第四十六話 行き先の変わった荷
県庁が浦和の旧庁舎で仕事を始めたという話は、蕨宿にも届いていた。
岩槻に置かれるはずだった県庁が、当分の間は浦和で仕事をする。役人たちにはそれぞれ事情があるのだろうが、宿場の商人にとっては、どちらへ荷を運べば銭になるのかという方が、よほど気になる話だった。
もっとも、清兵衛には県庁のことを考えている余裕などなかった。
「……おかしいな」
朝から帳面を覗き込み、もう三度目のため息をついている。
向かいに座る敬之助は、筆を動かしたまま答えた。
「何がです?」
「仕事の話は増えてるんだよ」
「そうですね」
「なのに、ちっとも楽にならねえ」
「増えているのは仕事の話であって、儲けではありませんから」
清兵衛は嫌そうな顔をした。
「お前、朝からもう少し景気のいいことを言えねえのか」
「では、柿の木の家に預けてある荷が、今朝も四台分残っております」
「もっと悪くなったじゃねえか」
敬之助は笑いもせず、帳面の端へ印をつけた。
柿の木の家を使わせてもらえるのは、あくまで約束した日までだった。預かっていた五台分のうち、一台分は引き取られたが、残る四台分についても期限までに運び出さなければならない。
それなのに、荷の相談は少しずつ増えている。
川口からの荷を北へ運べないか。浦和へ向かう人足はいないか。以前なら清兵衛のところへ来なかったような話まで持ち込まれるようになった。
先日は、弥平が川口の鍋と釜を十二個、上尾へ届ける仕事を引き受けた。
無事に届いたのはよかったが、弥平は八文の赤字を出して戻ってきた。しかも本人の働き賃は、その勘定に含まれていない。
荷を運べば必ず儲かるわけではない。
その当たり前のことを、清兵衛も嫌というほど思い知らされたところだった。
「なあ、敬之助」
「はい」
「いっそ、荷を預からなきゃいいんじゃねえか」
敬之助が顔を上げた。
「それがよろしいかと」
「……え?」
「置く場所がありませんから」
「いや、そういう意味じゃねえよ」
「では?」
「荷を預からなくても、何か商売になるような、うまい話はねえのかってことだ」
敬之助は少し考えた。
「相談を聞くだけなら、今もずいぶんやっていますね」
「そうだろ」
「銭にはなっておりませんが」
「……もういい」
清兵衛が帳面を閉じようとしたところへ、表から聞き慣れた声が飛び込んできた。
「清兵衛さん、いるかい!」
川口の運び屋、弥平だった。
その後ろには、見慣れない若い男が立っている。
「おう、弥平か。何だ、また荷の話か」
「そうなんだが、今回はちょいと面倒なことになってな」
「……面倒?」
清兵衛は閉じかけた帳面を、もう一度開いた。
「お前が面倒だって言う時は、だいたい本当に面倒なんだよ」
「まだ何も話してねえだろ」
「今までの付き合いで分かるんだ」
弥平は苦笑した。
「まあ、そこは否定しねえけどな」
*
弥平が連れてきた男は、新助と名乗った。
川口で紙や墨を扱う商人の手代で、今朝早く主人から使いを頼まれたという。
新助は懐から書付を取り出し、敬之助の前へ置いた。
「実は、岩槻へ送るつもりだった荷の行き先を変えたいのです」
「岩槻から、どちらへ?」
「浦和でございます」
清兵衛が顔を上げた。
「浦和? 何でまた」
「県庁の話をご存じでしょうか」
「ああ。岩槻へ置くって話だったのが、結局、浦和の役所で仕事を始めたんだろ」
「さようでございます。それで、うちの主人も考え直しまして」
新助の主人は、岩槻で新しい県庁が開かれれば、紙や墨の商いが増えると見込んでいた。
役人が増えれば帳面も要る。書付を作るにも紙や墨が必要になる。役所へ直接売れるとは限らなくても、その周りで商売をする者が増えれば、品物は動くはずだった。
