第四十五話 十二の鍋
冬の蕨宿は、朝の冷え込みが厳しかった。
夜明けとともに動き始めた荷車の車輪が、固く締まった街道を軋ませながら進んでいく。旅籠の前では客が白い息を吐きながら草履を履き直し、馬を引く男たちは手綱を握る指先を時折こすり合わせていた。
そんな中、清兵衛は店先に止まった一台の荷車を、先ほどから眺めていた。
「……なるほどな」
荷縄を締めていた男が顔を上げる。
「何がなるほどなんだ?」
「いや、まだ随分と載りそうだと思ってよ」
「お前、また何か載せる気か?」
「川口から来る荷なんだがな」
「……またその話か」
男は呆れたように縄を置いた。
名を留吉という。浦和、大宮を通って上尾まで荷を運ぶことがあり、清兵衛とも以前から顔見知りだった。
今回も北へ向かうというので、敬之助が川口からの荷を一緒に運べないかと相談していたのである。
「十二個だ」
「何が?」
「鍋と釜だよ」
留吉は自分の荷車を見て、それから清兵衛を見た。
「……十二個?」
「ああ」
「お前、鍋が十二個って聞いて、飯を炊く小さな鍋でも想像してねえか?」
「違うのか?」
「川口の鋳物だろ。大きな釜もあるだろうし、重さだって分からねえ。そもそも、一つがどれくらいの大きさなんだ?」
清兵衛は口を閉じた。
「……そこまでは聞いてねえな」
「だろうと思ったよ」
留吉は荷台を叩いた。
「こっちには大宮へ届ける反物もあるし、上尾へ持っていく乾物も積んでる。空いてる場所があるからって、何でも載せられるわけじゃねえんだ」
「そりゃそうだな」
「だったら、現物を見せてくれ。引き受けるかどうかは、それからだ」
ちょうど店から出てきた敬之助が、二人の話を聞いていた。
「留吉さん。まだお約束はしておりませんので、ご安心ください」
「おう。お前がいるなら話が早え」
清兵衛が顔をしかめた。
「……何だよ、それ」
「そのまんまの意味だ」
留吉は笑いながら、馬を引いて通りへ出ていった。
その後ろ姿を見送り、清兵衛は小さく息を吐いた。
「なあ、敬之助。俺って、そんなに信用ねえか?」
「人を集めるのはお上手ですよ」
「おお」
「ただ、話がまとまる前に、何とかなると言ってしまうところがありますね」
「……結局、褒めてねえじゃねえか」
敬之助は笑いながら帳面を開いた。
柿の木の家には、まだ四台分の荷が残っている。借りられるのは約束した日までで、それまでに引き取りの手配を終えなければならない。
そちらの荷主との連絡も十分に片づいていないのに、川口から別の相談が来ていた。
鋳物商の常吉が、上尾の荒物商から注文を受けた鍋と釜、合わせて十二個。
川口の運び屋である弥平は、これを自分の名前で引き受けたいと考えていた。
ただ、十二個のために荷車を一台仕立てて上尾まで走らせれば、運賃だけで随分な銭が掛かる。そこで、蕨を通る北行きの荷車へ一緒に載せられないかと相談してきたのだった。
「一件うまくいけば、次の仕事にもつながるかもしれねえな」
清兵衛が言うと、敬之助も頷いた。
「そうですね。ただ、常吉さんから出せる運送代には限りがあります。留吉さんの運賃を払って、弥平さんにも銭が残らなければ商売になりません」
「そこは弥平にも考えがあるだろ」
「ええ。だから、まず現物を見ましょう」
清兵衛は通りを眺めた。
荷車なら毎日のように行き来している。
空いている場所へ荷を載せれば、それで済むものだと思っていたが、どうやら話はそう簡単ではないらしい。
*
翌朝、川口から鍋と釜が届いた。
常吉の店の若い者が馬に荷車を引かせ、弥平はその脇を歩いてきた。常吉が自分の店から蕨まで荷を出す手配をしたもので、若い者は荷を引き渡せば、その車と馬を連れて川口へ戻ることになっている。
弥平が請け負った九百文の運送代は、蕨で北行きの便へ荷を引き継ぎ、上尾の買い手へ届けるまでの仕事に対するものだった。
「おう、清兵衛さん!」
「来たか!」
「来たけどよ、まず水をくれ。朝から歩き通しだ」
弥平が水を飲んでいる間に、清兵衛は荷台を覗き込んだ。
藁で幾重にも包まれた品物が、荷車の上にずらりと並んでいる。包みごとに大きさが違い、中には両腕で抱えるほどのものもあった。
「……おいおい。随分でかいな」
「釜が四つ、鍋が八つだ。全部で十二個」
