第59話 八俵の約束
朝から三度目のため息をついたところで、清兵衛は目の前の藤蔵に言った。
「お前、少しは寝たのか?」
「寝たよ」
「何刻だ?」
「……覚えてねえ」
「そりゃ寝たうちに入らねえだろ」
藤蔵の目の下には濃い隈ができていた。昨日、戸田の渡しで起きた事故の後始末に追われ、蕨へ戻ったのは夜も遅くなってからだったという。濡れた荷を岸へ運び上げ、人足を集めて残りを片づけ、荷の数まで確かめていたのだから、疲れているのも無理はなかった。
清兵衛も似たようなものだった。
昨夜は帳面を広げたまま、何度も同じところを読み返していた。
濡れた紙は三包。六番と七番は外側まで水が染み、十番は見た目だけでは傷みが分からない。荷主の辰五郎は主人に相談するまで運び賃を払えず、事故の後始末に呼んだ人足たちの賃金は清兵衛が立て替えている。
まだ何一つ片づいていないところへ、今朝は米八俵の運搬が待っていた。
「で、藤蔵。米の方はどうなってる?」
清兵衛が尋ねると、藤蔵は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「悪い。昨日のうちに積むはずだったんだが、まだ一俵も動かせてねえ」
「……だろうな」
「今から積めば運べねえこともねえんだけどよ。そうすると、昼から頼まれてる別の荷が間に合わなくなる」
藤蔵は今朝、米を浦和へ届け、その足で別の仕事へ回る予定だった。昼からの荷にはすでに人足を揃えてあり、そちらの荷主も荷車が来るのを待っている。
昨日の事故さえなければ、何の問題もなかったはずだ。
「向こうの仕事は少し遅らせられねえのか?」
「そりゃ無理だよ。昨日だって迷惑掛けちまったんだ。今日まで遅れたら、次から仕事を回してもらえなくなる」
「そうだよなあ……」
清兵衛は腕を組んだ。
米問屋には今日中に八俵を届けると約束している。藤蔵も別の荷主と約束しているのだから、どちらかを優先すれば、どちらかが困る。
「清さん、俺が二人いりゃいいんだけどな」
「二人いたって昨日みてえな騒ぎが起きりゃ、二人とも川へ行くんじゃねえか?」
「そりゃそうか」
藤蔵は力なく笑った。
普段ならもう少し言い合うところだったが、清兵衛にもそんな余裕はない。藤蔵は昨日、頼まれていた仕事を放り出してまで戸田へ駆けつけてくれたのだ。そのことを責める気にはなれなかった。
「分かった。米は俺が何とかする。お前は予定どおり向こうの仕事をやってくれ」
「悪いな、清さん」
「いいから行け。お前まで倒れられちゃ、こっちが困る」
「俺は丈夫だから平気だよ」
「昨日も竹松はそう言ってたんじゃねえのか?」
藤蔵は何も言い返さなかった。
清兵衛も言い過ぎたと思ったが、今さら取り消すのもおかしな話だった。
「……まあ、無理すんなってことだ」
「ああ」
藤蔵は頷き、荷車の方へ戻っていった。
清兵衛はその背中を見送りながら、腰の銭入れを確かめた。昨日立て替えた分だけ、いつもより随分軽くなっている。
「ったく、朝から嫌な予感しかしねえな」
そう呟くと、米問屋へ向かって歩き出した。
*
米問屋の主人は、清兵衛の話を聞き終えると、しばらく何も言わなかった。
帳場の向こうには、縄を掛けられた米俵が八つ、きれいに並べられている。昨日のうちに用意され、あとは荷車へ積み込むだけになっていた。
「つまり、藤蔵は来られねえってことか?」
「ええ。昨日の戸田の件がありまして」
「そいつは聞いてるよ。川へ落ちた奴もいたそうじゃねえか」
「竹松という人足です。足を痛めたらしくて」
「気の毒な話だな。大事にならなきゃいいが……」
主人はそう言って米俵を見た。
「それはそれとして、この米はどうなる?」
清兵衛は背筋を伸ばした。
「別の運び手を探しています。今日中には浦和へ届けます」
「今から探すのか?」
「ええ」
「それで、見つかる当てはあるのかい?」
清兵衛は一瞬、返事に詰まった。
「……これから当たってみます」
主人は呆れたように眉を寄せた。
「清兵衛さん、そりゃ困るよ。俺はお前さんたちを信用して頼んだんだ。向こうにも今日届くと伝えてある。今さら明日になりましたじゃ済まねえぞ」
「分かっています」
「向こうだって荷を受け取る人足を揃えてるんだ。米が届かなきゃ、その人足たちを遊ばせることになる。お前さんたちの都合で仕事が遅れりゃ、困るのは俺一人じゃねえんだよ」
清兵衛は返す言葉がなかった。
昨日の戸田でも同じだった。
荷を預けた者は、約束どおり運ばれるものだと思っている。荷を運ぶ人間が途中でどんな苦労をするかなど、知る由もない。
