第五十五話 先を打つ商人たち
川島屋の店へ戻ると、重蔵はすぐに帳場へ入った。
奥には、町内で土地を扱う男が待っていた。
「……待たせたな」
「いえ。先ほどの荷置き場の話ですが、持ち主から返事がありました」
「どうだった?」
「貸してもよいそうです。ただ、長く貸すつもりはないとのことで」
重蔵は眉を寄せた。
「……どのくらいだ」
「まずは半年ほどなら、という話です」
「半年か」
男は頷いた。
「それ以上は、また相談してほしいそうです。借り賃も、今のところ大きくは変えないつもりだと」
重蔵は帳面を開き、荷置き場の広さと借り賃を確かめた。
県庁の近くでは、荷を一時的に置ける場所が少しずつ必要になってきている。紙や墨、米、炭など、役所へ納める品物を扱う商人が増えれば、その荷を置いておく場所も要る。
今はまだ、空いている建物や蔵を借りることで何とかなる。しかし、役所の仕事が増えれば、荷車が出入りしやすい場所から使われていくだろう。
「……半年なら、借りてみるか」
重蔵が言うと、男は少し驚いた。
「よろしいので?」
「ああ。ただし、途中で県庁が移ることになった時のことも決めておきたい」
「……岩槻へ、ですか」
「そうだ。こっちが半年分の銭を払っても、役所がなくなっちまえば使い道が変わるからな」
重蔵は帳面を指さした。
「持ち主に聞いてくれ。途中で返すことになった場合、どこまで払えばいいのか。そこを曖昧にしたまま借りるつもりはない」
「承知しました」
「それと、荷を置くなら道から入りやすい方がいい。車が通るたびに隣へ迷惑を掛けるような場所じゃ困るからな」
男は頷き、早速持ち主のところへ向かうことになった。
重蔵はその後ろ姿を見送りながら、別の手代を呼んだ。
「……東京へ行く者の都合はついたか?」
「明後日なら、商いの用で向かう者がおります」
「そうか。だったら、その者に一つ頼んでおこう」
「何を持たせますか?」
「まだ願いを出すわけじゃない。県庁の所在地について、どこへ話を通せばよいのか、事情を知っている者に聞いてきてもらいたいんだ」
手代は頷いたが、重蔵はさらに言葉を続けた。
「岩槻の連中も動いている。今日聞いたところじゃ、周りの町へ賛同を求める使いまで出しているそうだ」
「……蕨にも、ですか」
「ああ。岡田加兵衛殿のところへな」
「では、蕨の方も何かお考えなのでしょうか」
「それはまだ分からん。清兵衛という男も、調べているだけだと言っていたからな」
重蔵は筆を取り、紙に幾つかの名前を書き始めた。
東京で商いをしている知り合いの名だった。
役所へ直接話を持っていく前に、事情を確かめられる相手はいる。誰に尋ねればよいかも分からず県庁へ来た清兵衛たちとは、そこが違っていた。
「……この二人なら、何か知っているかもしれん。会えなかったら無理に探さず、返事を貰ってくるだけでいい」
「承知しました」
「それから、川口から来ている鉄物の見積もりも出しておいてくれ」
「県庁向けの品物でしょうか」
「そうだ。まだ注文が決まったわけじゃないが、値を聞いておくくらいはできるだろう」
手代が下がると、重蔵は先ほどの荷置き場の帳面へ戻った。
役所の近くに場所を借りれば、紙や墨を扱う商人からも仕事を受けられるかもしれない。もっとも、県庁が移れば借りた場所が無駄になる恐れもある。
半年という短い期間で借りられるなら、その危険も多少は抑えられるだろう。
重蔵はもう一度借り賃を確かめ、持ち主から返事が来たらすぐ話を進められるよう、必要な銭の見当をつけ始めた。
*
清兵衛と敬之助が浦和を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
藤兵衛の店へ戻って重蔵のことを尋ねると、浦和では知られた商人の一人だという。土地や荷を扱う商売にも関わり、以前の浦和県の頃から役所へ出入りする人間と付き合いがあるらしかった。
「……なるほどな。だから、名前を言っただけで話が通ってたのか」
清兵衛が言うと、敬之助は頷いた。
「そうかもしれません。ただ、役所へ通っているからといって、何でも思いどおりになるわけではないでしょう」
「そりゃそうだろうけどよ。俺たちは、誰に話せばいいのかも分かんなかったんだぞ」
「ええ。そこが、今日分かったことの一つですね」
敬之助は、朝から持ち歩いていた書付を取り出した。
