第四十三話 閑話 川口の算盤
川口の朝は、火の匂いがする。
まだ日が高くならないうちから、鋳物師の仕事場では人が動き始めていた。炉の支度をする者、鋳型の具合を確かめる者、出来上がった鍋や釜を運び出す者。湿った土と炭の匂いが混じる中、親方の怒鳴り声が響けば、若い職人が慌てて駆けていく。
少し離れた川岸でも、舟頭たちが忙しく働いていた。
川口では、荷の行き先によって運び方が変わる。
東京へ向かう重い鋳物なら、舟が頼りになる。水路の都合がつけば、鍋や釜をまとめて積み、陸路より少ない人手で運ぶこともできた。一方、内陸の町へ届けるとなれば話は違う。道の具合を見て人足や荷車を手配し、帰りに積む荷があるかどうかまで考えなければ、儲けなど簡単に消えてしまう。
川口の商人たちは、そうして長いこと品物を動かしてきた。
「おい、弥平! ちょっと手を貸してくれ!」
舟着き場で呼び止められた弥平は、抱えていた木箱を下ろした。
「何だよ、朝から」
「そこの荷を、こっちへ寄せてくれ」
「俺はお前の人足じゃねえぞ」
「一つくらいいいだろ」
「一つで済んだためしがねえんだよなあ」
文句を言いながらも、弥平は荷の端を持ち上げた。
中身は鋳物らしく、見た目以上にずっしりと重い。舟頭と二人で岸へ寄せると、思わず腰を伸ばした。
「重てえな、こいつ」
「鉄だからな」
「そんなこたあ分かってるよ」
舟頭が声を立てて笑った。
弥平は懐から手拭いを出し、額を拭うついでに、折り畳んだ一枚の書付を確かめた。
先日、蕨で受け取った紙八包みは、すべて川口の取引先へ届け終えていた。受け取った相手に数と外包みを確かめてもらい、受領の書付も手に入れている。
蕨へ荷を迎えに行く途中、馬の蹄に小石が挟まって遅れるという騒ぎはあったものの、引き継いでからは大きな問題もなく仕事を終えることができた。
もっとも、懐に残った銭は、思っていたほど多くない。
「……もう少し儲かると思ったんだがな」
書付をしまい直しながら呟くと、舟頭が横から顔を覗かせた。
「蕨の仕事か?」
「ああ」
「儲かったんだろ。だったら一杯おごれよ」
「儲かったさ。ほんのちょっとな」
「そのちょっとでいいから」
「お前におごったら、俺の分がなくなるだろうが」
「けちな野郎だ」
「働いたのは俺だぞ」
いつものやり取りをしているところへ、店の若い者が駆けてきた。
「弥平さん、探しましたよ。相馬屋の旦那が呼んでます」
弥平は手拭いをしまう手を止めた。
「相馬屋が?」
「ええ。朝のうちに顔を出してくれって」
「何の用だ?」
「そこまでは聞いてません」
弥平は川岸の向こうへ目をやった。
相馬屋は、川口でも古くから商売を続ける大店だった。鋳物の取引だけでなく、燃料や材木の仕入れ、舟の手配にも関わり、町の職人や小さな商人の中には、あの店の世話になっている者も多い。
弥平自身、何度か仕事を回してもらっていた。
「……俺、何かしくじったかな」
若い者は首を傾げた。
「旦那は怒ってるようには見えませんでしたけど」
「そいつが一番怖えんだよ」
舟頭が面白そうに笑った。
「今度は何をやったんだ?」
「何もやってねえよ。たぶんな」
「たぶんかよ」
弥平は答えず、相馬屋へ向かった。
*
相馬屋の主人、甚右衛門は、帳場の奥で算盤を弾いていた。
店先には鋳物の見本が並び、壁際には帳面が積まれている。奉公人たちが忙しく出入りしていたが、主人の近くへ来ると自然に声が小さくなった。
「おう、弥平。よく来たな」
「お呼びだそうで」
「まあ座れ。朝から歩き回ってたんだろ」
甚右衛門は笑顔だった。
弥平は勧められた座布団へ腰を下ろしたものの、どうにも落ち着かなかった。
「蕨で仕事をしたそうじゃねえか」
やはり、その話だった。
「ええ。浦和からの紙を川口へ運びました」
「八包みだそうだな」
「よくご存じで」
「狭い町だ。誰がどんな荷を運んだかなんて、すぐ耳に入る」
甚右衛門は算盤を脇へ寄せた。
「ところで、その仕事は誰から話が来た?」
「浦和の商人ですよ。蕨で荷を引き継ぐ相手を探してるってんで」
「そうか」
甚右衛門は湯呑みを持ち上げた。
「その商人な、うちとも長い付き合いがあるんだよ」
弥平は顔を上げた。
「そうだったんですか」
「ああ。もっとも、紙八包み程度なら、いちいちうちへ頼むほどの仕事じゃねえと思ったんだろうな」
甚右衛門は穏やかな口調だったが、弥平にはその言い方が妙に引っ掛かった。
「うちにも一言あってよかったんじゃねえか?」
「旦那のところの荷じゃありませんでしたからね」
甚右衛門の指が止まった。
少し間を置いてから、苦笑いを浮かべる。
「……そういう話じゃねえんだよ」
弥平も黙った。
甚右衛門が気にしているのは、紙八包みの運び賃ではないのだろう。昔から取引のある浦和の商人が、自分の知らないところで新しい運び手を探し、蕨で荷を引き継がせた。そのことが面白くないらしい。
「川口には川口のやり方がある。大きな荷なら舟も人も揃えられる。それを、どうして蕨でわざわざ引き継ぐ必要があった?」
「荷主の都合ですよ」
「都合?」
「浦和の車を川口まで走らせりゃ、帰りは空になることもある。こっちから迎えに行くにしても、浦和まで往復すりゃ人手が掛かるでしょう」
「蕨で渡せば、その分が浮くってわけか」
「いつでもそうなるとは限りませんけどね。今回は都合が合ったんです」
