第四十二話 閑話 県庁があるはずの町
喜平次は味噌樽の蓋を開けたまま、しばらく動かなかった。
「……減らねえな」
先月仕入れた味噌が、まだたっぷり残っている。米も同じだった。県庁が岩槻に置かれると聞き、役人や人足が増えることを見込んで仕入れたものの、肝心の役人たちは一向に姿を見せない。
店の奥から出てきた妻が、樽を覗き込んだ。
「何を今さら。毎朝見てりゃ分かるでしょうに」
「いや、そろそろ減ってもいい頃だと思ってな」
「勝手に減ったら困りますよ。鼠じゃあるまいし」
喜平次は言い返しかけて、やめた。妻の言うことはもっともだった。
県庁が来れば人が増える。人が増えれば飯も味噌も売れる。そう考えて仕入れたのは自分である。ところが、岩槻に置かれると決まったはずの県庁は、どういうわけか浦和で仕事をしているらしい。
店先では、若い男が二人、材木を積んだ大八車を引いていた。片方が前で縄を肩に掛け、もう一人が後ろから押している。車輪が道のくぼみへ落ちると、二人は声を掛け合い、ようやく車を引き上げた。
「県庁でも建てるってんなら、ああいう車が何台も来るんだろうがな」
「まず、建てる場所が決まってからの話でしょう」
「それを言われると、何も言えねえな」
喜平次は蓋を閉め、店先へ積んである米俵に目をやった。このまま県庁が来なければ、仕入れた分をどうさばくか考えなければならない。
「そういえば、今日の夕方、旅籠の旦那さんが来るって言ってましたよ」
「何しに?」
「役所のことで話があるとか」
喜平次は顔を上げた。
「県庁か?」
「さあ。私は県庁の人間じゃありませんからね」
妻は米を升から袋へ移し、こぼれた一粒を指で拾った。
「ただし、今度また仕入れを増やすって話なら、先に私へ相談してくださいよ」
「分かってるよ」
「前もそう言いました」
喜平次が口をつぐむと、妻は何事もなかったように仕事へ戻った。
岩槻の町は、今日も普段どおりに動いている。商人が行き交い、人足が荷を運び、どこかで大工の槌音が響いていた。
県庁が来ると聞いた頃には、今ごろ町の様子も変わっているだろうと思っていた。
しかし、何も変わらなかったわけではない。
期待していた者ほど、最近は県庁の話をしなくなっていた。
*
夕方、喜平次が旅籠へ顔を出すと、座敷にはすでに数人の男が集まっていた。
旅籠の主人に、材木を扱う与七。それから旧岩槻藩士の柴崎がいる。
柴崎は以前のような役目を持たなくなっていたが、旧藩の人々とのつながりが深く、町の相談事に呼ばれることも多い。ただ、藩がなくなってからは人前へ出る機会が減り、喜平次も顔を合わせるのは久しぶりだった。
「おう、喜平次。遅かったな」
与七が声を掛けると、喜平次は履物を脱ぎながら答えた。
「店を空けるのも楽じゃねえんだ。お前みたいに人任せにできりゃいいがな」
「俺だって働いてるよ。今日は朝から木の値を聞かれてばかりだ」
「売れたのか?」
「いや、聞かれただけだ」
「そりゃご苦労なことだ」
二人が言い合っている間に、旅籠の主人が湯呑みを運んできた。
「まあ座ってくれ。今日は浦和から戻った者に話を聞いたんだ」
喜平次はすぐに腰を下ろした。
「県庁はどうなった?」
「相変わらず浦和だそうだ。役人が出入りして、書付を運ぶ使いも来る。泊まり客もいるらしい」
「岩槻に置くって決まったんじゃねえのか」
「それは変わってねえ。ただ、仕事をしてるのは向こうなんだよ」
旅籠の主人は少し不機嫌そうだった。
県庁が来ると聞いた時、彼も部屋を空け、役人の滞在に備えていた。しかし実際には誰も来ず、普通の泊まり客を断りかけたことまであったという。
