第四十四話 閑話 仮の県庁
浦和の役所に届いた二通の書付は、若い書役を朝から悩ませていた。
一通は岩槻の柴崎という男から、県庁を迎えるために使えそうな屋敷と、その修繕について記したもの。もう一通は、滝沢という旧藩士から、持ち主の承諾もないまま建物を差し出すような話を進めるべきではないという申し入れだった。
どちらも県庁を岩槻へ迎えたいと思っているらしい。
それなのに、並べて読むと話が食い違っている。
「……同じ町の者なんですよね、この二人は」
若い書役が呟くと、向かいで帳面を整理していた年配の役人が顔を上げた。
「何だ、朝から難しい顔をして」
「岩槻からの申し入れです。こちらは屋敷を使ってほしいと言っているのに、もう一方は勝手に使うなと書いてあるんです」
「それで?」
「それでと言われましても、どちらの話を聞けばよいのかと」
年配の役人は二通を受け取り、しばらく目を通していたが、やがて柴崎の書付の一箇所を指で叩いた。
「ここには、使える見込みがあると書いてあるな」
「はい」
「使えると決まった、とは書いてねえだろ」
若い書役は読み直した。
確かに、そのとおりだった。
「……なるほど」
「もう一通は、その見込みだけで話を進めるなと言ってるわけだ。別に食い違ってはいねえよ」
「では、どうしましょう」
「持ち主が貸すと決めてるのか聞けばいい。それから、直すのにどれほど銭と日数が掛かるか。役人の住まいだって要るだろう」
年配の役人は書付を返した。
「お前、屋敷が一軒あれば県庁ができると思ってたのか?」
「そこまでは思ってませんよ」
「だったら、何を聞けばいいか分かるだろ」
若い書役は苦笑しながら筆を取った。
建物の承諾。
修繕の費用と日数。
官員の住まい。
三つを書き並べたところで、表から人を呼ぶ声がした。
「そういえば、柴崎という方が見えているんですが」
「何だ、来てるのか」
「ええ。連れの方も一緒です」
「だったら早く呼んでこい。紙と睨めっこしてても、屋敷の持ち主は返事をしてくれねえぞ」
若い書役は筆を置き、表へ向かった。
*
「承諾、でございますか」
柴崎は役人の問いを聞き、膝の上に置いた手を握った。
隣には材木商の与七が座っている。与七は屋敷を見て回った時の覚書を持参していたが、どうやら最初に問われたのは、屋根や床の傷みではないらしい。
「はい。候補に挙げられた屋敷を、県庁として使うことについて、持ち主は承知されているのでしょうか」
「……まだでございます」
「では、今すぐ使えるわけではないのですね」
「交渉はこれからでございます。ただ、県庁として使える見込みがなければ、持ち主へ話を持っていくことも難しく……」
柴崎が説明しかけると、与七が横から口を挟んだ。
「旦那方、屋敷の中は見ております。直さなきゃならねえところはありますが、全部を一度に使うんでなけりゃ、何とかなるかもしれません」
「その修繕には、どれほど掛かりますか」
「使う部屋によりますね。屋根を全部直すのと、使える部屋だけ先に手を入れるのとじゃ、銭がまるで違います」
「日数は?」
「材木が揃って、職人の都合がつけば……いや、まず持ち主が貸してくれなきゃ始まりませんな」
与七はそこで苦笑した。
「こっちも商売ですから、勝手に材木を買い込むわけにはいきません」
若い書役が記録を取る。
その筆先が、三つ目の項目で止まった。
「官員の住まいについては、いかがでしょう」
「旅籠もございますし、町には空いている家もあります。必要とあれば、手分けして探すつもりでおります」
柴崎が答えると、年配の役人が尋ねた。
「今のところ、何人分を用意できそうですかな」
柴崎は口を閉じた。
何人必要なのかを知らされていないのだから、答えようがない。
そう思ったが、役人が尋ねているのは、今すぐ泊まれる場所がどれだけあるのかということなのだろう。
「……これから、確かめます」
年配の役人は頷いた。
「では、建物の承諾も、費用も、住まいも、これからということですな」
柴崎は目を伏せた。
間違ったことを言われたわけではない。それが余計に悔しかった。
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「県庁を岩槻へ置くというのは、政府のお定めでございますな」
「左様です」