甚右衛門は腕を組んだ。
「直接運んだ方が早い場合もあるだろう」
「もちろん。全部の荷を蕨へ回すなんて、俺だって考えちゃいません」
弥平は少し笑った。
「それに、儲けは思ったほどじゃありませんでしたよ」
「……正直な奴だな、お前は」
「嘘ついたって、旦那には分かるでしょう」
甚右衛門も笑ったが、今度は少しだけ表情が和らいだ。
その時、帳場の奥から番頭が顔を出した。
「旦那、先月の材木の勘定ですが」
「ああ、あれか。先方から返事は?」
「まだでございます」
「それなら、もう少し待ってやれ。あそこは今、職人への払いで苦労してるはずだ」
「よろしいんですか?」
「払わねえ相手じゃねえだろ。三十年も付き合ってる店だぞ」
番頭は頷き、奥へ戻っていった。
弥平はそのやり取りを黙って聞いていた。
相馬屋には、こういうところもある。
大店だからこそ、代金の支払いを待つ余裕があり、舟の都合がつかなければ別の舟頭を紹介することもできる。小さな商人が困った時、甚右衛門の一言で仕事がつながったことは一度や二度ではなかった。
弥平自身も、その恩恵を受けている。
だから、相馬屋を通さず仕事をすることに、どこか後ろめたさがあった。
「これからも蕨と仕事をするつもりか?」
甚右衛門が尋ねた。
「仕事があれば、そりゃしますよ」
「だったら、今度からうちへ話を持ってこい。人も車も用意できる。お前一人で引き受けるより、大きな仕事ができるぞ」
ありがたい話だった。
相馬屋が後ろ盾になれば、荷主からの信用も得やすいし、大きな荷を扱う時には助けてもらえる。
しかし、その場合に仕事の取り分を決めるのは相馬屋になる。
弥平は、湯呑みの中を見つめた。
「……考えさせてください」
甚右衛門は頷いた。
「別に今すぐ決めろとは言わねえよ」
弥平が礼を言って立ち上がると、甚右衛門は最後に声を掛けた。
「ただな、弥平。新しい商売を始めるのは結構だが、昔からの付き合いも忘れるなよ」
「へい」
外へ出ると、冬の空気が妙に冷たく感じられた。
甚右衛門は怒鳴りもしなかったし、仕事を取り上げるとも言わなかった。
それなのに弥平は、ひどく叱られたような気分になっていた。
*
「で、何を言われた?」
鋳物商の常吉は、弥平の顔を見るなり尋ねた。
常吉は、鋳物師たちから鍋や釜を買い付け、町の外へ売る商人である。相馬屋ほど大きな店ではないが、自分の取引先を幾つか持ち、少しずつ商売を広げていた。
「蕨で仕事をするなら、うちにも話を持ってこいってさ」
「ああ、やっぱりな」
「やっぱりって何だよ」
常吉は手にしていた鍋を置いた。
「相馬屋の旦那も、浦和の荷が川口へ来るって聞きゃ気になるだろ」
「紙八包みだぞ」
「八包みでも十包みでも関係ねえ。誰がその仕事を取ってきたかが問題なんだ」
弥平は黙った。
常吉は店の奥へ目をやった。
そこには、鋳物師から買い付けた鍋や釜が並んでいる。
「大店ってのは、銭があるだけじゃねえ。仕入れ先も売り先も持ってるし、舟頭との付き合いだって長い。俺たちが十年掛けてもできねえことを、あそこなら一言で済ませちまう」
「分かってるよ」
「だから腹が立つんだよな」
「何でだ?」
「頼りになるからさ」
常吉は苦笑した。
「仕事を増やしたくても、最後は相馬屋に頼んじまう。すると、次の仕事も相馬屋へ持っていくことになる。別に悪いことじゃねえが、それじゃいつまでたっても、自分の店が大きくならねえだろ」
弥平は返事をしなかった。
自分にも覚えがある話だった。
「実はな、この前、浦和の商人から注文が来たんだ」
「何の?」
「北の方へ売る鍋を、少し揃えられねえかって」
「そりゃいいじゃねえか」
「上尾まで届けてほしいってんだよ」
常吉は帳面を開いた。
注文は鍋と釜を合わせて十二個。
一つ一つはそれほど大きくないが、鋳物だけに重さがある。人が背負って運ぶには厄介で、荷車を一台仕立てれば、その分だけ銭が掛かる。
「舟は使えねえのか?」
「どこへ舟を出すんだよ。上尾だぞ」
「……そりゃそうか」
「お前、運び屋のくせに何言ってんだ」
「川口にいると、つい舟を考えちまうんだよ」
弥平は帳面を引き寄せた。
品物の代金に、運び賃として出せる額が添えてある。
川口から上尾まで、この十二個のためだけに車と人足を出せば、儲けはほとんど残らない。
途中の町で別の荷と一緒に運べるなら、話は変わる。
「……蕨から北へ向かう荷車があればな」
常吉が顔を上げた。
「あるのか?」
「知らねえよ」
「何だよ」
「だから聞くんだろ。蕨は中山道の宿場だ。北へ向かう荷を扱う者くらいいるだろうが、こっちの都合で載せてもらえるかは別だ」
弥平は帳面の数字を指で追った。
「それに、川口から直接上尾へ行った方が安い場合もある。蕨で荷を降ろして、また積んで、そのたびに銭を取られたら意味がねえ」
「じゃあ、どうする?」
「まず、蕨で同じ日に北へ向かう荷があるか聞く。なけりゃ、ほかの運び方を探すしかねえな」
常吉は考え込んだ。
「お前、蕨に知り合いができたんだろ?」
「知り合いってほどじゃねえが、仕事をした相手はいる」
「一度、聞いてみてくれねえか」
「簡単に言うなよ。向こうだって、何でも引き受けられるわけじゃねえんだ」
「そこを聞くのが商売だろ」
弥平は常吉を睨んだ。
「お前、さっきから俺を使うことしか考えてねえな」
「当たり前だ。俺は銭を出す方なんだから」
