第五十一話 名を貸さぬ町
「……それは、今すぐには何とも」
惣兵衛は、ようやくそう答えた。
「ただ、岩槻へ役所が来れば、そこへ納める品物も増えます。蕨の商人にお願いする仕事も出てくるでしょう」
「お願いしていただけると、決まっているんですか?」
「いや、そこまでの約束は……」
「それでは、まだ分かりませんな」
加兵衛の口調は穏やかだった。
けれども惣兵衛には、少しずつ逃げ道を塞がれているように感じられた。
こちらは岩槻の利益を考えて動いている。そのことは隠すつもりもない。しかし、蕨の人間にとっての利益となると、確かなことを言える材料が少なかった。
「……もう一つ、伺ってもよろしいですかな」
加兵衛が書付へ目を落とした。
「岩槻では、県庁に使う建物の目処は立っているんですか?」
惣兵衛は、今度こそ言葉に詰まった。
「建物、でございますか」
「ええ。浦和では旧庁舎を使っておりますな。岩槻へ移すとなれば、当然そちらでも役人が仕事をする場所が必要でしょう」
「……その件は、町でも相談しております」
「使える建物が決まったということですか?」
「いえ。候補になる建物はありますが、まだ持ち主との話がまとまっておりません」
惣兵衛は膝の上で手を組み直した。
岩槻にも城下町としての建物はある。しかし、建物があることと、役所へ使わせてもらえることは別だった。
使うために直さなければならないところもあるだろう。誰がその銭を出すのか。持ち主は承知するのか。岩槻の商人たちの間でも、その話になると意見が分かれていた。
「……町の者が皆、県庁を迎えることに賛成しているわけでもありません」
惣兵衛は続けた。
「商売が増えると喜ぶ者もおりますが、建物を提供する話や、銭を出す話になると、なかなかまとまらないのです」
「なるほど」
「それでも、最初に岩槻へ置くと定められたのです。何とか話をまとめたいと、私どもは考えております」
加兵衛は惣兵衛の方へ身体を向けた。
「お気持ちは分かります。ただ、蕨の者に岩槻を支持してくれと言うなら、蕨にとって何が良いのか、もう少し考えていただきたい」
「……もっともなお話です」
惣兵衛は頭を下げた。
清兵衛は、そのやり取りを聞きながら妙な気分になっていた。
岩槻には県庁を迎えるという話があった。それなのに、建物も決まっていないという。
蕨にだって県庁に使える建物があるのか分からないのだから、岩槻のことを笑えるわけではない。それでも、最初から何もかも揃っている町ばかりではないのだと知り、少し意外だった。
「……惣兵衛さん」
「はい」
「岩槻の人は、みんな県庁を欲しがってるんですか?」
「……みんな、ですか」
「ああ。商人には得があるって話だけど、そうじゃねえ人もいるだろ」
惣兵衛は加兵衛の顔を見てから、ゆっくり答えた。
「意見は分かれております。役所のために家や土地を使わせるのを嫌がる者もおりますし、昔からの事情を気にする者もおります」
「……じゃあ、岩槻でもまだ決まってねえんだな」
「県庁を迎えたいという者はおります。ですが、そのために何をするかとなると、話は別です」
清兵衛は黙った。
町の中に住む人間が、皆同じ考えで動くわけではない。
それなら、蕨だって同じだろう。
加兵衛は書付を脇へ置いた。
「惣兵衛さん。お気持ちは分かりました。ただ、この場で蕨の賛同をお約束することはできません」
「……やはり、難しいでしょうか」
「難しいかどうかも、まだ分かりません。まず町の者の考えを聞かなければならないでしょう。蕨の名を出す以上、私一人で決めてよい話でもありませんからな」
惣兵衛は頭を下げた。
「それは、承知しております」
しかし、このまま帰れば何の成果もない。
岩槻では、周りの町からどれだけ賛同を得られるかという話になっている。蕨から一人でも名を貰えれば、次の町へ行く時にも話がしやすくなるはずだった。
