第五十四話 浦和の商人
「……その荷、もう少し右へ寄せてくれ。そうそう、そこでいい」
清兵衛が声を掛けると、荷車の上にいた人足が味噌樽を動かし、隣の包みとの間に藁を詰めた。
朝の蕨宿は、まだ冷たい空気に包まれている。通りでは店を開ける者たちが慌ただしく働き、旅籠の前には早立ちの客を見送る姿もあった。
岡田加兵衛の家で町人たちが集まってから、三日が経っていた。
その間も清兵衛たちは普段どおり荷を運んでいる。預かった品物を届け、帰りの荷を探し、次の仕事を引き受ける。県庁のことを調べようと決まったからといって、荷主が仕事を待ってくれるわけではなかった。
柿の木の家に置かせてもらっている四台分の荷も、まだすべてを運び出せていない。持ち主から引き取りの都合がつかないという返事があり、置き場所を借りている相手への説明も必要になっていた。
「清兵衛さん、そろそろ出ませんと」
帳面を抱えた敬之助が、荷車の脇から声を掛けた。
「分かってるよ。こいつが動かなきゃ、すぐに出られる」
「それはそうですが、何度も積み直していたら、いつまで経っても出発できませんよ」
「樽が転がっちまうよりましだろ」
清兵衛は最後の縄を確かめ、人足に合図した。
今日の行き先は浦和だった。
味噌樽を届ける仕事が入ったのを機に、以前から付き合いのある柏屋藤兵衛を訪ねるつもりでいる。昨日のうちに使いを出して都合を聞いたところ、昼前なら店にいるという返事が届いていた。
直吉にも尋ねてみたが、今日は別の町へ出ているらしい。
「……で、県庁のことを聞く紙は持ったか?」
清兵衛が尋ねると、敬之助は懐から折り畳んだ書付を取り出した。
「こちらに」
「おお、ちゃんと書いてきたんだな」
「昨夜、お話ししたでしょう」
「聞いたよ。けど、あんなに細かく書くとは思わなかったんだ」
清兵衛が覗き込むと、紙には幾つかの項目が並んでいた。
浦和の庁舎は、どのような経緯で使われているのか。
役所には、どれほどの建物が必要なのか。
町の者が県庁の所在地について願い出る場合、どこへ話を届ければよいのか。
ほかにも、聞けることがあれば確かめたい内容が書かれている。
「……お前、役人みてえだな」
「役人の方へお尋ねするための書付ですから」
「そりゃそうか」
清兵衛は笑ったが、敬之助は真面目だった。
「ただ、全部を教えていただけるとは限りませんよ。特に庁舎のことは、建物を見ただけで分かるものでもありませんから」
「まあ、聞けるだけ聞いてみりゃいいだろ」
「ええ。ただし、蕨を代表して願い出るわけではないことは、最初にお伝えしましょう」
「分かってるよ。加兵衛さんにも言われたからな」
清兵衛は荷車の方へ振り返った。
県庁を蕨へ迎えられるかどうか。
そんな話を始めた自分たちが、実際に役所へ行ってみようとしている。
数日前なら、考えもしなかったことだった。
「……じゃあ、行くか」
二人は荷車とともに、中山道を北へ向かった。
*
浦和宿へ入ると、清兵衛は以前にも増して、通りを行き交う荷車の行き先が気になるようになった。
蕨と同じ中山道の宿場である。旅籠があり、商家があり、街道を行き来する旅人たちの姿も変わらない。
しかし、店先で荷を下ろす人足に行き先を尋ねると、役所の名前が出てくることがあった。紙や墨を扱う店では、以前より商売が忙しくなったという話も聞こえてくる。
「……あの紙も、県庁で使うのかね」
清兵衛が指さしたのは、店先へ積み下ろしている紙束だった。
「どうでしょう。ほかにも売り先はありますから」
「そうだよな。紙を使うのは役人ばかりじゃねえし」
敬之助は頷いた。
清兵衛は荷の行き先を知りたがり、敬之助は誰が注文した荷なのかを気にする。同じものを見ていても、二人が確かめたいことは少し違っていた。
先に味噌樽を届ける。
店の主人に受け渡しを確かめてもらい、敬之助が帳面へ記したところで、今日の荷の仕事はひとまず終わった。
