第五十八話 払えない銭
辰五郎は、十番の包みから濡れた紙を取り出した。
紙の端が貼りついており、指で一枚ずつ剥がそうとすると、薄い表面が破れそうになる。慌てて手を止めたものの、すでに何枚かには皺が寄っていた。
「……こいつは、戸田じゃ濡れてなかったんだろ?」
辰五郎が敬之助へ尋ねた。
「外側に目立つ濡れ跡はありませんでした」
「だったら、運んでる間に濡れたんじゃねえのか!」
清兵衛が顔を上げた。
「ちょっと待てよ。外が濡れてなかったからって、中まで乾いてたとは限らねえだろ」
「そんなことがあるか!」
「あるかどうかは知らねえよ。けど、包みを開けて確かめたわけじゃねえんだから」
辰五郎は何か言い返そうとしたが、敬之助が間に入った。
「お二人とも、まずは残りの荷を確かめましょう。十番がいつ濡れたのかは、今ここで言い合っても分かりません」
「だがな……」
「戸田で確認したのは包みの外側だけです。六番と七番は、その時点ですでに濡れておりました。しかし十番の中身については、誰も確認しておりません」
敬之助は書付を辰五郎の前へ置いた。
「それは、辰五郎さんにもご確認いただいたことです」
辰五郎は紙へ目を落とした。
六番と七番には、外側の菰に水濡れありと書かれている。八番にも下側が湿っていたことが記され、十番には目立つ濡れ跡がなかったとある。
「……十番は、どこに積んだんだ?」
辰五郎が尋ねた。
清兵衛は、荷車の積み方を思い出した。
「下の方だよ。濡れてる六番と七番には触れねえようにしたし、板の上に直に置かねえよう、敷物も入れた」
「その敷物は乾いてたのか?」
「……そこまでは確かめてねえな」
辰五郎の顔が険しくなった。
「じゃあ、そいつが濡れてたんじゃねえのか!」
「決めつけるなよ。十番の中身だって、最初から濡れてたかもしれねえだろ」
「そんなこと、うちの主人に何て説明すりゃいいんだ!」
辰五郎の声が蔵に響いた。
喜八が、二人の間へ手を差し出した。
「まあ待て。敷物が濡れてたかどうかも、まだ分からねえんだろ。あんたの紙がいつ濡れたのかも分からねえ。だったら、今ここで相手のせいだと決めつけるな」
辰五郎は口を閉じたが、納得した様子ではなかった。
「八番はどうなんだ?」
しばらくして、辰五郎が尋ねた。
喜八が、まだ開けていない八番の荷を指さした。
「そいつだな。開けてみよう」
縄を解き、菰を外していくと、中の紙は無事だった。
下の方まで確かめても、目立つ水濡れは見つからない。
辰五郎は困ったように顔をしかめた。
「……どういうことだよ」
清兵衛にも分からなかった。
外側が濡れていた八番は無事で、見た目には濡れていなかった十番の紙が傷んでいる。
戸田で荷が積まれていた場所も、事故の後に誰がどこへ移したかも、すべて見ていたわけではない。荷車の敷物についても、今から確かめたところで、運び出した時の状態が分かるとは限らなかった。
喜八は残りの包みを指さした。
「まだ全部見てねえんだ。先に終わらせようじゃねえか」
辰五郎は渋々頷いた。
残りの荷も一つずつ開けられ、敬之助が状態を記録していく。
十二包のうち、中の紙まで傷んでいたのは六番、七番、十番の三包だった。それ以外にも多少湿ったものはあったが、すぐに使いものにならないと決めつけられる状態ではない。
辰五郎は、三包の紙を前にしゃがみ込んだ。
しばらく黙っていたものの、やがて低い声で言った。
「……こいつを東京へ持っていったところで、使ってもらえるかどうか分からねえぞ」
清兵衛は辰五郎の横顔を見た。
さっきまで怒鳴っていた男が、今は濡れた紙をじっと見つめている。
「……困るのは、あんたも同じなんだな」
「当たり前だろうが」
辰五郎は顔を上げた。
「俺は主人から、明日までにこの紙を届けろと言われてるんだ。荷が止まりました、紙が濡れました、それで済むと思うか?」