「そのお定めがあればこそ、我々は屋敷を探し、町の者へ話をしているのでございます。何もかも揃えてから申し出よと言われましても、町の者には、それほど大きな銭を先に出す余裕はございません」
柴崎は背筋を伸ばした。
「少し、時間をいただきたいのです」
年配の役人は、すぐには答えなかった。
「柴崎殿。岩槻へ県庁を置くという定めを、ここで変える話ではありません」
「はい」
「ただ、県の仕事はすでに動いております。いつ使えるか分からぬ屋敷を待って、その仕事を止めるわけにもいかんのです」
柴崎は何か言おうとしたが、続く言葉を見つけられなかった。
「まず、持ち主の承諾を取ること。修繕に掛かる銭と日数を調べること。それから、役人たちが暮らせる場所を探すこと。その見込みを、できるだけ確かなものにしていただきたい」
「……それが揃えば、県庁を迎えられるのでしょうか」
「そこまではお約束できません。県令のご判断もございますので」
役人は申し訳なさそうに答えたが、柴崎には、その言葉が一番厳しく聞こえた。
できるかどうかも分からないことへ、町の者に銭を出してもらわなければならない。
何のために。
県庁を迎えるためだ。
しかし、迎えられると決まっているわけではない。
柴崎は頭を下げた。
「承知いたしました。できる限りのことを進めてまいります」
隣で与七も頭を下げたが、役所の外へ出た途端、深いため息をついた。
「……参りましたね」
「与七」
「何です」
「滝沢殿へ行こう」
与七は足を止めた。
「今からですか?」
「ああ。あの屋敷のことは、滝沢殿にも話を通さなければならん」
与七は柴崎の顔を見て、少し笑った。
「やっと、その気になりましたか」
「何だ」
「俺は前から、そうした方がいいって言ってたんですよ」
「……そうだったか?」
「聞いてなかったんでしょう」
柴崎は返事をしなかった。
与七は声を立てて笑い、先に歩き始めた。
*
滝沢は、二人を座敷へ通したものの、茶を勧める前に用件を尋ねた。
「県庁のことだな」
「はい」
「浦和へ行ったそうだが、どうだった」
「屋敷を使う承諾があるのかと問われました」
「そうだろうな」
滝沢は少しも驚かなかった。
柴崎は、その顔を見つめた。
「……滝沢殿。浦和の役所へ書付を出されましたな」
「ああ」
「なぜ、私どもに何も言わず」
「お前たちも、私に何も言わず屋敷を使う話を進めていただろう」
柴崎は口を閉じた。
滝沢は怒鳴らなかった。湯呑みを一つ動かし、それから柴崎の方へ向き直った。
「私は県庁が岩槻へ来ることに反対しているのではない。旧藩ゆかりの屋敷を、誰が貸せるのかも確かめず、町の名を使って話を進めるのが気に入らんのだ」
「……おっしゃるとおりです」
「随分と素直だな」
「浦和で、思い知らされました」
「役所へ行く前に気づけ」
「返す言葉もございません」
与七が横で笑いを堪えている。
滝沢は、そんな与七を一瞥した。
「お前もだぞ」
「へい?」
「材木を見て歩いたそうだな。誰の承諾を得て屋敷へ入った」
「……外から見られるところだけですよ」
「ならばよい」
与七は胸を撫で下ろした。
「いやあ、今のは少し肝が冷えました」
「冷える肝があるなら、少しは考えて動け」
「考えたから中へは入ってませんよ」
滝沢は呆れた顔をしたが、それ以上は言わなかった。
柴崎は、そこで深く頭を下げた。
「滝沢殿。屋敷の管理を預かる方へ、お話を通していただきたいのです」
「誰の屋敷かは、分かっておるのか」
「はい。ただ、持ち主は今、岩槻におりません。管理を預かっている方へお願いをして、せめて中を詳しく調べさせていただければと」
滝沢はしばらく考えていた。
「……佐平なら、話を聞いてくれるだろう」
「ありがとうございます」
「礼は早い。話を聞いてもらうだけだ。屋敷を貸してもらえるとは限らんぞ」
「承知しております」
滝沢は立ち上がった。
「では、行くか」
与七が目を丸くした。
「今からですか?」
「何だ。お前たちは急いでおるのではないのか」
「そりゃ、そうですが」
「だったら立て」
柴崎と与七は顔を見合わせ、慌てて腰を上げた。
*
屋敷は、町の通りから少し入ったところにあった。
門の脇には枯れ葉が積もり、庭木も伸びている。長く使われていない部屋もあるらしく、外から見ても手入れが必要なことは分かったが、建物そのものはしっかりした造りだった。
佐平という男は、滝沢の顔を見ると驚いたように頭を下げた。
