第五十二話 本陣を貸せ
岡田加兵衛から使いが来たのは、岩槻の升屋惣兵衛が蕨を訪ねてから二日後のことだった。
朝の仕事を片づけていた清兵衛は、敬之助から差し出された書付を読み、思わず顔を上げた。
「……もう集めるのか?」
「今日の昼過ぎに、都合のつく方々だけで話をするそうです」
「早えなあ、加兵衛さんも」
「岩槻から預かった書付がありますからね。いつまでも返事をしないわけにはいかないのでしょう」
清兵衛はもう一度、短い書付へ目を落とした。
県庁の件につき、相談したきことあり。
それだけだった。
あの日、岩槻から来た惣兵衛を前に、清兵衛は蕨へ県庁が来たらどうなるのかと口にした。
別に、大それた考えがあったわけではない。浦和も岩槻も、それぞれ自分の町のことを考えているのに、蕨だけが最初から話の外に置かれている。それが面白くなかっただけだ。
ところが加兵衛は、その場で笑って済ませなかった。
町の者にも考えを聞いてみる。
そう言って、本当に人を集め始めたのである。
「……なあ、敬之助」
「はい」
「今日、お前も来てくれるんだろ?」
「もちろん、そのつもりですが」
「よかった。俺一人で行ったら、また余計なことを言いそうだからよ」
敬之助は少し考えてから笑った。
「ご自分で分かっておられるなら、少し安心ですね」
「……何だよ。俺だって反省する時はあるんだぞ」
「存じております。たいてい、何かおっしゃった後ですが」
清兵衛は口を開きかけたものの、言い返すのをやめた。
思い当たることが多すぎた。
敬之助はその横で、午後の仕事に支障がないか帳面を確かめていた。預かっている荷の引き渡しもあれば、先日から柿の木の家に置かせてもらっている荷のこともある。町の相談へ出向くからといって、荷主との約束を放っておくわけにはいかなかった。
「明日の荷は大丈夫か?」
「引き渡しは明日の朝です。今日のうちに準備をしておけば間に合います」
「じゃあ、そっちは先にやっちまおう」
清兵衛は羽織を脇へ置き、仕事に戻った。
県庁のことが気にならないわけではない。
しかし、目の前の荷をきちんと届けなければ、明日の飯にも困る。
蕨の町がどうなるかという大きな話も、清兵衛にとっては、いつもの商売の合間に始まろうとしていた。
*
昼過ぎの岡田家には、すでに何人かの町人が集まっていた。
表から案内されて奥へ進む途中、清兵衛は廊下の向こうに続く座敷を眺めた。何度も訪ねたことのある家だったが、先日から県庁の建物という話を聞かされているせいか、今日は妙に広さが気になった。
昔から大名や公家を迎えてきた本陣である。
普通の商家とは造りも違うのだろうが、清兵衛には、その違いを説明できるほどの知識はない。広い座敷を見れば、なるほど役人が集まることもできそうだと思う一方で、ここには加兵衛の家族も暮らしているはずだった。
「……何を見てるんだ」
先に座敷へ入っていた藤蔵が、清兵衛へ声を掛けた。
「いや、広い家だなと思ってよ」
「今さらか?」
「今までは、そんなこと考えもしなかったからな」
藤蔵は清兵衛が見ていた座敷の方へ目を向けた。
「ここは昔から、そういう家だ。お前が今日気づいたからって、広くなったわけじゃねえぞ」
「分かってるよ」
やり取りを聞いていた加兵衛が笑った。
「まあまあ。二人とも、こちらへ座りなさい。まだ全員は揃っておらんが、そろそろ始めようと思っていたところだ」
集まったのは、加兵衛を含めて八人ほどだった。
清兵衛と敬之助、藤蔵のほかに、旅籠を営む松葉屋長七、貸家や畑を持つ喜八、米を扱う商人、それに宿場の商いに関わる者が数人、顔を揃えていた。
長七は、まだ四十には届かない年頃の男である。親から継いだ旅籠を少しでも大きくしたいと考えているらしく、商売の話になると、いつも周りより一歩早く口を開く。
一方の喜八は五十を過ぎた男で、何をするにも先に銭と手間を確かめることで知られていた。昔からの付き合いがある清兵衛も、喜八が何かに飛びつくところを見たことがない。
