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第五十七話 十二包の紙

 竹松が寝かされている家は、川会所から少し離れたところにあった。


 案内してくれた若い船頭に続いて清兵衛が入ると、部屋の中には、濡れた着物を乾かすための火が焚かれていた。


 竹松は布団に寝かされ、枕元には母親らしい女が座っている。近所から呼ばれた手当てに慣れた男が右足を確かめていたが、腫れは朝よりひどくなっているらしく、竹松は布に触れられるたびに顔をしかめていた。


「……骨までやっちまったんですかね」


 案内してきた船頭が尋ねると、男は首を傾げた。


「ここでは何とも言えねえな。腫れがひどいし、痛みも強い。きちんと診てもらった方がいいだろう。少なくとも、すぐ荷を担げる足じゃねえよ」


 竹松が布団の中で身体を起こそうとした。


「……そんなに休んでられねえよ」


「馬鹿、動くんじゃねえ!」


 手当てをしていた男に叱られ、竹松は顔をしかめながら横になった。


 母親が息子の肩へ手を置いた。


「仕事のことなんか考えなくていいから、今は寝てなさい」


「でもよ、母ちゃん。俺が休んだら……」


「いいから!」


 女は強い口調で遮ったものの、目は赤くなっていた。


 入口に立っていた清兵衛は、部屋へ入るのをためらった。


 知らない人間が顔を出して、何か気の利いたことを言える場面ではない。そう思ったが、竹松の方が清兵衛に気づいた。


「……誰だい?」


「蕨の清兵衛ってもんだ。渡し場で荷の片づけを手伝ってる」


「そうか」


「藤蔵さんって人も来てくれてな。みんなで荷を動かしてるから、道はだいぶ空いてきたよ」


 竹松は、少しだけ安心したようだった。


「俺のせいで、迷惑掛けちまったな」


「何言ってんだ。お前が川へ落ちたって聞いて、みんな大騒ぎだったんだぞ。荷よりお前の方が大事だろうが」


 清兵衛がそう言うと、竹松はかすかに笑った。


 しかし、すぐに表情が曇った。


「……荷が動かなきゃ、みんな稼げねえんだよな」


「今は、そんなことまで考えなくていいだろ」


「そうもいかねえよ」


 竹松は布団の上で手を握った。


「源八の親方に拾ってもらって、ようやく一人前に働けるようになったんだ。まだ何にも返してねえのに……」


 母親が息子の布団を直した。


「親方には、母ちゃんからも礼を言っとくよ。だから、今は足を休めなさい」


 女の声は穏やかだったが、指先が少し震えていた。


 清兵衛は何と答えればよいのか考えた。


 渡し場では、荷主たちが運び賃や届ける日のことで怒鳴り合っていた。しかし、ここで心配されている銭は、今日明日の飯を食うためのものだった。


 自分が銭を出せば、その場は少し楽になるかもしれない。


 だが、竹松がいつ仕事へ戻れるのか分からない以上、今ここで何か約束することもできなかった。


「……源八さんにも、様子を見てきたって伝えとくよ」


 清兵衛はようやくそう言った。


「蕨に勇吉っていう、身体を診る男がいるんだ。もし人手が足りねえようなら声を掛けられる。ただ、今診てくれてる人とも相談してくれよ」


 手当てをしていた男が頷いた。


「必要なら頼ませてもらうよ。まずは、これ以上足を傷めさせないようにしねえとな」


 竹松の母親は何度も頭を下げた。


 清兵衛はそれ以上長居せず、家を出た。


 外へ出ると、案内してくれた船頭が小さく息を吐いた。


「……あいつ、まだ若えですからね」


「ああ」


「源八さんも気にしてるんです。舟を止めたら、ほかの人足まで稼げなくなっちまうし」


 清兵衛は渡し場の方を見た。


 荷を運ぶ自分たちには、別の道を探すこともできる。


 仕事が一件なくなっても、ほかの荷主を探せるかもしれない。


 しかし、戸田の船頭たちが皆、別の川で同じように働けるわけではなかった。


「……難しいもんだな」


 清兵衛が呟くと、若い船頭は苦笑した。