「こっちに県庁があるはずなのに、客は向こうへ泊まってる。何だか納得できねえよ」
喜平次が頷きかけたところで、柴崎が口を開いた。
「決まった場所と、実際に仕事ができる場所は違うのでしょう」
「違うって、どういうことです?」
「県の役人が来たとして、どこで仕事をしてもらうか。皆さんは考えたことがありますか」
与七が身を乗り出した。
「建物なら、いくつかありますよ。大きな屋敷も残ってるし、手を入れれば使えるんじゃありませんか」
「私もそう考えています。ですが、どのような建物が必要なのか、まだ分からないことが多い」
柴崎は懐から一枚の紙を取り出した。岩槻の町で、役所に使えそうな建物を幾つか書き出してきたらしい。その中には、以前の藩士が使っていた屋敷もあった。
「まず、実際に見てみませんか。使えそうなものがあるなら、県の役人へ話もできます」
喜平次は紙を覗き込んだ。
「県庁を迎えるために、こっちが建物を探すんですかい?」
「役人が来るのを待っているだけでは、何も変わりませんから」
それもそうか、と喜平次は考えた。
県庁が来ると決まった時には、役人の方から岩槻へやって来て、勝手に建物を探し、仕事を始めるのだと思っていた。
しかし、役人は浦和にいる。
こちらが何もしなければ、いつまでたっても来ないのかもしれなかった。
*
翌朝、喜平次たちは町の中にある古い屋敷を訪ねた。
主はすでに別の土地へ移っており、今は留守を預かる男が時折手入れをしているだけだった。柴崎が前もって取り次ぎを頼み、まずは建物の様子を見せてもらうことになったのである。
門を入ると、伸びた庭木の向こうに大きな屋根が見えた。軒下には枯れ葉が溜まっていたが、表の座敷はまだ十分に使えそうだった。
「思ったより広いじゃねえか」
喜平次は座敷へ上がると、障子を開けて奥を覗いた。
「これなら役人が何人か座っても大丈夫だろう」
「座るだけならな」
与七は庭へ戻り、屋根を見上げていた。
「あそこ、瓦がずれてる。雨が入ってるんじゃねえかな。それに廊下の板も何枚か替えた方がいい」
「お前、せっかく広い家なんだから、もう少し喜べよ」
「俺は木を扱う商売なんだ。立派な屋敷だって感心してるだけじゃ飯が食えねえ」
喜平次が何か言い返そうとすると、柴崎が廊下の途中で足を止めた。
柱の一つに、小さな傷が残っている。
昔、この屋敷には藩の用向きで何度か来たことがあった。廊下の傷にも覚えがある。若い頃、重い長持を運び込んだ者が柱へぶつけ、屋敷の主人にひどく叱られていた。
その時は笑い話で済んだが、今となってはその主人もおらず、叱られた若者がどこで暮らしているのかも分からない。
「柴崎さん?」
「……いや、何でもありません」
柴崎は柱から手を離し、奥の部屋へ向かった。
かつて藩の用で使われていた建物を、今度は新しい県の役人のために調べている。頭では必要なことだと分かっていても、胸の内がすっきりするものではなかった。
奥の部屋では、与七が床板の傷みを調べていた。
「ここは重いものを積み上げる場所には向かねえな。書付くらいなら置けるだろうが、床を直さなきゃならねえところもある」
「役所ってのは、そんなに荷があるもんなのか?」
喜平次が尋ねると、旅籠の主人が答えた。
「書付だって数が増えりゃ場所を食うだろう。人が出入りするなら、戸締まりもいるし、火の始末も考えなきゃならねえ」
「なるほどなあ」
喜平次は座敷を見回した。
初めは、この広さなら十分だと思っていた。しかし、実際に役所として使うことを考えると、必要なのは広い部屋だけではない。