正反対の二人だったが、普段は取り立てて仲が悪いわけでもなかった。
ところが今日は、まだ話が始まる前から、長七が喜八へ何やら説明している。
「だからよ、役人が増えりゃ宿へ泊まる人間だって増えるだろ?」
「そうとは限らんだろう。役人が皆、宿に泊まるわけでもあるまいし」
「役人だけじゃねえよ。役所に用のある商人だって来るじゃねえか」
「その商人が、必ずお前さんの宿へ来るとも限らんがね」
「……喜八さんは、相変わらず夢のねえこと言うなあ」
「夢で銭が払えるなら、幾らでも見てるよ」
清兵衛は二人のやり取りを聞いて、思わず笑った。
どうやら、県庁が来たら何が変わるのかという話は、すでに町のあちこちで始まっているらしい。
「皆さん、そろそろよろしいですかな」
加兵衛が声を掛けると、男たちは話をやめ、それぞれ座り直した。
膝の前には、岩槻から預かった書付が置かれている。
「今日は忙しいところを集まっていただいて、申し訳ありません。少しばかり、皆さんの考えを聞いておきたいことがありましてな」
加兵衛は書付を開いた。
「先日、岩槻の商人が訪ねてきました。県庁を岩槻へ置くよう願い出るにあたって、蕨からも賛同する者を募りたいという話です」
長七がすぐに尋ねた。
「県庁って、もう浦和で仕事を始めてるんじゃないんですか?」
「今は浦和の旧庁舎を使っております。ただ、岩槻へ置くと定められた経緯もありますので、向こうでは納得していない者がいるようです」
「そりゃ、岩槻の連中も面白くねえだろうな」
藤蔵が言った。
「県庁が来ると思って、商売の支度をしてた者もいるそうだ」
「そうでしょうよ。役人が増えりゃ、使う物も増える。宿へ泊まる客だって多くなるはずだ」
長七は、いかにも羨ましそうだった。
喜八はその横で黙って書付を眺めていたが、しばらくして加兵衛へ尋ねた。
「これに名前を書いたら、どうなるんです?」
「岩槻へ県庁を置いてほしいという願いに賛成したことになるでしょうな」
「それだけですか?」
「今のところ、それ以上のことは聞いておりません」
「後から銭を出せと言われるような話は?」
「そういう約束を求められたわけではありません。ただ、岩槻でも庁舎に使う建物の問題があるそうです」
喜八は少し眉を寄せた。
「……だったら、気軽に名前なんて書けませんな」
長七が口を挟んだ。
「名前を書くくらいなら、いいんじゃねえですか。岩槻へ県庁が行ったって、蕨には大して損はないでしょう」
「損がないと、どうして分かるんだい」
喜八の返事は早かった。
「今のまま浦和に県庁があった方が、蕨にとっちゃ便利かもしれない。荷を運ぶにしたって、中山道を北へ行けばいいんだからね」
「まあ、それはそうだけど……」
「岩槻へ置いた方が得だと言えるなら、その話を聞いてからでも遅くはないだろう」
加兵衛は二人のやり取りを聞いていたが、すぐには意見を言わなかった。
長七の言うことにも一理ある。喜八の慎重さも、町のことを考えるうえでは必要だった。
しかし、今日集まってもらった理由は、岩槻への賛同を決めることだけではない。
「……皆さん、もう一つ聞いていただきたいことがあります」
加兵衛が声を掛けると、座敷が静かになった。
「実は、惣兵衛さんが来られた時、少し変わった話が出ましてな」
加兵衛が清兵衛を見た。
清兵衛は嫌な予感がした。
「……何です?」
「お前さんが言い出したことだろう」
「ああ……あれですか」
長七が興味を示した。
「何だよ、清兵衛。何か面白い話でもあるのか?」
「いや、面白いかどうかは知らねえけど……」
清兵衛は頭を掻いた。
「岩槻に県庁が来たら、蕨にも仕事が回るかもしれねえって話だったんだよ。だったら、蕨へ来た方がもっと儲かるんじゃねえかって、ちょいと言っただけだ」
長七が目を丸くした。
「……蕨へ県庁を?」
「ああ」
