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第五十六話 渡しが止まった日

「綱を離すな! そっちへ寄せろ!」


 船頭の怒鳴り声が川面を渡った時には、舟の上に積まれた荷が大きく傾いていた。


 夜が明けて間もない戸田の渡しは、川を吹き抜ける風がひどく冷たかった。岸では小揚人足たちが荷を運び、舟が着くたびに、濡れた板の上を草履が忙しく行き来している。


 その朝は、いつもより荷車が多かった。


 浦和方面から東京へ向かう商人たちが早くから川岸へ集まり、舟が着くたびに先に荷を積ませろと声を掛け合っている。人足たちは休む間もなく働いていたが、朝から強まっていた風のせいで舟を岸へ寄せるのに手間取り、荷車の列はなかなか短くならなかった。


「おい、まだか! こっちは今日中に向こうへ渡さなきゃならねえんだ!」


 岸から声を掛けた商人に、年配の船頭が怒鳴り返した。


「急がせるんじゃねえ! 舟が揺れてるのが見えねえのか!」


 その言葉が終わらないうちに、川の上から強い風が吹きつけた。


 岸へ寄せていた舟がぐらりと揺れ、綱を取っていた人足が慌てて踏ん張る。船頭は荷の積み下ろしを止めるよう叫んだが、すでに重い包みを担いでいた若者は、その場で動きを止められなかった。


 竹松という、今年から本格的に渡し場の仕事を始めたばかりの人足だった。


 背中に載せた荷を岸へ下ろそうと最後の一歩を踏み出した瞬間、舟がもう一度揺れた。


 濡れた板の上で草履が滑り、竹松の身体が荷の重みに引かれる。


「竹松! 荷を離せ!」


 船頭が叫んだ。


 しかし竹松は、とっさに包みを抱え直してしまった。荷を落としてはならないという考えが、身体に染みついていたのかもしれない。


 その間にも舟は揺れ続け、積まれていた別の荷が崩れた。


 肩へぶつかった包みに押され、竹松は足を踏み外した。


「おい、危ねえぞ!」


 誰かが叫んだ時には、若者の身体は舟と岸の間へ消えていた。


 大きな水音が上がり、川岸にいた者たちが一斉に振り返った。


「人が落ちた!」


 船頭たちはすぐに動いた。


 岸から綱が投げられ、別の男が近くに繋いであった小舟へ飛び乗る。人足たちが川面を探していると、少し離れたところで竹松の頭が浮かび上がった。


「いた! あそこだ!」


 水を吸った着物が身体にまとわりつき、竹松は必死に腕を動かしているものの、岸へ向かって泳ぐことができない。舟の縁へ手を伸ばしても、水の流れに押されて指先が届かなかった。


「竹松! 顔を上げてろ!」


 小舟を操る船頭が声を張り上げた。


 岸では、渡し場の組頭である源八が人足たちに指示を飛ばしていた。


「そこの荷をどけろ! 舟を寄せる場所がねえだろうが!」


 人足たちが慌てて俵を動かし、岸に繋いであった別の舟も少し離される。その間に小舟が竹松へ近づき、船頭の一人が身を乗り出して襟元をつかんだ。


「手ぇ出せ! こっちだ!」


 竹松は何か答えようとしたが、水を吐き出すばかりで声にならなかった。


 もう一人の船頭が助けに入り、二人がかりで身体を引き寄せる。濡れた着物は重く、舟が傾きかけるたびに岸から声が上がった。


「無理に引っ張るな! 舟を寄せてからだ!」


 源八の指示に合わせて人足たちが綱を引き、小舟が岸へ近づいたところで、ようやく竹松を引き上げることができた。


 若者は激しく震えていた。


 顔から血の気が引き、唇は紫色になっている。それでも意識はあり、源八が呼びかけると、かすかに目を開いた。


「おい、竹松。俺が分かるか?」


「……おや、かた……」


「無理に喋るな」


 竹松は身体を起こそうとして顔を歪めた。右足の脛から血が流れ、股引が赤く染まっている。落ちる時に舟の縁へぶつけたらしく、少し動かしただけでもひどく痛むようだった。


 源八は人を呼び、竹松を慎重に屋内へ運ばせると、すぐに家族と手当てのできる者を呼ぶよう命じた。


 若者の姿が見えなくなっても、川岸の混乱は収まらなかった。


 荷を積み下ろすための板が外れ、舟を岸へ寄せる綱も一本切れている。水をかぶった包みが引き上げられ、その周りには、どの舟から下ろしたのか分からない荷まで入り交じっていた。