「もう少し小せえもんだと思ってたぞ」
「お前、留吉にも同じこと言ったらしいな」
「誰から聞いたんだよ」
「敬之助さんだ」
弥平が笑い、清兵衛は店の奥を振り返った。
敬之助は素知らぬ顔で帳面を開いていた。
常吉の若い者は荷を下ろすのを手伝い、一つずつ数を確かめた。釜が四つ、鍋が八つ。札の数も合っている。
品物を引き渡した証しを残すと、若い者は空になった荷車を川口へ引き返していった。
清兵衛は店先に並んだ包みを見下ろした。
「……で、これを全部留吉の車へ載せるわけか」
「そのつもりで来たんだ」
弥平は一つ目の包みを持ち上げ、清兵衛へ渡そうとした。
受け取った清兵衛は、予想以上の重さによろめきかけた。
「おっと……!」
「気をつけろよ。鉄なんだから」
「分かってるよ。いや、思ったより重いな」
「だから、数だけで話を決めるなってことだ」
敬之助が横から口を挟んだ。
清兵衛は包みを下ろしながら苦笑した。
「もう、その話はいいだろ」
敬之助は数を記し終えると、弥平へ向き直った。
「上尾へ届けるのは、明日の暮れまででしたね」
「ああ。長助の店で売る品だから、明日中に受け取りたいって話だ」
「今日のうちに積み直せれば、留吉さんの出発には間に合います」
「そう願いてえな」
弥平は並んだ荷を見た。
ここまで運んで来ることはできた。
しかし、問題はこれからだった。
*
留吉が現物を見に来たのは、朝の仕事を片づけてからだった。
藁包みが並んでいるのを見るなり、足を止めた。
「……おい。これ、全部か?」
「ああ」
清兵衛が答えると、留吉は大きな釜の包みを持ち上げ、続いて鍋の重さを確かめた。
「重さだけなら、まだ積めるかもしれねえ。だが、これじゃ場所が足りねえな」
「何とかならねえか?」
留吉は荷台へ戻り、先に預かった反物と乾物の位置を確かめた。
その隙間へ釜を置くとすれば、どうしても荷が高くなる。反物の上へ鉄の釜など載せられないし、乾物の包みを押し潰すわけにもいかない。
「……七つがいいところだな」
「七つ?」
弥平の顔が曇った。
「十二個全部で一件の注文なんだ。七つだけじゃ困る」
「俺だって全部運べりゃ、その方がいいさ。だが、先に引き受けた荷まで傷めるわけにはいかねえだろ」
留吉は落ち着いて答えた。
弥平にも、その言い分は分かった。
常吉から預かった仕事を守りたいのと同じように、留吉にはほかの荷主との約束がある。
自分の都合だけで、それを曲げてもらうわけにはいかない。
「……別の車を頼むしかねえか」
弥平が呟いた時、留吉は一つの包みを指さした。
「こいつの中は、どんな鍋なんだ?」
「大きさの違う鍋だよ。常吉が一つずつ包んでくれた」
「同じ形か?」
「大体はな」
留吉は少し考えた。
「だったら、包みを解いてみねえか。重ねられるかもしれねえ」
清兵衛がすぐに縄へ手を伸ばしたが、弥平が止めた。
「待て。こいつは俺が預かった品だ」
弥平は釜と鍋を見渡した。
「常吉からは、必要なら包み直しても構わねえと言われてる。ただし、傷めたら俺が責任を負うことになる」
「だったら、お前が解いてくれ」
留吉はそう言って、荷の脇へ腰を下ろした。
「俺は中を見て、積めるかどうか考える」
弥平が縄をほどき始めると、細かな藁屑が冬の風に飛ばされた。
常吉は品物が擦れないよう、縁にも取っ手にも厚く藁を巻いていた。長い道中で傷をつけまいとしたのだろうが、その分、一つ一つの包みが随分大きくなっている。
三つ目の鍋を取り出したところで、留吉が顔を近づけた。
「……やっぱりな」
鍋は大きさこそ違うものの、形はよく似ていた。
大きな鍋の中へ一回り小さいものを入れてみると、縁のところで少し引っかかる。そこで細くまとめた藁を挟み、もう一度重ねると、鉄同士が直接触れずに収まった。
「こいつはいいな」
弥平も顔を明るくした。
三つ目、四つ目も同じように重ねられることが分かり、残りの鍋も一組にまとめてみた。
八つあった鍋は、四つずつ二組になった。
もちろん重さは変わらない。四つ重ねた鍋は、一人で気軽に持ち上げられるものではなかった。
しかし、必要な場所はずっと少なくなった。
「これなら、どうだ?」
弥平が尋ねると、留吉は鍋の包みを横から押し、動き具合を確かめた。