清兵衛は黙った。
「向こうの問屋から苦情が来りゃ、怒られるのは俺だ。主人が弁償しろと言われたら、どうするんだよ」
辰五郎は濡れた紙をもう一度包もうとして、手を止めた。
無理に動かせば、さらに傷みそうだった。
「……俺だって、こんなことになるとは思ってなかったんだ」
清兵衛は、ようやく頷いた。
「そうだな」
喜八が二人の顔を見た。
「紙のことは、明日になって店の主人も交えて話せばいい。今ここでどっちが悪いと決めたところで、どうにもならねえだろう」
辰五郎は少し考え、頷いた。
「……分かりました。主人へ使いを出します」
「それがいい」
喜八は傷んだ紙を指さした。
「それと、この三包はほかと分けておけ。今以上に傷めたら、ますます面倒になる」
敬之助も頷き、書付に追加した内容を辰五郎へ見せた。
六番、七番、十番に水濡れあり。
八番は、外側の菰に湿りがあったものの、中の紙には目立つ傷みなし。
これで少なくとも、喜八の蔵へ運び込まれた時点での状態は残せる。
しかし、いつ濡れたのかまでは分からない。
辰五郎は書付を見終えると、深く息を吐いた。
「……なあ、清兵衛さん」
「何だ?」
「運び賃のことなんだが」
清兵衛は顔を上げた。
「……ああ」
「主人に相談するまでは、払えねえ」
蔵の中が静かになった。
「払えねえ?」
清兵衛が聞き返すと、辰五郎は慌てて手を振った。
「払わねえって言ってるわけじゃありませんよ。ただ、荷がこんな状態でしょう。こっちだって、勝手に銭を出すわけにはいかねえんです」
敬之助が口を開いた。
「辰五郎さん。戸田では、運び賃について後でご主人へ相談いただくというお話でしたね」
「ええ。ですから、相談してから……」
「その間も、人足へお支払いする銭は必要になります」
「それは分かりますけど……」
辰五郎は困ったように清兵衛を見た。
「こちらも紙が傷んでるんです。主人に何も言わずに銭を払ったら、今度は俺が叱られちまいますよ」
清兵衛は、濡れた紙と辰五郎の顔を交互に見た。
相手の言うことも分かる。
辰五郎は主人から荷を任されているだけで、店の銭を好きに使える立場ではない。
しかし、藤蔵や人足たちにも、今日のうちに銭を払うと約束している。
「……分かったよ」
清兵衛はそう言った。
「主人に話してくれ。それまでは待つ」
辰五郎が、ほっとした顔になった。
「助かります」
「ただし、運び賃の話がなくなったわけじゃねえぞ」
「もちろんです」
「明日は、ちゃんと話をさせてくれよ」
辰五郎は頷いた。
それで話は一段落したが、敬之助だけは帳面を閉じなかった。
戸田での片づけに使った人手。
紙十二包を蕨まで運んだ荷車と人足。
喜八の蔵については今晩だけの仮置きで、明日以降の借り賃はまだ決まっていない。
敬之助は、ひとまず今日支払う必要があるものを確かめた。
「清兵衛さん」
「……どうだ?」
「明日の浦和行きでいただく運び賃から、いつもの人足代を引いて残る稼ぎがありますね」
「ああ」
「今日の立て替えだけで、その稼ぎがほとんどなくなります」
清兵衛は、思わず敬之助の顔を見た。
「……そんなにか?」
「はい。辰五郎さんから運び賃をいただければ、いくらか戻りますが、今はまだ分かりません」
清兵衛は帳面を覗き込んだ。
一人一人の取り分を見れば、決して高いわけではない。あれだけの荷を動かしてもらったのだから、払って当然の銭だった。
しかし、それがまとまると、思っていた以上の額になる。
「……参ったな」
清兵衛が呟くと、喜八が横から顔を出した。
「だから言っただろうが」
「ああ。言われたよ」
「俺は手伝うなとは言ってねえぞ。銭のことも考えて手伝えって言ったんだ」
「分かってるって」
清兵衛は苦笑した。
「分かってるけどよ、あの雨の中で荷を放っとけなかったんだから、仕方ねえだろ」