「これは滝沢様。何かございましたか」
「屋敷のことだ。以前、柴崎から話があっただろう」
「ああ、県庁に使わせてほしいという……」
佐平は柴崎へ目を向けた。
「その件でしたら、まだ主人から返事はいただいておりませんが」
「今日は貸せと決めに来たわけではない。中を調べる許しをいただきたいのだ」
「調べるだけ、ですか」
「そうだ。屋根と床を見て、直すとすればどれほど掛かるか確かめたい。勝手に手を入れたりはせん」
佐平は与七を見た。
「お前さんが調べるのかい」
「へい。材木を扱っておりますんで、傷んだところを見りゃ、どのくらい手が掛かるかは分かると思います」
「……それなら、中を見るくらいは構わんでしょう。ただし、柱一本動かしてもらっちゃ困りますよ」
「柱を動かしたら家が倒れちまいますよ」
与七が真顔で答えると、佐平は思わず笑った。
「口の達者な材木屋だな」
「口だけじゃありませんよ。材木も見ます」
佐平は鍵を取り出した。
戸を開けると、乾いた埃と古い木の匂いが流れてきた。
与七は草履を脱ぎ、奥へ進んだ。
床板を踏みしめ、柱の根元を確かめる。窓を開けて外の明かりを入れると、畳の上に細かな埃が舞った。
「……こっちは思ったほど悪くねえな」
与七は床の具合を確かめながら、隣の部屋へ移った。
「この二部屋なら、手を入れるところは少なくて済むかもしれません。ただ、奥は別です。雨が回ってるようだし、天井も見なきゃならねえ」
「全部直す必要はあるのか」
柴崎が尋ねると、与七は首を振った。
「役所として何に使うか次第ですね。最初から全部使うつもりなら直さなきゃなりませんが、二部屋だけなら、ずっと少ない銭で済みそうです」
柴崎は二つの部屋を見回した。
障子を開ければ、互いの部屋を行き来できる。書付を広げる場所もあり、訪ねてきた者を迎えることもできそうだった。
ここで役人たちが仕事をする。
そう考えると、今まで漠然としていた県庁の姿が、初めて目の前に現れた気がした。
「……これなら、何とかなるのではないか」
「だから、まだ勘定してるところですって」
与七は苦笑した。
滝沢は何も言わず、部屋の隅に立っていた。
与七が大まかな見積もりを書き終えると、柴崎は佐平へ向き直った。
「佐平殿。この二部屋だけでも、県庁の仕事に使わせていただけぬでしょうか」
佐平の顔から笑みが消えた。
「柴崎さん。わしは、この屋敷の番を任されてるだけです」
「はい」
「中を見せるくらいならできますが、役所に貸すとなれば話は違います。主人が承知するかどうかも分かりませんし、使っている間に何かあったら、誰が責任を持つんです?」
柴崎は答えられなかった。
佐平は与七の紙を見た。
「屋敷を直してくれるのはありがたいですよ。ですが、もし県庁が来なくなったら、その修繕の銭は誰が払うんです」
今度は与七も黙った。
屋敷を直すには材木と職人が要る。
その仕事を請け負う側にとっても、代金を受け取れるか分からない工事は引き受けにくい。
佐平は困ったように笑った。
「わしだって、岩槻へ県庁が来るなら嬉しいんです。町に人が増えりゃ、商売だってよくなるでしょう。でも、嬉しいからって、主人の屋敷を勝手に貸すわけにはいきません」
滝沢が頷いた。
「もっともな話だ」
「主人へは、わしから話してみます。ただ、返事がいつ来るかも分かりませんよ」
「それで結構です」
柴崎は深く頭を下げた。
帰り道、与七は見積もりの紙を広げていた。
「二部屋だけなら、思ってたよりずっと少ない銭で済みそうです」
「そうか」
「ただし、借りられると決まってからの話ですよ。先に材木を買っちまって、主人に断られたら大損ですから」
「分かっている」
「本当ですか?」
柴崎は与七を見た。
「何だ、その言い方は」
「いや、柴崎さんは急ぐと、先に人を動かしちまいますからね」
滝沢が後ろで小さく笑った。
「よく見ておるな」
「長い付き合いですから」
柴崎は二人を睨んだが、やがて自分も笑った。
屋敷を調べる許しは得た。
使えそうな部屋も見つかった。
持ち主へ話を届けてもらうことにもなった。
まだ確かな約束は一つもないが、浦和へ申し入れた時より、少しだけ前へ進んだ。
柴崎には、それが嬉しかった。
*
それから幾日も経たぬ、明治四年十二月六日。
県令の野村盛秀と権参事の白根多助らが、東京を出て岩槻へ入った。
新しく成立した埼玉県の様子を確かめ、行政をどこで動かすか判断するための巡視である。