いや、知っていたとしても、荷が届かなければ困ることには変わりない。
「昼過ぎまでには運び手を連れてきます」
「見つからなかったら?」
「……見つけます」
主人は清兵衛の顔を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて深く息を吐く。
「分かった。昼過ぎまで待とう。ただし、今日中に届けること。それから、向こうへ渡した証しも持ってきてくれ」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早えよ」
主人は帳面を開きながら続けた。
「約束さえ守ってくれりゃ、俺は文句を言わねえ。だが、次も同じようなことになったら、お前さんたちに任せるか考え直さなきゃならねえぞ」
清兵衛は頭を下げた。
店を出ると、朝の街道にはいつものように人が行き交っていた。荷車も馬もそこら中にいる。
それなのに、今日すぐ浦和へ米八俵を運べる者となると、一人も思い浮かばなかった。
*
「今日は無理だ。午後には川口まで行かなきゃならねえ」
「八俵? 車は空いてるが、馬を休ませてるんだ」
「浦和なら行くけどよ、俺の車じゃ二俵がせいぜいだな」
清兵衛は街道を歩き回り、知った顔を見つけては声を掛けた。
しかし、誰に尋ねても都合がつかない。
ようやく運べそうな男を見つけても、出発できるのは夕方だと言われ、それでは米問屋との約束に間に合わなかった。
蕨に荷を預ける商人が増えたことで、最近は知り合いの馬方も人足も随分増えたつもりでいた。ところが、いざ仕事を頼もうとすると、誰がどこで何を運んでいるのか、ほとんど分かっていない。
「清さん、何かあったのか?」
顔見知りの商人に声を掛けられ、事情を話すと、男は気の毒そうに笑った。
「昨日は川で、今日は米か。随分忙しいこったな」
「忙しいだけならいいんだけどよ」
「商売が増えりゃ、そういうこともあるさ」
「こっちは銭が減る一方だぞ」
「だったら仕事を減らしゃいい」
「それができりゃ苦労しねえよ」
男は笑いながら去っていった。
清兵衛も苦笑して見送ったが、足を止めた途端、朝から歩き回った疲れが押し寄せてきた。
腹も減っている。
少し何か食ってから考えようかと思ったところで、松葉屋の前に一台の荷車が止まっているのが目に入った。
馬は軒先から少し離れたところにつながれ、荷台には荷を縛ったらしい縄だけが残っている。
空車だった。
「……あれ、誰の車だ?」
清兵衛はしばらく眺め、それから暖簾をくぐった。
「おや、清兵衛さん。今日はお一人ですかい?」
主人が顔を上げた。
「ああ。ちょいと人を探しててな」
「人を?」
「表の空荷車、誰のだ?」
「ああ、奥にいるお二人ですよ。昨夜もここで飯を食っていましてね。戸田の渡しが騒ぎになったもんで、近くの旅籠に泊まったそうです」
「昨日から足止めか?」
「そうみたいですね。今朝も道の様子を確かめてから南へ向かうつもりだそうで」
清兵衛が奥を見ると、二人の男が向かい合って飯を食っていた。
一人は年嵩で、日に焼けた顔に深い皺がある。もう一人は若く、飯を口へ運びながらも、時折、表の馬へ目を向けていた。
「ちょいと話しても構わねえか?」
「そりゃ構わないでしょうけど……仕事ですかい?」
「ああ」
「じゃあ、先に飯でも食っていったらどうです? 朝から何も食べてないんじゃありませんか?」
清兵衛は思わず自分の腹を見た。
「……そんなに腹減ってる顔してるか?」
「ええ。随分と」
「余計なお世話だよ」
主人は笑いながら茶を出した。
清兵衛はそれを飲み干し、奥の席へ向かった。
「飯の途中、悪いな。ちょいと相談させてくれ」
年嵩の男が箸を止めた。
「何だい?」
「表の荷車は、あんたたちのか?」
「ああ、そうだが」
「今日、浦和まで米を運んでもらえねえだろうか。八俵あるんだ」
男は隣の若い者と顔を見合わせた。
「浦和?」
「ああ。ここからならそう遠くねえ」
「俺らは南へ下るつもりなんだがな」
「聞いてる。昨日から足止めになってるそうじゃねえか」
「まあ、そうだが……」
男は少し考え、清兵衛へ向き直った。
「運ぶだけならできる。だが、こっちにも都合ってもんがある」
「そりゃ分かってる。運び賃の相談をしたい」
「いくら出す?」
清兵衛は普段の相場を伝えた。
すると、男はあっさり首を横に振った。
「それじゃ駄目だ」
「いくらならいい?」
男が答えた額を聞いて、清兵衛は思わず身を乗り出した。
「おいおい、そりゃ高すぎねえか?」
「嫌なら他を当たってくれ」
「いや、待てって。少しくらい相談させろよ」
男は箸を置き、清兵衛を見た。