「そりゃ、俺たちが一番そう思ってますよ」


 しばらく歩いてから、船頭が清兵衛へ尋ねた。


「清兵衛さんは、荷を扱う商人なんですよね」


「ああ。蕨で運びの仕事をしてる」


「だったら、今日みたいに渡し場の荷を片づける仕事も、普段からできるんですか?」


「まあ、できるだろうな。荷を運ぶのが商売だからよ」


 船頭は頷いたが、どこか考え込んでいた。


「どうした?」


「いや……今日みたいな時に手伝ってもらえるのはありがたいんですけどね」


 男は少し言いにくそうに続けた。


「渡し場の荷を運ぶのも、俺たちの稼ぎなんで」


 清兵衛は足を止めた。


「……そうだよな」


「別に、清兵衛さんが悪いって言ってるわけじゃねえんです。ただ、蕨から人が来れば、こっちの仕事が減るんじゃねえかって言う奴もいるもんで」


 清兵衛は少し考え、笑った。


「俺だって、よその商人がいきなり蕨へ来て荷を全部持っていったら、面白くねえよ」


 若い船頭も笑った。


「そうでしょうね」


「今日は源八さんに頼まれたから手伝ってるんだ。いつもの仕事を取るつもりはねえよ」


「ええ。分かってます」


 男はそう答えたが、どこまで納得したのかは分からなかった。


 清兵衛も、それ以上は何も言わなかった。


 川を越える荷を扱うなら、この人たちと付き合っていかなければならない。しかし、助けに来たからといって、すぐに仲間になれるわけでもないらしい。


 川岸へ戻ると、源八が修理の様子を確かめていた。


「竹松はどうだった?」


 源八が尋ねた。


「足はまだひどく痛むそうだ。しばらく荷を担ぐのは無理だって」


「そうか……」


 源八は黙って川面を見ていた。


「母親も、心配してたよ」


「ああ。あの家は、竹松の稼ぎが頼りだからな」


 清兵衛は少し迷ってから口を開いた。


「源八さん。俺に何かできることがあったら、言ってくれよ」


 源八は清兵衛を見た。


「もう十分手伝ってもらってる。だが、あいつの暮らしのことは、まず俺たちで考えなきゃならねえ」


 その言い方に、清兵衛は頷いた。


 源八は礼を言わなかったわけではない。


 ただ、戸田の人間のことは自分たちで決めたいという気持ちが、はっきり伝わってきた。


「……分かった」


 清兵衛はそう答え、再び荷の整理へ戻った。


     *


 昼を少し回った頃、清兵衛は一人の男が敬之助に詰め寄っているのを見つけた。


「だから、明日までなんだよ!」


 立派な羽織を着た男は、足元に積まれた紙包みを指さしていた。


「この紙は、明日までに東京へ届ける約束なんだ。それが今日になって渡しが止まるなんて、聞いてねえぞ!」


 敬之助は相手の話を聞きながら、書付へ何かを書き込んでいる。


「事情は分かりました。ただ、私どもに舟を出すことはできませんから……」


「そんなことは分かってるよ!」


「でしたら、ほかの道を探すか、一度荷を戻すか、どちらかをお考えいただく必要があります」


 男は顔をしかめた。


「そんな簡単に言うなよ。荷車一台動かすのだって、銭が掛かるんだぞ」


 清兵衛が近づくと、敬之助は顔を上げた。


「こちらは、浦和の紙問屋から来られた辰五郎さんです。東京へ届ける紙を十二包お持ちなのですが、渡しが止まったため、荷の扱いに困っておられるそうです」


「十二包か」


 清兵衛は積まれた荷を見た。


 包みの一つ一つには印と番号が付けられ、菰と縄でしっかり括られている。


「明日までに届けなきゃならねえのか?」


「ああ。届け先との約束なんだ」


 辰五郎は頷いた。


「今日中に川を渡れりゃ、何とかなると思ってたんだが……」


「川口の方へ回る道もあるけどよ」


「その話も聞いた」


 辰五郎は苛立ったように答えた。


「けど、向こうの渡しが今どうなってるかも分からねえし、ここから荷車を引き返させるだけで銭が掛かる。別の運び手を探すにも、誰が引き受けてくれるか分からねえんだ」


