第四十七話 三十文の商売
藤蔵は、清兵衛たちの話を聞くなり眉を寄せた。
「……今度は届け先の変更か」
「そうなんだよ。川口から来た紙を、浦和へ運びたいんだ」
「どのくらいある」
「紙三包みと墨二箱です」
敬之助が答えると、藤蔵は少し考えた。
「それなら、荷車を一台仕立てるほどでもねえな」
「だろう?」
「だが、今から浦和へ行く者がいるかどうかは別だぞ」
藤蔵は通りの方へ目を向けた。
「……そういや、今朝、浦和へ向かう小荷車が一台いたな。ほかの荷を積んでいたが、まだ宿を出ていなけりゃ話くらいは聞けるかもしれねえ」
「どこにいる?」
「宿の北の外れだ。ただ、もう出る頃かもしれねえ」
弥平が顔を上げた。
「俺が見てくる」
「待て」
藤蔵が止めた。
「先に言っておくが、あの男にも引き受けた荷がある。無理に積ませるなよ」
「分かってる」
「それに、俺の名前を出して勝手に約束するな。紹介するだけだ」
弥平は頷いた。
敬之助が新助へ向き直る。
「運び手を探すにも手間が掛かります。その分の賃銭は?」
「主人から、必要な費用は払うよう申し付けられております。ただ、あまり高くなるようでしたら、一度確認が必要です」
「分かりました」
弥平はそれを聞いて、ようやく草履の緒を締め直した。
「じゃあ、行ってくる」
清兵衛が笑う。
「頼んだぞ」
「この前の鍋で懲りたんだ。走った分まで持ち出しじゃ、たまらねえからな」
「そりゃそうだ」
弥平は笑い返し、宿の北へ駆けていった。
藤蔵はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「……あいつも、だんだん商売人の顔になってきたな」
「先日は上尾まで鍋を運んで、赤字だったからな」
「そうか」
藤蔵は小さく笑った。
「なら、少しは銭の使い方を覚えただろ」
*
元の荷車が出立の支度を始めた頃になっても、弥平は戻ってこなかった。
馬は水を飲み終え、運び手の男は荷縄を締め直している。
「……もう出るぞ」
男が言った。
清兵衛は通りの北を見た。
「あと少し待ってくれねえか」
「さっきからそればっかりじゃねえか」
男は困った顔をした。
「俺はこの荷だけを運んでるんじゃねえんだぞ」
清兵衛も、それは分かっていた。
先日の鍋の仕事では、留吉が先に引き受けた荷を守るため、何度も積み方を確かめていた。
運び手には運び手の約束がある。
それを無視してまで、自分たちの都合を押しつけるわけにはいかなかった。
敬之助が静かに口を開いた。
「清兵衛さん。弥平さんが間に合わなければ、元の約束どおり岩槻へ運んでもらいましょう」
「……いいのか?」
「仕方ありません。ここへ荷を下ろしても、運ぶ相手がいなければ困ります」
「そうだが……」
「柿の木の家も、勝手に新しい荷を預かれる場所ではありませんから」
清兵衛は黙った。
今日の仕事が駄目になれば、新助の主人には余計な手間を掛けることになる。
しかし、下ろす相手もいない荷を勝手に引き受ける方が、もっと悪い。
清兵衛は新助へ向き直った。
「……悪いな。間に合わなかったら、岩槻まで運んでもらうしかねえ」
新助は少し残念そうな顔をしたが、頷いた。
「主人にも、そのように伝えます」
その時だった。
「おーい!」
通りの向こうから、弥平の声が聞こえた。
清兵衛が顔を上げる。
弥平が息を切らしながら走ってきた。
「どうだった!」
「……いた!」
「引き受けてくれたか!」
「その前に、水をくれ!」
清兵衛が慌てて水桶を差し出すと、弥平は勢いよく飲み、袖で顔を拭った。
「浦和へ向かう小荷車だ。まだ宿の外れにいた」