二人は顔を見合わせ、笑った。
しかし、常吉はすぐに真面目な顔へ戻った。
「なあ、弥平。俺は今回、相馬屋へ話を持っていくつもりはねえんだ」
「……本気か?」
「ああ」
常吉は帳面を弥平の前へ押し出した。
「俺が品物を揃える。お前が運び方を考える。それで、客へ届けるところまでやってみてえ」
弥平は帳面を見た。
「うまくいかなかったら?」
「その時は、俺が困る」
「俺も困るぞ」
「だから、お前と相談してるんだろ」
常吉は笑ったが、目は真剣だった。
*
二人が運び賃の相談を始めると、先ほどまでの和やかな空気はどこかへ消えた。
常吉が出せる額を言えば、弥平が首を振る。弥平が必要だという額を示せば、常吉が帳面を引き寄せ、何度も勘定をやり直した。
「高えよ」
「だったら相馬屋へ持ってけ」
「すぐそれを言うな」
「俺だって赤字で働く気はねえよ」
「もうちょっと何とかならねえか?」
「荷が増えりゃ考える。今回は十二個だろ」
常吉はしばらく黙り、帳面に目を落とした。
品物の仕入れに掛かる銭を引き、弥平の運び賃を引く。
残る利益は大きくない。
しかし、相馬屋へ仕事を渡すよりは、少しだけ多く残る計算だった。
それに、この仕事を自分の店で引き受けられれば、次の注文も来るかもしれない。
常吉は算盤の玉を一つ戻した。
「……分かった。その額で頼む」
「いいのか?」
「ああ。ただし、上尾の商人へちゃんと届けられるのが条件だ」
「そりゃ当然だ」
「途中で荷を預けるなら、誰が責任を持つのかも決めてくれ。傷が付いた時に揉めるのは御免だからな」
弥平は頷いた。
「ただし、蕨で引き受ける者が見つからなかったら、この話はなしだ。俺だけで上尾まで運んだら、赤字になっちまう」
「そいつは仕方ねえ」
常吉はそう言ってから、少し考えた。
「でも、引き受けてくれるってなったら、俺は品物を出すぞ」
「おう」
「途中で相馬屋へ話を持っていくなよ」
弥平は顔を上げた。
「……お前、それが言いたかったのか?」
「全部じゃねえけどな」
常吉は笑った。
「俺だって、いつまでも人の店の後ろばっかり歩いてたくねえんだよ」
弥平は帳面を閉じた。
「分かった。まずは俺が話をつけてくる」
小さな注文だった。
だが、二人が相馬屋を通さず、品物と運び賃の条件を自分たちで決めたのは、これが初めてだった。
*
昼過ぎ、二人は品物を確かめるため、鋳物師の仕事場を訪ねた。
炉の近くは冬とは思えないほど熱く、親方が若い職人へ声を張り上げている。
「そいつはまだ動かすな! 冷めてからだ!」
職人が慌てて手を引っ込めた。
奥には出来上がった鍋や釜が並び、一つずつ縁や底の具合を確かめている。
「これを十二個か」
弥平が尋ねると、常吉は頷いた。
「上尾の商人へ売る品だ。形の揃ったものを選んでもらってる」
親方が二人の話を聞きつけた。
「運ぶ手立ては決まったのか?」
「今、弥平に頼んでるところです」
「そりゃいいが、傷付けねえようにしてくれよ。前に頼んだ奴は荷車から一つ落としやがった」
弥平は並んだ鍋を見た。
形は似ていても、大きさが少しずつ違う。むき出しで重ねれば、運ぶ間にぶつかるだろう。
「藁を挟んで動かねえようにしてくれ。できればまとめて縛りたいが、持ち上げられねえほど重くされても困る」
親方は頷いた。
「お前、運ぶことは分かってるようだな」
「そりゃ仕事ですから」
「だったら頼む。ただし、売り物に傷が付いたら承知しねえぞ」
「怖えこと言わねえでくださいよ」
「怖けりゃ丁寧に運べ」
親方が笑うと、弥平も笑った。
常吉が横から口を挟む。
「それと親方、品物の代金ですが……」
「おう、その話をしようと思ってたんだ」
親方の顔つきが変わった。
弥平は一歩下がった。
「俺はそっちの話には関わりませんよ」
「何だ、逃げるのか」
「俺が欲しいのは運び賃だけです」
「都合のいいところだけ商売人だな」
「余計なことまで考えると、頭が痛くなるんで」
常吉が呆れた顔をした。
「お前、本当に分かりやすい奴だな」
「だから仕事が早えんだよ」
弥平は笑いながら仕事場を出た。
外の冷たい空気が、火照った顔に心地よかった。
川口には、こうして品物を作る職人がいる。その品物を買う商人がいて、舟で運ぶ者もいれば、陸路を引き受ける者もいる。
しかし、職人も商人も、いつでも十分な仕事を持っているわけではなかった。品物を作れても売る先が見つからず、売り先があっても運ぶ銭が合わない。そんな時に頼れるのが相馬屋のような大店なのだが、今度は自分たちの取り分が小さくなる。
誰もが儲けたいと思っているのに、誰もが思うようには儲からない。
弥平はそんな川口の商売を嫌いではなかった。
だからこそ、常吉が自分で仕事を始めたいと言った気持ちも、よく分かった。
*
夕方、弥平が川岸へ戻ると、浦和から商売の用で来ていた男が声を掛けてきた。
「弥平さん、ちょうどよかった」
「どうしました?」
「蕨で荷を引き継いだ相手、清兵衛さんでしたっけ」
「ええ。ご存じで?」
「名前だけは。先日、紙の荷を無事に運べたって話が、浦和でも出てましてね」
弥平は少し驚いた。
「へえ。あんな小さな仕事が、そんなに話になるもんですか」
「荷が届いたことより、蕨で引き継ぎができたってところが気になった者がいるんですよ」
男は声を落とした。
「浦和から荷を出すたびに、川口まで人を走らせるのは面倒でしょう。途中で引き継げるなら便利じゃありませんか」