「仕方ねえで済むなら、商人は誰も困らねえよ」
喜八は呆れたように言ったが、それ以上責めることはなかった。
清兵衛が人足を呼んで渡し場を片づけたことも、荷主が困っていたことも知っている。喜八だって、雨の中で紙を放っておけとは言わなかった。
ただ、清兵衛が負担することになった銭を、誰かが代わりに払ってくれるわけではないのである。
「清兵衛さん」
敬之助が静かに言った。
「今日の人足代は、こちらで先にお支払いするということでよろしいですね」
「ああ。約束したからな」
「では、そのようにいたします」
敬之助は帳面を閉じた。
清兵衛は懐の財布へ手を伸ばし、中を確かめた。
明日の仕事で使うつもりだった銭にも、少し手をつけなければならない。
*
蔵の外へ出ると、雨はようやく上がっていた。
夕暮れの蕨宿には、戸田から戻ってきた旅人たちの声が響いている。松葉屋の方では、いつもより忙しそうに奉公人が行き来していた。
清兵衛が人足へ銭を渡し始めると、藤蔵も仕事を終えて戻ってきた。
「おう、清兵衛。荷は全部入ったのか?」
「ああ。十二包、ちゃんと運んだよ」
「そりゃよかったな」
「……よくねえよ。三包も濡れてやがった」
藤蔵は眉を寄せた。
「お前らが濡らしたのか?」
「それが分かんねえんだ。戸田で濡れてた荷もあるし、運んだ後で濡れてると分かった荷もある」
「……面倒だな」
「おまけに、運び賃も主人と相談してからだってよ」
藤蔵は少し黙った。
「そうか」
清兵衛は財布を開き、今日働いてもらった人足たちへ、一人ずつ銭を渡していった。
「今日はありがとな。急に頼んで悪かった」
「いやあ、清兵衛さん。大変な日でしたね」
「まったくだ。舟が止まっただけで、あんなに荷が動かなくなるとは思わなかったよ」
人足たちは礼を言い、使った縄や道具をまとめ始めた。
最後に藤蔵が残った。
「……お前、ずいぶん銭を出したな」
「ああ。敬之助に言われて、俺も驚いたよ」
藤蔵は笑わなかった。
「人を出せって言ったのはお前だからな。今日働いた分を払ってくれるのはありがてえ」
「そりゃ、当たり前だろ」
「当たり前だと思ってねえ奴もいるんだよ」
藤蔵は銭を懐へしまった。
「それで、明日の米八俵はどうする?」
清兵衛は顔を上げた。
「ああ。そっちもあったな」
「そっちもあったな、じゃねえよ」
藤蔵は呆れたように顔をしかめた。
「明日は朝早く、米を積んだ車を出す約束だったろうが。今日の夕方に積むはずだった荷が、まだ蔵から出てねえんだぞ」
「……今から積めねえのか?」
「積もうにも、荷主の蔵はもう閉まってる。日が暮れる前に積み終えるからって話だったんだろ」
清兵衛は、ようやく事の大きさが分かってきた。
米八俵は、明朝早く浦和へ向けて出発し、午前のうちに届ける約束になっている。
今日の夕方に積む予定だったのは、そのためだった。
ところが、戸田の渡しへ人を出したことで、荷車も人足も戻るのが遅くなってしまった。
「……明日の朝、積んで出るんじゃ間に合わねえのか?」
「荷主の蔵が開くのを待ってからじゃ、約束の時刻に厳しいな」
「だったら、早く開けてもらうとか……」
「そいつはお前が頼むんだよ。俺が勝手に蔵を開けられるわけじゃねえだろ」
藤蔵はそう言って、荷車の方へ目を向けた。
「それに、俺の人足は米を届けた後、別の荷を受ける約束になってる。出発が遅れりゃ、そっちにも迷惑が掛かるんだ」
清兵衛は黙った。
藤蔵の人足二人は、翌朝から一日中、清兵衛のためだけに働くわけではない。
午前に米を届け、その後は別の商人の仕事へ回る段取りだった。
荷を積む時刻が遅れれば、浦和へ着くのも遅れる。その分、藤蔵が引き受けた別の仕事にまで影響が及ぶ。
「……分かった。俺が荷主に話してくるよ」
「そうしてくれ」
藤蔵は頷いた。
