あいつなら竹松の身体も知ってるだろうし」
「そうだな。俺もそう思う」
清兵衛は帳面を懐へしまった。
昨日、松葉屋で運び手の男から聞かれたことが頭に浮かんだ。
馬が怪我をしたらどうする。
あの時、自分は答えられなかった。
竹松の足が治るまで、どれくらい掛かるのかは分からない。だが、治るまで休めと言ったところで、あの男が素直に聞くとも思えなかった。
「……ちょいと勇吉のところへ行ってくる」
清兵衛が歩き出そうとした時だった。
納屋の前へ、一人の男が駆け込んできた。
「藤蔵さん!」
呼ばれた藤蔵が振り返る。
「おう、どうした?」
「戸田から知らせです。竹松さんが、また渡し場へ戻ってきたそうで」
「また?」
「ええ。朝は一度帰されたんですが、今度は荷を運ぶのは無理でも、舟の上で縄を扱うくらいならできるって言い出して……」
藤蔵は顔をしかめた。
「馬鹿野郎、そんな足で舟に乗れるわけねえだろ」
「みんなで止めたんですが、聞かないそうです」
清兵衛も思わず口を挟んだ。
「本人は何て言ってんだ?」
「とにかく仕事をさせてくれって。足は痛そうなんですが、どうしても帰ろうとしねえんです」
清兵衛は藤蔵の顔を見た。
「……勇吉を呼んでくれ」
「分かった」
「俺も戸田へ行く」
藤蔵が驚いたように顔を上げた。
「清さんまで行くのか?」
「ああ」
「今日はまだ仕事があるだろ?」
「分かってるよ」
清兵衛はそう答え、懐の帳面を押さえた。
さっきまで、この帳面に人足の名前を書いていた。
誰が働けるのか、誰に頼めるのか。それが分かれば、次に急な仕事が入っても慌てずに済むかもしれない。
だが、竹松の名前を書いたところで、あの男がすぐ働けるようになるわけではない。
「なあ、藤蔵」
「何だ?」
「一昨日、竹松が川へ落ちた時、みんなで助けただろ?」
「ああ」
「なのに、助かった後のことは誰も考えてなかったんだな」
藤蔵は何も言わなかった。
清兵衛も、それ以上は続けられなかった。
どうすればいいのか、まだ分からない。
それでも、痛めた足を引きずりながら川へ戻ろうとする男を、そのままにしておく気にはなれなかった。
「……ったく、仕事が終わらねえな」
清兵衛が呟くと、藤蔵は小さく笑った。
「昨日も同じこと言ってたぞ」
「昨日は米の話だろうが」
「今日は竹松か」
「ああ」
清兵衛は街道の南へ目を向けた。
その先には、一昨日の事故が起きた戸田の渡しがある。
「清さん、先に行っててくれ。俺が勇吉を呼んでくる」
「頼む」
藤蔵が走り出すと、清兵衛も南へ向かって歩き始めた。
何をしてやれるかは分からなかったが、少なくとも勇吉なら、あの足を診ることができる。
まずはそこからだ。
*
その頃、戸田の渡しでは、竹松が岸につながれた舟の前に立っていた。
一昨日の事故で痛めた足は、昨日一日横になっていても、思ったほど良くならなかった。朝になっても地面を踏むたびに痛みが走り、家から渡し場まで歩いてくるだけで、額には汗が滲んでいた。
それでも竹松は仕事へ出てきた。
一度は仲間に止められ、家へ戻ったものの、しばらくすると再び姿を現したのである。
「竹松、お前また来たのか!」
舟の支度をしていた人足が、呆れたように声を上げた。
「帰れって言っただろ。そんな足で何ができるんだよ」
「重い荷は持たねえよ。縄を扱うくらいならできる」
「馬鹿言うな。舟が揺れたらどうするんだ」
「平気だって」
「平気な奴がそんな歩き方するかよ!」
竹松は返事をせず、岸に置かれた縄へ手を伸ばした。
足を庇いながら身を屈め、どうにか拾い上げる。しかし立ち上がる時に痛めた足へ体重が掛かり、思わず顔を歪めた。
「ほら見ろ!」
近くにいた男が慌てて肩を貸そうとしたが、竹松はその手を払った。
「大丈夫だって言ってんだろ!」
「どこが大丈夫なんだよ!」
人足たちが集まってきた。
誰も竹松を責めたいわけではなかった。一昨日、川へ落ちた時には、そこにいる何人かも助けに入っている。
あんな事故をもう一度起こしたくなかった。
「竹松、頼むから今日は帰ってくれ。身体を治してから来りゃいいだろ」
年嵩の人足が穏やかに言った。
「仕事なら、またあるんだからよ」
竹松は黙ったまま、岸に積まれた荷を見ていた。
男たちは次々と俵を担ぎ、舟へ運んでいる。
誰かが一つ運べば、また次の荷が動く。
以前なら自分もその中にいた。
重い荷を担いで岸を歩き、運び終えれば次の荷へ手を伸ばす。そうして一日働き、夕方になれば賃金を受け取って家へ帰った。
それが、いつもの暮らしだった。
だが、今日は違う。
竹松が黙って立っている間にも、仲間たちは次々と荷を運んでいく。
誰も竹松の手を借りなくても、仕事は進んでいた。
「……なあ、竹松」
年嵩の男がもう一度声を掛けた。
「無理して悪くしたら、もっと長く働けなくなるぞ。今日は休んでくれよ」
竹松はゆっくりと顔を上げた。
周りには心配そうな顔が並んでいる。
一昨日も助けてくれた。
今日だって、こうして身体を気遣ってくれている。
それは竹松にも分かっていた。
「……休めって、簡単に言うよな」
年嵩の男が眉を寄せた。
「何だよ。お前のためを思って言ってんだぞ」
「分かってるよ」
竹松は小さく頷いた。
手にしていた縄を握り直し、舟へ向かって一歩踏み出そうとしたが、痛めた足が思うように動かなかった。
踏み出した足を戻し、竹松はその場に立ち尽くした。
誰も笑わなかった。
年嵩の男がそっと近づき、縄を受け取ろうと手を差し出したが、竹松はそれを離さなかった。
「俺だって……」
声がかすれた。
「俺だって、休めるもんなら休みてえよ……」
男たちは黙っていた。
竹松は目の前の荷と、働いている仲間たちを見渡した。
そして、縄を握ったまま、絞り出すように言った。
「……休んでる間の飯代は、誰が出してくれるんだ?」