「悪くねえ。縁に挟んだ藁がずれなきゃ、何とかなるだろ」
釜は四つとも形が違い、口や取っ手が引っかかるため、無理に重ねることはできなかった。
結局、釜四つと鍋の包み二つ。
十二個の品物を、六つの荷として積むことになった。
「これなら全部載るかもしれねえな」
留吉が言った。
清兵衛は思わず声を上げかけたが、隣で敬之助がまだ荷台を眺めていることに気づき、口を閉じた。
留吉はそれを見て笑った。
「何だ。今日はもう、載るって言わねえのか?」
「……積んでからにするよ」
「そいつは賢明だ」
弥平も笑った。
清兵衛は頭を掻きながら、もう一度荷台を覗き込んだ。
*
ところが、荷を小さくまとめても、すぐには積み込めなかった。
留吉の車には、すでに大宮行きの反物と上尾行きの乾物が載っている。鍋と釜を低い位置へ置くには、それらを一度下ろす必要があった。
しかも、重い釜を動かすには人手が要る。
「……誰か手を貸してくれねえかな」
清兵衛が呟くと、敬之助は帳面を閉じた。
「まず藤蔵さんへ聞いてみましょうか。ただし、宿の仕事で必要な人まで借りるわけにはいきません」
清兵衛は頷いた。
「分かってる。本人が引き受けられるか、聞くだけだ」
藤蔵は、長く蕨宿の人馬継立に関わってきた男だった。
清兵衛たちの新しい荷の仕事についても耳にはしているが、特別に歓迎しているわけではない。
「……また人足か」
事情を聞くなり、藤蔵は眉を寄せた。
「鍋と釜が十二個あるんだ。包み直したら場所は空きそうなんだが、積み替えるのに手が足りねえ」
「昼間は無理だぞ」
藤蔵は即答した。
「こっちにも引き受けた仕事がある。荷の相談が増えたからって、宿の仕事を放り出させるわけにはいかねえ」
「そりゃそうだな」
清兵衛は素直に頷いた。
その様子を見て、藤蔵は少し意外そうな顔をした。
「……今日は随分、聞き分けがいいな」
「さっき留吉にも似たようなことを言われたよ」
「何だ、怒られたのか」
「怒られちゃいねえよ」
清兵衛は苦笑した。
藤蔵も笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「荷の仕事が増えるのは悪いことじゃねえ。だが、それで今までの仕事に穴を空けたら、困る人間がいるんだ」
「分かってる。昼の仕事を終えた後に、手を貸してくれる者がいれば頼みてえ」
「それなら、安吉に聞いてみるか」
藤蔵は少し考えた。
「今日の仕事が終われば、手が空くはずだ。ただし、本人が引き受けるならの話だぞ。賃銭もちゃんと決めろ」
「ああ」
「それから、明日も仕事がある。夜遅くまで働かせるなよ」
清兵衛は頷いた。
「夕方の明るいうちに終わらせるつもりだ」
藤蔵は清兵衛を見つめた。
「……約束できるのか?」
「できるかどうかは、留吉に聞いてからだな」
一瞬の沈黙の後、藤蔵が声を立てて笑った。
「ようやく、少しは考えて話すようになったじゃねえか」
清兵衛も笑い、頭を下げた。
安吉はその日の仕事を終えると、決めた賃銭で荷積みを手伝うことを承知してくれた。
これで人手は揃った。
あとは日暮れまでに積み終えられるかどうかだった。
*
「一度、勘定を確かめましょう」
夕方の積み直しを始める前、敬之助が弥平を呼び止めた。
帳面には、荷を運ぶために必要な銭が並んでいる。
「常吉さんから受け取る運送代が、九百文ですね」
「ああ。蕨から上尾へ届けるまでの分だ」
「留吉さんへ払うのが六百文。包み直しの藁縄と手間に八十文、安吉さんへの賃銭が百文。それから、こちらの取り次ぎの手数料が五十文です」
敬之助は筆を置いた。
「合わせて八百三十文。差し引き、七十文が残ります」
弥平はしばらく黙っていた。
「……七十文か」
「はい。ただし、弥平さんご自身の食事や宿の費用は、まだ入っておりません」
「上尾で泊まることになるだろうな」
留吉が横から言った。
「今から出るわけじゃねえ。明日の朝、蕨を発って、上尾へ着くのは夕方になるはずだ。荷を渡してから川口まで戻ろうなんて考えるなよ」
弥平は頷いた。
上尾で一晩泊まり、翌日蕨を通って川口へ戻るとなれば、食事も宿も必要になる。
自分が二日掛けて歩く働き賃まで考えれば、七十文では到底割に合わない。
「……こりゃ、赤字になるかもしれねえな」