岩槻は旧藩の城下町として栄えてきた。
芳林寺では庁務が行われてきたが、新しい埼玉県全体の仕事を扱うには、これまでと同じ場所で足りるとは限らない。役人の数も、扱う書付も増えることになる。
野村は部屋を見て回り、書付を置く場所や人を迎える場所を確かめた。
その後ろでは、白根が官員の住まいについて尋ねている。
「今のところ、確実に借りられる家はどれほどある」
案内役は答えに詰まった。
「町の旅籠にも話をするつもりでございますが、まだ数までは……」
「家族を伴う官員もいる。旅籠だけで足りるのか」
「それは、これから調べなければ……」
白根は頷き、手元の紙に書き加えた。
野村が建物の使い勝手を確かめる一方、白根は役人を移すための人手と費用、住まいを調べていた。
新しい県を動かすには、役所の看板を掛け替えるだけでは済まない。
「野村様」
白根が声を掛けた。
「何だ」
「このままでは、官員の住まいが足りません。庁舎についても、ほかの建物を使うなら、いつから使えるか確かな見込みが必要になります」
「そうだな」
「町の者が、屋敷を調べていると聞いております」
野村は顔を上げた。
「その話を聞こう」
ほどなく、柴崎と与七が呼ばれた。
二人は佐平に見せてもらった屋敷の見取りと、与七がまとめた修繕の見込みを持参していた。
柴崎は野村の前へ書付を差し出した。
「こちらでございます。屋敷の管理を預かる者から、中を調べる許しをいただきました。修繕についても、まず使える二部屋から手を入れる案を考えております」
野村は書付に目を通した。
「よく調べているようだな」
「ありがとうございます」
その言葉に、柴崎は少し胸を撫で下ろした。
浦和の役所では、何を尋ねられても答えられなかった。
しかし今回は違う。
屋敷を調べた。使える部屋も見つけた。滝沢の助けを借り、管理を預かる者へも話を通した。
まだ完全ではないが、準備が進んだことは伝えられるはずだった。
「それで、この二部屋はいつから使える」
野村が尋ねた。
「持ち主の承諾が得られましたら、修繕に掛かることができます」
「承諾は、まだなのだな」
「……はい」
柴崎は答えながら、先ほどまでの喜びが少し薄れていくのを感じた。
白根が与七の見積もりに目を落とした。
「この二部屋を使えるようになったとして、役人たちが暮らす場所はどうする」
「町の旅籠や空いている家について、聞き始めております」
柴崎は用意した別の紙を差し出した。
そこには、これから話をする予定の家や、旅籠の名前が幾つか記されていた。
白根は一つずつ目を通した。
「借りられると決まった家は」
「まだ、ございません」
「……そうか」
白根は書付を置いた。
「柴崎殿。町の方々が準備を進めておられることは分かる。ただ、役所を動かすには、実際に役人が働き始める日を決めねばならん」
「はい」
「その日を決めるためのものが、まだ揃っていないのだ」
柴崎は返事をしなかった。
野村は二人を見ていた。
「県庁を岩槻へ置くという定めは、我々も承知している」
「……はい」
「だが、今ある県の仕事を止めるわけにもいかん。建物が整うのを待つとして、その間の仕事をどうするかも考えなければならんのだ」
柴崎は頭を下げた。
野村の言っていることは分かる。
しかし、分かるからといって、簡単に引き下がれる話でもなかった。
「県令様。岩槻には、県庁を迎えるために働こうとしている者が大勢おります」
柴崎は顔を上げた。
「我々は、できる限りのことを進めてまいります。どうか、岩槻に県庁を置くというお定めを、お忘れなきようお願いいたします」
野村は頷いた。
「申し出は受け取った」
それ以上の約束はなかった。
外へ出ると、与七が小さく息を吐いた。
「……難しいもんですね」
「何がだ」
「屋敷が使えそうだってことは分かったのに、それだけじゃ足りねえんですから」
柴崎は黙っていた。
与七は、持参した書付を畳んだ。
「でも、今日見てもらえたものは、前にはなかったでしょう」
「……そうだな」
「だったら、次は住まいを探すしかありませんね」
柴崎は頷いた。
そして、ふと足を止めた。
「与七」
「何です」
「佐平殿のところへ、もう一度行ってみよう」
「返事はまだでしょう」
「それでも、どうなったかだけでも聞きたい」
与七は苦笑した。
「急かしたら、返って断られちまいますよ」
