第四十八話 浦和から来た男
浦和の柏屋では、川口から届いた紙と墨が奥の棚へ収められていた。
藤兵衛は受領の控えを確かめ、帳面に数を書き入れると、その紙を直吉へ渡した。
「岩槻へ向かっていた荷を、蕨で引き継いだそうだな」
「ええ。蕨の商人が取り次いだそうです」
「ほう」
「清兵衛という男と、敬之助という男だとか」
藤兵衛は頷いた。
県庁が浦和で仕事を始めたことで、町へ出入りする人間の様子も少し変わってきた。とはいえ、今後もずっと浦和に役所が置かれると決まったわけではない。
藤兵衛は先のことを考えながらも、目の前の商売を取り逃がすつもりはなかった。
「数も揃っていたし、傷もなかった。今回の仕事については文句もねえな」
直吉は受領の控えを見ながら、少し考えていた。
「……藤兵衛さん」
「何だ」
「蕨で荷を引き継げるなら、ほかにも使い道があるかもしれませんね」
「何か考えてるのか」
「まだ何とも。ただ、別々の商人の荷をまとめて運べりゃ、運び賃が安くなるんじゃねえかと思いまして」
「行き先が同じなら、そういうこともあるだろうな」
藤兵衛は直吉を見た。
「お前、最近は自分で引き受ける仕事を増やそうとしてるな」
「いつまでも人の仕事を貰ってるだけじゃ、銭は増えませんから」
直吉が笑うと、藤兵衛も笑った。
「なら、自分で相手を見てくることだ。荷を預けてから、こんなはずじゃなかったでは済まねえぞ」
「分かってます」
「それと、安くなると思い込むなよ。運ぶ道が変わりゃ、銭も変わる」
直吉は頷いた。
「まずは話を聞いてきます」
清兵衛と敬之助。
名前を聞いただけでは、どんな商人なのか分からない。
ただ、荷を預かる場所も大してないというのに、川口から来た荷を浦和へ届け直したという。
どんなやり方で仕事をしているのか、自分の目で確かめてみたくなった。
*
その晩、桜屋には仕事を終えた男たちが集まっていた。
源次郎が酒を運び、お咲が奥から肴を出してくる。お鈴は空いた器を下げながら、客の話へ耳を傾けていた。
清兵衛は、今日までの騒動を思い出してため息をついた。
「いやあ、荷物ってのは、運ぶより話をつける方が大変なこともあるんだな」
向かいに座った勇吉が酒を口へ運ぶ。
「何だ、また荷の話か」
「そうだよ。川口から来た荷が、途中で行き先を変えたいなんて言い出しやがってな」
「荷物が自分で言ったのか?」
「言うわけねえだろ」
勇吉は笑った。
「だったら、荷主が言ったんだろ」
「そうだよ。分かってて聞くな」
「清兵衛さん、今日はずいぶん疲れてるな」
「昨日からずっとだよ。荷がちゃんと届いたか、気になって仕方なかったんだからな」
源次郎が酒を足しながら尋ねた。
「それで、儲かったんですか?」
清兵衛は嫌そうな顔をした。
「……その話はするな」
「儲からなかったんですか?」
「するなって言ってるだろ」
勇吉が声を立てて笑った。
「でも、荷は届いたんだろ」
「ああ。そこはちゃんとな」
「なら、よかったじゃねえか」
清兵衛は勇吉を見た。
「お前は気楽でいいな」
「俺は荷を運んでねえからな」
「そういうところだよ」
お鈴が器を下げながら笑った。
「清兵衛さん、今日はお酒を一杯だけにしておいた方がいいんじゃないですか」
「何でだ」
「せっかく儲けた銭がなくなっちゃうでしょう」
店中が笑いに包まれた。
清兵衛は何か言い返そうとしたが、やがて自分も笑った。
確かに、たいした儲けにはならなかった。
だが、荷を預からなくても、仕事を一件成立させることはできた。
それだけでも、少しは悪くない一日だった。
そう思って酒を飲み干そうとした時、桜屋の戸が開いた。
旅装の男が一人、外の冷たい空気とともに入ってくる。
「すみません。ちょいと尋ねたいんですが」
源次郎が顔を上げた。
「何でしょう」
「蕨で、荷の取り次ぎをしてる商人がいるって聞いたんですがね」
清兵衛の手が止まった。
敬之助も顔を上げる。
男は二人を見て、少し頭を下げた。
「浦和から来た直吉と申します。柏屋の藤兵衛さんのところへ出入りしている者です」
「……柏屋?」
清兵衛が驚いた顔をした。
「今日、紙と墨が届いた店じゃねえか」