ところが加兵衛は、その一人の名すら簡単には許さなかった。
惣兵衛は、用意してきた書付を見た。
まだ余白は広い。
その時だった。
「……なあ、惣兵衛さん」
清兵衛が口を開いた。
「岩槻へ県庁が来たら、蕨にも仕事が回るかもしれねえんだよな」
「ええ。そう考えております」
「じゃあ、蕨へ県庁が来たらどうなるんだ?」
惣兵衛は顔を上げた。
加兵衛も、清兵衛の方を見た。
「……蕨へ?」
「ああ」
清兵衛は、県庁を蕨へ持ってこようと決めたわけではなかった。
ただ、岩槻は県庁を欲しがり、浦和には今、その県庁がある。川口でも県庁の仕事を得ようと考える商人がいるというのに、蕨はほかの町のために名前を貸すことしか求められていない。
それがどうにも引っ掛かっていた。
「県庁が来れば、人も荷も集まるって言うんだろ?」
「……ええ」
「だったら、蕨へ来たって同じじゃねえのか?」
惣兵衛は返事をしかけて、口を閉じた。
目の前の男は、思いついたことをそのまま口にしているだけに見える。
県庁を迎えるための建物も、役人に働きかける方法も知らないのだろう。
しかし、ここで一笑に付せば、加兵衛にどう受け取られるか分からなかった。
「……清兵衛さんとおっしゃいましたか」
「ああ」
「蕨にも、県庁を置きたいと?」
「いや、まだそこまでは考えてねえよ」
清兵衛は苦笑した。
「ただ、岩槻へ来れば蕨も儲かるって言うなら、蕨へ来たらもっと儲かるんじゃねえのかと思っただけだ」
惣兵衛は加兵衛へ目を向けた。
加兵衛はすぐには口を開かなかった。
惣兵衛が何より気になったのは、その沈黙だった。
「……清兵衛」
ようやく加兵衛が口を開いた。
「お前さん、県庁がどういうものか分かって言っているのかい」
「……いや、正直よく分かってません」
「だろうな」
加兵衛が笑ったので、敬之助もつられそうになった。だが、続く言葉を聞いて、すぐに表情を改めた。
「だが、分からないからといって、最初から考えもしないというのも、おかしな話かもしれんな」
「……加兵衛様?」
惣兵衛は思わず聞き返した。
「もちろん、蕨に県庁を置くとなれば、簡単ではありません。建物も要る。土地も要る。役人が仕事をするための場所や、それを支える人間も必要になるでしょう」
清兵衛は黙って聞いていた。
「それに、そういうものを揃えるには銭が掛かります。誰が出すのか、町の者がどう考えるのか、何も決まっておりません」
「……そうですよね」
「ただ、岩槻へ県庁を置くことに賛成するかどうかを考えるなら、浦和にある場合と比べなければなりません」
加兵衛は惣兵衛の書付を指さした。
「そして、比べるというなら、蕨自身のことも考えずに済ませてよいのか。お前さんが言っているのは、そういうことだろう?」
清兵衛は少し考えた。
「……まあ、そういうことです」
加兵衛は静かに頷いた。
惣兵衛は、ここへ来て初めて、自分が持参した書付の別の意味に気づいた。
岩槻に県庁を置くことへ、蕨も賛同してほしい。そのために訪ねてきた。
だが、加兵衛から見れば、岩槻に賛同するべきかどうかを判断するために、ほかの町と蕨を比べる機会を与えたことにもなる。
今の蕨に県庁を迎える力があるとは思えない。
それでも、余計な話を持ち込んでしまったのではないかという気持ちが、惣兵衛の胸をかすめた。
「……加兵衛様」
惣兵衛は慎重に口を開いた。
「蕨でも、県庁を迎えることをお考えになるのでしょうか」
加兵衛は首を横に振った。
「まだ何も決めておりませんよ。清兵衛の思いつきで、蕨の町が動くわけでもありません」
清兵衛が苦笑すると、加兵衛も小さく笑った。
しかし、すぐに真面目な顔へ戻った。
「ただし、惣兵衛さん。岩槻を支持するかどうかも、町の者に話を聞いてから決めたいと思います」