聞きたいことは幾つもあったが、はっきり答えが得られたものは少ない。
庁舎に必要な広さも、費用も、まだ分からない。県庁の所在地について誰にどう願い出るべきかも、簡単には決められそうになかった。
「……加兵衛さんには、何て言えばいいんだ?」
清兵衛が尋ねると、敬之助は少し考えた。
「分かったことと、分からなかったことを、そのままお伝えしましょう」
「……そんなんでいいのか?」
「ええ。分からなかったからといって、勝手に分かったことにするよりはよいと思います」
「そりゃそうだな」
清兵衛は苦笑した。
荷の仕事なら、相手と話をして、値が合えば引き受けられる。ところが県庁のこととなると、話をする相手を探すだけでも一苦労だった。
それでも、藤兵衛の店で見た忙しさや、重蔵が役所へ出入りする様子は、清兵衛にとって忘れられないものになっていた。
「……なあ、敬之助」
「はい」
「藤兵衛さんは、俺たちに荷の仕事を頼んでくれるんだよな」
「ええ。条件が合えば、というお話でしたね」
「でも、県庁を蕨へ持ってくる話には協力できねえかもしれないって言ってた」
「そうですね」
清兵衛は街道の先を見ながら、少し笑った。
「商売ってのは面白えな。荷を運ぶ時は仲間でも、県庁の話になりゃ、考えることが違ってくるんだからよ」
「どちらの方にも、ご自分の商売がありますから」
「……そうなんだよな」
清兵衛は歩く速さを少し緩めた。
「川島屋さんも、俺たちのことを聞いて、何か考えるんだろうな」
「どうでしょう。まだ蕨で県庁を迎えると決まったわけではありませんし」
「まあ、そうだけどよ」
清兵衛は、県庁の前で重蔵と話したことを思い返していた。
あの男は、蕨へ県庁を置くという話を聞いた時、驚いていたように見えた。
だが、それだけだったろうか。
加兵衛の名前を聞き、蕨で町人たちが集まったことまで確かめていた。
「……俺、余計なことを喋っちまったかな」
敬之助が振り返った。
「何か約束されたわけではありませんから、大丈夫だと思いますよ。ただ、蕨でも県庁のことを考えていると伝わったのは確かでしょうね」
「……そうか」
清兵衛は頭を掻いた。
「まあ、加兵衛さんに隠しても仕方ねえし、今日会った人のことも話しとくか」
「それがよろしいと思います」
二人は再び歩き始めた。
中山道を南へ進めば、やがて蕨宿へ着く。
道はいつもと同じだったが、清兵衛はもう一度、浦和の方を振り返った。
役所へ何かを願い出るつもりなら、まず相手を知らなければならない。
しかも、その相手と付き合いのある商人が、すでに何人もいるらしい。
敬之助が用意した書付を懐へ戻すのを見て、清兵衛は苦笑した。
「……次に来る時は、もうちょっと話ができるようになってたいもんだな」
「そうですね。まずは、今日のことを加兵衛さんへお伝えしましょう」
「ああ。そうするか」
二人は蕨へ向かって歩き続けた。
*
同じ日の夕刻、岩槻では升屋惣兵衛が数人の商人たちと向かい合っていた。
座敷の中央には、県庁を岩槻へ置くよう願い出るための書付が広げられている。
蕨で岡田加兵衛から賛同を得られずに帰ってきて以来、惣兵衛は町の商人たちと何度も顔を合わせていた。
しかし、話をするたびに同じところで意見が分かれる。
県庁を岩槻へ迎えたい。
そこまでは、多くの者が賛成する。
ところが役所に使う建物をどうするのかという話になると、急に口数が減るのだった。
「……だから、東京へ人を遣わそうと言ってるんだ」
年配の商人が、少し苛立った声を出した。
「県庁は岩槻へ置くと定められていた。それを改めて伝えなければ、いつまで経っても浦和に置かれたままじゃないか」
「それには賛成です」
惣兵衛は答えた。
「ただ、願い出るなら、何を用意できるのかも説明しなければならないでしょう」
「……また建物の話か」
「ええ」
惣兵衛は、相手の顔を見た。
「蕨へ賛同を頼みに行った時も、そこを聞かれました。役所へ使う建物は決まっているのかと」
「蕨の商人に、そんなことを言われたのか?」
「岡田加兵衛殿です」
座敷の男たちが少し黙った。
「……それで、何と答えたんだ」
「まだ決まっていないと」
惣兵衛は、隠さずに答えた。
「岩槻へ県庁を置けば、周りの町にも荷の仕事が増えるかもしれない。そう説明しましたが、蕨にとって何が得になるのか、はっきりお答えすることもできませんでした」