 清兵衛は、もう一度荷を見た。


「だったら、荷を一度浦和へ戻すか?」


「戻したところで、置き場所があるわけじゃねえんだよ。うちの店にも、ほかの荷が入ってるんだから」


 辰五郎はそう言いながら空を見上げた。


 朝から吹いていた風は少し弱まっていたが、今にも雨を落としそうな雲が広がっている。


「紙だけは濡らしたくねえんだ」


 清兵衛が頷いた。


「そりゃそうだろうな」


「このまま川岸へ置いておくわけにもいかねえし、かといって別の道へ運び出すにゃ、今日中の支度が間に合わねえ」


 辰五郎はしばらく黙っていた。


 やがて敬之助が口を開いた。


「東京の届け先へ、遅れることを知らせる使いを出すのはいかがでしょうか。荷を全部動かすよりは、使いの者だけの方が別の道を取りやすいでしょう」


 辰五郎は顔を上げた。


「……なるほどな」


「もちろん、事情を知らせたからといって、必ず約束の日を延ばしていただけるわけではありませんが」


「分かってるよ。けど、何も知らせねえよりはましだ」


 辰五郎は紙包みへ目を向けた。


「それで、荷はどうする?」


 清兵衛は少し考えた。


 柿の木の家には、まだ四台分の荷がある。あそこへ勝手に運び込むわけにはいかないが、蕨にはほかにも荷を置ける建物がある。


「喜八さんのところなら、蔵が少し空いてたはずだ」


 敬之助が顔を上げた。


「まだ貸していただけると決まったわけではありませんよ」


「分かってる。だから聞いてみようと思ったんだ」


 辰五郎が身を乗り出した。


「本当か!」


「ああ。ただ、借りられるかどうかは喜八さん次第だ」


「だったら、聞いてくれ。銭なら払うから!」


 敬之助は清兵衛へ目を向けた。


「まず喜八さんのご都合を確かめましょう。それから、辰五郎さんにも荷をどうされるのか決めていただきたいと思います」


「俺が決める?」


 辰五郎が聞き返した。


「はい。東京への納品を優先して別の道を探すか、蕨へ戻して一時的に保管するか。私どもが勝手に決められることではありませんから」


 辰五郎はしばらく黙っていた。


 川口へ回せば、余分な運び賃が掛かる。


 しかも、今日中に別の舟や運び手を確保できる保証もない。


 一方、戸田で再開を待っていれば、明日の約束には間に合わなくなるかもしれない。


 どちらにしても、店の主人へ叱られることになりそうだった。


「……分かった。いったん蕨へ戻そう」


 辰五郎は、ようやくそう言った。


「東京へは別の道で使いを出す。届け先へ事情を話して、日を延ばしてもらえるか聞いてみるよ」


 敬之助は頷いた。


「では、荷の一時保管について喜八さんへ相談いたします」


「頼む!」


 清兵衛は近くにいた人足を呼び、蕨へ使いに行ってもらうことにした。


 敬之助は、伝える内容を紙へ書いて渡した。


 十二包の紙。


 浦和の紙問屋から来た番頭が、荷主側の責任者であること。


 戸田の渡しが止まり、一晩だけでも雨を避けられる場所を探していること。


 そして、まだ正式に荷を引き受けたわけではないこと。


 使いの男が走り出すと、辰五郎はようやく少し落ち着いた。


「助かったよ」


「まだ助かってねえだろ」


 清兵衛が笑った。


「喜八さんが貸してくれるかどうか、これからなんだからよ」


「それもそうだな」


 辰五郎は苦笑したが、再び空を見上げると、その表情はすぐに曇った。


 細かな雨粒が、川岸の土を濡らし始めていた。


     *


 蕨宿では、松葉屋長七が店の前で旅人を迎えていた。


「はいはい、こちらへどうぞ。荷物は中へ運びますから」


 戸田の渡しが止まったと聞き、板橋へ向かうつもりだった旅人たちが、次々に蕨へ戻ってきていた。


 中には今日のうちに東京へ着かなければならないという者もいる。しかし、舟が出ないのであれば、宿へ戻って待つしかない。


