第60話 荷車が去ったあと
米八俵が荷車へ積み込まれたのは、昼を少し回った頃だった。
松葉屋で見つけた二人は、思っていた以上に仕事が早かった。
若い男が俵を運び出し、年嵩の男が荷台へ積む位置を指示する。重い俵は二人で息を合わせて持ち上げ、崩れないよう一つずつ据えていった。
清兵衛も手を貸そうとしたが、慣れない重さに腰を落としたところで、若い男から声を掛けられた。
「清兵衛さん、無理しなくていいですよ」
「俺だって米俵くらい持てるわ」
「いや、持てるのは分かりますけど、腰を痛められちゃ困りますから」
「そこまで年寄りじゃねえぞ!」
若い男は笑いながら清兵衛の持っていた俵を支え、年嵩の男と一緒に荷台へ収めた。
確かに自分が手を出すより早い。
清兵衛は少しばかり面白くなかったが、邪魔をして荷を落としても困るので、途中から数を確かめる役に回った。
「一、二、三……八。間違いねえな」
「八俵ですよ」
「念のためだ」
「もう三回も数えてますよ」
「悪いか」
「悪くはありませんけど」
若い男は笑いながら縄を引いた。
年嵩の男が結び目を確かめ、荷台を軽く揺すっても俵が動かないことを見届ける。
その手際を眺めているうちに、清兵衛は少し安心した。
初めて頼む相手ではあるが、少なくとも荷の扱いは慣れているらしい。
米問屋の主人も店から出てきた。
「八俵、確かに積んだな」
「ええ」
「今日中に頼むぞ」
「分かっています」
主人は年嵩の男にも声を掛けた。
「道中、頼みますよ」
「任せといてくれ。米俵を運ぶのは慣れてるんだ」
男はそう答えると、手綱を引いた。
馬がゆっくりと歩き出し、車輪が土を踏む音を立てる。若い男は荷台を確かめながら、その横を歩いていった。
清兵衛は二人の後ろ姿を見送った。
いつもなら、荷車が出ていくところをこれほど気にしたことはない。
ところが今日は、荷車が曲がり角を過ぎて見えなくなるまで、その場を離れる気になれなかった。
荷が崩れないか、馬が躓かないか。昨日のような事故が、今度は別の場所で起きるのではないか。
そんなことを考えていると、背後から声が掛かった。
「清さん」
振り返ると、米問屋の主人が立っていた。
「何だか随分心配そうだな」
「……そう見えますか?」
「見えるよ。まるで初めて荷を任せたみてえだ」
清兵衛は苦笑した。
「実際、あの二人に頼むのは初めてですからね」
「なるほどな」
主人は笑い、それから清兵衛の肩を軽く叩いた。
「まあ、昨日の今日だ。心配にもなるか」
「ええ」
「だが、いつまでもここで見てたって、荷車は早く進まねえぞ」
「そりゃそうですね」
清兵衛も笑った。
振り返れば、米俵が置かれていた場所はすっかり空いている。
たった八俵を運び出すために、朝からこれだけ走り回ったのだ。
清兵衛は腰の銭入れを軽く叩いてみた。
中身の少なくなった銭入れからは、ほとんど音がしなかった。
*
その日の夕方、勇吉は桜屋で酒を飲んでいた。
昼間は腰を痛めた男が二人続き、そのあとには肩の上がらない女まで来た。ようやく仕事を終えた頃には腹が減り、家へ帰る前に一杯飲んでいくつもりで暖簾をくぐったのだが、お咲に顔を見るなり笑われた。
「勇吉さん、今日は早いねえ」
「早くねえよ。ちゃんと働いてきたんだぞ」
「誰も働いてないなんて言ってないだろ」
「そうか?」
「そうだよ。何にする?」
「酒。それと何か旨いもん」
お咲は呆れたように笑い、奥へ声を掛けた。
「源次郎さん、勇吉さんが旨いものだってさ」