「……そうか」
「柴崎さん、少しは待つことも覚えてください」
柴崎は不満そうな顔をしたが、やがて小さく笑った。
「お前に言われる日が来るとはな」
「俺だって、たまにはいいこと言いますよ」
二人は岩槻の通りを歩き始めた。
県令の言葉は厳しかった。
しかし、今できることがなくなったわけではない。
*
野村と白根は、その後も県内を巡った。
忍を経て浦和へ向かった二人は、旧浦和県庁舎で続いている仕事を確かめた。
建物は決して新しくない。
しかし、そこにはすでに書付を扱う役人がいて、帳面があり、用件を持って来る者が訪れていた。
「こちらが、今使っている部屋でございます」
案内役が障子を開けると、中では若い書役が一人の男の話を聞いていた。
「ですから、こちらに持ってくればよいと言われたんですが」
「ええ。こちらで扱いますので、ご安心ください」
「いやあ、岩槻へ行けと言われたり、浦和へ来いと言われたりで、どうしたものかと」
男は懐から書付を取り出した。
若い書役が内容を確かめ、別の役人へ渡す。
男はほっとした顔をしていた。
野村は、そのやり取りを黙って見ていた。
県庁をどこに置くかということは、町の者にとって名誉や商売の問題になる。
しかし、用件を持って役所を訪ねる者にとっては、今日どこへ行けば話が済むのかという問題でもあった。
白根は、庁舎で働く役人の数と部屋の使い方を確かめた後、住まいについても尋ねた。
不足するものはある。
それでも浦和なら、今ある仕事を続けながら、新しい県に合わせて人や場所を整えることができる。
「野村様」
白根が声を掛けた。
「何だ」
「岩槻へ移すには、まず使える庁舎を確保しなければなりません。そのうえで文書を運び、官員を移し、住まいを整える必要があります」
「そうだな」
「こちらなら、すべてを一から揃える必要はございません」
野村は、書付を整理している役人たちを見た。
誰かが次の書付を運び込み、別の者がそれを受け取る。
その動きに特別なものはなかった。
だからこそ、止めるには相応の理由が必要だった。
「……岩槻の者たちも、よく働いている」
野村が言った。
「はい」
「しかし、その準備が整うまで、県の仕事を待たせるわけにもいかん」
白根は頷いた。
「当面はこちらを使うのが確かかと」
野村は少し考えてから答えた。
「東京へ戻ったら、そのように申し出よう」
白根は手元の書付を閉じた。
これで一つ、進めるべきことが決まった。
*
浦和の町でも、県令たちが巡視に来たという話は広がっていた。
中山道沿いの柏屋では、主人の藤兵衛が、若い商人の直吉から話を聞いている。
「川口の相馬屋まで、蕨へ来ていたのか?」
「ええ。人足を頼みに来ていましたよ」
直吉は先日、蕨の清兵衛へ荷の相談に行った時のことを話した。相馬屋の番頭も、川口の運び手も、同じような用件で訪ねていたのだという。
「……あの相馬屋がな」
藤兵衛は算盤を脇へ寄せた。
柏屋は、以前から役所に関わる品物を扱ってきた古い商家だった。一方の直吉は、柏屋から仕事を請け負うこともあるが、自分の取引先を増やしたいと考えている小商人である。
「役所が岩槻へ行ったら、浦和の商売はどうなると思う?」
藤兵衛が尋ねると、直吉は肩をすくめた。
「困るところはあるでしょうね。でも、役所が行ったからって、荷の仕事までなくなるわけじゃありませんよ」
「お前は気楽だな」
「気楽じゃないから、別の仕事を探してるんです」
藤兵衛は直吉を見た。
「……蕨では、何と言われた?」
「何をいつ運ぶのか、決めてから来てくれって話でした。人足も荷置き場も足りねえそうで」
「そうか」
藤兵衛は少し考えた。
県庁が浦和に残れば、今までの商売は続けやすい。
しかし、川口の大店が蕨を使い始めたとなれば、それとは別の問題が生まれる。
「直吉。今度は実際に運ぶ荷を決めてから行け」
「へえ?」
「荷主と話をつけるんだよ。川口の相馬屋に、先を越されてたまるか」
直吉は思わず笑った。
「藤兵衛さんも、県庁の話より商売の方が気になってきたんじゃありませんか」
「馬鹿言え。県庁が一番だ」
「なら、相馬屋は関係ねえでしょう」
「……うるさい。早く行け」
直吉は笑いながら店を出た。
藤兵衛は帳面を開き直したが、しばらく算盤には手を伸ばさなかった。
県庁が浦和へ残ることと、浦和の商人がこれからも儲かること。