「これで大丈夫だな?」
「ええ。先方にも確認していただきました」
「じゃあ、藤兵衛さんのところへ行こう」
運び手には約束していた帰りの仕事がある。清兵衛たちが県庁のことで時間を使うからといって、いつまでも待たせるわけにはいかない。
二人は運び手と別れ、柏屋へ向かった。
店が近づくにつれて、表で働く奉公人たちの声が聞こえてきた。
何やら慌ただしい。
「……忙しそうだな」
清兵衛がそう言った時、店の奥から男の怒鳴り声がした。
「だから、昨日の数じゃ足りねえって言ってるんだよ!」
続いて、藤兵衛の声が聞こえてきた。
「分かってる! だから今、確かめてるんじゃないか!」
清兵衛と敬之助は顔を見合わせた。
「……何かあったみてえだな」
「そのようですね」
表から声を掛けると、藤兵衛が帳場の奥から顔を出した。
「おお、清兵衛さんか。悪いね、せっかく来てもらったのに、ちょいと立て込んでて」
「そりゃ構わねえけど、何かあったのか?」
「役所へ納める紙が、今朝になって増えちまったんだよ」
藤兵衛は、傍らに積まれた紙束を指さした。
「昨日のうちに決まっていた分は揃えてあるんだが、さっき使いが来て、さらに二束欲しいと言われてね」
「二束?」
「ああ。ところが、同じ紙は奥の蔵にある分まで、ほかの注文と数を合わせてしまってるんだ」
藤兵衛は奉公人を呼び、もう一度在庫を確かめさせた。
紙の種類が違えば、何でも代わりになるわけではない。急いで届ければよいという話でもなく、先に頼まれた商人の荷を勝手に減らすこともできなかった。
「……役所からの注文なら、ほかの客の分を回しちまえばいいんじゃねえのか?」
清兵衛が尋ねると、藤兵衛は苦笑した。
「そんなことをしたら、今度はそっちの客に怒られるよ。役所の仕事が欲しいからって、今までの商売をなくすわけにはいかないだろう」
「……そりゃそうだな」
清兵衛は、直吉との商談を思い出した。
荷をまとめれば手数料が貰える。しかし、荷主が余計な銭を払うことになるなら、無理に引き受けるべきではない。
あの時、自分が考えたことと同じだった。
藤兵衛も目の前の仕事を取りたいからといって、長く付き合ってきた客との約束を破るつもりはないらしい。
「……旦那!」
奥から奉公人が戻ってきた。
「同じ紙なら、裏の蔵に一束だけ残ってます。もう一束は、明日の荷に入ってる分を取り寄せるしかありません」
「明日じゃ遅いんだよなあ」
藤兵衛は眉を寄せた。
「届け先には、今日のうちに欲しいと言われてるんだ」
清兵衛が口を挟んだ。
「……近くの店にはねえのか?」
「あるかもしれない。だが、同じ紙を持ってるかどうか……」
「だったら、聞きに行かせりゃいいじゃねえか。うちの荷車を使わなくたって、近くなら人が運べるだろ」
藤兵衛は少し考えた。
「……そうだな。まず問屋に聞いてみるか」
奉公人へ使いを出すよう言い付け、藤兵衛はようやく清兵衛たちの前へ腰を下ろした。
「いや、すまないね。朝からこんな調子でさ」
「大したもんだな、県庁ってのは。紙を二束増やすだけで、大騒ぎじゃねえか」
「笑い事じゃないよ。数が揃わなけりゃ、次から注文を貰えなくなるかもしれないんだから」
藤兵衛はそう言いながらも、少し笑った。
「けど、ありがたい話ではあるんだ。前より仕事は増えてるし、これからも頼んでもらえるかもしれない」
「……やっぱり、県庁があると違うもんだな」
「違うよ。ただ、何でも儲かるわけじゃないけどね」
藤兵衛は帳面を開き、別の紙を取り出した。
「そうだ。あんたらにも、ちょうど相談したいことがあったんだ」
「荷のことか?」
「ああ。今度、東京の問屋から紙を取り寄せるんだが、何度かに分けて運ぶことになりそうでね」
清兵衛が身を乗り出した。
「おお、そりゃありがてえ話だな」
「ただし、まだ量も日も決まってない。ほかの運び手とも相談してるから、全部頼めるかどうかは分からないよ」
