第五十話 岩槻からの使い
「……そんなに、蕨は駄目な町かねえ」
清兵衛が店へ戻るなり呟くと、敬之助は帳面を閉じながら答えた。
「駄目だとは言われておりませんよ」
「でも、誰も県庁を置こうなんて考えてねえんだろ」
「少なくとも、直吉さんは聞いたことがないそうですね」
「……お前はどう思う?」
敬之助は、すぐには答えなかった。
県庁を迎えるというのは、荷車を一台増やすような話ではない。役人が毎日仕事をするための建物や、それを支える人間が必要になることくらいは分かる。しかし、それらをどう用意するのかとなると、敬之助にも見当がつかなかった。
「私は、まだ県庁が来たら何が必要なのかも分かりません。ただ、土地や建物のことでしたら、岡田加兵衛さんに伺うのがよろしいかと」
「加兵衛さんか」
「ええ。町の商売にも関わっておられますし、ほかの町の事情もご存じでしょう」
「だったら、聞きに行ってみるか」
清兵衛は早速立ち上がったが、敬之助がその袖を引いた。
「お待ちください。突然伺うより、まず都合を聞いた方がよろしいかと」
「……聞くだけだぞ」
「相手にもご都合がありますから」
清兵衛は座り直し、苦笑した。
「分かったよ。使いを出そう」
ちょうどその時、藤蔵が店の前を通り掛かった。
清兵衛が声を掛けると、藤蔵は面倒そうに振り返った。
「……また荷の話か?」
「いや、今日は違う。県庁のことだ」
「県庁?」
事情を聞いた藤蔵は、すぐには返事をしなかった。
「……お前、また随分大きな話を持ってきたな」
「持ってきたわけじゃねえよ。ちょいと気になっただけだ」
「県庁なんて、町の者が勝手に決められる話じゃねえぞ」
「それくらいは分かってる」
「だったら、加兵衛さんに聞け。町の土地や銭のことなら、俺よりよほど詳しい」
清兵衛は笑った。
「今、ちょうどそう話してたところだよ」
「そうか」
藤蔵は頷いたが、何か思い出したように足を止めた。
「……なら、都合がいいかもしれねえな」
「何が?」
「岩槻から、加兵衛さんのところへ人が来るらしい」
「岩槻?」
「ああ。県庁のことだそうだ。昨夜、使いが蕨へ着いて、今日あたり加兵衛さんへ話をしに行くと聞いた」
「……何だって?」
清兵衛は思わず敬之助を見た。
今朝、直吉から県庁を巡る町の事情を聞いたばかりだった。
岩槻の商人は、もう蕨まで人を寄越しているという。
「お前が今朝になって県庁のことを考え始めたってのに、向こうはもう人を動かしてるんだ」
藤蔵は清兵衛の顔を見た。
「いいか。加兵衛さんのところで、蕨を代表するようなことを勝手に言うなよ」
「分かってるって」
「本当か?」
「今日は話を聞くだけだ」
敬之助が横から口を添えた。
「私もご一緒しますので」
「……だったら、少しは安心だな」
「おい、藤蔵さんまでそれかよ」
清兵衛が不満そうな顔をすると、藤蔵は笑いながら仕事へ戻っていった。
敬之助は早速、加兵衛のもとへ使いを出した。
しばらくして、昼過ぎなら話を聞けるという返事が届く。
「……会ってもらえるそうですよ」
「ありがてえな」
「ただ、先に岩槻の方がお見えになっているかもしれないそうです」
「だったら、俺たちも話を聞けるかもしれねえな」
清兵衛は羽織を取った。
この時はまだ、岩槻の使いが何を持ってきたのか、詳しくは知らなかった。
*
岡田加兵衛の家へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
表で来意を告げると、加兵衛は店の奥から顔を出し、清兵衛たちを見て少し驚いた様子だった。
「ちょうどよかった。お前さんたちも、こちらへ座りなさい」
「……邪魔じゃねえですか?」
「かまわんよ。どうせ蕨の商いにも関わる話だ」
通された座敷には、すでに二人の男がいた。