その二つは、どうやら同じ話ではないらしい。
*
十二月十三日。
県内の巡視を終えた野村と白根は、東京へ戻った。
岩槻では、町の者が県庁を迎えるために建物を探していた。修繕の見込みも立て始めている。
しかし、持ち主の承諾が得られた建物はなく、官員の住まいも十分には確保されていなかった。
一方、浦和には今も庁務を扱っている建物がある。
白根は、巡視の間に確かめたことをもとに、大蔵省へ提出する申し出を整えた。
「岩槻の者たちは、納得しないでしょうな」
白根が言うと、野村は筆を置いた。
「そうだろうな」
「県庁を置くと定められた町ですから」
「分かっている」
野村は、岩槻で会った柴崎の顔を思い出した。
あの男は、本気で県庁を迎えようとしていた。与七という材木商も、実際に屋敷を調べ、修繕の見込みを立てていた。
彼らの働きが足りなかったと、簡単に言うつもりはない。
しかし、役所の仕事をいつまでも待たせるわけにはいかなかった。
「……当分の間、旧浦和県庁舎を使うよう申し出よう」
野村が言った。
「岩槻へ置くという定めは、そのままでよろしいのですね」
「ああ。我々が勝手に改めることではない」
白根は頷き、文面を整えた。
そこには、柴崎や与七の名前も、佐平が屋敷を見せたことも書かれていない。
県庁と官員の住まいを確保することが難しく、当面は旧浦和県庁舎を使う必要がある。
申し出の理由は、それだけだった。
野村は書き上がったものに目を通し、筆を置いた。
岩槻の町人たちには、それぞれ事情がある。
しかし、新しい県を治める役人にも、果たさなければならない仕事があった。
*
翌、十二月十四日。
大蔵省は、旧浦和県庁舎を当分の間使用することを認めた。
白根が認可の内容を確かめ、野村の前へ差し出した。
「認められました」
野村は書付を受け取った。
「これで、まず仕事を進められるな」
「はい。浦和での庁務を整える手配に掛かります」
「岩槻へも知らせを出せ」
「承知しました」
白根は一礼した。
野村は、机の上に積まれた別の書付へ目を移した。
県庁の場所について、一つの判断は下された。
しかし、新しい県を治めるために決めなければならないことは、まだ山ほど残っている。
「……では、次だ」
野村はそう言って、新しい書付を開いた。
岩槻の者たちが、この判断をどのように受け止めるのか。
今の野村には、そこまで考えて立ち止まっている時間はなかった。
*
知らせが岩槻へ届いたのは、柴崎たちが屋敷の持ち主からの返事を待っている時だった。
与七は修繕の見積もりをまとめ、喜平次は町の商人たちへ協力を呼び掛け始めていた。
まだ正式な承諾は得られていない。
それでも、一歩ずつ話は進んでいると思っていた。
「……浦和?」
柴崎は書付を受け取り、もう一度読み返した。
当分の間、旧浦和県庁舎を使用する。
短い言葉だった。
しかし、その意味は分かる。
岩槻へ県庁を置くと定められているにもかかわらず、実際の役所は浦和で仕事を進めるというのだ。
「柴崎さん」
与七が声を掛けたが、柴崎は返事をしなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……我々が準備を進めている間に、決まってしまったのか」
与七も書付を覗き込んだ。
「当分の間、って書いてありますよ」
「……ああ」
「岩槻へ置くという定めが、なくなったわけじゃねえんでしょう」
「そうだ」
柴崎は頷いたが、胸の奥には重いものが残っていた。
屋敷を調べる許しを得た。
修繕の見込みも立て始めた。
しかし、その間にも浦和では役所の仕事が続いていた。
野村県令は、それを止めないために浦和を選んだのだ。
「……滝沢殿へ行こう」
柴崎が言うと、与七は頷いた。
*
滝沢は書付を読み終えると、しばらく黙っていた。
「……そうか」
柴崎は、その顔を見つめた。
「滝沢殿。これからどうすればよいのでしょう」
「屋敷の交渉は、まだ進めるつもりか」
「はい。そのつもりでおります」
「ならば進めればよい。ただし、前とは事情が変わった」
柴崎が顔を上げた。
「今までは、岩槻で役所を開けるようにするための準備だった」
「はい」
「だが、これからは違う」
滝沢は書付を柴崎の前へ置いた。
「浦和で動き始める役所を、それでも岩槻へ移すべきだと認めさせねばならん」
柴崎は黙った。
屋敷を用意すれば県庁を迎えられる。