清兵衛が顔を上げた。
「だったら、やめるか?」
弥平は少し考えてから、首を横に振った。
「いや、やるよ」
「本当にいいのか」
「ああ。ただ、今回限りだな。毎度これじゃ食っていけねえ」
弥平は並んだ鍋と釜を眺めた。
「俺は今まで、人に頼まれた荷を運んできた。決められたところへ届けて、銭を貰う。それで食ってきた」
清兵衛は黙って聞いていた。
「だが、今度は俺が自分で引き受けた仕事なんだ。途中で運べませんでしたじゃ、次から誰も頼んでくれねえだろ」
弥平は一つの釜へ目を向けた。
「常吉だって、俺が何とか運ぶって言うから預けてくれた。そんな相手に、荷が大きすぎたから返しますなんて言いたかねえ」
「……そうか」
「それに、今回やって分かったこともある。最初から大きさを聞いて、包み方まで決めておけば、余計な銭は掛からなかったかもしれねえ」
敬之助が頷いた。
「そうですね。少なくとも、今回のように荷を全部解いて包み直す手間は減らせるでしょう」
「だろ?」
弥平は苦笑した。
「赤字になった分は、次に同じ失敗をしねえための銭だと思うさ」
清兵衛はその顔を見つめた。
弥平は川口の大店、相馬屋の甚右衛門を嫌っているわけではない。
ただ、誰かの下で荷を運ぶばかりではなく、自分の名前で仕事を受けたいのだ。
そのためには、荷を届ける腕だけでは足りない。
銭の勘定も、約束の責任も、自分で引き受けなければならない。
「……よし」
弥平は立ち上がった。
「いつまでも勘定を見てたって鍋は動かねえ。積もうぜ」
留吉も頷いた。
「そうだな。明るいうちに片づけよう」
*
荷の積み直しは、思った以上に慎重な仕事になった。
まず留吉が先に預かっていた荷を一度下ろし、数と包みの状態を確かめる。その後、釜を荷台の低い位置へ置き、隙間へ藁や板を当てながら固定していった。
鍋を四つずつ重ねた包みは場所こそ取らないが、一組が重い。安吉と弥平が両側から支え、留吉の指示で荷台へ載せる。
「そっちはもう少し内側だ。釜を外へ寄せすぎると、揺れた時に危ねえ」
「ここか?」
「ああ。もう少し車軸の方へ寄せてくれ」
清兵衛は縄を持ち、荷が動かないよう支えていた。
途中、反物の包みをどこへ戻すかで少し手間取ったが、重い鉄の荷を下へ、軽く傷みやすい荷をその上へ収めることで、何とか全部を載せ終えた。
「……よし」
留吉は手綱を握り、馬を数歩進ませた。
ところが、荷車が動いたところで、片方の車輪に少し強く重みが掛かるのが分かった。
「待て!」
留吉が馬を止めた。
「どうした?」
弥平が尋ねる。
「右が重い。釜が寄りすぎてるな」
荷は確かに収まっている。
しかし、重い鉄の品物が片側へ偏れば、悪い道で車が大きく傾くおそれがあった。
清兵衛は荷台を見た。
「……全部載ったのにか」
「載っただけじゃ駄目なんだよ」
留吉は落ち着いて答えた。
「ここで直しゃ済む。道の途中で車を傾けてからじゃ、どうにもならねえぞ」
弥平が頷いた。
「……そうだな。やり直そう」
締めたばかりの縄を緩め、重い釜二つの位置を変える。
反物も少し動かし、鍋の包みを車の中央へ寄せた。
もう一度縄を締め直した頃には、陽がだいぶ傾いていた。
留吉は荷車を前へ動かし、一度止めて後ろから見た。さらに少し進ませ、左右の車輪と馬の様子を確かめる。
今度は不自然な傾きもなく、荷が大きく揺れることもなかった。
「……これなら、いける」
その言葉を聞いて、弥平が大きく息を吐いた。
清兵衛も思わず笑ったが、先ほどのように大声で喜ぶことはしなかった。
まだ運ぶ仕事が残っている。
そこまで考えていたのかどうか、留吉が清兵衛を見ると、彼は肩をすくめた。
「明日、上尾へ届いてからだな」
留吉は笑った。
「おう。やっと分かってきたじゃねえか」
最後に荷札を確かめる。
釜が四つ。
鍋が八つ。
十二個の数は揃っている。
留吉は、包み方と運び方で責任の及ぶ範囲が違うことを弥平へ確かめた。
鍋を重ねて包み直したのは弥平たちであり、その包み方が原因で傷がつけば弥平にも責任がある。一方、留吉の扱いが悪くて荷を傷めたなら、運び手として責任を負わなければならない。
敬之助がその約束を書き残し、弥平と留吉も内容を確かめた。
「それと、俺も上尾まで行くからな」