「ええ。その話を聞いて来ました」
直吉は清兵衛たちの方へ近づいた。
「蕨で荷を積み替えて、浦和まで届けてもらったそうですね」
「そうだよ。あんた、あの荷のことを知ってるのか」
「藤兵衛さんから聞きましてね」
直吉は笑った。
「正直、少し驚きました。荷を預ける場所も大してないのに、よく商売ができるもんだなと思いまして」
清兵衛は苦笑した。
「……まあ、実際、置く場所には困ってるんだがな」
敬之助が口を開いた。
「荷を長く預からなくても、できる仕事はありますから」
直吉は敬之助を見た。
「……あんたが、帳面をつけてる人かい?」
「敬之助と申します」
「なるほどな」
直吉は二人を見比べた。
清兵衛は人のよさそうな顔をしている。
敬之助は、まだ若いが落ち着いた物腰だった。
大きな店を構えているわけでもなさそうだ。
それでも、今回の紙と墨はちゃんと浦和へ届いている。
「……ちょいと、相談してもいいですかね」
直吉が言った。
清兵衛は杯を置いた。
「何だい?」
「浦和から江戸へ運びたい荷があります。実は、川口の商人からも、同じ江戸方面へ荷を運べねえかという話を聞いてまして」
敬之助が顔を上げた。
「荷主は別々ですね」
「ええ。今のところ、どちらも私に運び手を探してほしいと言っているだけです。正式に預かったわけじゃありません」
「品物は何です?」
「浦和の方は反物、川口の方は乾物です」
清兵衛が身を乗り出した。
「だったら、蕨で一緒に積めばいいんじゃねえか」
直吉は頷いた。
「私もそう思ったんです。別々に車を頼むより、一台にまとめられりゃ安いんじゃねえかと」
「行き先が同じなら、そうだろうな」
「ただ、川口の荷をこっちへ回すとなると、どんな運び方になるのか分からなくてね」
敬之助は少し考えていた。
「反物と乾物ですか……」
「何か問題でも?」
直吉が尋ねる。
「荷の持ち主が違いますし、品物の扱い方も違います。まず、それぞれ幾つあるのか、大きさと重さを確かめなければなりません」
清兵衛が横から口を挟んだ。
「荷札を付けりゃいいだろ」
「荷札だけでは、荷が傷んだ時に困ります」
「……またかよ」
敬之助は直吉へ向き直った。
「反物が濡れたり、乾物の包みが破れたりした場合、誰が責任を負うのかも決めておきたいですね」
直吉は少し笑った。
「なるほど。面倒なことは、いろいろあるんですね」
「ええ」
「そのあたりを決めりゃ、引き受けてもらえるんですか?」
敬之助は首を横に振った。
「まだ、お約束はできません」
「……何?」
「荷を載せられる車があるかどうかも分かりませんし、運び賃も調べておりませんから」
直吉は少し意外そうな顔をした。
清兵衛の方は、すぐにでも商売を始めたそうにしている。
ところが敬之助は、できるともできないとも言わない。
その違いが、少し面白かった。
「……じゃあ、まず何から始めるんです?」
「それぞれの荷主が、幾らまで運び賃を出せるのか。それから、江戸のどこへ届けるのか。そのあたりを伺いたいですね」
直吉は頷いた。
「なるほどな」
清兵衛が酒を口へ運ぼうとすると、直吉がもう一度声を掛けた。
「ただ、私は一つ気になることがありましてね」
「何だい?」
「今回、川口から浦和へ荷を運んだ時は、取り次ぎの手数料を貰ったんでしょう?」
「……まあな」
「だったら、今度も手数料を取るわけですよね」
清兵衛は頷いた。
「そりゃ、仕事をするんだからな」
「ええ。もちろん、それは構いません」
直吉は笑った。
「ただ、私も商売でやるつもりです。荷主から頼まれて、運び手を探す。そこへあんたらにも頼むとなれば、私の取り分も考えなきゃならねえ」
敬之助が頷いた。
「おっしゃるとおりです」
「だから、まず聞いておきたいんですよ」
直吉は清兵衛と敬之助を交互に見た。
「別々に運ぶより、蕨でまとめた方が安くなる。そういう話なら、私だって興味はあります」
清兵衛の顔が明るくなった。
「そうだろ?」
「ええ。ただし……」
直吉はそこで言葉を切り、少し身を乗り出した。
「あんたらに頼んだら、幾ら安くなるんです?」
清兵衛は口を開きかけた。
しかし、すぐには言葉が出てこなかった。