「それで?」
「紙三包みと墨二箱なら、荷を見てから決めたいってよ。積む場所があれば運んでもいいそうだ」
敬之助が頷いた。
「では、こちらへ来てもらえますか」
「呼んである。もう少しで来る」
清兵衛は大きく息を吐いた。
「……助かったな」
「まだ決まったわけじゃねえぞ」
弥平が言った。
清兵衛は一瞬きょとんとしたが、やがて笑った。
「……そうだったな」
敬之助も小さく笑った。
*
浦和へ向かう小荷車の男は、荷を見てからしばらく考えていた。
すでにいくつか荷が積まれているが、片側には少し余裕がある。
「紙は濡らしちゃ困るな。墨も潰さねえようにしなきゃならねえ」
「はい」
新助が答える。
「今の荷を少し寄せれば載せられそうだが、積み直しには手間が掛かるぞ」
「その分もお支払いします」
男は敬之助へ目を向けた。
「浦和の柏屋まで届けるんだな?」
「はい。受取人は藤兵衛殿です」
「柏屋なら分かる。だが、品物を受け取らねえと言われたらどうする」
敬之助は書付を示した。
「柏屋からは、買い取るという返事をいただいております。ただし、数や傷みについては確かめられるでしょう」
「そりゃそうだ」
「もし受け取りを断られた時は、荷主へ戻すことになります。その場合の運び賃も荷主の負担です」
「口だけじゃ困るぞ」
「書き付けておきます」
男は頷いた。
「……よし。引き受けよう」
清兵衛の顔が明るくなった。
しかし敬之助は、すぐに新助へ確認した。
「まず、追加の費用を確かめましょう」
元の荷車から下ろすための積み直しに六十文。
浦和へ運ぶ新しい賃銭が百二十文。
弥平の連絡の手間賃が三十文。
清兵衛たちの取り次ぎ手数料が三十文。
合わせて二百四十文だった。
敬之助は帳面を新助へ見せた。
「元の運び賃とは別に、これだけ掛かります」
新助は持参した書付を取り出し、主人から許された費用の範囲を確かめた。
「……はい。これなら大丈夫でございます」
「二百四十文も余計に掛かります。それでも柏屋の買値なら、岩槻で売れるのを待つより良いということですね」
「はい。主人も、そのつもりでおります」
敬之助は頷いた。
「では、進めましょう」
元の荷車から、紙三包みと墨二箱が下ろされる。
上に積んであった荷を一度動かさなければならず、思ったより手間が掛かったが、運び手たちは声を掛け合いながら慎重に作業を進めた。
紙は濡れないように包まれ、墨はほかの荷に押し潰されない位置へ置かれた。
敬之助は荷札を確かめ、弥平と一緒に数を数えた。
「紙が一つ、二つ、三つ」
「墨が二箱」
「包みに破れはありませんね」
新助も一つずつ確認した。
元の荷車の男は、積み直した自分の荷を確かめていた。
「……これでいいな」
敬之助が頷く。
「お手数を掛けました」
「まあ、約束の賃銭を貰えるんなら文句はねえよ」
男は馬の手綱を取り、岩槻へ向かって出ていった。
その後ろ姿を見送り、清兵衛はようやく肩の力を抜いた。
「……何とかなったな」
敬之助は新しい運び手へ向き直っていた。
「荷を受け取っていただいたことが分かるよう、柏屋から書付を貰えますか」
「ああ。頼んでみるよ」
「その書付は、帰りにこちらへお届けいただければ結構です」
男は頷いた。
敬之助は元の荷札を控えに写し、届け先を変更したことが分かるよう、新しい札を結びつけた。
その様子を見ていた弥平が呟いた。
「……荷物より、紙の方が増えてねえか」
敬之助は顔を上げた。
「紙を運ぶための紙ですね」
弥平が吹き出した。
「お前、たまに変なこと言うな」
「事実ですが」