弥平が言うと、留吉は少し驚いた顔をした。
「お前もか?」
「ああ。受け渡すところまで見届けてえ」
「なら、明日の朝は早いぞ」
「分かってる」
「寝坊するなよ」
「俺より、お前が寝坊しねえようにしろ」
二人は笑った。
清兵衛は荷台に目を向けた。
十二個の鍋と釜を運ぶ。
たったそれだけの仕事を成立させるために、包み方を変え、人を頼み、積み方を直し、銭と責任を決めなければならなかった。
それでも、明日の朝にはこの荷車が上尾へ向かう。
今は、それで十分だった。
*
翌朝、まだ宿の店が開ききらないうちに、留吉の荷車が動き始めた。
荷の数と縄を最後に確かめているところへ、勇吉が通り掛かった。
「何だ、朝っぱらから賑やかだな」
「おう、勇吉か。川口の鍋を上尾まで運ぶんだよ」
清兵衛が答えると、勇吉は荷台を覗き込んだ。
「……随分しっかり積んだな」
「昨日、みんなで積み直したんだ」
「そうか」
勇吉は、荷車の脇で最後の縄を引いている安吉へ目を向けた。
男は身体を横へ捻ったまま、腕だけで強く縄を引こうとしている。
「おい、足ごと向きを変えた方がいいぞ」
安吉が振り向いた。
「へえ?」
「そんな格好で力を入れたら、腰を痛める。足をこっちへ向けりゃ、身体ごと引けるだろ」
安吉が足の位置を変え、縄を引き直した。
「……なるほど。こっちの方が楽だな」
「そりゃそうだ」
勇吉は笑った。
清兵衛が横から尋ねた。
「お前、鍋の積み方まで分かるのか?」
「分かるわけねえだろ」
「何だよ」
「俺が見てるのは人間の方だ。荷のことは留吉に聞けよ」
留吉が笑った。
「そりゃそうだ。こっちは毎日やってるんだからな」
清兵衛も笑い、荷台から離れた。
留吉は手綱を取り、弥平がその脇へ並ぶ。
「じゃあ、行くぞ」
「ああ。気をつけてな」
清兵衛はそう言って、荷車を見送った。
冷えた朝の街道を、車輪がゆっくりと動き出す。
十二個の鍋と釜を載せた車は、浦和、大宮を経て上尾へ向かっていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで眺めていた清兵衛に、敬之助が声を掛けた。
「さて、柿の木の家の荷主さんへ、もう一度確認に行きましょうか」
「……今からか?」
「ええ。こちらはまだ四台分残っておりますので」
清兵衛は大きく息を吐いた。
勇吉が笑った。
「清兵衛さん、荷が一つ動いたくらいじゃ休めねえな」
「まったくだよ」
清兵衛は苦笑しながら、敬之助の後を追った。
*
留吉の荷車は、冬の中山道を北へ進んだ。
浦和を過ぎ、大宮へ向かう頃には日も高くなっていたが、日陰にはまだ冷たい空気が残っている。馬の足音と車輪の軋む音を聞きながら、弥平は何度も荷台を振り返った。
「……大丈夫か?」
留吉が尋ねる。
「ああ。縄は緩んでねえ」
「だったら、そんなに気にするな」
「分かってるんだけどよ」
弥平は苦笑した。
荷を積んでいる時は、十二個全部を載せることばかり考えていた。
しかし、実際に街道を進み始めると、揺れた時に鍋が動かないか、釜の縁がぶつからないかと、別のことが気になってくる。
荷車は平らな道ばかりを走るわけではない。少し深い轍へ車輪が落ちれば、積んだ荷にも大きな力が掛かる。
それを留吉はよく知っていた。
途中で一度馬を休ませた時も、弥平が縄へ手を伸ばそうとすると、まず荷全体の様子を見てからにしろと止めた。
「一つの縄だけ締め直して、ほかが緩んだら意味がねえだろ」
「……なるほどな」
「運ぶってのは、載せて走りゃいいってもんじゃねえんだよ」
弥平は頷いた。
大宮では、先に引き受けていた反物を下ろした。
店の者と数を確かめ、受け取ったことを記した書付を貰う。その間、弥平は鍋と釜の包みを見て回った。
藁も縄も、問題はなかった。
反物が下りた分、荷台には少し余裕ができたが、留吉は鍋の位置を変えようとはしなかった。
「せっかく動かねえようにしたんだ。余計なことして緩めるより、このまま行こう」
弥平も賛成した。
再び動き出した荷車は、上尾を目指して街道を進んだ。
*
上尾へ着いた頃には、日が傾き始めていた。
荒物屋の長助は、店先へ出てくるなり荷台を覗き込んだ。
「おう、川口からの荷か」
「そうだ。鍋と釜、十二個」
