第四十九話 名前のない町
翌朝、清兵衛が店へ顔を出すと、敬之助はすでに帳面を広げていた。
いつもの帳面とは別に置かれた紙には、浦和、川口、蕨、江戸と四つの地名が書き込まれ、それぞれを線で結んである。傍らには運び手の名前と、朝のうちに聞き取った運び賃まで記されていた。
「……お前、もう調べてきたのか?」
「今朝、二人ほど運び手に話を聞けましたので」
「早えなあ。俺も昨日から気になってたんだよ。川口の荷をわざわざ蕨へ持ってきたら、かえって高くなるんじゃねえかって」
「その可能性はありますね。ただ、まだ荷の数も分かりませんから」
敬之助は紙を指で押さえた。
蕨宿を出入りする荷車については、近頃少しずつ顔ぶれが分かるようになってきた。北へ向かう車もあれば、江戸へ戻る車もある。以前は通り過ぎるのを眺めているだけだったが、清兵衛が行き先や次に通る日を尋ね始めたおかげで、誰に何を聞けばよいのか、見当がつくようになっていた。
「で、どうなんだ?」
「浦和から江戸へ向かう荷なら、蕨を通すことに無理はありません。ただ、川口は別です。向こうには日光御成道を南へ向かう道がありますから」
「だろ? 昨日、直吉さんの話を聞いてて、そこが引っ掛かったんだ」
「ええ。今のところ、清兵衛さんの考えが当たっていそうです」
清兵衛は少し得意そうに笑った。
「ほら見ろ。俺だって、たまには気づくんだよ」
「たまに、ですか」
「そこは否定しろよ」
敬之助が何か言い返そうとしたところで、表から声がした。
「おはようございます。昨日の直吉ですが」
「おう、来たか!」
戸口に立った直吉は、昨夜の旅装とは違い、身軽な格好をしていた。手には折り畳んだ書付を持ち、上がり口へ腰を下ろすと、早速それを二人の前へ広げた。
「約束どおり、荷の数を聞いてきましたよ」
浦和から江戸へ送る反物が四包み。
川口から江戸へ送る乾物が三俵。
届け先はどちらも神田の近くだが、受け取る店は別々だという。
「……思ったより少ねえな」
「だから、一台にまとめられねえかって相談してるんでしょうが」
「そりゃそうか」
敬之助は書付を確かめながら、荷の大きさや重さを聞いていった。
反物は濡らせない。乾物も包みが破れれば売り物にならなくなるが、どちらも積み方を考えれば一緒に運べない品ではない。問題は、荷をどこで集め、どの車に載せるかだった。
「それで、どうです。安く運べそうですかね」
直吉に尋ねられ、敬之助は朝から書いていた紙を回した。
「今、聞いている条件で比べてみました。ただ、先に一つ確認させてください」
「何です?」
「直吉さんの取り分についてです。別々に運ぶ場合と、蕨でまとめる場合とで、同じ額をいただくお考えでしょうか」
直吉は少し考えた。
「俺が荷主から貰う分かい? ああ、今回の話なら変えるつもりはねえよ。運び手を探して話をつける手間は、どっちでも同じだからな」
「承知しました。では、その分は両方に共通する費用として、いったん除いて比べます」
「分かりました。続けてください」
敬之助は、書付の数字を指し示した。
浦和から反物四包みを江戸へ運ぶ賃銭が、四百二十文。
川口から乾物三俵を直接江戸へ運ぶ賃銭が、三百十文。
それぞれ別の運び手へ頼むなら、合わせて七百三十文になる。
「……なるほど。それを一緒にしたら?」
「浦和から蕨を通って江戸まで、七つの荷を一台にまとめて運ぶなら、四百七十文ほどで引き受けてもらえるという話です」
「おお!」
清兵衛が身を乗り出した。
「ずいぶん安くなるじゃねえか」
「まだ、そこまで荷を持ってくる費用が入っておりません」
敬之助は別の数字を指さした。
川口から蕨まで乾物を運ぶ費用が二百二十文。
蕨で積み直す手間賃が八十文。
清兵衛たちが荷を取り次ぐ手数料を六十文とすれば、全部で八百三十文になる。
直吉は紙を覗き込み、しばらく黙っていた。
「……百文、高くなるじゃねえか」
「そういうことになります」
一台にまとめれば運び賃は安くなる。そこまでは確かだった。
しかし、川口の荷を蕨へ持ってくるために銭を使えば、節約した分が消えてしまう。それどころか、積み直しと手数料を加えることで、別々に運ぶより高くなっていた。
「……参ったな。うまい話だと思ったんだが」
直吉は腕を組んだ。