 長七は奉公人に部屋を空けさせ、泊まれる人数を確かめていた。


「旦那、奥の部屋まで使いますか?」


「使えるところは使え。ただし、詰め込みすぎるんじゃねえぞ。寝る場所もないようじゃ、客だって困るだろう」


「はい」


 奉公人が奥へ走っていくと、長七は店先の客へ頭を下げた。


「渡しがいつ再開するかは、まだ分かりません。知らせが入りましたら、お伝えいたします」


 客は不満そうだったが、ほかに行くところもないらしい。


 やがて荷物を抱え、店の中へ入っていった。


 そこへ、喜八が通り掛かった。


「長七、ずいぶん忙しそうじゃないか」


「おお、喜八さん。戸田から戻ってきた客が、朝から次々に来てるんだよ」


「そりゃ、客商売にはありがたい話だな」


「まあな。けど、人が怪我してるんだ。手放しじゃ喜べねえよ」


 長七は少し声を落とした。


「渡し場の人足が川へ落ちたそうだ。命は助かったらしいけど、足をひどく傷めたって話だぜ」


「そうか……」


 喜八も表情を曇らせた。


「それで、舟はいつ出るんだ?」


「まだ分からねえ。荷の方は、しばらく難しいんじゃねえかって」


 喜八は腕を組んだ。


「困ったもんだな」


「そういや、喜八さん。清兵衛のところから、何か使いが来なかったか?」


 喜八は顔をしかめた。


「来たよ。蔵を貸してくれって」


「おお、そうか」


「おお、そうかじゃねえよ。紙を十二包、今晩だけでも置かせてほしいって言うんだぞ」


 長七が笑った。


「清兵衛らしいな」


「笑い事じゃない。あいつは空いてる蔵があるなら荷を入れりゃいいと思ってるんだろうが、紙なんか預かったら、濡れた時に面倒だろうが」


「まあ、そりゃそうだ」


 長七は頷いた。


「けど、今は雨も降りそうだぜ。困ってるなら、何とかしてやれねえか?」


「だから、話を聞きに行くんだよ」


 喜八は街道の南を見た。


「戸田へ行ってくる」


「おお、わざわざ?」


「わざわざ行かなきゃ、清兵衛がどんな約束をしてくるか分からねえからな」


 長七は声を上げて笑った。


「そりゃ違いねえ!」


「お前は笑ってりゃいいだろうよ。今日は客が増えて忙しいんだから」


「何だよ、その言い方は」


「こっちは、銭を取れるかどうかも分からねえ荷の話だぞ」


 喜八はそう言い残して歩き始めたが、数歩進んだところで振り返った。


「そういや長七」


「何だ?」


「泊まる客が増えたなら、食い物の方は足りるのか?」


「今のところはな。ただ、明日も舟が止まったら、仕入れを増やさなきゃならねえかもしれねえ」


「だろうな」


 喜八は頷いた。


「客が増えりゃ、いいことばかりじゃねえってことだ」


「分かってるよ」


 長七は笑いながら答えたが、喜八が去った後、奥の台所を覗きに行った。


 旅人の人数が増えれば、米も薪も余計に要る。


 戸田の渡しが止まったことで、思いがけず客は増えた。しかし、その客が明日も泊まるとなれば、今度は食い物をどう揃えるか考えなければならない。


 長七は奉公人を呼び、今晩の米の残りを確かめさせた。


     *


 喜八が戸田へ着いた頃には、空から細かな雨が落ち始めていた。


 川岸では人足たちが慌てて荷へ菰を掛け、濡れない場所へ運ぼうとしている。しかし、荷の数が多すぎた。


 岸近くの小屋にも、すでに積まれた荷がある。


 渡し場の者たちが修理に使う場所まで、勝手に借りるわけにはいかなかった。


「清兵衛!」


 喜八が声を掛けると、清兵衛は振り返った。


「おお、喜八さん! 来てくれたのか!」


「来てくれたのかじゃない。お前、何を預かるつもりなんだ?」


「紙だよ。十二包」


「十二包?」


「ああ。明日までに東京へ届ける荷なんだが、渡しが止まっちまって運べねえんだ」


 喜八は、清兵衛が示した荷を見た。


 菰で包まれた紙が積まれている。


 すぐ近くでは、辰五郎が空を気にしながら人足に声を掛けていた。