「そりゃ面白え!」
思わず膝を叩いた長七の声に、喜八が顔をしかめた。
「何が面白いんだい」
「だってよ、県庁が蕨へ来るんだぞ。役人も商人も集まるだろうし、客だって増える。宿をやってる身としちゃ、こんなありがてえ話はねえよ」
「……まあ、お前さんの宿にはありがたいだろうな」
「何だよ、その言い方は」
「ほかの者にもありがたいかどうかは、まだ分からんと言ってるんだ」
長七は不満そうだったが、今度は喜八へ言い返さず、加兵衛を見た。
「でも、考えてみるくらいはいいでしょう? 浦和がいいとか、岩槻がいいとか、ほかの町が言ってるんだから、蕨だって名乗りを上げたっていいじゃありませんか」
「そういう考え方もありますな」
加兵衛は答えた。
「ただ、県庁を迎えるには役人が仕事をする場所が必要になります。どれだけの広さが要るのかも、まだ分かっておりません」
「建物ですか?」
「ええ。帳面や書付を保管する場所も要るでしょうし、役人が毎日仕事をする部屋も必要でしょう」
長七は顎に手を当て、少し考えた。
やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「……だったら、あるじゃありませんか」
「何がです?」
「本陣ですよ」
座敷にいた男たちが長七を見た。
「この蕨には、立派な本陣が二軒もあるでしょう。加兵衛さんのところもそうだし、五郎兵衛さんのところだってある。昔からお偉い方を迎えてきたんだから、役所に使える場所だってあるんじゃねえですか?」
何人かが、なるほどと声を上げた。
清兵衛も、つい周囲を見回した。
確かに広い。
加兵衛の家には、客を迎える座敷もあれば、奥には別の部屋が続いている。ここを使えば、役所を一から建てるより早いのかもしれなかった。
「……加兵衛さん」
長七はさらに身を乗り出した。
「町のために、本陣を貸してもらうってわけにはいきませんか?」
それまで加兵衛の話に頷いていた男たちも、この言葉を聞いて少し黙った。
頼んだ相手は、今まさに自分たちが座っている家の主人である。
長七もそのことに気づいたのか、慌てて言葉を足した。
「いや、もちろん、ただで貸せなんて話じゃありませんよ。借り賃が要るなら払うべきだし、直すところがあれば町の者で銭を出し合ったっていい」
加兵衛は、すぐには答えなかった。
座敷の外では、奉公人が廊下を通る足音がしていた。家の奥では今日も商いが続き、家族が暮らしている。ここに座っている男たちにとっては県庁に使えそうな広い建物でも、加兵衛にとっては先代から受け継いだ家だった。
「……長七さん」
「はい」
「お気持ちは分かります。ただ、そこまで簡単な話ではありませんよ」
「と、言いますと?」
「この家には、今も人が暮らしております。商いに使う部屋もあれば、物を預かっている場所もある。昔から人を迎えるための座敷があるとはいえ、役所へ貸すとなれば、家の者の暮らしをどうするか考えなければなりません」
「全部貸さなくたって、いいでしょう?」
「そのためには、どれだけの場所が必要なのかを知らなければなりませんな」
加兵衛は一度言葉を切った。
「それに、もう一軒の本陣についても、私が勝手に使ってよいと言えるものではありません」
喜八が静かに口を開いた。
「そういうことだよ。長七、お前さんは人様の家を使えばいいと言うが、家の者にとっては毎日の暮らしがあるんだ」
「分かってますよ。だから、借り賃も払うし、町の者で負担を分けりゃいいって言ってるんです」
「その町の者って、誰のことだい?」
「……何だよ」
「建物を直す銭を出すのは誰だ。借り賃はどこから持ってくる。お前さんが払うのか?」
「俺だって、出せる分は出しますよ!」
長七の声が少し大きくなった。
その反応は、喜八の予想と違っていたらしい。
「……本気で言ってるのかい」