「いつでも引き継げるわけじゃありませんよ。俺が行った時も、人と場所を揃えるのに随分苦労してましたから」
「そうなんですか?」
「ああ。預ける場所だって、勝手に使えるわけじゃねえ」
男は少し考えた。
「それでも、話を聞きに行く価値はありそうですね」
「行くんですか?」
「私じゃありません。知り合いの商人が、決まった日に人足を頼めないか聞きに行くつもりだそうです」
「決まった日に?」
「ええ。何度か荷を出す予定があるそうで」
弥平は眉を寄せた。
常吉と決めた仕事も、蕨で北へ向かう荷を引き継げるかどうかに掛かっている。そこへ浦和から別の商人が来れば、同じ日に人足が足りなくなるかもしれない。
「随分、話が早えんですね」
男は笑った。
「商売ですから。使える日が限られてるなら、早く話をつけた者が得をするでしょう」
それから、思い出したように付け加えた。
「そういえば、岩槻の方でも県庁のことで動きがあったそうですよ」
「岩槻?」
「浦和の役所へ、町の者が話をしに来たって聞きました」
「県庁は岩槻に置くって決まったんじゃなかったんですか」
「決まりはそうでも、実際に役所が動いているのは浦和でしょう。岩槻の人たちは面白くないんじゃありませんかね」
男は川岸へ目をやった。
「浦和の商人にも心配してる者がいますよ。役所が本当に動けば、今ある仕事が減るかもしれませんから」
「そりゃそうでしょうね」
「だから、今のうちに周りの町との商売も増やしておきたいんでしょう」
弥平は黙った。
県庁がどこへ置かれるかなど、自分には遠い話だと思っていた。しかし役人が移れば品物を運ぶ先も変わる。そこで商売をする者が増えれば、今まで使っていた道や運び手の都合まで変わってくる。
川口で舟を動かしているだけなら関係のない話でも、内陸へ荷を運ぶとなれば、そうはいかないのかもしれない。
「まあ、私らは仕事が増えればありがたいですけどね」
男はそう言って笑った。
弥平も笑ったが、頭の中では別のことを考えていた。
浦和の商人が、蕨で人足を確保しようとしている。常吉も、蕨から北へ向かう荷を探している。そして相馬屋の甚右衛門は、蕨の仕事を気にしていた。
明日にでも行ってみよう。
そう考えたところで、弥平はふと立ち止まった。
自分より先に、誰かが話をまとめてしまうかもしれない。
「……明日の朝だな」
弥平は小さく呟いた。
*
「浦和の商人が、蕨で人足を押さえようとしてる?」
その晩、相馬屋の甚右衛門も、番頭から同じ話を聞いていた。
「へえ。先日の紙の荷が無事に届いたと聞いて、何人かが興味を持ったようです」
「何の荷を運ぶつもりなんだ?」
「そこまでは分かりません。ただ、決まった日に人を揃えられるか、話を聞きに行くそうで」
甚右衛門は算盤を脇へ寄せた。
紙八包みだけなら、大した商売ではない。
しかし浦和の商人が蕨で人足を確保し、そこから先の運び手まで決めるようになれば、川口の商人が知らないところで取引が進むことになる。その数が増えれば、相馬屋がこれまで引き受けていた仕事の一部も、別のところへ流れるかもしれない。
「……面白くねえな」
番頭は黙っていた。
甚右衛門は立ち上がり、店先の方へ歩いた。
積んである鋳物の中には、東京へ向かうものもあれば、浦和や岩槻の商人へ届けるものもある。川口の商売は、舟だけで成り立っているわけではない。内陸へ品物を運ぶ道筋も、相馬屋にとっては大切な商売だった。
「旦那、岩槻の方でも県庁の話が動いているそうですよ」
「聞いてるよ」
「県庁が本当に岩槻へ行くなら、あちらへ品物を運ぶ仕事も増えるかもしれませんね」
「かもしれねえ、だろ」
「へえ」
「役人が増えりゃ、建物も人も要る。銭だって動くだろうよ。だが、いつどこへ落ち着くか分からねえうちから、大きな銭をつぎ込むのは危ねえ」
甚右衛門は並んだ荷を見回した。
「それより、浦和でも岩槻でも、川口の品物を売れるようにしておいた方が確かじゃねえか」
「なるほど」
「県庁を迎えた町だけが儲かるって決まったわけじゃねえだろ」
番頭は、主人が何を考えているのか分かり始めた。
県庁を川口に迎えられれば、それはそれでよい。しかし、もし別の町へ行ったとしても、必要な品物を川口から運べるなら商売になる。
甚右衛門にとって重要なのは、役所が建つ場所より、そこへ何を売れるかだった。
「番頭」
「へい」
「明日の朝、蕨へ行ってくれ」
「弥平さんに話を?」
「違う。清兵衛という商人に直接だ」
「どんな話を持っていきます?」
甚右衛門は少し考えた。
「まず、川口からも荷を出せると伝えろ。それから、決まった日に人足を揃えるのに銭が必要なら、うちで負担できると話してみろ」
「仕事が決まってなくてもですか?」
「決まってねえものに銭を渡す馬鹿があるか。条件を聞いて、使えそうなら約束をまとめてくるんだ」
甚右衛門は帳面を開き、番頭へ見せた。
「最初は人足二人分の手間賃を目安にしろ。それ以上掛かるなら持ち帰って相談だ。荷を預ける場所まで必要だと言われたら、そっちは別に勘定を聞いてこい」
「承知しました」
「ただし、浦和の商人が先に日を押さえちまったら、こっちは後回しになるかもしれねえ。話だけでも早くしておけ」
番頭が頷いて出ていこうとすると、甚右衛門は呼び止めた。
「それから、蕨で荷を扱ってるのは清兵衛一人じゃねえだろ」