そこで紙三包みと墨二箱を用意し、岩槻の知り合いの紙商へ預けて売ってもらうことにした。
ところが、県庁が浦和で開かれたという知らせが届いた。
岩槻の商人からは、すぐには売り切れるか分からないという返事が来ている。一方、以前から取引のある浦和の柏屋へ話を持ち掛けたところ、品物と値段を確かめたうえで、まとめて買い取るという返事を貰えたのだという。
「なるほどな。だったら浦和へ運べばいいじゃねえか」
清兵衛が言うと、新助は困った顔をした。
「それが、荷はもう出してしまいまして」
「……何?」
「岩槻へ向かう荷車に積んであるのです」
「じゃあ、その荷車に浦和まで運んでもらえばいいだろ」
「それができれば、こんなに困っておりません」
新助は弥平を見た。
弥平が代わって説明した。
「もともと、川口から岩槻まで荷車を一台仕立てるつもりじゃなかったんだよ」
「どういうことだ」
「紙三包みと墨二箱だけで車を出したら、運び賃が高くつくだろ。だから、ほかの商人の荷と一緒に運んでもらうことにしたんだ」
川口から岩槻へ直接運ぶ道はある。
しかし、新助の主人は少しでも運び賃を安くしようと、すでに蕨へ向かう荷を積んだ車に紙と墨を載せてもらうことにした。
その車は蕨で別の荷を受け取り、さらに北へ進んだところから東へ向かう。
岩槻へ行くには回り道になるが、荷車を一台借り切るより安く済むという約束だった。
「つまり、そいつは浦和宿へは入らねえんだ」
弥平が言った。
「浦和へ寄るには、ほかの荷主との約束を変えなきゃならねえ。そりゃ無理だろ」
清兵衛は腕を組んだ。
「……だったら、蕨で下ろせばいいんじゃねえのか」
「それができるか、今から運び手に聞くんだよ」
敬之助は二人の会話を聞きながら、書付を読み進めていた。
「まず、幾つか確かめたいことがあります」
清兵衛が口を閉じた。
敬之助は新助へ向き直る。
「岩槻で荷を受け取る予定だった方は、この品物を買い取っておられるのですか」
「いえ。まだ主人の品物です。向こうの紙商へ預け、売れた分を精算してもらうつもりでした」
「では、売り先を変えることについて、岩槻の方へは?」
「主人から知らせを出しております。今回は受け取らないようにと」
「浦和の柏屋が買い取ることは、確かに決まっているんですね」
「はい。値段も決まっております」
新助は別の書付を差し出した。
敬之助は二通を並べ、しばらく読み比べた。
どちらも荷主からの指示であり、岩槻へ預けるはずだった品物を浦和へ変更しても、持ち主が変わるわけではない。
「……なるほど。荷主の指示ははっきりしていますね」
「それなら、すぐ運べるじゃねえか」
清兵衛が言った。
「まだ、運び手の承諾がありません」
「荷主が行き先を変えろって言ってるんだぞ」
「荷を運ぶ人間は、岩槻まで届ける約束で引き受けています。その約束を変えるなら、相手にも話をしなければなりません」
弥平が頷いた。
「そこなんだよ。あの車には、ほかの人間の荷も載ってるからな」
清兵衛は少し考えた。
先日の留吉も、同じようなことを言っていた。
大宮へ届ける反物も、上尾へ運ぶ乾物も、預かった以上は勝手に動かせない。
あの時は鍋と釜を全部載せるため、ずいぶん苦労したものだった。
「……そうだったな」
清兵衛が頷くと、敬之助は新助へ尋ねた。
「最初の運び手へは、岩槻までの賃銭を払う約束ですね」
「はい」
「途中で荷を下ろしたとしても、その分を返してもらえるとは限りません」
「主人からは、元の運び賃はそのまま払うようにと言われております」
「そのうえで、蕨から浦和までの運び賃が掛かります。積み替えの手間賃も必要でしょう」
清兵衛は顔をしかめた。