 そこへ、荷車を連れた商人が駆け寄ってきた。


「おい、いつになったら舟を出すんだ!」


 源八は男を見た。


「今は出せねえ」


「何だと! こっちは今日中に荷を渡さなきゃならねえんだぞ!」


「人が川へ落ちたのを見てなかったのか?」


「見てたよ! だからって、いつまでも止められちゃ困るんだ!」


 源八は男の目の前へ、切れた綱を突き出した。


「これが見えるか」


「……ああ?」


「綱は切れてるし、荷を下ろす板も使えねえ。風だってまだ収まっちゃいねえんだ。今の舟へ乗れって言われたら、お前は乗るか?」


 男は口を閉じた。


「荷が大事なのは分かってる。こっちだって、舟を出さなきゃ銭にならねえんだよ。けどな、今また人が落ちたらどうする!」


 源八の声に、近くの船頭たちまで手を止めた。


 源八は彼らを呼び集め、まず使える舟と傷んだ綱を確かめるよう命じた。風が収まるまでは旅人も荷も渡さず、その後も重い荷を扱えるかどうかは渡し口を直してから判断することにした。


「向こう岸にも知らせろ。いつ再開できるかは、まだ分からねえとな」


 若い船頭が頷いた。


「商人たちには、何と説明します?」


「俺が止めたと言え。文句のある奴は、ここへ連れてこい」


 源八はそう言い切ったが、切れた綱を握ったまま、しばらく黙っていた。


 舟も縄も、毎日使えば傷む。


 荷を急いで下ろそうとした竹松にも、不注意がなかったとは言えない。


 しかし、あの若者が何日も働けなくなったら、その暮らしをどうするのか。渡しを止めれば、ほかの人足たちの稼ぎも減る。


 源八には、舟を出すこと以上に考えなければならないことができていた。


 戸田の渡しが止まったという知らせは、川岸で足止めされた商人や旅人たちを通じて広がり始めた。


 そのうちの一人が、蕨宿へ向かって走り出した。


     *


「……何だって?」


 清兵衛は、目の前で息を切らしている男を見た。


「戸田の渡しで事故があったんです!」


 男は膝に手をつき、何度も息を吸ってから続けた。


「舟が揺れて、人足が川へ落ちましてね。命は助かったんですが、渡しが止まっちまって!」


「人は無事なのか?」


「足をひどく傷めたそうです。今は家へ運ばれました」


「……そうか」


 清兵衛は少し安心したものの、男の慌てぶりが気になった。


「それで、蕨まで何しに来たんだ?」


「渡し場が大変なことになってるんですよ。荷車が道を塞いじまって、舟を直そうにも人が通れねえし、荷をどこへ置けばいいのか分からなくて」


 男は清兵衛へ顔を近づけた。


「蕨で荷を扱ってる人たちに、少し手を貸してもらえねえかと思ったんです」


 清兵衛は隣にいた敬之助を見た。


 今日は、浦和で聞いてきた県庁の話を加兵衛へ報告するつもりだった。


 庁舎にどれほどの広さが必要なのか。町の者が願い出るには、どこへ話を届ければよいのか。結局ほとんど分からなかったことも含め、詳しく話しておかなければならない。


 それに、明日の朝には浦和の問屋へ米八俵を運ぶ仕事が入っていた。


 藤蔵から人足二人と荷車を借りる約束で、今日の夕方には荷を積み、明朝早く出発する段取りになっている。


 藤蔵の方でも別の荷主から仕事を引き受けており、明日は人も車も好きなように動かせるわけではない。米の仕事を終えた後には、別の荷を運ぶ予定まで入っていた。


 柿の木の家に預けている四台分の荷も、まだ片づいていない。


 考えることはいくらでもあったが、戸田で人手が足りないと聞いて、そのまま座っている気にはなれなかった。


「敬之助。藤蔵さんのところへ行って、人を何人か出せるか聞いてきてくれ」


「清兵衛さんは?」


「俺は先に行く。何がどうなってるのか見てこなきゃ、手伝いようもねえだろ」