「へえ?」
「人足を集める者もいりゃ、場所を貸す者もいるはずだ。誰が何を決めてるのか、よく聞いてこい」
番頭は少し驚いた顔をした。
「そこまで調べるんですか」
「当たり前だ」
甚右衛門は算盤を引き寄せた。
「商売ってのは、荷を持ってる奴だけ知ってりゃいいわけじゃねえんだよ」
番頭が出ていくと、甚右衛門は帳面を開いた。
川口から浦和へ運ぶ荷、岩槻へ向かう荷。その途中で使える人足と、荷を預けられる場所。
今はそれぞれ別の商売だったが、川口の品物をいつでも運べるようになれば、相馬屋の仕事も広がる。
甚右衛門は試しに使えるだけの銭を勘定し、算盤の玉を弾いた。
少なくとも、この程度なら損をしても店が傾くことはない。
そういう小さな試しを重ねながら、相馬屋はここまで大きくなってきたのだった。
*
同じ頃、常吉の店でも銭の勘定が終わろうとしていた。
「これだけでいいのか?」
弥平が尋ねると、常吉は小さな包みを差し出した。
「まずは話をつけるための分だ。向こうで正式に決まったら、残りを渡す」
弥平は包みを受け取り、中を確かめた。
「蕨で人足を頼む銭は、この中から出していいんだな?」
「ああ。ただし、さっき決めた上限を超えるなら、一度戻って相談してくれ」
「分かってるよ」
「それと、荷を預ける場所が必要なら、その費用も含めてくれ」
「全部合わせてか?」
「当たり前だ。俺の方は、その額で客へ話をしてるんだから」
弥平は顔をしかめた。
「お前、随分厳しいな」
「商売だからな」
「そいつを言うなら、俺だって商売だぞ」
「だから、お前の取り分も入れてるだろ」
常吉は帳面を閉じた。
これまでなら、この程度の注文は相馬屋へ回していた。今回は、品物を揃えるところから運ぶ手立てまで、自分たちで考えている。
うまくいけば、次も同じような仕事ができる。失敗すれば、仕入れた鍋や釜が店に残るかもしれない。
「……本当にやるんだな?」
弥平が念を押すと、常吉は笑った。
「ここまで決めて、今さらやめられるかよ」
「俺はまだ、蕨で話がつくか分からねえって言ってるぞ」
「分かってる。だから、お前に頼むんだ」
弥平は少し黙った。
この仕事は、自分で決めた運び賃を受け取り、自分の責任で引き継ぎ先を探す仕事になる。
相馬屋の言いつけで荷を運ぶのとは、少し違う。
「……よし。明日、蕨へ行ってくる」
常吉が頷いた。
「頼んだぞ」
「その代わり、うまくいったら一杯おごれよ」
「何で俺が」
「俺のおかげで商売が増えるんだろ?」
「まだ増えてねえじゃねえか」
「だから、増えたらだよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
弥平は包みを懐へしまった。
紙八包みを運んだ時には、荷主の頼みで動いただけだった。
今度は、自分の方から仕事を探しに行く。
たいした違いではないように思えたが、預かった銭の重さは、前より少しばかり気になった。
*
翌朝、川口から二人の男が蕨へ向かった。
一人は弥平である。
常吉から預かった銭と、鍋十二個を上尾へ届けるための条件を書いた紙を懐に入れていた。
蕨で北へ向かう荷を扱う者が見つかれば、日にちと費用を決める。引き継ぐ相手がいなければ、今回は引き受けられないと常吉へ伝える。
もう一人は、相馬屋の番頭だった。
こちらは甚右衛門から預かった別の書付を持っている。川口から荷を出す際の人足の手配や、費用負担について、清兵衛と相談したいことが書かれていた。
二人は別々の用を頼まれていたが、道の途中で顔を合わせた。
「おや、弥平さん。どちらへ?」
番頭が声を掛けると、弥平は少し驚いた。
「蕨まで。そちらは?」
「私も、ちょっと蕨へ」
「へえ。珍しいですね」
「ええ。旦那から用を頼まれまして」
「相馬屋の旦那から?」
「はい」
弥平は首を傾げた。
昨日、甚右衛門と蕨の話をしたばかりである。まさか、その翌朝に番頭まで蕨へ向かうとは思わなかった。
「何の用です?」
弥平が尋ねると、番頭は笑った。
「商売の話ですよ」
「そりゃそうでしょうけど」
「弥平さんもでしょう?」
「まあ、そうですが」
それ以上聞いても、番頭は詳しいことを話さなかった。
弥平も、自分が常吉から預かった銭の話までする気にはなれない。
しばらく並んで歩いていたが、やがて番頭が足を速めた。
「では、お先に」
「へい。お気をつけて」
弥平は、その後ろ姿を見送った。
「……何だってんだ、あれは」
呟いてから、また歩き始めた。
相馬屋が蕨で何をしようとしているのかは分からない。
ただ、甚右衛門が自分を呼び出した理由が、少し分かってきた気がした。
大店というのは、小さな仕事一つでも見逃さないものらしい。
*
相馬屋の番頭は先を急ぎながら、主人の言葉を思い返していた。
人足を揃える銭はこちらで負担してもよい。ただし、仕事が決まっていないうちから大きな銭は出すな。条件を確かめ、川口の荷を扱える見込みがあるなら、話をまとめてこい。
甚右衛門らしい、抜け目のない注文だった。
番頭は懐に入れた書付を指で押さえた。
相馬屋が欲しいのは、蕨の小さな運び賃ではない。今後、浦和や岩槻へ荷を運ぶ際に、川口の商人が困らないための手立てだった。
もっとも、そのことを清兵衛へ最初からすべて話す必要もない。まずは仕事の話をして、相手が乗り気なら条件を詰めればよい。