「あれが荷主か?」


「浦和の紙問屋の番頭さんだ。辰五郎さんっていう」


「じゃあ、呼んでくれ」


 清兵衛が辰五郎を連れてくると、喜八はすぐに話を始めた。


「蔵を貸す話は聞いた。ただ、いきなり十二包全部を預かれと言われても困るんだよ」


「何とかお願いします」


 辰五郎が頭を下げた。


「東京の届け先へも使いを出します。舟が動くようになったら、すぐ引き取りに来ますから」


 喜八は首を振った。


「その舟が、いつ動くのか分からねえんだろう?」


「……ええ」


「だったら、まず今晩だけの話をしよう」


 辰五郎が顔を上げた。


「今晩だけ?」


「ああ。雨を避けるために荷を置く。それなら、うちの蔵を使ってもらって構わねえ。ただし、明日以降も置くなら、改めて借り賃を決める」


「それで結構です」


「それから、荷を預かるのは清兵衛のところだ。俺は蔵を貸すだけだから、紙の値打ちまで保証するつもりはねえぞ」


 辰五郎は少し考え、頷いた。


「分かりました」


「荷の数と状態は、蔵へ入れる時に必ず確かめる。そこも約束してくれ」


 敬之助が口を開いた。


「その点は、私も確認させていただきたいと思っております」


 喜八は頷いた。


「なら、話は早い」


 ただ、運び賃の話になると、辰五郎は少し困った顔をした。


「……それは、うちの主人と相談させてください」


 敬之助が顔を上げた。


「運び賃について、ですか?」


「ええ。いつもと違う道へ運ぶわけですから、勝手に金額を決めるわけにはいかねえんです」


「ですが、人足は今日働いております。荷車を出す費用も掛かりますから、まったくお支払いいただけないとなると、こちらも困るのです」


 辰五郎は黙った。


 その間にも、雨粒は少しずつ大きくなっていく。


 清兵衛は空を見上げ、敬之助へ声を掛けた。


「なあ、まず運ぼう」


 敬之助は、すぐには答えなかった。


「清兵衛さん。運び賃はまだ決まっていませんよ」


「分かってる」


「今日こちらで使った人足代も、先にお支払いすることになっております」


「それも分かってるよ」


 清兵衛は紙包みを指さした。


「けど、ここで話をしてる間に紙が濡れちまったら、もっと困るだろ」


 喜八が口を挟んだ。


「だったら、引き受ける前に言っておくことがあるだろうが」


 清兵衛は喜八を見た。


「何だよ」


「運び賃を払ってもらえるか分からねえまま人を使うなら、その銭はお前が出すことになる。そこまで考えてんのか?」


 清兵衛は少し黙った。


 藤蔵たちには、渡し場の片づけのために来てもらっている。


 その銭も、すでに自分が先に払うと決めた。


 ここで十二包を蕨へ運ぶとなれば、さらに人手と荷車が必要になる。


 普段の荷運びなら、運び賃を決めてから人を集める。しかし、今は雨が降り始めている。


「……分かった」


 清兵衛は辰五郎へ向き直った。


「荷は俺のところで引き受ける。ただし、運び賃をまけるって話じゃねえぞ。今日は銭のことを決めきれなくても、後で主人にちゃんと相談してもらう。それでいいな?」


 辰五郎は大きく頷いた。


「もちろんです。主人にもそう伝えます」


「じゃあ、運ぼう」


 敬之助は、少し困ったように清兵衛を見た。


 相手が払うと言い切ったわけではない。


 今の約束は、あくまで主人へ相談するというだけだった。


「清兵衛さん」


「何だ?」


「今日の費用は、こちらで先に持つことになりますよ」


「ああ」


「後で取り戻せるとは限りません」


「……分かってるよ」


 清兵衛は今度は笑わなかった。


「けど、ここまで来て荷を放っとけねえだろ。今日働いた奴らの銭は、俺が払う。それで頼む」


 敬之助はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「承知しました。では、荷の状態を記してから運びましょう」