 敬之助は、すぐには頷かなかった。


「明日の浦和行きはどうされるんです?」


「あれは朝早く出るんだろ。今日のうちに片づけて戻ってくりゃいいじゃねえか」


「夕方には積み込みを終える約束ですよ。それに藤蔵さんの方にも、ほかの仕事があります」


「分かってるよ。だから、人を出せるかどうか聞いてくれって言ってるんだ」


 清兵衛がそう答えると、敬之助は少し考えてから頷いた。


「では、確認してまいります。ただ、今日の人足代を誰が負担するのか、向こうで必ずお尋ねください」


「今はそんなこと言ってる場合か?」


「だからこそです。こちらの仕事を休んで来ていただくんですから」


 清兵衛は頭を掻いた。


「……そうだな。分かった。源八さんって人に話してみるよ」


「それから、勝手に荷を預からないでくださいね」


「何だよ、まだ何もしてねえぞ」


「これから何かされそうなので、先に申し上げておきます」


 清兵衛は苦笑した。


「分かった、分かった。早く行ってくれ」


 敬之助が走り出すと、清兵衛も支度を始めた。


 知らせを持ってきた男が、もう一度声を掛けてきた。


「あの、清兵衛さん。怪我した竹松のことなんですが……」


「竹松?」


「川へ落ちた人足です。今年から本格的に仕事を始めた若い奴でしてね。あいつが働けなくなったら、家の方も困るもんで……」


 男はそこで言葉を濁した。


 清兵衛は少し考えた。


「蕨に勇吉っていう、身体を診る男がいる。手当てする人が足りねえようなら、声を掛けてみるよ」


「ありがとうございます」


「ただ、まずは向こうで診てる人の話を聞いてくれ。足をひどく傷めてるなら、無理に動かすわけにもいかねえからな」


 男は何度も頭を下げた。


 清兵衛が外へ出ると、中山道にはいつもどおり荷車や旅人が行き交っていたが、南へ向かう者たちの中には、戸田で事故があったという噂を聞いて足を止めている者もいた。


「……まったく、県庁の話どころじゃねえな」


 清兵衛はそう呟くと、戸田へ向かって歩き始めた。


     *


 渡し場へ近づくにつれて、荷車の数が増えていった。


 川岸へ下りる道には米俵を積んだ車や紙を運ぶ車が止まり、馬を引いた男たちが互いに道を譲れと声を荒らげている。


 遠くでは船頭たちが綱を引き直し、壊れた渡し口の板を運んでいた。


 舟が止まれば、川岸の仕事も止まる。


 ところが、事情を知らない荷車は次々にやってくる。そのたびに道は狭くなり、先に着いた者と後から来た者が言い争いを始めていた。


「……こりゃ、ひでえな」


 清兵衛が足を止めたところへ、荷車を押していた男が声を掛けてきた。


「おい、そこの兄さん! 向こう岸へ行く道はほかにねえのか?」


「川口の方へ回る道はあるが、あっちの渡しが動いてるかどうかまでは知らねえぞ」


「今日中に東京へ届けなきゃならねえんだ!」


「何を積んでるんだ?」


「米だよ!」


「だったら、車ごと引き返すのも大変だろう。道を変えりゃ余分な銭も掛かる」


 男は舌打ちした。


「だから困ってるんじゃねえか!」


「俺に怒ったって、舟は動かねえよ」


 清兵衛はそう答え、川岸へ下りていった。


 壊れた渡し口の周りには、まだ濡れた荷が散らばっている。舟の一隻は岸へ引き寄せられていたが、荷を積み下ろす場所が傷んでおり、人足たちが外れた板を運び出していた。


「源八さんってのは、どこにいる?」


 近くの人足に尋ねると、顎で少し離れた場所を示された。


 そこでは、日に焼けた顔の年配の男が、何人もの船頭たちを相手に指示を出していた。


「そこの綱は使うな! 傷んでるって言ってるだろうが!」


 男は声を荒らげ、別の船頭へ向き直った。