そう考えながら歩いていると、浦和の方から来た男と出会った。
顔に見覚えがあった。以前、相馬屋へ荷の相談に来たことのある浦和の商人だった。
「おや、これは」
番頭が声を掛けると、相手も足を止めた。
「相馬屋さんじゃありませんか。こんなところでどうしました?」
「ちょっと蕨へ商売の用で」
「へえ。私もです」
番頭は笑顔のまま、相手の顔を見た。
「蕨で、何のお仕事を?」
「荷の引き継ぎについて、少し相談がありましてね」
「どちらへ?」
「清兵衛さんという方です。ご存じですか?」
番頭の笑みが、ほんの少しだけ固まった。
「……ええ。実は私も、その方に用がありまして」
「そうでしたか」
浦和の商人は少し意外そうな顔をした。
「先日の紙の荷が無事に届いたと聞きましてね。うちでも、何度か続けて荷を出す時の手立てを考えていたんです」
「なるほど」
「人足の手配をまとめて頼めるなら、助かるんですが」
番頭は頷いた。
「私どもも、似たようなことを考えておりました」
「それなら、ちょうどいい。一緒に行きましょうか」
「……そうですね」
二人は並んで歩き始めた。
しばらくして浦和の商人が、何気ない調子で尋ねた。
「ところで相馬屋さん、蕨ではどんなお仕事を?」
番頭は少し考えた。
「川口からの荷を、これからどう扱うかという相談ですよ」
「なるほど。うちも似たような話です」
「そうですか」
互いに笑った。
しかし、どちらもそれ以上は詳しく話さなかった。
やがて蕨宿の家並みが見えてきた。
*
その頃、清兵衛は朝から敬之助と帳面を突き合わせていた。
柿の木の家には、先に預かった荷がまだ四台分残っている。約束した二十日間のうちに引き取りを進めなければならず、新しい荷を置くにしても、持ち主の兄弟へ改めて話を通す必要があった。
先日の紙八包みは、空いた場所の一部を一日だけ使って引き継いだものである。
無事に済んだのはありがたかったが、同じことを何度もできるとは限らない。
「こっちの荷は、いつ引き取りに来るんだ?」
清兵衛が帳面を指さすと、敬之助が別の書付を見た。
「予定では、あと三日ほどです」
「予定では、か」
「先方からの返事は、そのようになっております」
「予定どおり来てくれりゃいいんだがなあ」
清兵衛は腕を組んだ。
その時、表から声がした。
「ごめんください。清兵衛さんはいらっしゃいますか」
「はい、私ですが」
顔を上げると、見慣れない男が立っていた。
「川口の相馬屋から参りました。荷の扱いについて、少しお話がありまして」
「相馬屋さん?」
清兵衛は聞き慣れない名前に首を傾げた。
その後ろから、もう一人の男が顔を出した。
「実は私も、浦和から同じような用で参りました」
「……お二人とも、荷の話ですか?」
「ええ」
「はい」
揃って返事が返ってくる。
清兵衛が何と答えようか考えていると、表からまた声がした。
「おーい、清兵衛さん。弥平だ。ちょっと相談があるんだが!」
清兵衛は、開けたままの帳面へ目を落とした。
敬之助も算盤を持つ手を止めている。
「……今日は何なんだ?」
清兵衛が小さく呟くと、敬之助が答えた。
「さあ。ただ、皆さんお仕事のお話のようですね」
「それは分かってるよ」
清兵衛は帳面を閉じ、立ち上がった。
「とりあえず、順番に聞こうか」
三人を迎え入れると、敬之助が紙を用意した。
最初に口を開いたのは、相馬屋の番頭だった。
「荷の前に、一つ伺いたいことがございまして」
「何でしょう」
「こちらでは、決まった日に人足を揃えていただく場合、どのくらい前からお約束できますか?」
清兵衛は少し困った顔になった。
そこへ浦和の商人が口を挟んだ。
「実は、そのことでしたら、私も伺いたかったんです」
弥平も顔を上げた。
「……ちょっと待ってくれ。俺も運び手の相談なんだが」
清兵衛は三人を見回した。
「……お三方とも、同じ話ですか?」
「いや、同じとは限りませんよ」
相馬屋の番頭が答えた。
「うちは川口からの荷を、決まった日に扱っていただけないかという相談でして」
「私どもは浦和からの荷です。何度か続けて出す予定があるものですから」
「俺は、上尾へ届ける鍋と釜だ。十二個あるんだが、蕨から北へ向かう荷と一緒に運べねえかと思ってな」
三人がそれぞれ話し始めると、清兵衛は手を上げた。
「分かった、分かった。順番に聞くから、ちょっと待ってくれ」
敬之助は三枚の紙を並べ、一人ずつ荷の量と希望する日を書き取っていった。
相馬屋の番頭が使いたい日、浦和の商人が荷を出したい日、そして弥平が上尾への荷を引き継ぎたい日。
書き終えた敬之助は紙を見比べ、眉を寄せた。
「清兵衛さん」
「何だ?」
「皆さん、日が重なっています」
「……全部か?」
「相馬屋さんはまだ日を決めておられませんが、希望されるところが、ほかのお二方と重なりそうです」
清兵衛は三人を見回した。
「……敬之助」
「はい」
「うちに、そんなに人手があったか?」
敬之助は帳面を確かめ、顔を上げた。
「ありませんね」
あまりにもあっさりした返事に、清兵衛は天井を見上げた。
「……だよなあ」
相馬屋の番頭が、そこで身を乗り出した。
「人足の手間賃でしたら、こちらで負担する用意もございます。まずは二人ほど、決まった日にお願いできればと」
浦和の商人が顔を上げた。
「それなら、私どもも手間賃はお支払いしますよ。ただ、荷を出す日が決まっておりますので、先にその日だけでも押さえていただけると……」
