第五十三話 誰が銭を出す
「……銭、ですか」
清兵衛が聞き返すと、喜八は膝の上で組んでいた手をほどいた。
「そうだよ。建物を見て回るにも、話を聞きに行くにも、人が動くんだ。町のことだからって、ただで働けと言うわけにはいかないだろう」
「いや、俺は別に、ただで働けなんて……」
「そういうつもりがなくても、誰かに頼めば手間は掛かる。後になって銭が要ると分かってから、どうするか考えるんじゃ遅いんだよ」
長七が口を挟んだ。
「でも、今すぐ大きな銭が掛かるわけじゃねえでしょう?」
「小さい銭なら、勝手に使っていいのかい?」
「……いや、そういうわけじゃ」
喜八は長七から視線を外し、加兵衛へ向き直った。
「私は、町の銭を使うなら、先に誰がどれだけ出すのか決めてほしいんです。後から、もう調べ始めたんだから仕方ないと言われるのは困りますよ」
座敷にいた男たちは、しばらく黙っていた。
県庁を迎えれば商売が増えるかもしれないという話には、誰もが多少なりとも興味を持っていた。だが、まだ何も決まっていないことのために、自分の銭を出すとなれば話は違ってくる。
長七は、多少の銭なら使ってもいいと言った。
しかし、ほかの町人が同じ考えとは限らない。
清兵衛も、今度ばかりは言い返せなかった。
いつも荷運びの相談をする時には、敬之助が費用を調べてくれる。誰が何文を出すのかが決まって初めて、仕事を引き受けられる。
それなのに、県庁の話となった途端、調べれば何とかなると思ってしまった。
「……喜八さんの言うとおりだな」
清兵衛が呟くと、長七が振り返った。
「何だよ。清兵衛、お前まで反対するのか?」
「いや、反対じゃねえよ。ただ、銭を誰が出すのか決まってねえってのは、そのとおりだろ」
「そりゃ、そうだけどよ……」
「俺だって、浦和まで話を聞きに行くくらいならできる。でも、それを毎日やれって言われたら、商売にならねえからな」
清兵衛の言葉に、敬之助も頷いた。
「私どもにも、預かっている荷があります。そちらの仕事を止めてまで動くとなれば、やはり費用のことを考えなければなりません」
加兵衛は男たちの顔を見渡した。
清兵衛に県庁の話を持ち出された時、町の者が何を考えているのか、まず聞いてみようと思った。
しかし、話し合うだけでもそれぞれの仕事を中断している。今日ここへ来た者たちの中には、早く店へ戻りたいと思っている者もいるだろう。
町のためと言えば聞こえはよいが、その町に暮らす者たちにも生活がある。
「……喜八さんのおっしゃることは、もっともですな」
加兵衛は、預かっていた書付を机の上へ置いた。
「ただ、今の段階で町の銭を使い、大がかりな調査をするつもりはありません。まず、それぞれの商いの中で分かることを持ち寄ってはどうかと思っております」
「……商いの中で?」
「ええ。例えば長七さんなら、ご自分の旅籠でどれほど客を受け入れられるかは、今でも分かるでしょう」
「そりゃ分かりますよ。宿帳だってあるんだから」
「藤蔵さんなら、宿場の人足や馬の仕事をよくご存じです。敬之助さんは、運び賃や帳面について詳しい」
加兵衛は清兵衛へ顔を向けた。
「清兵衛は、最近、浦和の商人とも付き合いがあると聞きました。向こうへ行く機会があれば、何か話を聞けるかもしれません」
清兵衛は頷きかけたが、すぐに首を傾げた。
「……加兵衛さん。俺、役人の知り合いなんていませんよ」
「分かっておるよ。だから、いきなり役人に会ってくれと言っているわけではないんだ」
「……じゃあ、何を聞くんです?」
「それも含めて、これから考えるところだな」
加兵衛が笑うと、何人かもつられて笑った。
ただ、喜八だけはまだ納得していない様子だった。
「今の話なら、町の銭は使わないんですな?」
「ええ。少なくとも、今日ここで支出を決めるつもりはありません」
「自分の仕事の合間に、分かることを教える。それだけですか」