「俺たちは本当なら南へ下って、次の荷を拾うつもりだったんだ。それをわざわざ浦和へ向かうんだから、予定が変わる。向こうで荷が見つからなきゃ、空車で戻ることにもなるんだぞ」
「そりゃそうだが……」
「だったら、その分はもらわなきゃ困る」
言っていることは分かった。
相手だって遊んでいるわけではない。馬を食わせ、自分たちも飯を食い、次の仕事を探さなければならない。
清兵衛はもう少し値を下げられないかと話してみたが、男は首を縦に振らなかった。
「今日中に浦和へ運んでくれって言うんだろ? こっちも予定を変えるんだ。それなりの銭はもらうよ」
年嵩の男の言葉に、若い男も小さく頷いている。
清兵衛が困っているのは、二人にも分かっているのだろう。
だからといって、安く引き受けなければならない道理はない。
「……少し考えさせてくれ」
「構わねえよ。ただ、俺らもいつまでもここにいるわけじゃねえからな」
清兵衛は席を離れ、店の隅へ戻った。
腰の銭入れを外し、手のひらへ中身を出す。
銅銭が幾枚か転がり、銀貨が小さく音を立てた。
昨日、戸田で人足たちへ支払った賃金はまだ戻っていない。濡れた荷についても、辰五郎の主人が何と言ってくるか分からない。
清兵衛は銭を数えた。
男の言い値を払えば、米八俵の仕事で得られるはずだった儲けは、ほとんど残らない。
かといって、ここで断れば米問屋との約束を破ることになる。
あの主人は、次から仕事を任せるか考え直すと言っていた。
清兵衛は掌の銭を見つめたまま、動かなかった。
初めて荷を預かった時のことを思い出す。
たった一つの荷を運ぶために、どれだけ人を集め、どれだけ頭を下げたことか。
浦和からも岩槻からも荷が来るようになり、ようやく蕨で荷を扱う仕事が形になり始めている。ここで約束を破れば、あの苦労まで無駄になるかもしれない。
そんなことは分かっていた。
分かっているが、銭を払うとなると、やはり惜しかった。
「……ったく」
清兵衛は手のひらの銭を握りしめた。
昨日の事故も、今朝の人手不足も、自分が望んで起こしたことではない。
それでも、荷を預かると約束したのは自分たちなのだ。
清兵衛は立ち上がった。
奥の席では、二人の男がちょうど飯を食い終えたところだった。
「さっきの話だが」
年嵩の男が顔を上げた。
「決まったか?」
「ああ。あんたの言う運び賃で頼む」
男は少し驚いた顔をした。
「いいのか?」
「よかねえよ」
「何だそりゃ」
「高すぎるって言ってんだ。でも、今日はどうしても運ばなきゃならねえ」
男は声を上げて笑った。
「面白え人だな、あんた」
「こっちはちっとも面白くねえよ」
「じゃあ決まりだ。ただし、前金を少しもらうぞ」
清兵衛は顔をしかめた。
「……まだ取るのかよ」
「取るって何だ。運び賃の一部を先にもらうだけだ。こっちだって初めての相手だからな」
そう言われてしまえば、断る理由もなかった。
清兵衛は再び銭入れを出し、言われた分を数えた。
男が差し出した手のひらへ銭を落とす。
一枚、また一枚。
最後の一枚を渡したところで、清兵衛は男の手を見た。
指の節が太く、掌には縄を扱ってできた硬い皮が重なっている。
この男も毎日、こうして身体を使って稼いでいるのだろう。
「一つ、頼みがある」
「何だ?」
「荷を届けたら、必ず八俵あることを相手に確かめてもらってくれ。それから受け取った証しを持ち帰ってほしい」
「そんなの当たり前だろ」
「ああ。当たり前のことを当たり前にやってもらいてえんだ」
男は少し表情を変えた。
「昨日の事故のことか?」
「知ってるのか?」
「渡し場が騒ぎになったって聞いたよ。紙の荷が濡れたそうじゃねえか」
「ああ」
「そりゃ災難だったな。だが、俺らだって何が起こるか分からねえ。馬が足を痛めることもありゃ、車が壊れることもある。その時、何もかもこっちの責任にされちゃ困るぞ」
清兵衛は頷いた。
「分かってる。何かあったら、まず事情を聞かせてくれ。俺も最初から全部あんたらのせいにするつもりはねえ」
男は清兵衛をしばらく見ていたが、やがて頷いた。
「それならいい」
そう言うと立ち上がり、若い男に声を掛けた。
「おい、馬を見てこい。浦和へ行くぞ」
「へい」
二人が表へ出ていく。
清兵衛も後を追おうとしたところで、年嵩の男が振り返った。
「しかし、清兵衛さん。随分損な商売をするんだな」
「うるせえ。俺だって好きでやってるわけじゃねえよ」
「だったら、次はもう少し銭の残る仕事にしな」
男は笑いながら出ていった。
清兵衛はその背中を見送り、誰もいなくなった席へ向かって呟いた。
「……俺だって、そうしてえよ」