「ちょっと待ってくれ」
弥平が口を挟んだ。
「俺の方は十二個しかねえが、北へ向かう荷に載せられるかが問題なんだ。人足だけいても、上尾まで運ぶ車がなけりゃどうにもならねえ」
清兵衛は再び手を上げた。
「分かった。銭の話はありがたいが、まだ人を揃えられるとも、場所を使えるとも決まってねえんだ」
相馬屋の番頭が少し身を引いた。
「場所も必要なのですか?」
「荷をその場で渡せるならいいんですが、一度預かるなら置く場所が要ります。今借りてるところだって、勝手に荷を増やせるわけじゃありません」
番頭は頷いたものの、少し意外そうだった。
清兵衛が言葉を継ごうとした時、敬之助が帳面を閉じた。
「皆さん、少しよろしいでしょうか」
三人が敬之助へ顔を向ける。
「今のお話ですと、人足の手間賃をお出しいただくだけでは、まだ仕事をお受けできません。荷が決まっているか、引き継ぐ相手がいるか、場所が必要か。それによって、こちらで調べることも違ってまいります」
「それなら、まずうちの条件を……」
相馬屋の番頭が書付を取り出しかけたが、敬之助は丁寧に頭を下げた。
「もちろん、お伺いします。ただ、先に一つ確認させてください。相馬屋さんのお荷は、もうお決まりでしょうか」
「いえ、これからの仕事を見越して、人足を使えるようにしておきたいという話です」
「では、何をどこへ運ぶかも、これからということですね」
「ええ。ですが、そのための費用は……」
「ありがとうございます。ただ、まだ決まっていない荷のために日を空けますと、実際にお荷をお持ちになった方をお断りすることにもなります」
番頭は書付を持ったまま、口を閉じた。
敬之助は浦和の商人にも目を向けた。
「浦和からのお荷は、何をどれだけ出される予定でしょう」
「荷主と相談は済んでおります。ただ、数はまだ変わるかもしれません。日だけは決めておきたくて」
「承知しました。では、数が決まりましたら、改めて詳しくお聞かせください」
浦和の商人は少し考えた末、頷いた。
「分かりました」
最後に敬之助は、弥平の前へ置かれた紙に目を落とした。
「弥平さんの方は、鍋と釜が十二個。届け先は上尾で、希望される日もお決まりですね」
「ああ。ただし、蕨から先へ運んでもらえる者がいなきゃ、俺も仕事にはできねえ」
「そうですね。ですから、まずこちらのお荷について、北へ向かう荷車と都合が合うかどうかを調べてみるのはいかがでしょう」
弥平は顔を上げた。
「……俺の荷からか?」
「はい。ただし、運べるとお約束するわけではありません。調べてみるということです」
弥平は思わず相馬屋の番頭を見た。
番頭も、弥平を見ている。
川口では、相馬屋が話を持ってくれば、弥平のような運び手は後から呼ばれる立場だった。
ところが蕨では、話が逆になっている。
しかも清兵衛たちは、相馬屋に逆らおうとしているわけではないらしい。
「清兵衛さん」
番頭が口を開いた。
「お話は分かりますが、私どもも費用を負担するつもりで参りました。荷が決まるまで、人足を二人ほど押さえていただくことも難しいのでしょうか」
清兵衛は困った顔で敬之助を見た。
敬之助は静かに答えた。
「実際に人を空けておくのでしたら、その間に別の仕事を受けられなくなる分も考えなければなりません。それに、今のところ、いつでも二人を揃えられるという約束もできませんので」
「……なるほど」
番頭は書付を膝の上へ戻した。
甚右衛門は、人足の手間賃を負担すれば話を始められると考えていた。だが、清兵衛たちは手間賃以前に、人を空けておくこと自体の難しさを抱えている。
番頭が持参した条件だけでは、すぐに約束を取り付けられそうになかった。
「それでは、うちの方は荷の予定をもう少し確かめてまいりましょう」
番頭が言うと、清兵衛はほっとしたように頭を下げた。
「申し訳ありません。せっかくお越しいただいたのに」
「いえ。こちらも詳しい事情を聞けましたので」
番頭は笑顔を崩さなかったが、懐へ書付をしまう手つきは、来た時より少し慎重だった。
浦和の商人も、荷の数を確かめて再び来ることになった。
清兵衛は二人を見送り、それからようやく弥平へ向き直った。
「で、弥平さん。鍋と釜が十二個だったな」
「ああ。常吉から頼まれた仕事なんだ」
「常吉?」
「川口で鋳物を扱ってる商人だよ。今までは大店へ回してた仕事を、自分で引き受けたいってんでな」
清兵衛は頷いた。
「そりゃ大事な仕事だな」
「まあ、俺たちにとっちゃな」
「ただ、蕨を通した方が高く付くようなら、無理にこっちを使わねえ方がいいぞ」
弥平は思わず笑った。
「おいおい、商人が自分からそんなこと言っていいのか?」
「だってそうだろ。無理して運んで、誰も儲からなかったら次の仕事がなくなっちまう」
「……そりゃそうだ」
弥平は頷いた。
「まずは、北へ向かう荷があるか調べてくれ。それで銭が合わなきゃ、俺は別の手を考える」
「分かった」
敬之助が帳面を開いた。
「今ある話だけでは分かりませんので、出入りしている荷の者にも聞いてみましょう。ただし、返事をするまでは品物をこちらへ運び込まないでください」
「へいへい。勝手に置いたりしねえよ」
「それと、途中で荷を引き継ぐことになりましたら、数と品物の状態を確かめることも必要ですね」
「そこは俺も考えてる。傷が付いたら揉めるからな」