「一緒に載せられるのは間違いねえんでしょう?」
「載せるだけなら、できそうです」
「だったら、もう少し運び賃を下げられねえもんですかね」
「今聞いている条件では、難しいでしょう。馬が歩く距離も、運び手の働く時間も短くなるわけではありませんから」
敬之助はそう答えたが、直吉はまだ諦めきれない様子だった。
「……じゃあ、川口の乾物を、もっと安く蕨へ持ってくる手は?」
「ほかの荷と一緒に運べる日なら、費用が下がる可能性はあります。ただ、乾物を出す日は決まっているのでしょう?」
「ああ。向こうも、いつまでも待たせておくわけにはいかねえ」
直吉は書付を折り直した。
「となると、今回は難しそうだな」
「……だったら、別々に運んだ方がいいよ」
清兵衛が言うと、直吉は意外そうな顔をした。
「本当に、それでいいんですか?」
「何が?」
「あんたらの仕事がなくなるでしょう」
「まあ、そうだけどな」
清兵衛は帳面を指さした。
「こっちへ回せば、俺たちの手数料は貰える。でも荷主は余計に百文払うんだろ」
「そうですね」
「そんなことして、次も頼んでもらえると思うか?」
直吉は黙った。
「荷を持ってきてもらうのはありがてえよ。けど、安くなると思って頼んだのに高くついたら、俺だって次は頼まねえ。今回六十文貰うために、次の仕事をなくす方が損だろ」
直吉は何か言いかけたが、やがて小さく笑った。
「……そりゃ、そうかもしれませんね」
「だろ?」
「ただ、あんたらに頼む方が安くなる荷もあるんでしょう?」
「あります。ただ、今回のように荷を集める費用が高くなれば意味がありません」
敬之助が答えると、直吉はさらに尋ねた。
「だったら、どんな荷なら得なんです? 浦和から江戸へ行く荷に、途中で別の品物を載せればいいんでしょう?」
清兵衛は少し驚いた。
昨日は直吉の方が、何とかして荷をまとめたいと言っていた。今朝もその相談を持ってきたが、勘定を見て難しいと分かってからは、別のやり方を考え始めている。
「……直吉さん、あんたも諦めが悪いな」
「商売の話ですからね」
直吉は笑った。
「一度駄目だったくらいで諦めてたら、銭なんて増えませんよ」
「浦和からの荷でしたら、蕨を通る車へ載せられる可能性はあります。ほかにも江戸方面へ送る荷があれば、また条件が変わるでしょうね」
敬之助の説明に、直吉は納得したようだった。
「じゃあ、次は最初から道筋と出発の日を揃えてみますよ」
「そうしていただければ、こちらも調べやすくなります」
直吉は書付を懐へしまった。
仕事はまとまらなかった。それでも、ここへ来たことが無駄だったとは思わなかった。荷車が通る日や行き先を調べている人間が蕨にいる。今後、うまく使える時があるかもしれない。
「……そういや、あんたらは最近、浦和へも荷を運んでるんでしたね」
帰り支度を始めた直吉が、ふと思い出したように言った。
「この前、川口から来た紙と墨を届けたよ」
「ああ、あれです。藤兵衛さんも、ちゃんと届いたって言ってました」
直吉は一度立ちかけた腰を下ろした。
「県庁が浦和で仕事を始めてから、向こうも何かと騒がしくなりましてね」
「やっぱり県庁が来ると、商売も変わるもんなのか?」
「変わりますよ。役人が増えりゃ飯も食うし、泊まる場所も要る。紙や墨も使う。役所へ出入りする人間が増えれば、それを相手に商売をする者も増えますから」
「そりゃ、浦和の商人は喜んでるだろうな」
「喜んでる者もいますよ。ただ、みんながそうでもありません」
「……何でだ?」
「いつまで浦和に県庁があるか、分からねえからです」
直吉は声を落とした。
浦和では、役所が実際に仕事を始めたことで、新しい商売を考える者が出ていた。旅籠を広げようとする者もいれば、役所向けに品物を仕入れようとする者もいる。
しかし、県庁を置く町として最初に名前が挙がったのは岩槻だった。
浦和の庁舎は、当分の間使うという話になっている。その当分がいつまでなのか、はっきりしない。
「もし岩槻へ移ることになったら、店を広げた者は困るでしょうね」
「なるほどなあ」
「藤兵衛さんも、今は目の前の商売を取ることを考えてますが、大きな銭を使うことには慎重ですよ」
敬之助が尋ねた。
「岩槻の方では、何か動きがあるのですか」