一人は四十を幾つか越えた頃だろうか。日焼けした顔には細かな皺が刻まれ、質素な羽織も足袋もよく手入れされている。もう一人は若い手代らしく、書付の入った包みを脇に置いて控えていた。
「岩槻の升屋惣兵衛と申します」
男は清兵衛たちへ軽く頭を下げた。
「岩槻で油や日用品を商っております。今日は県庁のことで、加兵衛様にご相談がありまして」
「県庁?」
清兵衛が思わず声を出すと、加兵衛が苦笑した。
「お前さんも、その話を聞きに来たんだろう。なら、惣兵衛さんの話を一緒に聞けばいい」
惣兵衛は加兵衛へ一度頭を下げ、改めて口を開いた。
「ご承知のとおり、埼玉県の県庁は岩槻へ置くと定められておりました。ところが、今は浦和の旧庁舎で仕事をしております」
「そう聞いております」
「当分の間という話ではありますが、その当分がいつまでなのか分かりません。このまま浦和で仕事を続けられては、いつの間にか話が変わってしまうのではないかと心配する者もおりまして」
加兵衛は黙って聞いていた。
「岩槻には、県庁が来ることを見込んで商売の支度をした者もおります。私も、その一人です」
惣兵衛は少し苦い顔をした。
「役所ができれば人も物も集まる。油も紙も、炭も米も売れるだろうと思っておりましたが、今のところ役人は浦和へ行ってしまった」
「それで、岩槻へ戻してほしいと?」
「ええ。少なくとも、最初に定めたとおり岩槻へ置いていただけないか、改めて願い出ようという話が出ております」
惣兵衛は脇の手代から書付を受け取り、加兵衛の前へ置いた。
「その際、岩槻の者だけでなく、周りの町の方々からも賛同をいただければと思いまして」
加兵衛は書付を開いた。
県庁を岩槻へ置くよう求める趣旨が記され、末尾には賛同する者の名を書き加えるための余白がある。
清兵衛は、その余白を見た。
まだ蕨の人間の名前は一つもない。
「……なるほど。蕨からも名を出してほしいというわけですな」
「できれば、そうお願いしたいのです」
加兵衛は書付を畳まず、膝の前へ置いた。
「一つ、聞かせてください」
「何なりと」
「岩槻へ県庁が来ることで、蕨にはどんな得があるんです?」
惣兵衛はすぐには答えなかった。
加兵衛の質問は、予想していなかったわけではない。岩槻からの道中でも、蕨の商人にどう説明するか考えてきた。しかし、こうして真正面から聞かれると、用意していた言葉が少し頼りなく思えた。
「県庁が置かれれば、岩槻へ多くの物が集まることになります。その荷を運ぶ仕事は、周辺の町にも増えるかと」
「浦和に置かれた場合は?」
「……浦和でも、荷は動くでしょう」
「蕨からなら、中山道を北へ行けば浦和です。岩槻へ向かうとなれば、そこから別の道を取らなければならない。岩槻の方が蕨の運び手に得だと、どうして言えるんです?」
惣兵衛の脇で、手代が顔を上げた。
主人が困らないようにと持参した書付を見たが、そこに蕨への具体的な約束は記されていない。
清兵衛にも、加兵衛が何を聞こうとしているのか分かった。
今朝、自分たちは二つの荷をまとめようとして、結局、別々に運ぶ方が百文安いと知ったばかりだった。
荷が集まれば、必ず得になるわけではない。
県庁が岩槻へ行ったところで、蕨の商人が儲かるとは限らないのである。
加兵衛は惣兵衛を急かさなかった。
返事を待つ間、座敷の外から、庭を渡る冬の風の音が聞こえていた。
惣兵衛はもう一度、書付の余白へ目を落とした。
岩槻を支持する者の名前を、一つでも多く集めるつもりで来た。
ところが、蕨の名前を書いてもらうには、まず蕨の利益を説明しなければならない。
その答えを、自分はまだ持っていなかった。
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