敬之助は小さく頷き、弥平の紙へ書き込みを加えた。
清兵衛は二人の話を聞きながら、ふと表の方へ目をやった。
「しかし、今日は妙な日だな」
「何が?」
「川口からも浦和からも、揃って荷の相談に来るんだからよ」
弥平は肩をすくめた。
「そりゃ、あんたらが紙八包みをちゃんと引き継いだからだろ」
「一度やっただけだぞ」
「一度でも、できたって話になりゃ、次も頼めるかって考える奴はいるさ」
清兵衛は少し考えてから、敬之助の帳面を覗き込んだ。
「……なあ、敬之助」
「はい」
「うちに、そんなに人手があったか?」
「ありませんね」
「……だよなあ」
弥平が吹き出した。
「何だよ。今さらか?」
「お前らが揃って来るからだろうが」
「俺は一人分だぞ」
「ほかの二人もそう思って来てるんだよ」
敬之助は笑いを堪えながら、三枚の紙を揃えた。
「とりあえず、今日分かったことはあります」
「何だ?」
「人手が足りないことと、荷を置く場所が足りないことです」
「……そんなこと、最初から分かってたじゃねえか」
「はい。ですが、足りないと言ってくださる方が、今日から三人になりました」
清兵衛は呆れた顔で敬之助を見た。
弥平はとうとう声を立てて笑った。
「そりゃいい。明日は四人かもしれねえぞ」
「やめてくれよ。こっちは笑い事じゃねえんだ」
そう言いながらも、清兵衛の口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。
敬之助は三枚の紙を帳面に挟み、まず弥平の荷について調べるべきことを書き出した。
北へ向かう荷車の有無。
引き継ぎの日。
運び賃。
そして、荷を受け渡す場所。
「では弥平さん。分かり次第、こちらからお知らせします」
「頼んだぞ」
弥平は立ち上がった。
朝、相馬屋の番頭と道で会った時には、甚右衛門が何を考えているのか気になって仕方がなかった。
だが、今はそれよりも、常吉にどう話を持ち帰るかを考えていた。
まだ運べると決まったわけではない。
それでも、十二個の鍋と釜について、蕨の商人が調べてくれることになった。
相馬屋の名前を借りず、自分の名前で持ち込んだ仕事だった。
「じゃあな、清兵衛さん。また来るよ」
「おう。今度は酒でも持ってこい」
「何でだよ」
「朝からこんなに面倒な話を持ち込んだんだから、それくらいいいだろ」
「仕事が決まって儲かったら考えてやるよ」
「本当だな?」
「考えるだけだぞ」
弥平が笑いながら出ていくと、清兵衛はその後ろ姿を見送った。
敬之助は帳面を閉じかけたが、ふと思い直し、別の紙を取り出した。
「清兵衛さん。相馬屋さんの方は、次に来られた時、もう少し詳しくお話を聞くことになりそうですね」
「ああ。銭を出してくれるってのは、ありがたい話なんだがな」
「そうですね。ただ、その銭で何を約束するのかが問題です」
清兵衛は頷いた。
「人足を押さえるにしたって、こっちにゃそんな余裕はねえしなあ」
「それに、浦和の方もまだお話が残っています」
「……忘れてた」
「忘れないでください」
敬之助は三枚の紙を帳面の上へ並べた。
清兵衛はそれを見つめ、しばらく考えていたが、やがてぽつりと言った。
「……仕事がない時は、どうやって仕事を増やすか考えてたのにな」
「はい」
「今度は、仕事を受けるために人と場所をどうするか考えなきゃならねえ」
敬之助は頷いた。
「そういうことになりますね」
「商売ってのは、面倒なもんだなあ」
「今さらですか」
清兵衛は苦笑した。
敬之助は筆を取り、帳面の新しい頁へ目を落とした。
そこには、まだ何も書かれていなかった。
*
その日の夕方、川口へ戻った相馬屋の番頭は、甚右衛門へ一部始終を報告した。
「……ほう。まずは弥平の荷から調べるって?」
「へえ。あちらは実際に運ぶ品物と届け先が決まっておりましたので」
「うちは銭を出すと言ったんだろ」
「申し上げました。ですが、荷が決まっていないうちから人足を押さえる約束はできないそうで」
甚右衛門は算盤を弾く手を止めた。
しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「なるほどな」
番頭は主人の顔を見た。
「いかがいたしましょう」
「まずは、こっちも実際の荷を決めることだな。銭を出すと言うだけじゃ話にならねえらしい」
「へえ」
「それから、蕨で使える人と場所を調べてこい。あの清兵衛って男一人に、何でも頼めるわけじゃねえんだろう?」
「そのようでございます」
甚右衛門は帳面を開き、浦和と岩槻へ出す予定の荷に目を通した。
川口の小さな運び手が、蕨で先に仕事を調べてもらうことになった。
それ自体は大した話ではない。
だが、甚右衛門には一つ気に掛かることがあった。
弥平のような男が、相馬屋を通さずに仕事を見つけ、蕨で引き継ぎ先を探せるようになれば、今まで自分の店へ集まっていた小さな注文のいくつかは、別の道を通り始めるかもしれない。
「……まあ、いい」
甚右衛門は算盤を引き寄せた。
「一つや二つの仕事を取られたくらいで、うちは困らねえ」
そう言って玉を弾いたが、番頭が下がった後も、しばらく帳面から目を離さなかった。
相馬屋の知らないところで、川口の荷が動き始めている。
その行き先の一つが、蕨だった。
甚右衛門は、算盤の玉をもう一度弾いた。
今度は、少し強く。
***