「車と馬の方は、こっちで確かめておく。もし明朝早く蔵を開けてもらえるなら、人を揃えるよう考える」
「頼むよ」
「ただし、今の段階で必ずできるとは言わねえぞ。ほかの仕事を断るわけにはいかねえからな」
「ああ。分かってる」
藤蔵は、そこでようやく少し笑った。
「今日はずいぶん働いたんだ。お前も早く休めよ」
「……休めるかねえ」
「そりゃ、お前が考えることだ」
藤蔵は笑いながら、荷車を連れて去っていった。
*
帳場へ戻ると、敬之助がまだ帳面を広げていた。
今日使った銭を整理していたらしい。
「お前、まだやってたのか」
「ええ。明日の仕事の分も確かめておきたかったので」
「ちょうどいい。藤蔵さんから、米八俵のことで話があったんだ」
清兵衛は、荷主の蔵がすでに閉まっていること、明朝の出発が遅れれば藤蔵の別の仕事にも影響が出ることを伝えた。
敬之助は、すぐに帳面を開き直した。
「……やはり、そうなりましたか」
「今から別の人足を探すか?」
「探せるかもしれませんが、荷車も必要です。急な仕事ですから、いつもの運び賃で引き受けていただけるとも限りません」
「じゃあ、どうする?」
「まず、米の荷主に事情を説明しましょう。明朝早く蔵を開けていただけるなら、間に合う可能性はあります」
「藤蔵さんも、そんなこと言ってたな」
「ただ、荷主の方にも都合があります。突然、朝早く来てほしいと頼んでも、よい返事がいただけるかどうか……」
敬之助は、米八俵について記した帳面を清兵衛へ向けた。
「この仕事は、すでに正式に引き受けております。万一運べない場合は、別の運び手を探していただく時間も必要になります」
清兵衛は、しばらく帳面を見ていた。
朝早く出て、午前のうちに届ける。
荷主との約束は、そうなっている。
荷を積むのが間に合わなかったのは、戸田で別の仕事を引き受けたからだ。
相手からすれば、知ったことではないだろう。
「……分かった。俺が直接話してくる」
清兵衛が立ち上がると、敬之助も頷いた。
「ご一緒します。ほかに使える人足や荷車がないか、こちらでも当たってみましょう」
「頼むよ」
二人が帳場を出ようとしたところで、表から足音が聞こえた。
「清兵衛さん、いらっしゃいますか!」
声を掛けてきたのは、明日の米を出す荷主の店で働いている若い男だった。
清兵衛は足を止めた。
「おお、どうした?」
男は少し息を整えてから答えた。
「藤蔵さんのところへ荷車を頼みに行ったんですが、明日の支度がまだできていないって聞きまして……」
「ああ。そのことなら、今からそっちへ話に行こうと思ってたんだ」
「そうでしたか」
男は少し安心したようだったが、すぐに表情を引き締めた。
「主人から伝言です。明日の米八俵、予定どおり浦和へ運べるのか、今晩のうちに返事をいただきたいとのことで」
「……ああ」
「もし難しいようなら、別の運び手を探さなきゃならねえそうです」
清兵衛は頷いた。
当然の話だった。
荷主も、明日の仕事を止めるわけにはいかない。
「それと……」
男が言いにくそうに続けた。
「主人が、以前にも一度、荷の都合で待ってもらったことがあったと申しておりまして。今回も遅れるようなら、これから先の運びをお願いするかどうか、考えさせてもらいたいと」
清兵衛は黙った。
米八俵の運び賃がなくなる。
それだけなら、まだ一件の損で済む。
しかし、これから先の仕事まで失うとなれば話が違った。
長く付き合ってきた荷主であり、これからも荷を任せてもらいたい相手だった。
清兵衛は、若い男へ向き直った。
「……分かった」
そして、はっきりと言った。
「今からそっちへ行く。主人に直接話をさせてくれ」
男は頭を下げ、先に店を出ていった。
清兵衛はその後ろ姿を見送ると、敬之助へ声を掛けた。
「……行くぞ。今度は俺の荷の話だ」
敬之助は帳面を閉じ、黙って立ち上がった。