「……何だ、ずいぶん言い負かされてきたんだな」
男の一人が苦笑した。
惣兵衛は、その言葉を否定しなかった。
「ええ。だからこそ、今度は同じことを繰り返したくないのです」
座敷の空気が少し変わった。
「県庁を岩槻へ置いてほしい。それだけなら、誰でも言えます。ですが、向こうから役所に使う建物はどこか、必要な費用は誰が負担するのかと聞かれた時に、何と答えるつもりです?」
年配の商人は腕を組んだ。
「……建物なら、候補はあるだろう」
「候補はあります。しかし、持ち主の承諾は得ておりません」
「なら、これから頼めばいい」
「誰が頼むのです?」
惣兵衛がそう尋ねると、男は少し黙った。
「役所に使わせるとなれば、いつまで貸すのかも分かりません。直すところがあれば銭も掛かる。持ち主にとっては、簡単に承諾できる話ではないでしょう」
惣兵衛は、蕨で加兵衛から尋ねられたことを思い出していた。
岩槻には、役所として使える建物があるのか。
その問いに答えられなかった自分は、結局、賛同を一人分も得られずに帰ってきた。候補の建物が幾つかあるという話と、実際に役所へ使わせてもらえるという約束は、まったく違うものだった。
「……だったら、どうしろって言うんだ」
男の一人が尋ねた。
「東京へ人を遣わずに、建物の話がまとまるまで待てと?」
「いえ。それでは浦和に先を越されます」
惣兵衛は答えた。
「だから、両方進めるべきだと思います」
「……両方?」
「東京へ話を届けるための人間を決める。同時に、岩槻で役所に使えそうな建物の持ち主へ、具体的に話を聞くのです」
年配の商人が眉を寄せた。
「……建物が決まる前に、東京へ行くのか?」
「はい。ただし、今すぐ正式な願いを出すのではありません。まず、何を揃えれば話を聞いてもらえるのか、確かめたいのです」
「……蕨の商人みたいなことを言うな」
男がそう言うと、惣兵衛は少し笑った。
「そうかもしれません。ですが、あちらで聞かれたことに答えられなかったのは事実ですから」
座敷には、しばらく沈黙が流れた。
誰も、岩槻へ県庁を迎えることに反対しているわけではない。
しかし、東京へ願い出る人間を決めることと、家や土地を提供する人間を決めることでは、話の重さが違った。使える建物があると口にする者も、その持ち主に自分から頼みに行くとなると、簡単には手を挙げなかった。
やがて、年配の商人が口を開いた。
「……分かった。東京へは人を遣わす。それと、建物の方も動こう」
惣兵衛は顔を上げた。
「では、誰が参りますか」
「東京の商人と付き合いがある者を通した方がいいだろう。いきなり役所へ行っても、誰に話せばよいか分からんからな」
男は座敷を見回した。
「升屋、お前が行け」
「……私が?」
「ああ。蕨へも話をしに行ったんだろう。県庁のことなら、今ここにいる中では、お前が一番あちこちの話を聞いてきてる」
惣兵衛は少し考えた。
商売で東京へ行ったことは何度もあるし、付き合いのある問屋もいる。しかし、県庁の所在地について役人へ話を届けるとなれば、いつもの商談とは違う。
「……分かりました。ただ、一つ条件があります」
「何だ?」
「建物のことは、私が戻るまで待たないでいただきたい」
惣兵衛は書付を指さした。
「私が東京で何か聞いてきても、こちらで何も決まっていなければ、また同じところで話が止まります」
年配の商人は頷いた。
「……そうだな」
「候補に挙がっている家の持ち主へ、明日にでも話を聞いていただけませんか。貸せるのか、貸せないのか。貸せるとしても、どんな条件ならよいのか。それだけでも知っておきたいのです」
「分かった。こちらは私が引き受けよう」
そう言って、男は隣にいた商人へ声を掛けた。
「お前にも来てもらうぞ。家の持ち主とは付き合いがあるだろう」
「……ありますが、簡単には貸してもらえませんよ」
「分かってる。まず話を聞くだけだ」
惣兵衛は、そのやり取りを聞いていた。
蕨から帰ってきた時には、建物の話を持ち出すたびに、皆が顔を見合わせるばかりだった。
それがようやく、持ち主を訪ねる者まで決まったのである。
「……それで、惣兵衛」
年配の商人が尋ねた。
「東京へは、いつ発つ?」
「商いの都合をつければ、明後日には出られます」
「よし。それで行こう」
惣兵衛は頷いた。