清兵衛も笑った。
浦和へ向かう小荷車が動き始める。
三包みの紙と二箱の墨は、今度は岩槻ではなく、浦和へ向かっていった。
*
荷が蕨を出たからといって、すぐに仕事が終わるわけではなかった。
翌日の昼過ぎ、浦和から戻ってきた運び手が清兵衛のところへ寄った。
「おう、昨日の紙のことだが」
男は懐から一枚の書付を取り出した。
「柏屋の藤兵衛さんに、ちゃんと渡してきたぞ」
敬之助が書付を受け取る。
紙三包み。
墨二箱。
いずれも数に不足なく、傷みもなかったという。
受取人の名も記されていた。
「……確かに、受け取っていただけたようですね」
清兵衛は大きく息を吐いた。
「今度こそ終わったか」
「はい」
敬之助が頷いた。
弥平は昨日のうちに川口へ戻り、荷主の主人へ運び替えの話を伝えている。
あとは受領の書付を届け、費用を精算すればよい。
「……で、いくら残った?」
清兵衛が尋ねると、敬之助は帳面を開いた。
「私たちの取り次ぎ手数料は三十文です」
「……三十文?」
「はい」
清兵衛はしばらく黙っていた。
「昨日、あれだけ騒いで?」
「荷主からお預かりした銭のうち、運び賃や人足への支払いは、それぞれの方へ渡りますから」
「そりゃそうだが……」
「こちらの手間賃は、三十文です」
清兵衛は天井を仰いだ。
「……割に合わねえなあ」
敬之助は笑った。
「でも、荷を預からずに済みましたね」
「……何?」
「柿の木の家へ運ぶ必要もありませんでした。新しく荷置き場を探すこともなく、持ち主の指示を確かめて、別の運び手へ引き継いだだけです」
「だけって言うけどよ、えらい苦労したぞ」
「ですから、手数料をいただいているんです」
清兵衛は帳面を見た。
荷を預かる場所を探す。
人足を集める。
荷車を用意する。
今までは、そうしたものが揃わなければ商売にならないと思っていた。
しかし今回は、清兵衛たち自身が荷を長く預かったわけでも、浦和まで運んだわけでもない。
荷主と運び手の話をつなぎ、届け先を確かめ、約束を整理した。
それでも三十文の銭が残った。
「……なあ、敬之助」
「はい」
「こういう仕事、また来ると思うか?」
「分かりません」
「またそれか」
「ですが、荷を運ぶ人間が増えれば、途中で困ることもあるでしょうね」
敬之助は帳面を指さした。
「誰が持ち主なのか。どこへ運ぶのか。誰が受け取るのか。運び賃は誰が払うのか。そこが決まっていなければ、荷は動かせません」
清兵衛は頷いた。
「……だったら、その話をまとめる仕事もあるってことか」
「今回のようなものなら、あるかもしれません」
敬之助は帳面の余白へ、荷主と届け先、受取人を記すための欄を書き始めた。
「何してるんだ」
「次に同じような話が来た時、最初に確かめることです」
「そんなもの、覚えときゃいいだろ」
「清兵衛さん、昨日だけで何度も同じことを聞いてましたよ」
「……そうだったか?」
「はい」
「じゃあ、書いとけ」
敬之助が笑った。
清兵衛は立ち上がり、大きく伸びをした。
「……よし。今日は酒でも飲むか」
「今日の儲けがなくなりますよ」
「自分の銭で飲むって言ってるだろ!」
敬之助が帳面を閉じ、清兵衛の後に続いた。
今回の仕事で得た三十文は、胸を張って大儲けと言える額ではなかった。けれども、荷を置く場所がなくても、約束を整理することで銭を得られたのは確かだった。
清兵衛は、そんな小さな仕事が浦和の商人にまで知られているとは、まだ思ってもいなかった。
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