「おいおい。それじゃ、かえって高くつくんじゃねえのか」
新助は首を横に振った。
「主人もそこは考えております。岩槻で売れるのを待つより、柏屋に買い取ってもらった方が、確かな商売になりますので」
「つまり、今すぐ売れるわけか」
「はい。品物を届け、数と傷みに問題がなければ、約束した値で買い取っていただけます」
敬之助は頷いた。
「では、追加の費用を調べましょう。柏屋の買値からそれを引いても主人に銭が残るなら、届け先を変える意味があります」
清兵衛は、少し感心したように敬之助を見た。
「……お前、だんだん商人みたいなこと言うようになったな」
「前から帳面はつけておりますが」
「そういうことじゃねえよ」
弥平が笑い出した。
だが、笑っていられたのはそこまでだった。
荷車が蕨を出るのは、昼過ぎだという。
それまでに話をつけなければ、紙と墨は元の約束どおり岩槻へ向かってしまう。
*
問題の荷車は、宿の北寄りで休んでいた。
馬の鼻先には水桶が置かれ、運び手の男は軒下で握り飯を食べている。
荷台には幾つもの包みが積まれ、縄でしっかりと縛られていた。
「おう、ちょいと話があるんだが」
清兵衛が声を掛けると、男は一行を見て顔をしかめた。
「何だ、こんなに大勢で」
「川口からの紙三包みと墨二箱、積んでるだろ」
「積んでるが、何だ」
「届け先を変えてもらいてえんだ」
男は握り飯を口から離した。
「……嫌だね」
「まだ何も説明してねえぞ」
「だから嫌なんだよ。そういう話は、ろくなことにならねえ」
弥平が横から割って入った。
「まあ待て。荷主から書付が来てる。岩槻へ向かうはずだった紙を、浦和へ届けたいそうなんだ」
「浦和?」
「そうだ」
男は少し考えた。
「俺は浦和へは行かねえぞ」
「分かってる」
「だったらどうする」
「蕨で下ろして、別の運び手へ引き継ぎたい」
男は荷台を振り返った。
「……面倒だな」
清兵衛は黙って男の返事を待った。
「これを下ろすには、上の荷を一度動かさなきゃならねえ。そんなことしてたら、出立が遅くなる」
「手間賃は払います」
新助が答えた。
男は振り返った。
「本当か」
「はい。元の約束の運び賃も、そのままお渡しします」
敬之助が書付を示した。
男は内容を確かめ、少し考えてから頷いた。
「……だったら、荷を下ろすところまではやってもいい」
清兵衛の顔が明るくなった。
しかし、男はすぐに続けた。
「ただし、下ろす相手が決まってからだ」
「相手?」
「俺は岩槻まで運ぶ約束で荷を預かったんだ。ここへ置いて、後は知らねえってわけにはいかねえだろ」
清兵衛は頷いた。
「そりゃそうだな」
「受け取る人間が決まらねえなら、このまま岩槻へ持っていく。そっちの方が、俺の約束は守れるからな」
敬之助が頭を下げた。
「承知しました」
男は最後の握り飯を口へ放り込んだ。
「それと、昼過ぎには出るぞ。ほかの荷主を待たせられねえ」
清兵衛は空を見上げた。
まだ日は高くない。
だが、のんびり話していられる時間でもなかった。
「……敬之助」
「はい」
「どうする」
「浦和へ向かう運び手を探します」
「今からか?」
「今からです」
弥平が口を挟んだ。
「藤蔵に聞いてみるか。あの人なら、誰がどこへ行くか知ってるかもしれねえ」
清兵衛は頷いた。
「そうだな。行ってみよう」
しかし、藤蔵が運び手を知っていたとしても、その男に荷を積む余裕があるとは限らない。
元の荷車は昼過ぎに蕨を発つ。
それまでに別の運び手を見つけ、荷を引き継ぐ約束まで済ませなければならなかった。
間に合わなければ、紙三包みと墨二箱は、そのまま岩槻へ向かってしまう。
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