敬之助が尋ねた。
「荷の数が決まりましたら、お知らせいただけますか。道筋と運び手の都合を確かめて、運び賃をお伝えします」
「そうしてもらえると助かるよ」
「支払いは、藤兵衛さんからいただく形でよろしいでしょうか」
「もちろん。こっちから頼む仕事だからね」
清兵衛は敬之助の顔を見て、少し笑った。
荷の数も決まっていないうちから、誰が銭を払うか確かめている。
いつものことではあるが、こういう時の敬之助は本当に抜け目がなかった。
「……何です?」
「いや、何でもねえよ」
敬之助は首を傾げたが、清兵衛はそれ以上何も言わなかった。
そこへ、先ほど出ていった奉公人が戻ってきた。
「旦那、ありました! 足りない一束を、分けてもらえるそうです」
「本当か!」
「ええ。ただ、向こうも余分に置いてるわけじゃないそうで、値はいつもより少し高くなります」
藤兵衛は一瞬考えた後、頷いた。
「仕方ない。今日の分はそれで揃えよう。ただし、次の注文まで同じ値で買う約束はするなよ」
「はい!」
奉公人は再び表へ駆け出していった。
藤兵衛はようやく大きく息を吐いた。
「……こんな調子だよ」
清兵衛は笑った。
「忙しくて結構じゃねえか」
「忙しいのはありがたいが、朝からこれじゃ身体がもたないよ」
「だったら、うちの勇吉に診てもらうか?」
「……いや、あの人は酒の話になると長いから遠慮しとくよ」
「そりゃ違いねえ!」
二人は声を上げて笑った。
しかし、藤兵衛が帳面を閉じたところで、清兵衛は思い出したように口を開いた。
「……そういや、今日はもう一つ聞きたいことがあったんだ」
「何だい?」
「県庁のことなんだけどよ」
藤兵衛の笑みが、少し薄くなった。
*
「……県庁のこと?」
「ああ。どこへ置くかって話だ」
清兵衛は、岩槻から升屋惣兵衛が来たことを説明した。
県庁を岩槻へ移してほしいという願いに、蕨からも賛同してほしい。
そう頼まれた加兵衛が、町人たちへ相談したこと。
その席で、蕨へ県庁を迎えることはできないのかという話が出たこと。
そして、まず必要な条件を調べることになったこと。
藤兵衛は途中で口を挟まなかった。
清兵衛が話し終えると、しばらく黙ってから尋ねた。
「……それで、蕨は本当に県庁を欲しがってるのかい?」
「いや、まだそこまで決まってねえんだよ」
「そうか」
「何が必要なのか分かんねえから、まず調べてるところなんだ」
藤兵衛は頷いたが、先ほどまでのようには笑わなかった。
「……清兵衛さん。うちが今、こうして紙を増やしてるのは、県庁が浦和にあるからなんだよ」
「ああ」
「役所へ出入りする商人も増えてるし、宿へ泊まる者だっている。そういう人たちを相手に、新しい商売を始めようとしている店もある」
「そうだろうな」
「もし県庁が岩槻へ移るってことになったら、どうなると思う?」
清兵衛は少し考えた。
「……荷の行き先が変わるな」
「それだけじゃないよ」
藤兵衛は帳場の奥へ目を向けた。
そこでは奉公人たちが、役所へ納める紙を揃えている。先ほど取り寄せた分が届けば、今日の仕事も何とか間に合うだろう。
「うちは浦和に店があるから、今のような商売ができる。岩槻へ移ったら、向こうの商人が同じ仕事を始めるかもしれない」
「……なるほどな」
「蕨へ移ったって同じだよ」
清兵衛は顔を上げた。
「そりゃ、蕨の商人にとってはありがたいかもしれない。けど、俺たち浦和の商人がみんな喜ぶと思うかい?」
清兵衛は、すぐには答えなかった。
自分たちも、県庁が来れば人や荷が増えると考えていた。
しかし、今日の藤兵衛を見ていれば、その仕事がどこから来るのかは分かる。
県庁がここにあるから、紙の注文が増えているのだ。
「……そりゃ、困る人もいるだろうな」
「いるだろうね。俺だって、その一人かもしれない」
藤兵衛は苦笑した。