「向こうの舟も確かめてこい。人を乗せる前に、おかしいところがねえか見ておくんだ」


「源八さんですか?」


 清兵衛が声を掛けると、男は振り返った。


「ああ、そうだが。何だ?」


「蕨宿から来た清兵衛って者です。渡し場で困ってるって話を聞いて、人手が要るならと思って来ました」


「蕨から?」


「ああ。藤蔵さんにも人を頼んであります。もう少ししたら来るはずです」


 源八は清兵衛を見た。


「荷を扱う商人か?」


「そうです」


「だったら、あそこに止まってる車を何とかしてくれ。道を塞いじまって、こっちの人足が通れねえんだよ」


 源八が指さした先では、荷車が二台、互いに道を譲らず止まっていた。


「分かった。先に車をどかせばいいんだな」


「そうだ。舟のことは俺たちがやるから、川の方へは手を出すなよ」


 清兵衛は頷き、荷車の方へ向かった。


「おい、ちょっと待ってくれ! その車、ここに止めてたら邪魔になるだろ!」


 荷車の脇にいた男が振り返った。


「何だ、お前は!」


「蕨の清兵衛だよ。源八さんに頼まれたんだ。舟を直す人間が通れねえから、少し道を空けてくれって」


「俺たちはいつまで待てばいいんだよ!」


「それを確かめるためにも、先にここを空けなきゃならねえだろうが!」


 男は不満そうだったが、清兵衛が周りの人足にも声を掛け、車を動かす場所を決め始めると、渋々手綱を引いた。


 別の荷車を少し後ろへ下がらせ、馬を繋ぐ場所を変える。


 通り道が空くと、船頭たちが修理に使う板や縄を運べるようになった。


 清兵衛はそのまま、川岸へ積まれていた荷を移すのを手伝った。


 水をかぶった包みと、まだ濡れていない包み。持ち主が分かる荷と、誰が置いていったのか分からない荷が入り交じっている。


「おい、こいつは誰の荷だ?」


 清兵衛が尋ねると、近くの人足が首を振った。


「知らねえよ。さっき舟から下ろしたんじゃねえか?」


「じゃあ、勝手に運ぶわけにもいかねえな」


「だから困ってるんだよ!」


 清兵衛は源八を呼んだ。


「荷を一か所へまとめてもいいか? ただし、持ち主が分かるように、印を確かめながら動かしたいんだ」


 源八は川岸を見渡し、頷いた。


「そうしてくれ! こっちじゃ手が回らねえ!」


「分かった!」


 清兵衛は近くの人足を呼んだ。


「荷札が付いてるものは勝手に外すなよ。濡れてる荷は別にしてくれ。それと、動かす前に誰の荷か分かる奴がいたら、必ず聞いとけ」


 人足たちが動き始めると、少しずつ川岸に通り道ができた。


 それを見た源八は、わずかに表情を緩めた。


 もっとも、蕨の商人が手伝いに来てくれたからといって、すぐにすべてを任せるつもりはなかった。


 渡し場には渡し場の仕事があり、清兵衛にも、そのことは分かっているようだった。


     *


 しばらくすると、藤蔵が人足を三人連れてやってきた。


「清兵衛!」


「おお、藤蔵さん! 助かったよ!」


「助かったじゃねえよ。こっちも仕事を途中で切り上げてきたんだぞ。何をすりゃいいんだ?」


「まず、あそこの荷を動かしたいんだ。濡れてるのと、まだ無事なのを分けてくれ」


 藤蔵は川岸を見渡し、少し顔をしかめた。


「こりゃ、思ったよりひでえな」


「ああ」


「舟は?」


「今は全部止めてる。風が収まっても、荷を運ぶには時間が掛かりそうだ」


「そうか……」


 藤蔵は人足たちへ仕事を割り振りかけたが、思い出したように清兵衛へ向き直った。


「ところで、お前、明日の米八俵を忘れてねえだろうな」


「浦和行きだろ。覚えてるよ」


「その荷に使う車は、今日の夕方に積む約束だったんだ。こっちの人足にも、明日は別の仕事が入ってる」