 喜八も大きく息を吐いた。


「まったく、お前は……」


「何だよ」


「人を助けようとしてるつもりだろうが、商売まで投げ出すんじゃねえぞ」


 清兵衛は苦笑した。


「分かってるって」


「本当か?」


「まあ、何とかするさ」


 喜八は呆れたように首を振った。


「それが一番心配なんだよ」


     *


 荷を運び始める前に、敬之助は辰五郎と一緒に十二包の印と数を確かめた。


 ただし、雨の中で紙の包みをすべて開くわけにはいかない。外側の菰に濡れた跡があるものと、見た目には無事なものを分け、その状態を書付に残しておくことにした。


「こちらの六番と七番は、外側がかなり濡れていますね」


 敬之助が尋ねると、辰五郎は顔をしかめた。


「舟へ積む前は、こんなじゃなかったはずなんだが……」


「事故の時に濡れたのでしょうか」


「そこまでは分からねえ。俺も、全部の荷を見ていたわけじゃないからな」


 敬之助は頷いた。


「八番も、下の方に湿った跡があります。こちらも記しておきましょう」


 十二包を並べたまま、番号ごとに外側を確かめていく。


 六番、七番、八番は雨に当たる前から菰に濡れた跡があり、ほかの包みには目立つ水濡れが見つからなかった。


 ただ、底まで手を入れて確かめられないものもある。中身を開いていない以上、紙そのものが無事だと保証することはできなかった。


「これでいいですか?」


 辰五郎が尋ねた。


「はい。ただ、荷の中身はまだ確認できていないことも書いておきます」


 敬之助は書付を辰五郎へ見せた。


 辰五郎も内容を確かめ、頷いた。


「分かった。雨がひどくなる前に運んでくれ」


 清兵衛は人足たちへ声を掛けた。


「濡れてる荷は、ほかの荷と重ねるなよ。紙が傷むからな。それから、積んだ順番が分かるようにしといてくれ」


「分かってますよ!」


 人足たちが荷車へ積み始めた。


 六番と七番はほかの包みから離し、濡れた菰が触れないよう間を空ける。清兵衛が縄を取っていると、十番を抱えた人足が車の脇で声を掛けた。


「こいつは下でいいですか?」


「ああ。ただ、板の上に直に置くなよ。下に敷くものを入れてくれ」


 人足は積み台へ敷物を広げ、十番の包みをその上へ置いた。


 清兵衛は縄が荷の角に食い込まないよう確かめたが、包みの底や積み台がどの程度湿っているかまでは調べなかった。十番の菰には目立つ濡れ跡がなく、ほかの荷と同じように扱えると思っていたのである。


 藤蔵も荷車のところへやってきた。


「おい、清兵衛。こいつを蕨まで運ぶんだな?」


「ああ。喜八さんが今晩だけ蔵を貸してくれるって」


「そうか」


 藤蔵は空を見上げた。


「急いだ方がよさそうだな」


「そうだろ?」


「けど、明日の荷の支度まで間に合うかどうか……」


「分かってる。何とかするよ」


 藤蔵は顔をしかめたが、それ以上は言わなかった。


 最後の荷が載ると、辰五郎が自分の目でも十二包を数え直した。


 敬之助も書付へ荷車の積み順を記し、蕨へ着いてから同じ番号で確かめられるようにした。


 荷車が動き始めると、清兵衛たちは泥のついた草履を引きずりながら、戸田の渡しを後にした。


 川岸では、まだ何台もの荷車が足止めされている。


 源八たちは修理を続けていたが、今日中に大きな荷を渡せるようになるとは思えなかった。


 清兵衛は少しだけ振り返った。


 竹松は、今ごろどうしているだろうか。


 母親は、あの後も枕元にいるのだろう。


 事故が起きてから、まだ一日も経っていない。


 それなのに、川岸の人々の予定は、すっかり変わってしまっていた。


     *


 夕方近く、喜八の蔵へ十二包の紙が運び込まれた。


 雨は小降りになっていたが、荷車の車輪も人足たちの足元も、すっかり泥に汚れている。


 喜八は蔵の入口に立ち、荷が一つ運び込まれるたびに、数と印を確かえた。


「一つ、二つ……おい、七番はそっちじゃねえ。濡れてるのと分けておけ」


 敬之助も帳面を開き、辰五郎と一緒に確認している。


 清兵衛は外で荷を下ろす人足たちを手伝いながら、時々蔵の中を覗き込んでいた。


「あと幾つだ?」


「残り三包です」


 敬之助が答えた。


「おう。じゃあ、もう少しだな」


 最後の荷が運び込まれると、喜八は蔵の扉を少し閉め、雨が吹き込まないようにした。


「さて、中を確かめようか」


 辰五郎が頷いた。


「お願いします」


 荷を一つずつ開き始める。


 一包目は無事だった。二包目も外側の菰は湿っていたものの、中の紙に目立つ傷みはない。


 三包目、四包目と、喜八は中身を確かめ、敬之助が帳面へ記していった。


 しかし、六番の包みを開けたところで、辰五郎の手が止まった。


「……何だ、これは」


 清兵衛が覗き込むと、紙の端が変色していた。


 包みの下の方へ手を入れた辰五郎が、慌てて紙を引き出す。


 何枚かが互いに貼りつき、無理に剥がそうとすると破れそうになった。


「濡れてるじゃねえか」


 清兵衛が言うと、辰五郎は顔を上げた。


「そんなはずはねえ!」


 敬之助は戸田で作った書付を開いた。


 六番は、受け取る前から外側が濡れていた包みだった。


 続いて七番も開けてみると、こちらにも水が染みた跡がある。


 辰五郎は黙っていたが、十番の包みを開けたところで顔色が変わった。


「……おい、こっちもだぞ」


 清兵衛が近づくと、十番の下の方の紙が、何枚も貼りついていた。


 十番は、戸田で確かめた時には外側に目立つ濡れ跡がなく、荷車でも乾いたものとして下段へ積んだ包みだった。


 敬之助が書付へ目を落とすと、辰五郎は清兵衛を見た。


「……どういうことだ?」


 清兵衛は答えられなかった

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