「勘違いしないでほしいんだが、あんたらに荷を運んでもらうのはありがたいんだよ。これからも仕事があれば頼みたいと思ってる」
「そりゃ、俺たちもありがてえよ」
「だけど、県庁を蕨へ持ってくるために役人を紹介してくれと言われても、同じように協力できるとは限らないんだ」
清兵衛は頷いた。
「……分かったよ」
藤兵衛は少し意外そうだった。
「随分あっさりしてるね」
「だってよ、藤兵衛さんにとっちゃ、今の仕事がなくなるかもしれねえ話なんだろ。そりゃ、簡単に手伝えとは言えねえよ」
清兵衛は、傍らに積まれた紙束を見た。
「俺だって、自分の荷の仕事を誰かに持っていかれそうになったら、いい気分はしねえからな」
藤兵衛は、少しだけ笑った。
「……あんたは、そういうところは分かるんだな」
「そういうところって何だよ」
「商売の話さ」
「当たり前だろ。俺だって商人なんだから」
二人は笑ったが、藤兵衛は県庁の話に戻ることはなかった。
代わりに、店の奥でようやく揃い始めた荷を見ながら、清兵衛に言った。
「役所へ話を聞きに行くなら、何を知りたいのか、はっきりさせた方がいいよ」
「そいつは敬之助が書いてきた」
「なら、まず行ってみるといい。ただし、相手が答えてくれるとは限らないからね」
「……どうしてだ?」
「俺だって、役所のことを何でも知ってるわけじゃない。商人に話せることと、役人が決めることは違うんだよ」
藤兵衛はそう言って、紙を積んだ奉公人へ声を掛けた。
清兵衛たちとの話は、そこでいったん終わった。
県庁のことを聞きたいからといって、目の前の仕事を止めるわけにはいかない。
その様子を見て、清兵衛はようやく少し分かった気がした。
藤兵衛は自分たちを嫌っているわけではない。
ただ、この男には浦和で守りたい商売がある。
県庁を巡る話が、その商売とぶつかり始めているのだった。
*
県庁へ向かう途中、敬之助は朝から用意していた書付をもう一度開いた。
「……まず、これだけは確かめたいですね」
「どれだ?」
「役所として必要な建物の条件です。加兵衛さんの本陣を使えるかどうか考えるにも、そこが分からなければ始まりませんから」
「そうだな」
「それから、県庁の場所について願い出る場合、どこへ話を届けるのか。その二つだけでも分かれば、今日は十分だと思います」
「……分かった。じゃあ、俺が聞いてみるよ」
「私も必要なことはお尋ねします。ただ、まだ正式な願いを持ってきたわけではないことは、先に伝えましょう」
「それも分かってるって」
清兵衛は笑った。
藤兵衛の店を出てから、二人は浦和宿の通りを歩いてきた。
道の途中には、役所へ書付を届けるらしい男たちが行き交い、紙や墨を扱う店の前では、荷を運び込む人足が声を掛け合っている。
県庁がある町というのは、こういうものなのか。
蕨にも旅籠や商家はあるし、荷車も通る。
しかし、役人たちが毎日仕事をするとなれば、その周りで働く人間の種類も増えるのだろう。
建物の前まで来ると、清兵衛は少し足を止めた。
「……ここか」
「ええ」
「思ったより、普通の建物だな」
敬之助は少し笑った。
「役所ですから、立派な門があるとは限りませんよ」
「いや、何かもっと大きなものかと思ってたんだ」
清兵衛は建物を眺めた。
今ここで使われているのは、以前の浦和県の役所だった建物である。
県が変わったからといって、すべてを建て直したわけではない。すでにあった場所を使い、人が働いている。
そのことが、蕨や岩槻の話とは大きく違っていた。
二人が中へ用向きを伝えると、しばらく待つように言われた。
ほかにも人が訪ねてきているらしく、用件を聞き取る者も忙しそうだった。やがて手の空いた役所の者に話を聞いてもらえることになり、敬之助は用意していた書付を広げた。
「私どもは蕨宿の商人でございます。県庁を置く町について、まだ願い出ると決まったわけではありませんが、何が必要になるのか知りたくて参りました」