「当たり前だろ。うちの旅籠だって、県庁が来るなら客を泊めるために直さなきゃならねえところがある。布団も増やさなきゃならねえし、人も雇うことになるかもしれねえ」
長七は座敷の男たちを見回した。
「俺は、そういう銭を使ってもいいと思ってるんですよ。役人が来て、商人が来て、町が賑やかになるんなら、最初に多少の銭が掛かるのは仕方ねえでしょう」
清兵衛は、少し意外に思った。
長七が県庁を欲しがるのは、客が増えるからだろうと考えていた。
だが、この男なりに銭を使う覚悟はあるらしい。
喜八は相手を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……そうかい」
「そうですよ」
「だったら、一つ聞くが、お前さんの旅籠を役所へ貸してくれと言われたらどうする?」
長七は口を閉じた。
自分の宿に役人を泊めることと、宿を役所として明け渡すことは違う。
そんなことは分かっている。
分かってはいたが、先ほど自分が加兵衛へ頼んだことを思えば、簡単に嫌だとも言えなかった。
「……全部は無理ですよ」
長七は、やがてそう答えた。
「客を泊められなくなっちまうからな。ただ、部屋の一つや二つなら、使い方によっちゃ貸せるかもしれねえ」
「その間、客が泊まれなくてもかい?」
「借り賃が貰えるなら、考えますよ。役所から人が来るようになりゃ、ほかの客だって増えるかもしれねえんだ」
喜八は小さく息を吐いた。
「……お前さんは、そこまで考えてるんだな」
「何だよ。自分の儲けのことしか考えてねえと思ってたのか?」
「儲けのことを考えるのは悪いことじゃないさ。ただ、誰かが損をする話なら、その人間の考えも聞かなきゃならんと言ってるんだ」
「それは俺だって分かってるよ」
「だったら、加兵衛さんの家を貸すなんて、本人が決める前に言うもんじゃないだろう」
長七は少し不満そうだったが、今度は声を荒らげなかった。
加兵衛は二人のやり取りを聞きながら、何度か口を開きかけていた。
長七の考えには勢いがある。
喜八の言うことももっともだ。
しかし、二人とも間違っていないからこそ、話は簡単にまとまらなかった。
「……長七さん」
加兵衛が声を掛けた。
「町のために、自分の宿も使えるなら貸してよいとお考えなのは分かりました」
「ええ」
「ただ、私の家については、今ここでお約束することはできません。どれほどの場所が必要なのか、それを誰がいつまで使うのか、何も分かっておりませんから」
長七は少し考えてから頭を下げた。
「……そりゃ、そうですね。少し先走っちまいました」
「いえ。考えていただけるのはありがたいことです」
加兵衛は穏やかに答えた。
「ただし、町のためという言葉だけで、誰かに負担をお願いするわけにはいきません」
その言葉を聞いていた清兵衛が、思わず口を挟んだ。
「……でもよ、加兵衛さん」
「何だい」
「使える場所があるかどうかは、調べてみてもいいんじゃねえですか?」
「もちろん、それは構わんよ」
「だったら、まず県庁を置くのに何が必要なのかを調べる方が先じゃねえかな。広さも分かんねえのに、誰の家を貸すか決めたって仕方ねえだろ」
長七も喜八も、清兵衛を見た。
清兵衛は少し居心地が悪くなったが、続けた。
「俺たちだって、荷を運ぶ前にはどんな荷か調べるんだよ。重さも行き先も分かんねえのに、いくらで運べるかなんて約束できねえからさ」
「……なるほど」
長七が頷いた。
清兵衛は少し安心したが、喜八の表情は変わらなかった。
「調べるのは結構だよ」
喜八が言った。
「だが、調べるだけでも人の手間は使うだろう。商売を休む者もいるかもしれんし、浦和まで出向くなら道中の費用も掛かる」
喜八は清兵衛から加兵衛へ視線を移した。
「その銭は、誰が出すんだい?」
清兵衛は返事に詰まった。
県庁を迎えると決める前に、調べるだけなら構わない。
そう思って口にしたのだが、その調べるための銭を誰が払うのかまでは、考えていなかったのである。