「ただし、皆さんに一つお願いがあります」
「何だ?」
「今回、私は岩槻の商人の一人として話を聞いてまいります。町全体の考えが決まったように伝えるつもりはありません」
男は少し不満そうだった。
「……そこまで慎重になる必要があるのか?」
「あります」
惣兵衛は、はっきり答えた。
「建物を出す者も、銭を負担する者も、まだ決まっておりません。今ここで何でも約束してしまえば、後で困るのは岩槻の町の者です」
年配の商人は腕を組み、しばらく惣兵衛を見ていた。
「……分かった。まず話を聞いてこい。その間に、こちらも建物のことを進める」
「承知しました」
惣兵衛は深く頭を下げた。
そこから先は、誰がどの家を訪ねるか、東京のどの問屋に話を聞くかという相談になった。男たちは互いに知っている者の名前を挙げ、惣兵衛も手持ちの帳面を確かめながら、訪ねられそうな相手を選んでいく。
話が一段落した頃には、外はすっかり暗くなり始めていた。
「……惣兵衛」
帰り支度をしていたところで、年配の商人に呼び止められた。
「はい」
「蕨のことは、どうなってる?」
「加兵衛殿からは、まだ返事をいただいておりません。町の者へ相談するとおっしゃっていましたから、今はその返事を待っているところです」
「……蕨が県庁を欲しがっているという話は、本当なのか?」
惣兵衛は少し考えた。
「私が伺った時、蕨へ県庁が来ればどうなるのかと尋ねた商人はおりました。ただ、加兵衛殿が県庁を迎えると決められたわけではありません」
「……そうか」
「岩槻への賛同も、蕨への誘致も、あちらではまだ決まっていないはずです」
年配の商人は、しばらく黙っていた。
「……小さな宿場町だと思っていたが、余計なことを考え始めたもんだな」
惣兵衛は、その言葉には答えなかった。
蕨で会った清兵衛という男は、県庁について詳しいわけではなかった。それでも、自分たちが持っていった話に対して、蕨へ県庁が来たらどうなるのかと尋ねたのである。
加兵衛も、その問いを笑い飛ばしはしなかった。
今ごろ、あの町ではどんな話になっているのだろうか。
気にはなったが、今は岩槻のことで手いっぱいだった。
「……旦那様」
外で待っていた手代が声を掛けた。
「明後日、東京へ向かわれるのでしたら、店の仕事も少し早く片づけておきませんと」
「ああ。そうだな」
惣兵衛は一緒に店へ戻ることにした。
通りには店じまいをする商人たちの声が響き、荷車を片づける男が、馬の手綱を引きながら角を曲がっていく。
昼間と変わらない岩槻の町だった。
県庁のことで何度も話し合いを重ねているからといって、町の人々の暮らしが急に変わったわけではない。
けれども、明日には役所へ貸せるかもしれない家を訪ねる者がいる。
そして惣兵衛自身も、商いとは違う用向きで東京へ向かうことになった。
店へ着くと、惣兵衛は羽織を脱ぎ、帳場にいた手代を呼んだ。
「……東京の問屋へ使いを出してくれ」
「今からでございますか?」
「ああ。明後日、俺が行くと伝えてほしい。できれば、明日のうちに返事も貰いたいんだ」
「承知しました。どちらへ?」
「まずは、いつもの問屋だ。そこから事情の分かる人間を紹介してもらえないか、尋ねてみようと思う」
手代が紙を用意すると、惣兵衛は筆を取った。
商いの用件なら、いつもどおり帳面を開けばよい。
しかし今度は、誰に会い、何を尋ねるのか、先に決めなければならなかった。
書きかけの紙を前に考えていると、手代が声を掛けてきた。
「……旦那様。東京へは、どんなお話をしに行かれるのです?」
惣兵衛は筆を止めた。
「県庁を岩槻へ移してもらうには、何が必要なのかを聞いてくる」
「それで、移していただけるのでしょうか」
「……さあな」
惣兵衛は苦笑した。
「それが分かってりゃ、わざわざ東京まで行かずに済むよ」
手代は困ったように笑い、書き終えた使いの紙を受け取った。
「では、早速届けてまいります」
「ああ。頼んだぞ」
手代が表へ出ていくと、惣兵衛は再び机へ向かった。
東京の問屋へは、何度も足を運んでいる。
いつもなら品物の値や数量を相談し、勘定が合えば話をまとめて帰ってくる。
ところが今回は、何を揃えれば話を聞いてもらえるのか、それを確かめるところから始めなければならない。
惣兵衛は帳面を引き寄せ、東京で訪ねる相手の名前を一つずつ書き出していった。