「朝、米を運んでからそっちへ回るんだろ?」


「そのためには、明日の朝に積み込みで手間取ってる暇はねえんだよ」


「分かってる。今日のうちに戻して、支度するからよ」


「本当だろうな」


「本当だって!」


 藤蔵は、しばらく清兵衛の顔を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。


「……まあ、来ちまったものは仕方ねえか」


 そう言うと人足たちへ声を掛け、荷の整理を始めた。


「おい、お前ら! 荷札を確かめてから動かせ。濡れたもんを乾いた荷に重ねるなよ!」


「藤蔵さん、頼むよ!」


「頼むよじゃねえ! お前も働け!」


「分かってるって!」


 清兵衛が笑いながら荷を担ぎ上げたところへ、敬之助もやってきた。


「清兵衛さん!」


「おお、敬之助!」


「藤蔵さんから、おおよその話は聞きました。それで、今はどんな状況ですか?」


「源八さんに頼まれて、荷を分けてるところだ。あっちの道も、だいぶ空いてきたぞ」


 敬之助は川岸を見渡した。


「では、源八さんと少しお話ししてきます。人足代のことも確認しなければなりませんから」


「ああ、頼むよ」


 敬之助は頷き、源八の方へ向かった。


 少し離れた場所で二人が話しているのを、清兵衛は見ていた。


 源八は何度か頷いた後、申し訳なさそうに頭を下げた。


 戻ってきた敬之助は、少し困った顔をしていた。


「どうだった?」


「源八さんも、人を出していただいたことには感謝しておられます。ただ、渡し場の仕事を止めているため、人足代を今すぐお支払いいただくのは難しいそうです」


「そうか」


「復旧に使った人手については、後で改めて相談したいとのことでした。全額を負担していただけると決まったわけではありません」


 清兵衛は、働いている人足たちを見た。


 藤蔵を含めて四人。そこに自分たちも加わり、荷を移している。


 源八たちが払えないからといって、人足の稼ぎまで待たせるわけにはいかない。


「……分かった。今日の分は俺が先に払うよ」


 敬之助が顔を上げた。


「よろしいのですか?」


「ああ。頼んだのは俺だからな。源八さんには、後で払える分だけ相談すりゃいい」


「では、働いていただいた人数と時間を記しておきます」


 敬之助は帳面を広げ、人足の名前を書き始めた。


 藤蔵がそれを覗き込み、苦笑した。


「お前は、こんな時でも帳面か」


「こんな時だからこそですよ」


「……そりゃ違いねえな」


 藤蔵は笑い、人足たちの方へ戻っていった。


 清兵衛も笑ったが、敬之助はもう一度、帳面から顔を上げた。


「清兵衛さん、先にお支払いするとなると、明日の仕事で使う銭も残しておかなければなりませんよ」


「ああ、分かってる」


「それに、米八俵の方も……」


「今日のうちに戻るって、藤蔵さんにも言ったよ」


「承知しました。できるだけ早く片づけましょう」


 荷を一つ運ぶたび、少しずつ川岸が片づいていく。


 源八の船頭たちも傷んだ渡し口の修理に取りかかり、遠くから聞こえていた怒鳴り声が、ようやく仕事の掛け声に変わり始めていた。


 しかし、動かせるようになったのは川岸の人間であって、東京へ向かう荷ではなかった。


 昼が近づいても、舟は一艘も出ていない。


 藤蔵がふと空を見上げた。


「……おい、清兵衛」


「何だ?」


「あの雲、ひと雨来るかもしれねえぞ」


 清兵衛も顔を上げた。


 西の空から、灰色の雲が広がっている。


 川岸には、まだ持ち主の分からない荷がいくつも残っていた。

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