「……承知しました」
「それまでは、どうか蕨の名を賛同者の中へ入れないでいただきたい」
惣兵衛は深く頭を下げた。
「もちろんでございます」
加兵衛が書付を返そうとすると、惣兵衛はそれを押しとどめた。
「よろしければ、こちらはお預けしてまいります。岩槻側が何を求めているのか、町の皆様にもお読みいただければと思いますので」
「分かりました。預かりましょう」
加兵衛は書付を受け取った。
惣兵衛は手代とともに席を立ち、丁寧に礼をして座敷を出た。
清兵衛は、その後ろ姿を見送りながら何となく落ち着かない気分でいた。
今朝までは、県庁をどこへ置くかなど自分とは関係のない話だと思っていた。それが、岩槻から来た商人を相手に、蕨へ県庁を置く話までしてしまったのである。
考えてみれば、随分と大きなことを口にしたものだった。
*
惣兵衛たちが帰った後、加兵衛は預かった書付を膝の前へ置いた。
「……清兵衛」
「はい」
「お前さん、さっきは随分なことを言ったな」
清兵衛は頭を掻いた。
「……すみません。余計なことを言っちまいましたかね」
「いや。余計かどうかは、まだ分からんよ」
加兵衛は書付を閉じた。
「ただ、蕨へ県庁を置くというのは、口で言うほど簡単な話じゃない」
「……それは、分かりました」
「いや、まだ分かっておらんだろう」
加兵衛が笑うと、清兵衛も苦笑した。
「……まあ、そうですね」
「県庁が来れば、人は増えるだろう。商売も増えるかもしれん。だが、それを迎えるために町が何を用意しなければならないのか、誰が負担するのか、今の我々には何も分からん」
加兵衛は庭へ目を向けた。
「旅籠の主人は客が増えると喜ぶかもしれん。商人も商売が増えると思うだろう。しかし、土地を出せと言われる者はどうだ。家を貸せと言われる者はどう思う?」
清兵衛は黙った。
荷を運ぶ時も同じだった。
荷主は安く運びたい。運び手は十分な賃銭が欲しい。間に入る自分たちだって、手数料がなければ商売にならない。
県庁を迎えるというのは、その何倍も大きな話なのだろう。
「……加兵衛さん」
「何だい」
「じゃあ、蕨の人たちは、どう考えてるんですかね」
「それを聞いてみる必要があるだろうな」
加兵衛は敬之助へ目を向けた。
「お前さんはどう思う?」
「私は、まず蕨へ県庁を置くことに何が必要なのか、確かめたいと思います。それが分からなければ、賛成するにも反対するにも判断できませんので」
「……そうだな」
加兵衛は預かった書付へ視線を戻した。
岩槻へ県庁を置くべきだという願い。
そこに蕨の名を加えてほしいという申し出。
そのどちらに対しても、今すぐ返事を出すことはできなかった。
「……何人か、町の者に声を掛けてみるか」
清兵衛が顔を上げる。
「話し合うんですか?」
「ああ。岩槻へ賛同するにしても、断るにしても、私一人で決めるわけにはいかんからな。それに、お前さんの言ったことも、一度くらいは考えてみてもよかろう」
「……俺の?」
「蕨へ県庁が来たらどうなるのか、という話だよ」
「いや、俺はそんな大それたことを……」
「分かっておる。思いつきだろう」
加兵衛は笑った。
「だが、岩槻の話を聞いて初めて考えるのも、悪いことではあるまい」
清兵衛はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり頭を下げた。
「……分かりました。俺にもできることがあったら言ってください」
「その時は頼むよ。ただし、勝手に県庁を持ってくる約束だけはするなよ」
「……さすがに、そんなことできませんよ」
敬之助も笑った。
加兵衛は書付を机の上へ置き、別の紙を引き寄せた。
町の商人や土地を持つ者、宿場の仕事に関わる者たちの顔を思い浮かべながら、一人ずつ名前を書き始める。