「まずは、そういうことです」
喜八はしばらく考え、ようやく口を開いた。
「……それなら、調べること自体には反対しません。ただし、町の銭を使う話になったら、必ずもう一度集まってもらいますよ」
「もちろんです」
「それと、人様の家を借りる話も同じです。調べたからといって、貸さなきゃならんということにはならない」
加兵衛は静かに頷いた。
「それも、皆さんで確かめておきましょう」
長七は、喜八の言葉を聞いて少し不満そうだったが、今度は何も言わなかった。
彼にも商売がある。
旅籠を広げるためなら多少の危険は引き受けられる。しかし、町中の人間が同じように銭を出せるわけではないことも、分かってはいた。
納得したというより、今はそれ以上言えることがなかった。
*
「……ところで、加兵衛さん」
それまで黙っていた藤蔵が口を開いた。
「今日は結局、何を決めるんです?」
その一言に、何人かが顔を上げた。
長七と喜八の話に気を取られ、肝心の岩槻からの申し出が、まだ机の上に置かれたままになっていた。
加兵衛はその書付を手に取った。
「岩槻への賛同については、今日この場で決めることは難しいと思います」
「でしょうな」
「ただ、何も分からないまま返事をするわけにもいきません。まずは蕨にどんな条件があるのか、確かめてみたいのです」
長七が尋ねた。
「……それじゃ、県庁を蕨へ呼ぶんですか?」
「いや、まだそこまでは決めません」
加兵衛は穏やかに答えた。
「今決めるのは、蕨に県庁を迎えることができるのか、その可能性を調べるかどうかです」
喜八が口を挟んだ。
「調べた結果、無理だと分かったら?」
「その時は、そういう結果を皆さんへお伝えすることになります」
「それでも県庁を呼ぶって言い出したら?」
「その時は、また話し合わなければなりませんな」
喜八はしばらく考えた後、頷いた。
「……それなら、今は構いません」
長七が少し笑った。
「喜八さんも、ようやく賛成か」
「調べることには反対しないと言ってるんだよ。県庁を呼ぶことに賛成したわけじゃない」
「分かってますって」
「どうだかね」
座敷に小さな笑いが起きた。
加兵衛はその間に書付を脇へ置き、新しい紙を広げた。
「それでは、分かることを少しずつ確かめていきましょう」
長七には、旅籠でどれほど人を受け入れられるのかを尋ねることになった。
今ある部屋で何人泊められるのか。人が増えた場合、寝具や食事は足りるのか。ほかの旅籠にも、無理のない範囲で話を聞いてもらう。
「それなら、うちの宿帳を見りゃ大体分かりますよ。ほかの旅籠にも、話を聞いてみましょうか」
長七はようやく自分の出番が来たとばかりに乗り出したが、加兵衛はその勢いに釘を刺した。
「まだ県庁を迎えると決まったわけではありませんよ。その点は誤解のないように」
「分かってますって。何でもかんでも言いふらすほど、俺だって暇じゃありませんよ」
「……どうだかな」
喜八が呟くと、長七はそちらを睨んだ。
藤蔵には、宿場の人足や馬の仕事について聞くことになった。
役人や商人が増えたからといって、今の宿場の仕事を止めることはできない。もし新しい仕事が入るなら、どの程度の人手が必要になるのか。それを考えるには、まず今の仕事を知る必要があった。
「今の人足の都合なら分かりますよ。ただ、県庁が来たら何人増えるかなんて話は、まだ分かりませんからね」
「それで結構です」
加兵衛は頷いた。
「誰かに勝手な約束をする必要もありません。今分かることを聞かせていただければ、それで十分です」
敬之助には、建物を使う場合の費用について、分かる範囲で考えてもらうことになった。
「ただし、どれだけの広さが必要なのか分からないうちは、正確な数字は出せません」
「承知しております。まず、何を知らなければ費用が出せないのか、それを教えていただきたい」