弥平が答える。
「間に合ったな」
「何とかな」
長助は藁包みを見て眉を上げた。
「……随分まとめてあるじゃねえか」
「途中で包み直したんだ。傷まねえようにはしたつもりだが、今から確かめてくれ」
「そりゃ確かめるさ。こっちも買った品物だからな」
長助は店の者を呼び、荷を一つずつ下ろさせた。
夕方の冷え込みが戻り始めた店先で、弥平も手を貸した。縄をほどく指先はすっかり冷たくなっていたが、ここで急いで鍋をぶつけては元も子もない。
まず釜を四つ並べる。
大きさも形も、それぞれ注文に合っているか確かめる。
続いて鍋を四つずつ重ねた包みから取り出し、間へ挟んだ藁を外していく。
長助は常吉から届いていた注文の控えと見比べながら、一つずつ数と大きさを確かめた。
「……こいつは、頼んだ大きさだな」
一つ目を置く。
二つ目も問題なかった。
三つ目は、口の縁へ指を滑らせ、しばらく確かめている。
弥平は黙って見守っていた。
「……何かあったか?」
「いや。藁が少し引っ掛かってただけだ」
長助は指先の藁を払い、釜をもう一度持ち上げた。
縁にも取っ手の付け根にも、ひびや欠けは見当たらない。
弥平は胸を撫で下ろしかけたが、長助はすでに次の品物へ手を伸ばしていた。
まだ終わっていない。
十二個全部が揃い、注文した大きさと形で、傷もないことを確かめてもらわなければならない。
藁の擦れる音と、鍋を置く時の重い音が、冷えた店先に響く。
長助が最後の鍋を裏返した。
底を確かめ、縁を撫で、取っ手を軽く動かしてみる。
弥平は気づかぬうちに、両手を握り締めていた。
「……よし」
長助が鍋を置いた。
「釜が四つ、鍋が八つ。大きさも注文どおりだ。傷もねえ」
弥平は息を止めたまま聞いていた。
「確かに、十二個受け取ったよ」
ようやく肩の力が抜けた。
「……よかった」
思わず漏れた声に、長助が笑った。
「何だ、そんなに心配だったのか」
「途中で包み直したからな。上尾へ着くまで、気が気じゃなかったんだよ」
「そりゃ御苦労だったな。ちゃんと運んでくれたじゃねえか」
長助は受け取った品物の数を記し、弥平へ書付を渡した。
「川口の常吉にも、受け取ったと伝えてくれ」
「ああ。必ずな」
弥平が書付を懐へしまうと、長助は並べられた鍋を眺めながら言った。
「今ある分が売れたら、また常吉へ頼むかもしれねえ。その時も運んでくれるか?」
「……また?」
「すぐじゃねえよ。ただ、今度も同じくらいの運び賃で済むならと思ってな」
弥平は、すぐには返事をしなかった。
今回の運送で、予定していなかった手間と銭が掛かった。
次も同じやり方なら、自分の儲けは残らない。
「……荷の数と大きさを、先に教えてくれりゃ考えてみるよ」
長助は笑った。
「分かった。その時は頼む」
弥平は頷いた。
今すぐ次の注文が決まったわけではない。
それでも、常吉から預かった十二個の鍋と釜は、確かに上尾へ届いた。
自分の名前で引き受けた仕事を、ようやく終えることができたのだった。
*
その晩、弥平は上尾の旅籠へ泊まった。
留吉と酒を飲んで騒ぐような余裕はなく、飯を済ませると部屋へ戻り、懐にしまった受領の書付をもう一度確かめた。
数も、受け取った者の名も、間違いない。
そこまで確かめてようやく眠りについたが、翌朝は早くに目が覚めた。
泊まり賃は四十文。
上尾までの道中と帰りに掛かった食事などの費用は、合わせて三十八文になった。
敬之助が蕨で計算した残りは七十文だったから、合わせれば八文の足が出る。
しかも、自分が何日も歩いて働いた分は、まだ一文も勘定に入っていない。
弥平は旅籠を出る時、小さく苦笑した。
「……高え勉強代になったな」
それでも、胸には昨日とは違うものがあった。
今度からは荷を引き受ける前に、大きさも数も確かめる。
誰の荷車へ積み、何人の手が必要なのかも聞いておく。
そして、往復の飯代や宿代まで入れてから、引き受けるかどうか決める。
当たり前のことばかりだったが、実際に一件運んでみるまで、弥平はそこまで考えていなかった。
川口へ戻る道すがら、すれ違う荷車を眺める目も、少し変わっていた。
上尾へ向かう車は荷を載せていても、南へ戻る車には空きがある。
途中で荷を下ろして、軽くなった車もある。
留吉の車もそうだった。