男は、書付へ目を落とした。
「……蕨宿から?」
「はい」
「県庁を蕨へ移してほしいという願いですか?」
「いえ。町の者が相談を始めたばかりで、まだ何も決まっておりません」
敬之助はそう答え、まず庁舎に必要な建物について尋ねた。
男は書付を一通り読んだ後、少し困ったような顔をした。
「今使っている建物のことなら、ここで仕事をしているのはご覧のとおりです。ただ、ほかの町へ移す場合に、どの程度の広さが必要になるかということは、私がこの場でお答えできる話ではありません」
「では、そのことを確かめるには、どなたへお尋ねすればよいのでしょうか」
「何のために必要なのか、まず事情を明らかにしていただくことになるでしょう」
「……事情、ですか」
「県庁の場所を変えてほしいという正式な願いなのか、単に建物のことを知りたいという話なのか。それによって扱いも違いますから」
敬之助は頷き、もう一つの質問をした。
「町の者が県庁の所在地について願い出る場合、その話はどこへ届ければよいのでしょうか」
男は、今度ははっきりと首を横に振った。
「それについても、ここで軽々しくお答えするわけにはまいりません。県庁の場所を決めるのは、この場にいる者の一存ではありませんから」
「……東京へ話が行くんですか?」
清兵衛が口を挟むと、男は少し考えて答えた。
「県庁の所在地は、新しい県を置く時に定められたものです。それを変えるとなれば、県の中だけで済む話ではありません」
「……なるほどな」
「ただ、まだ何も決まっていないのでしたら、町の方々でどういう願いを出したいのか、よく相談されるのが先でしょう」
敬之助は、もう少し聞いてみた。
すでに使われている庁舎の広さを参考にすることはできないか。
建物を用意するとしたら、どんな書付が必要になるのか。
しかし、どの質問についても、その場で確かな答えは得られなかった。
男は二人を邪険に扱ったわけではない。
むしろ、書付を一つずつ確かめ、分かることと分からないことを分けて答えてくれた。
ただ、町の商人二人が訪ねてきたからといって、県庁の所在地を巡る話を進められる立場ではなかったのである。
「……分かりました。お忙しいところ、ありがとうございました」
敬之助が頭を下げると、清兵衛も礼を言った。
建物を出るまで、二人はほとんど口を開かなかった。
清兵衛は、少し悔しかった。
敬之助はきちんと質問を用意してきたし、自分たちが何を知りたいのかも伝えた。
それでも、答えは得られなかった。
知らないから聞きに来た。
だが、知らないというだけでは、相手も何を教えればよいのか決められないらしい。
「……敬之助」
「はい」
「俺たち、何か間違ったことを聞いたのか?」
「いいえ。そうは思いません」
「じゃあ、何で教えてもらえねえんだ?」
敬之助は少し考えた。
「……教えていただけなかったというより、今のお立場では答えられないことを尋ねたのだと思います」
「役人なのにか?」
「役人の方でも、何でも決められるわけではないでしょう」
清兵衛は頭を掻いた。
「……そりゃ、そうか」
そこへ、建物の方から数人の男が出てきた。
先頭の男は、年の頃なら五十前後だろうか。よく手入れされた羽織を着ており、後ろには書付を抱えた若い手代が続いている。
男が通り掛かると、入口にいた役所の者が声を掛けた。
「川島屋さん、先ほどの件ですが」
「ああ。明日の朝までに、もう一度返事を貰えるようにしておいてくれ」
「承知しました」
男は慣れた様子で答えたが、役所の者が何かを付け加えると、少し眉を寄せた。
「……それは困るな。こちらも、いつまでも場所を空けておけるわけじゃないんだ」
男は手代を呼び寄せ、書付を一枚取り出させた。
そのやり取りを、清兵衛は少し離れたところから見ていた。
自分たちがいくら質問しても、何を聞けばいいのか分からないままだった。