「商人の中には、面白く思ってねえ者がいるようです。最初に県庁を置くと決めたのは岩槻だったんだから、約束どおり移してもらうべきだとね」
「じゃあ、岩槻は県庁を欲しがってるわけか」
「少なくとも、商売が増えると思ってる連中はそうでしょう。ただ、町の者が皆同じ考えかどうかまでは知りませんよ」
県庁が来ると期待して品物を仕入れた者もいる。
一方、建物を用意するために負担を求められるのを嫌がる者や、新しい役人たちが入ってくることを歓迎しない者もいるらしい。
岩槻に出入りする商人から聞いた話だと断ったうえで、直吉はそんなことを話した。
「……町の中でも、意見が違うんだな」
「そりゃそうですよ。同じ商人だって、売る物も相手も違いますから」
「じゃあ、川口はどうなんだ?」
「川口ですか?」
「ああ。あそこだって鋳物を作ってる連中がいるだろ。役所が増えりゃ、仕事も増えるんじゃねえか」
「それはあるでしょうね。どこへ県庁が置かれても、品物を売り込もうと考える者はいるでしょう」
直吉は少し笑った。
「中には、県庁そのものが川口へ来ればいいと思う奴だっているかもしれませんよ」
「……川口にもか」
「私は、そんな話を決める立場じゃありませんがね」
清兵衛は腕を組んだ。
浦和には、今、県庁がある。
岩槻には、最初に県庁を置くとされた理由がある。
川口にも、県庁の動きから商売を得ようとする者がいる。
話を聞いているうちに、清兵衛には一つ気になることがあった。
「……なあ、直吉さん」
「何です?」
「蕨は?」
直吉が顔を上げた。
「蕨?」
「県庁だよ。浦和だ岩槻だ川口だって話が出てくるのに、蕨の名前はちっとも出てこねえじゃねえか」
直吉はしばらく清兵衛の顔を見ていた。
「……あんたらも、県庁が欲しいんですか?」
「いや、まだそういうわけじゃねえんだけどよ」
「だったら、どういうことです?」
「蕨だって中山道の宿場町だろ。江戸にも近いし、人も荷も通る。それなのに、何で最初から話にもならねえんだ?」
直吉は少し困ったように笑った。
「……そう言われてもなあ。考えたことがなかったんですよ」
「そんなにおかしい話か?」
「おかしいと言うより、県庁を置くには役人が仕事をする建物が要るでしょう。帳面や書付を置く場所も、そこへ通う人間のことも考えなきゃならねえ」
「……まあ、そうだな」
「蕨には、そういう建物があるんですか?」
清兵衛は口を閉じた。
旅籠ならある。商人の店もあるし、古い家だって探せば幾らでもあるだろう。しかし、それを県庁として使えるのかと聞かれれば、清兵衛には分からなかった。
「……今すぐ使えるかどうかは、知らねえな」
「それに、県庁を持ってきてくれって、誰が役人に頼みに行くんです? 蕨の町の者が、そういう相談をしてるんですか?」
清兵衛は敬之助を見た。
敬之助も答えなかった。
「……まず、そこからじゃありませんかね」
直吉は悪びれた様子もなかった。
清兵衛を馬鹿にしたつもりもないのだろう。ただ、聞かれたことに答えただけだった。
それがかえって、清兵衛には引っ掛かった。
蕨は県庁を置く町として、最初から考えられていない。
その理由を尋ねても、今の清兵衛には反論できるものが何一つなかった。
「……まあ、分かったよ」
苦笑して頭を掻くと、直吉も立ち上がった。
「本気で考えるんなら、町のことをよく知ってる人に聞いた方がいいでしょうね」
「ああ。そうするよ」
直吉は今度こそ店を出ていった。
清兵衛はその背中が見えなくなるまで、しばらく通りに立っていた。
先ほどの運び賃なら、敬之助の帳面を見れば答えが出た。高くなる道を避ければ済む話だった。
だが、県庁のこととなると、何を比べればいいのかさえ分からない。
浦和も岩槻も川口も、誰かが自分の町のことを考えている。
蕨では、どうなのだろう。
清兵衛は振り返り、店の奥にいる敬之助へ声を掛けた。
「……なあ、ちょいと聞きたいことがあるんだが」
その声に、敬之助が帳面から顔を上げた。
清兵衛は、いつものように荷車の行き先を尋ねるつもりではなかった。
自分の町の名前が、なぜ最初から勘定に入っていないのか。
今度は、その理由が知りたかった。
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