昨日、上尾で鍋と釜を下ろした後は、帰りの荷を探していたが、ちょうど都合の合うものは見つからなかった。
来週なら南へ出したい品があるかもしれない。
そう言う商人はいた。
しかし来週、留吉がまた上尾へ行くとは限らない。
荷はあっても、運ぶ車がいない。
車があっても、積む荷がない。
弥平は歩きながら、そのことを何度も考えていた。
*
蕨へ戻った弥平を、清兵衛は店先で迎えた。
「おう! 戻ったか!」
「ああ」
「どうだった?」
弥平は懐から受領の書付を取り出した。
「十二個、全部届けてきたぞ」
清兵衛はそれを受け取り、敬之助へ渡した。
敬之助は数と受取人の名を確かめ、帳面に記した。
「……確かに、十二個ですね」
「だから、そう言ってるだろ」
「確認ですよ」
弥平が笑った。
清兵衛もほっとした顔になったが、敬之助が勘定の頁を開くと、弥平は先に口を開いた。
「……赤字だったよ」
「え?」
「八文、足が出た。それに俺の働き賃も入ってねえ」
清兵衛は眉を寄せた。
「本当に八文も損したのか」
「ああ。上尾で泊まって、飯も食って、帰ってきたらそれだけ掛かっちまった」
敬之助が帳面へ書き加えた。
受け取る運送代、九百文。
留吉の運賃、六百文。
包み直しの費用、八十文。
人足代、百文。
取り次ぎの手数料、五十文。
旅の費用、七十八文。
差し引き、八文の赤字。
「……なるほど」
敬之助は筆を置いた。
「やはり、ご自身の旅の費用まで最初に考えておくべきでしたね」
「そうだな」
弥平は苦笑した。
清兵衛はしばらく黙っていたが、やがて尋ねた。
「それでも、やってよかったと思うか?」
「そりゃ、まだ分からねえよ」
弥平は受領の書付を見た。
「次の仕事が来なきゃ、八文損しただけだからな」
「……そうか」
「ただ、同じ失敗はしねえつもりだ」
弥平は顔を上げた。
「長助も、また鍋を頼むかもしれねえって言ってた。今度は先に荷の大きさを聞くし、常吉にも包み方を考えてもらう」
「運賃もか?」
「ああ。ちゃんと計算してから決める」
敬之助は頷いた。
その言葉には、昨日までとは少し違う重みがあった。
「次は今回の勘定が役に立ちますね」
「そう願いてえな」
弥平は笑った。
清兵衛は帳面を覗き込み、感心したように頷いた。
八文の損は小さな額かもしれない。
しかし弥平にとって、それは自分の仕事で初めて負った損だった。
誰かの下で荷を運んでいた頃とは違う。
これからは引き受ける仕事一つ一つを、自分で見極めなければならないのだ。
*
「ところで、もう一つ聞いてもいいか」
敬之助が尋ねた。
「何だ?」
「留吉さんは、上尾から戻る時、何か荷を積んでいましたか」
弥平は少し考えた。
「……いや。大宮でも荷を下ろしたし、上尾でも全部届けたからな。帰りは随分軽かったぞ」
「そうですか」
敬之助は帳面の新しい頁を開いた。
清兵衛が横から覗き込む。
「何を考えてるんだ?」
「帰りの荷です」
「帰り?」
「ええ。上尾まで荷を運んでも、戻る時に何も積まなければ、その分の銭は入りません」
弥平が頷いた。
「留吉も同じことを言ってたよ」
「本当ですか」
「ああ。上尾から南へ運ぶ荷がありゃ、帰りにも銭になるんだけどなって」
清兵衛は少し考えた。
「だったら、上尾で荷を探せばいいじゃねえか」
「探したよ」
弥平は笑った。
「一軒二軒、店を覗いて聞いてみた。だが、ちょうどその日に南へ運びたい荷はなかった」
「そうなのか」
「来週なら出したい品があるかもしれねえって話はあったけどな。その日に留吉が上尾へいるとは限らねえだろ」
清兵衛は黙った。
言われてみれば、当たり前のことだった。
荷がある。
車もある。
それだけで商売が成立するわけではない。
荷を出す日と、運び手が通る日が合わなければ、運びようがないのだ。
「……なるほどな」
敬之助が呟いた。
「何だ?」
「まず、留吉さんがいつ北へ向かい、いつ戻るのか知る必要がありますね」
「そうだな」
「それから、上尾の商人たちが、いつ南へ荷を送りたいのか」
弥平が頷いた。
「それが分かりゃ、帰りの荷も積めるかもしれねえな」
敬之助は帳面へ留吉の名を書き、その下へ蕨を出た日と、上尾で荷を下ろした日を記した。
清兵衛は、その筆先を眺めていた。