「随分と難しい注文だな」
奥から源次郎の声が返ってきた。
「今日は魚があるぞ」
「おう、いいねえ。焼いてくれ」
「焼けるまで待てよ」
「待つから酒を先にくれ」
お鈴が徳利を運んできたところで、勇吉はようやく落ち着いた。
杯へ酒を注ぎ、ゆっくり口をつける。
外にはまだ明るさが残っているが、店の奥からは夕餉の支度をする音が聞こえていた。焼き魚の匂いが漂い始め、隣の席では顔なじみの男たちが仕事の愚痴をこぼしている。
こういう時間が一番いい。
面倒な話も、加兵衛からの呼び出しも、何もなければなおさらだった。
「そういや勇吉さん、昨日の騒ぎは聞いた?」
お咲が尋ねた。
「何の?」
「戸田の渡しだよ。荷運びの人が川へ落ちたって」
勇吉は杯を止めた。
「川へ?」
「舟と岸の間に落ちたんだってさ。足を怪我したらしいよ」
「誰だ?」
「竹松って人だったかな」
「竹松?」
勇吉は少し考えた。
以前、腰を痛めて診せに来た男の姿が浮かんだ。身体が大きく、肩の割に腰の動きが硬かったのを覚えている。
「……あいつか。前に腰を痛めて来たことがある奴だ」
「知ってるのかい?」
「何度か診てるよ。それで、足はどうなった?」
「そこまでは知らないねえ」
「どうやって落ちたんだ?」
「だから、舟と岸の間だって」
「足を挟んだのか、滑ったのか、それを聞いてんだよ」
「そんなこと、あたしに聞かれても分からないよ」
お咲が困ったように笑うと、奥から源次郎が顔を出した。
「清兵衛さんたちも大変だったらしいぞ。荷が濡れて、人足を集めて、随分騒ぎになったそうだ」
「清さんもいたのかよ」
「ああ。今日も米を運ぶ人を探して歩き回ってたって話だ」
「ったく、あいつら次から次へと何やってんだ」
勇吉は呆れたように言ったものの、すぐに竹松のことへ話を戻した。
「そいつ、今日は歩けてたのか?」
「さあな。俺もそこまでは聞いてねえ」
「足を挟んだんなら、骨を傷めてるかもしれねえな……」
勇吉は杯を置いた。
舟と岸の間であれば、足を捻っただけの可能性もある。だが、重い荷を扱っていたのなら、滑った拍子に強く挟んだことも考えられた。
骨や関節を傷めていれば、無理に歩かせるわけにはいかない。
何より気になったのは、竹松が荷運びの人足だということだった。
以前、腰を痛めた時も、竹松は休まず働いていた。
勇吉がしばらく重いものを持つなと言うと、そんなことをしたら飯が食えなくなると笑っていたのを覚えている。
あの時は腰だった。
今度は足だ。
「誰かに診せたのかねえ……」
勇吉が呟いたところで、お鈴が焼き魚を運んできた。
「勇吉さん、お待たせしました」
「おう!」
目の前に皿が置かれた途端、勇吉の表情が明るくなった。
源次郎が呆れた声を出す。
「お前、さっきまで心配してたんじゃねえのか?」
「してるよ」
「魚を見た途端、顔が変わったぞ」
「怪我人の心配と腹が減ってるのは別の話だろうが」
お咲が吹き出した。
「相変わらずだねえ」
「うるせえな。明日にでも清さんに聞いてみるよ」
そう言って魚へ箸を伸ばしたものの、勇吉はすぐに手を止めた。
「なあ、お咲」
「今度は何だい?」
「竹松の家って、どの辺だったっけ?」
「さあ……戸田の方だとは聞いたことがあるけど」
「そうか」
勇吉は一度頷き、ようやく魚へ箸をつけた。
焼きたての魚は旨かった。
酒も悪くない。
だが、竹松の足がどうなったのか、そのことだけは頭の片隅から離れなかった。