「それでしたら、整理してみます」
加兵衛は書付へ名前を書き加え、最後に清兵衛を見た。
「……清兵衛」
「はい」
「お前さんには、浦和で少し話を聞いてきてもらいたい」
「浦和ですか?」
「ああ。県庁が今、どんな事情で浦和に置かれているのか。役所のことを尋ねるなら、誰に話を通せばよいのか。そういうことを知りたいのです」
清兵衛は少し困った顔をした。
「……俺、役人に知り合いはいませんよ」
「さっきも聞いたよ」
加兵衛が笑うと、周りからも笑いが漏れた。
「だから、いきなり役人に会いに行けと言うわけではありません。浦和には商人の知り合いがいるんでしょう?」
「ええ。直吉さんとか、柏屋の藤兵衛さんとか」
「なら、まずその方々に聞いてみてはどうかと思いましてな」
清兵衛は少し考えた。
直吉も藤兵衛も、県庁の仕事に関わる品物を扱っている。
役人そのものではないが、役所へ出入りする商人の話なら、何か知っているかもしれない。
「……そういうことなら、聞けるかもしれませんね」
敬之助が横から口を開いた。
「清兵衛さん。次に浦和へ荷を運ぶ時に、合わせて訪ねてみてはいかがでしょう」
「そうだな。それなら仕事を休まずに済む」
喜八が、二人を見た。
「そのためだけに荷を増やしたり、高い運び賃を払ったりするんじゃないだろうね」
「しませんよ。そんなことしたら、何のために商売してるか分かんねえじゃねえですか」
清兵衛がそう答えると、喜八はようやく少し笑った。
「それなら結構」
加兵衛は、今日集まった男たちの名前と頼んだことを一通り書き終えると、筆を置いた。
「皆さん、もう一度だけ確かめておきます」
男たちが顔を上げた。
「岩槻への返事は、もうしばらく待っていただきます。蕨へ県庁を迎えるかどうかも、今日決めたわけではありません」
長七は頷き、喜八も今度は異を唱えなかった。
もっとも、喜八は町の銭を使う話になったら必ず相談してほしいと、最後まで念を押した。
加兵衛はそれを受け入れ、改めて皆に集まってもらうことを約束した。
こうして、蕨で最初の話し合いが終わった。
県庁を迎えると決まったわけではない。
それでも、各自が普段の仕事の中から、分かることを持ち寄ることになった。
大きな銭を動かすことも、誰かの家を借りることも、まだできない。
だが、何も知らないまま岩槻の書付へ名前を書くことだけは、避けられそうだった。
*
集まりが終わり、男たちがそれぞれ帰り始めると、岡田家の座敷にはようやく静けさが戻った。
清兵衛と敬之助も礼を言って帰ろうとしたが、加兵衛に呼び止められた。
「……清兵衛」
「はい」
「今日は、ありがとう」
「いや、俺は大したことしてませんよ」
「そんなことはない。お前さんが調べてみようと言ってくれたおかげで、少し話を進められた」
清兵衛は頭を掻いた。
「……俺も、何を調べりゃいいのか分かってなかったんですけどね」
「それでも構わんよ。最初から何もかも分かっている人間など、おらんだろうからな」
加兵衛は、長七たちが座っていた場所へ目を向けた。
先ほどまで、ここで自分の家を県庁に使えないかという話がされていた。
客を迎えるために建てられた座敷ではある。
しかし、それを役所へ貸すとなれば、これまでどおりの使い方はできなくなるかもしれない。
「……本陣のことは、驚きましたよ」
清兵衛が言った。
「長七さんが、あんなこと言うとは思わなかったもんで」
「私も、いずれ誰かに言われるかもしれんとは思っていたが、こんなに早いとはな」
加兵衛は苦笑した。
「でも、貸すつもりはないんですか?」
清兵衛が尋ねると、加兵衛は少し考えた。
「……分からんよ」
「分からない?」
「ああ。もし町のために使える場所があるなら、考えたいとは思っておる。ただ、家の者の暮らしもあるし、勝手に決められることではないからな」