今まで北へ向かう荷を探すことばかり考えていたが、荷車は上尾へ行ったきりになるわけではない。
必ず、どこかへ戻る。
帰り道に積む荷があれば、運び手も助かるだろう。
「……なあ、敬之助」
「はい」
「今度から、知ってる運び手が来たら、どこへ行くのか聞いてみるか」
敬之助は少し驚いた顔をした。
「行き先ですか?」
「ああ。それと、いつ戻ってくるのか」
敬之助は考えてから頷いた。
「それなら、今の私たちにもできますね」
「だろ?」
清兵衛は少し得意そうに笑った。
弥平が横から口を挟む。
「ただし、荷を引き受ける前に、大きさと数は聞けよ」
「分かってるよ」
「重さもですね」
敬之助が付け加える。
「……そこまで聞くさ」
清兵衛が笑うと、二人もつられて笑った。
そこへ店先から別の男が声を掛けてきた。
「清兵衛さん、ちょいといいかい」
柿の木の家に荷を預けている商人だった。
「引き取りの日について、少し相談したいんだが」
清兵衛は男の顔を見て、それから敬之助の帳面を見た。
上尾へ十二個の鍋を届けたところで、柿の木の家にはまだ四台分の荷が残っている。
そちらの約束も、忘れるわけにはいかない。
「分かった。すぐ話を聞くよ」
敬之助は柿の木の家の頁を開き、清兵衛と並んで男を迎えた。
弥平はその様子を見て笑った。
「……お前ら、俺が鍋を運んでる間に、仕事が増えたんじゃねえか?」
「増えたのは、考えることばっかりだよ」
清兵衛が答える。
「そいつは大変だな」
「まったくだ」
弥平は川口の常吉へ報告するため、二人に別れを告げた。
受領の書付を懐に入れたまま、まだ冷たい風の吹く通りへ出ていく。
清兵衛はその後ろ姿を見送り、目の前の商人との話に戻った。
*
商人が帰った後、清兵衛は通りへ出て、しばらく中山道を眺めていた。
北へ向かう荷車もあれば、南へ戻る車もある。
以前なら、それを見て、今日は荷が多いなとか、あの馬はよく働くなと思う程度だった。
しかし今日は、少し違った。
あの車は、どこまで行くのだろう。
いつ戻ってくるのだろう。
荷台には、まだ余裕があるのだろうか。
そんなことが気になった。
ちょうど一台の荷車が、街道を南へ進んでくる。
清兵衛は少し迷ったが、思い切って声を掛けた。
「おう、ちょいと聞いてもいいか!」
運び手が振り返る。
「何だい?」
「どこから戻ってきたんだ?」
「大宮だよ」
「そうか。で、次はいつ北へ行くんだ?」
男は不思議そうな顔をした。
「何だい、荷でもあるのか?」
「いや、今はねえんだけどな」
「……変な奴だな」
男は笑ったが、次に北へ向かう予定を教えてくれた。
清兵衛は店の奥へ顔を向けた。
「おい、敬之助! ちょいと書いといてくれ!」
帳面を抱えた敬之助が顔を出す。
「何を書けばいいんです?」
「この人が、次に大宮へ行く日だよ」
敬之助は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って新しい頁を開いた。
運び手の名。
行き先。
次に通る予定の日。
尋ねれば教えてくれる者もいれば、面倒がって答えない者もいるだろう。
予定が変わることだってある。
それでも、一人ずつ聞いてみることはできる。
「……で、何か運ぶ荷があるのかい?」
男がもう一度尋ねた。
清兵衛は笑った。
「今はねえよ」
「だったら、何で聞くんだ?」
「いや……」
清兵衛は少し考えた。
「次に荷が来た時、お前さんがいつ通るか分かってりゃ、頼めるかもしれねえだろ」
男はしばらく清兵衛の顔を見ていたが、やがて笑った。
「……なるほどな。そりゃ、そうかもしれねえ」
そう言って、馬を進ませた。
清兵衛は荷車を見送った。
北へ行く車も、南へ戻る車も、今までと変わらず蕨宿を通り過ぎていく。
その荷台に何が載っているのか、明日はどこへ向かうのか。
これまで気にも留めなかったことを、少し知りたくなっていた。
店の奥では、敬之助が今聞いたばかりの予定を帳面へ書き込んでいる。
まだ、その車へ載せる荷は一つもない。
それでも清兵衛は、次に知った顔の運び手が通ったら、また声を掛けてみようと思っていた。
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