ところが、この男は役所の者と、すでに続きの話をしている。
名前を呼ばれた時の様子からして、何度もここへ来ているのだろう。
「……敬之助。今の人、誰だ?」
「私も存じません」
「……そうか」
清兵衛が小声で話していると、男の方がこちらを見た。
「何だい。私に何か用かね」
「あ、いや、そういうわけじゃねえんだけど……」
清兵衛が慌てると、男は少し笑った。
「見ない顔だな。どちらから来たんだい?」
「蕨です」
「蕨宿か」
男は興味を示した。
「商いの用かね?」
「ええ。浦和まで荷を届けてきたんです。そのついでに、県庁のことで少し話を聞こうと思いまして」
「……県庁のことで?」
男の顔から、笑みが少し薄れた。
「蕨の商人が、県庁に何の用だい?」
清兵衛は少し迷った。
加兵衛から、勝手に蕨を代表して約束するなと言われている。
だが、まだ何も決まっていないことなら、隠す必要もないように思えた。
「岩槻から、県庁を向こうへ移すよう賛同してほしいって人が来たんですよ。それで、うちの町でも少し話になりましてね」
「……岩槻から?」
「ええ。升屋惣兵衛さんって人でした」
男は一度、手代の方を見た。
それから清兵衛へ向き直った。
「……なるほど。岩槻も周りの町へ声を掛け始めたか」
「知ってるんですか?」
「岩槻の商人のことなら、少しはな」
男は穏やかに笑った。
「私は川島屋重蔵という者だ。浦和で商いをしている」
「蕨の清兵衛です。こっちは敬之助」
二人が頭を下げると、重蔵も軽く会釈した。
「それで、蕨は岩槻を支持することになったのかね?」
「いや、まだです。町の者で話し合ったんですけど、どうするか決まらなくて」
「……ほう」
「それに、蕨へ県庁が来たらどうなるんだって話まで出てきちまいましてね」
重蔵の目が、わずかに細くなった。
「蕨へ県庁を?」
「いや、まだそういうことができるのか、調べてるだけですよ。県庁を迎えるって決まったわけじゃねえんです」
「……そうか」
重蔵は、しばらく清兵衛を見ていた。
後ろで控えていた手代が何かを尋ねようとしたが、重蔵は片手を上げて制した。
「加兵衛殿も、その話をご存じなのかね?」
「ええ。加兵衛さんのところで、町の人たちが集まったんです」
「……なるほど」
重蔵は小さく頷いた。
「それなら、まったくの冗談というわけでもないらしいな」
「いや、冗談じゃねえけど、まだ何も決まってねえですから」
「分かっておるよ」
重蔵は笑った。
「だがね、清兵衛さん。県庁の話は、町の者が考え始めてから役所へ届くまでに、いろいろな人間が関わるものだ。今日ここへ来たのも、その最初の一つなんだろう」
「……まあ、そういうことになりますかね」
「なら、浦和の町をよく見ていくといい」
重蔵は県庁の建物へ目を向けた。
「こちらでは、もう役人たちが仕事をしている。庁舎を用意するだけで済む話なのかどうか、見ておくといいよ」
清兵衛が礼を言うと、重蔵は手代とともに歩き去っていった。
しかし、角を曲がったところで、重蔵は立ち止まった。
「……さっきの男の名前を覚えておけ」
手代が顔を上げた。
「蕨の清兵衛、でございますね」
「ああ。それと、岡田加兵衛殿のところで、県庁の話し合いがあったそうだ」
「……蕨で?」
「そうだ」
重蔵は少し考えた。
「まだ何も決まっていないそうだが、岩槻から使いが来たという話は本当らしい」
「では、蕨も県庁を望んでいるのでしょうか」
「さあな。あの男自身も、よく分かっていないようだった」
重蔵は笑ったが、すぐに表情を戻した。
「ただ、町の者が集まったというなら、放っておく話でもない。岩槻の動きと合わせて、少し様子を確かめておこう」
手代は頷いた。
重蔵は、再び歩き始めた。
県庁のことを調べに来た蕨の商人。その男が持ってきた話は、重蔵にとっても無関係ではなかった。