そう考えていた。
しかし、浦和で一度仕事が始まれば、そこから移すには手間も銭も掛かる。今度は、その負担を掛けてまで岩槻へ来る理由が必要になる。
「……では、町の者へ協力を求めます」
柴崎が言うと、滝沢は首を振った。
「ただ協力を求めるだけではいかん」
「どういうことでしょう」
「屋敷を貸す者には責任がある。修繕をするなら銭を出す者がいる。もし県庁が来なかった時、その銭を誰が負担する」
与七が頷いた。
「佐平さんも、同じことを言ってました」
「当然だ。町のためだと言えば、誰もが損を引き受けてくれるわけではない」
柴崎は書付を見つめた。
喜平次は、県庁が来ると思って味噌を仕入れた。
与七は修繕の見積もりを出した。
佐平は屋敷の管理を預かる立場で、勝手に貸すわけにはいかないと言った。
それぞれに暮らしがあり、背負っているものが違う。
「……分かりました」
柴崎は頷いた。
「今度は、町の者が何を引き受けられるのか、きちんと確かめます」
滝沢は静かに聞いていた。
「賛成する者ばかり集めるなよ」
「はい」
「反対する者の話も聞け。何を心配しているのか分からねば、町をまとめることなどできん」
柴崎は頷いた。
「与七。喜平次に声を掛けてくれ。それから、町の商人たちにも集まってもらいたい」
「へい」
「屋敷のことも、修繕の銭も、県庁が来ない場合のことも、隠さず話そうと思う」
滝沢が顔を上げた。
「……お前が、そんなことを言うようになるとはな」
「何かおかしいでしょうか」
「いや」
滝沢は少し笑った。
「やっと人の話を聞く気になったらしい」
与七が吹き出した。
「滝沢さん、そりゃ言いすぎですよ」
「そうか?」
「柴崎さんだって、最初から人の話を聞く耳くらいはありましたよ」
柴崎が与七を見た。
「……その言い方だと、ほとんど聞いていなかったようではないか」
「ええ、まあ」
「与七!」
三人の間に、久しぶりに笑いが起こった。
だが、すぐに滝沢は真面目な顔へ戻った。
「柴崎。町の者を集めるのはよい。ただ、聞きたくないことも聞くことになるぞ」
「承知しております」
「ならば、行ってこい」
柴崎は深く頭を下げた。
*
滝沢の屋敷を出た柴崎と与七は、その足で喜平次の店へ向かった。
店先には味噌の桶が幾つも並び、奥から女房の声が聞こえてくる。
「だから、もう仕入れないでくださいって言ってるでしょう!」
「分かってるよ。今は仕入れねえって!」
喜平次の声が返ってきたところで、与七が暖簾をくぐった。
「おう、喜平次。随分にぎやかだな」
「何だ、与七か。お前まで余計なこと言いに来たのか」
「いや、県庁の話だ」
喜平次の顔つきが変わった。
「何か決まったのか?」
柴崎は、浦和の庁舎を当分の間使用することになったと説明した。
喜平次はしばらく黙って聞いていた。
「……じゃあ、県庁は岩槻へ来ねえのか」
「まだ決まったわけではない。岩槻に置くという定めは残っている」
「そうか」
喜平次は桶を一つ見た。
「なら、まだ望みはあるんだな」
その言葉に、柴崎は少しだけ胸が痛んだ。
喜平次は県庁が来ると信じ、商売の準備を進めていた。浦和で役所が動き始めれば、その期待が外れるかもしれない。
それでも、喜平次はまだ岩槻を諦めていない。
「そこで、町の者たちに集まってもらいたいのだ」
柴崎が言った。
「県庁を迎えるために、何をどこまでできるのか、改めて話をしたい」
「そりゃいい。俺も手伝うぞ」
「ありがたい」
「で、いつ集まる?」
「まず、何人かに声を掛けてから決めたいと思っている」
喜平次は頷き、店先へ出た。
「それなら、庄兵衛にも話をしてみるか」
「庄兵衛?」
「通りの油屋だよ。あそこなら、町の商人の顔も広い」
与七が頷いた。
「そうだな。あいつにも聞いてみよう」
三人は喜平次の店を出て、少し先の油屋へ向かった。
*
油屋の庄兵衛は、店先で小僧に帳面の付け方を教えていた。
「だから、こっちが売った分だって言ってるだろ。買った分まで一緒にしちまったら、勘定が合わねえじゃねえか」
小僧が頭を掻いているところへ、喜平次が顔を出した。
「おう、庄兵衛。ちょっといいか」
「何だ。味噌ならまだあるぞ」
「何でお前まで味噌の話をするんだよ」
「町中で話になってるからな」
与七が笑った。
「やっぱりな」
「お前も笑うんじゃねえ」
喜平次が睨むと、庄兵衛は小僧に帳面を渡し、店の奥へ引っ込むよう手を振った。