別々に運ぶより、一緒に積んだ方が安い。
そう思っていた。
だが、実際に幾ら安くなるのかと聞かれると、答えられない。
浦和から江戸までの運び賃。
川口から蕨までの運び賃。
蕨で荷をまとめるための手間賃。
それぞれの荷主との約束。
直吉の取り分。
そして、自分たちの手数料。
そのすべてを合わせた勘定など、まだ一度もしたことがなかった。
敬之助も、しばらく考えていた。
「……今は、まだ分かりません」
直吉が眉を上げた。
「分からねえ?」
「はい。荷の数も、運び賃も、まだ聞いておりませんから」
「……そりゃそうか」
直吉は少し笑った。
清兵衛は敬之助を見た。
敬之助も清兵衛を見る。
いつものように清兵衛が「何とかなる」と言えば、敬之助は止めるのだろう。
だが、今日は清兵衛の方から口を開いた。
「……なあ、直吉さん」
「何です?」
「明日、もう一度話を聞かせてもらえねえか」
直吉は少し驚いた顔をした。
「明日?」
「ああ。今夜はもう酒も飲んじまってるし、何より荷のことが分からねえ。ちゃんと聞いてから考えさせてくれ」
直吉は清兵衛を見つめた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。明日、もう一度伺いましょう」
「ありがてえ」
「ただし、私も無駄な銭は使いたくありませんからね」
直吉は笑った。
「本当に安く運べるのか、そこはちゃんと聞かせてもらいますよ」
「……ああ」
清兵衛も笑ったが、その顔には少し困ったような色が残っていた。
直吉が帰った後、勇吉は黙って酒を飲んでいた。
清兵衛がその顔を見る。
「……何だよ」
「いや、面白え話だなと思ってよ」
「どこがだ」
「お前、いつもならすぐに『できる』って言うだろ」
清兵衛は苦笑した。
「……そうだったな」
「今日は言わなかったな」
「言えるかよ。幾ら安くなるかなんて、分かんねえんだから」
勇吉は笑った。
「そりゃそうだ」
敬之助は、すでに懐から紙を取り出していた。
清兵衛が顔をしかめる。
「おい。今夜はもういいだろ」
「明日、直吉さんが来るんですよ」
「分かってるよ」
「それまでに、確かめることを整理しておかないと」
敬之助は紙へ筆を走らせた。
浦和からの荷。
川口からの荷。
それぞれの数と重さ。
届け先。
運び賃。
そして、別々に運んだ場合と、一緒に運んだ場合の費用。
清兵衛は、その紙を覗き込んだ。
「……敬之助」
「はい」
「留吉が次に南へ向かうのは、いつだった?」
敬之助は顔を上げた。
「この前、聞いておいた日なら帳面にありますが」
「じゃあ、それも見といてくれ」
「分かりました」
敬之助は帳面の別の頁を開き、留吉の名を探した。
清兵衛はしばらく、その様子を眺めていた。
先日の十二個の鍋も、北へ向かう留吉の車に載せたことで、上尾まで運ぶことができた。
今回も同じように、荷をまとめられる車があれば銭を節約できるかもしれない。
しかし、荷を載せる場所が空いていても、そこまで運ぶには銭が掛かる。
清兵衛は、ふと昼間のことを思い出した。
川口から岩槻へ向かうはずだった紙と墨。
あの荷は、すでに蕨を通る車に載っていたから、ここで運び手を替えられた。
だが、今度の川口の乾物はどうだろう。
まだ荷主のところにあるという。
それを蕨へ持ってくるところから始めなければならない。
「……おい、敬之助」
「何です?」
「ちょっと待てよ」
敬之助が筆を止めた。
清兵衛は、紙の上に書かれた二つの荷の出発地を指さした。
「浦和の荷が蕨を通るのは分かる。江戸へ行く途中だからな」
「はい」
「でもよ、川口の荷は、わざわざ蕨まで持ってこなきゃならねえんだよな」
「……そうですね」
「川口から江戸へ行くなら、別の道だってあるだろ」
敬之助は顔を上げた。
清兵衛はもう一度、帳面を覗き込んだ。
「……それじゃ、蕨まで運んでくる銭は、誰が払うんだ?」
敬之助の筆が止まった。
桜屋の外を、荷車が一台、軋む音を立てながら通り過ぎていった。
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