「……そうですよね」
「それに、県庁を置くのに、どんな建物が必要なのかさえ知らんのだ。今ここで貸すとも貸さぬとも言えんよ」
加兵衛は静かに湯呑みを手に取った。
清兵衛は、それ以上尋ねなかった。
本陣を使えばいいという長七の話は、最初に聞いた時には悪くない考えに思えた。
しかし、ここには加兵衛の家族が暮らしている。
本人でさえ答えを出せないことを、自分が簡単に決められるはずもなかった。
「……じゃあ、俺たちは浦和へ行ってみます」
清兵衛が言うと、加兵衛は頷いた。
「頼みましたよ。まずは商人の方々へ話を聞くだけで構いません」
「ええ。荷の仕事と合わせて行けるようにしてみます」
敬之助も一礼した。
加兵衛は二人を見送った後、机の上に置かれた書付へ目を向けた。
岩槻から預かった紙には、相変わらず蕨の者の名は一つも記されていない。
その脇には、今日の集まりで書き出した別の紙があった。
長七、喜八、藤蔵、敬之助、清兵衛。
そこに書かれているのは、県庁誘致への賛同者ではない。
それぞれ、確かめなければならないことを持ち帰った人間たちの名前だった。
*
岡田家を出ると、中山道には夕方の人の流れが戻っていた。
旅籠の前では、到着した客の荷を下ろす人足が声を掛け合い、馬を引く男が通りの端へ寄っていく。店先では夕飯の支度が始まり、炊きたての飯の匂いが冷たい空気に混じっていた。
清兵衛と敬之助は並んで歩きながら、明日の荷の引き渡しが終わったら、浦和の商人へ使いを出してみようという話をしていた。
「……なあ、敬之助」
「はい」
「県庁ってのは、商人が訪ねていって話を聞けるもんなのか?」
「それは、相手にもよるでしょうね」
「……直吉さんなら、役所へ出入りする人間を知ってるかな」
「何かご存じかもしれません。ただ、直吉さんも役人ではありませんから、聞ける範囲は限られるでしょう」
「まあ、そうだよな」
清兵衛は浦和へ続く中山道の先を眺めた。
荷を運ぶ時なら、行き先がある。
受け取る相手も、運び賃も、あらかじめ確かめられる。
ところが今回は、誰に会えばよいのかさえ分からない。
「……こりゃ、荷を運ぶより面倒くさそうだな」
「そうかもしれませんね」
「……それで、銭になるのか?」
敬之助は少し考えた。
「今のところ、分かりません」
清兵衛は空を見上げた。
「……何だよ。今日は分かんねえことばっかりじゃねえか」
「だから、調べるんでしょう?」
清兵衛はしばらく黙っていたが、やがて自分でも可笑しくなったのか、声を上げて笑った。
「……そうだったな!」
敬之助も笑った。
浦和への道は、何度も通ったことがある。
それでも、今度は荷を運ぶためだけに行くわけではない。
蕨の町に県庁を迎えられるのか、まずはその話をどこへ持っていけばよいのかを知りたい。
何も分からずに帰ってくるかもしれないが、清兵衛は少しだけ楽しみにもなっていた。
知らない町へ荷を運ぶ時と、どこか似ている。
ただ、今度は行き先を知っていても、訪ねる相手が分からない。
中山道を北へ向かえば、浦和には着く。
その先の道は、まだ誰も教えてくれなかった。
***
おまけ 桜屋の夕暮れ
その頃、桜屋では勇吉が、いつもより余計に酒を飲んでいた。隣の客と燗酒のつけ方で口論になり、しまいには相手の身体の具合にまで文句をつけたものだから、女将とお鈴の二人にこっぴどく叱られている。
「勇吉さん! 人様に説教する前に、自分の酒癖を何とかしな!」
「俺は説教なんかしてねえって!」
「だったら、さっきから何を喋ってるのよ!」
お鈴にまで怒られた勇吉は、ようやく口を閉じた。
ところが女将が徳利を取り上げると、途端に声を上げた。
「おい! まだ残ってるだろ!」
「残ってるから取り上げたんだよ!」
桜屋にいた客たちが笑い出す中、勇吉だけは納得できない様子で、空になった盃を眺めていた。