「で、今日は何の用だ」
柴崎が一歩前へ出た。
「県庁の件で、町の者に集まっていただきたいと考えております」
「県庁?」
「はい。浦和の庁舎を当分の間使用することになりましたが、岩槻へ置くという定めは残っております。町として何ができるか、改めて話し合いたいのです」
庄兵衛はしばらく柴崎を見ていた。
「……それで、何をするんだ」
「候補となる屋敷を借り、必要なところを修繕することも考えております。官員の住まいについても、町の者で協力できることがあればと」
「銭は?」
柴崎は口を閉じた。
「屋敷を直すんだろ。誰が銭を出すんだ?」
「それについても、町の皆さんと相談したいと……」
「相談?」
庄兵衛は眉を寄せた。
「柴崎さん。県庁が来りゃ町が栄えるって話は、俺も聞いてるよ。来るんなら結構なことだと思う」
「はい」
「だが、今は浦和で役所を始めるって決まったんだろ」
「当分の間、です」
「その当分ってのは、いつまでだ?」
柴崎は答えられなかった。
庄兵衛は続けた。
「来年か。再来年か。それとも、もうずっと浦和なのか。そんなこと、誰にも分からねえんじゃないのか?」
「……そうです」
「だったら、その分からねえ話のために、今から銭を出せってのかい」
喜平次が横から口を挟んだ。
「おい、庄兵衛。まだ銭を出せとは言ってねえだろ」
「だから聞いてるんだよ」
庄兵衛は喜平次を見た。
「お前は味噌を仕入れたそうじゃねえか」
「……まあな」
「そりゃお前が自分で決めたことだろ。売れなきゃ、お前が損をする」
「分かってるよ」
「だが、今度の話は違う。町のためだって言って、みんなから銭を集めるなら、失敗した時に誰が責任を取るんだ?」
喜平次は黙った。
与七も、すぐには口を開かなかった。
庄兵衛は、店の奥へ目をやった。
「うちだって、掛けで売った油の銭がまだ戻ってきてねえ。小僧にも飯を食わせにゃならんし、家の修繕もある。県庁が来れば儲かるかもしれねえってだけで、はいそうですかと銭を出せるほど余裕はねえんだよ」
柴崎は、庄兵衛の言葉を黙って聞いていた。
滝沢から、反対する者の話も聞けと言われたばかりだった。
庄兵衛は岩槻を嫌っているわけではない。
県庁が来ることに反対しているわけでもない。
ただ、県庁が来ないかもしれないという話へ、簡単に自分の銭を出せないのだ。
「……おっしゃることは、もっともでございます」
柴崎が答えると、庄兵衛は少し驚いた顔をした。
「何だ、怒らねえのか」
「なぜ、怒るのでしょう」
「町のために協力しろって話を、断ってるんだぞ」
「まだ何もお願いしておりません。今日は、皆さんに話を聞いていただきたいと申し上げに来たのです」
柴崎は頭を下げた。
「県庁が来ない場合のことも含めて、何ができるのか、考えたいと思っております」
庄兵衛はしばらく黙っていた。
「……話を聞くだけなら、行ってもいい」
喜平次が顔を上げた。
「本当か」
「ああ。ただし、銭を出すかどうかは別だぞ」
「分かってるよ」
庄兵衛は柴崎へ向き直った。
「それと、一つ聞いておきたい」
「何でしょう」
「あんたは、どこまでやるつもりなんだ?」
柴崎は顔を上げた。
「県庁を迎えるために、できる限りのことをするつもりでおります」
「そりゃ分かった」
庄兵衛は首を振った。
「俺が聞いてるのは、そういう話じゃねえんだよ」
帳場に置いてあった算盤を引き寄せると、庄兵衛は指で二つ三つ玉を弾いた。
「屋敷を借りる。直す。役人の住む家も探す。全部、銭が掛かるんだろう」
「はい」
「俺たちに出せるかどうか聞いて回るのはいいさ。だが、町のためだと言って歩いてるあんたは、一体どこまで引き受けるつもりなんだ?」
柴崎は答えようとして、言葉を止めた。
屋敷の持ち主へ話をし、町の者に協力を求め、県庁を迎える。
そのために自分は働くつもりだった。
だが、銭についてはどうか。
損をするかもしれない商人たちに、どこまで負担を求められるのか。
柴崎自身、まだ決めていなかった。
庄兵衛は、そんな柴崎を見つめていた。
「柴崎さん」
「……はい」
「町の者に銭を出してくれと言うんなら、まず聞かせてくれよ」
庄兵衛は算盤から手を離した。
「あんた自身は、いくら出すつもりなんだ?」
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