話し合ったところで意見がまとまる保証はない。
それでも、岩槻からの申し出を受けた以上、蕨の名を勝手に貸すわけにはいかなかった。
加兵衛が最初に書き出したのは、賛同者の名前ではなかった。
まず、話を聞かなければならない町の人間たちだった。
*
岩槻へ戻る道を進みながら、惣兵衛は今日の出来事を何度も思い返していた。
冬の陽は傾き始め、草履の底から冷たさが伝わってくる。
隣を歩く手代は、主人がいつになく口数の少ないことを気にしていた。
「……旦那様」
「何だ」
「蕨は、賛同してくれそうですかね」
「……今のところは、分からんな」
「加兵衛様は、すぐには決められないとおっしゃってましたね」
「ああ。もっともな話だ」
惣兵衛はそう答えながら、懐へ手を入れかけた。
そこで、書付を加兵衛の家へ預けてきたことを思い出した。
岩槻を支持する者の名前を一つでも加えてもらうつもりで持ってきた紙だったが、結局、誰の名も得られなかった。
手元に残ったのは、加兵衛からの返事を待つという約束だけである。
「……旦那様?」
手代に呼ばれ、惣兵衛は顔を上げた。
「いや、何でもない」
少し歩いてから、手代がまた尋ねた。
「それにしても、あの清兵衛という人、妙なことを言いましたね」
「……蕨へ県庁を、か」
「はい。本当にそんなことを考えてるんでしょうか」
「本人は、まだそこまで考えていないようだったな」
「じゃあ、心配するほどのことじゃありませんか」
「そうかもしれん」
惣兵衛は前を向いた。
蕨には、県庁として使えると決まった建物もない。
役人へ願い出るための話し合いも、まだ始まっていない。
清兵衛という男も、県庁を迎えるために何が必要なのか、ほとんど知らなかった。
それを考えれば、今すぐ岩槻の競争相手になるとは思えない。
「……だが、加兵衛殿は笑って済ませなかったな」
「え?」
「蕨へ県庁を置くという話だよ」
手代は黙った。
「本気で迎えようという話ではないだろう。だが、加兵衛殿は町の者の考えを聞くと言った」
「それなら、岩槻を支持してくれる人もいるかもしれませんね」
「そうだな」
惣兵衛は、加兵衛とのやり取りを思い返した。
岩槻へ県庁が来れば蕨にも仕事が増える。
そう説明するつもりだった。
しかし加兵衛は、浦和に置かれた場合と比べて、岩槻の方が得だと言えるのかと聞いてきた。
惣兵衛には、答えられなかった。
そもそも岩槻自身の中でも、役所に使う建物の話がまとまっていないのである。
「……戻ったら、皆に話しておこう」
「今日のことをですか?」
「ああ。賛同は得られなかった。それに、蕨の者はまだ何も決めていない」
「蕨へ県庁を置くという話も?」
惣兵衛は少し迷った。
岩槻の商人たちが聞けば、笑い飛ばすかもしれない。
あるいは、蕨が県庁を欲しがっていると早合点する者もいるだろう。
どちらも、加兵衛の家で実際に聞いた話とは違っている。
「……それも話す。ただし、あの町が県庁を欲しがっていると決まったわけじゃない。そのことは、はっきり伝えておこう」
「はい」
惣兵衛は足を速めた。
岩槻へ戻れば、ほかの商人たちが今日の返事を待っている。
賛同者の名は、一つも持ち帰れなかった。
それでも、報告しなければならないことはあった。
蕨は、こちらが思っていたほど簡単に名前を貸してくれる町ではなかった。
そして何より、惣兵衛には気になることが一つ残っていた。
加兵衛は、岩槻を支持するとも、浦和を支持するとも言わなかった。
ならば、町の者たちと話し合った末に、どんな答えを出すのか。
今はまだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、蕨はまだ、岩槻の味方になるとは言っていないということだった。
***