役人が仕事をする部屋も、書付を保管する場所もいる。何人もの人が出入りするなら入口の扱いも考えなければならず、夜は誰かが建物を守る必要もあるだろう。
「県庁ってのは、随分面倒なんだな」
与七が振り向いた。
「お前、今まで何だと思ってたんだ?」
「役人が来て、書付を書いて、それで人が増えるんだろ」
「最後のところしか考えてねえじゃねえか」
「商人なんだから、当たり前だろ」
二人が言い合っていると、門の方から男の声がした。
「……柴崎か?」
廊下へ出た柴崎の表情が、わずかに変わった。
*
門のところに立っていたのは、滝沢という旧藩士だった。
柴崎とは以前からの知り合いで、喜平次も町で何度か顔を見たことがある。年は柴崎より少し上で、藩がなくなってからも昔の仲間との付き合いを続けている人物だった。
「こんなところで何をしている」
滝沢は柴崎の後ろにいる男たちへ目を向けた。
「まさか、この屋敷を新しい役人に使わせるつもりじゃあるまいな」
「まだ決まったわけではありません。県庁に使える建物を調べているところです」
「誰に頼まれて?」
柴崎は返事に詰まった。
滝沢はその様子を見て、眉を寄せた。
「県の役人から命じられたわけでもあるまい。それなのに、勝手に昔の屋敷を見て回ってるのか」
「持ち主の家へは話を通しています。建物を見せていただくだけだと」
「見せてもらうのと、役所に差し出すのは違うぞ」
声は荒くなかった。しかし、滝沢の顔には明らかに不快そうな色が浮かんでいた。
喜平次が口を挟もうとしたが、柴崎が手で制した。
「その通りです。ですから、まだ何も決めていません」
「だったら、何のために調べてる」
「岩槻に県庁を置くと定められている以上、こちらでも使える建物を探しておくべきだと思ったからです」
滝沢はしばらく黙っていた。
「……お前まで、そんなことを言うようになったか」
その一言に、柴崎の顔が強張った。
以前、藩の仕事をしていた頃、柴崎は滝沢に何度も助けられている。若い頃に仕事をしくじり、滝沢が代わりに頭を下げてくれたこともあった。
今の柴崎が何を考えているか、滝沢には分かるのかもしれない。
しかし、昔の恩があるからといって、何もせずにいるわけにもいかなかった。
「この屋敷が誰のものだったか、お前は知ってるだろう」
「知っています」
「世話になったこともあるはずだ」
「ええ」
「なら、持ち主がいない間に役所へ使わせようなんて話を、よく進められるな」
柴崎はすぐには言い返さなかった。
代わりに与七が口を開いた。
「滝沢さん、まだ借りるとも決めてないんですよ。使えるかどうか見てるだけで」
「それなら、そうしておけばいい。ただし、昔の屋敷を使えばよいなどと、簡単には言わんでくれ」
滝沢は与七へ答え、再び柴崎を見た。
「県庁を岩槻へ置くのは結構だ。だが、そのために何を差し出してもいいという話にはならん」
そう言い残し、門を出ていった。
足音が遠ざかってからも、柴崎はしばらく動かなかった。
「……ずいぶん昔からのお知り合いなんですか」
喜平次が尋ねると、柴崎は小さく頷いた。
「世話になった人です。あの人に言われると、なかなか言い返せません」
「でも、柴崎さんが勝手に屋敷を使おうとしてるわけじゃねえでしょう」
「それでも、あの人から見れば、私が昔のものを手放す相談に加わっているように見えるのでしょう」
与七は屋根を見上げた。
「そいつは困ったな。俺は屋根を直す話なら分かるが、昔の付き合いまで直せねえぞ」
喜平次は思わず吹き出したが、柴崎は笑わなかった。
その横顔を見て、与七もそれ以上は言わず、手元の紙へ修繕の必要な箇所を書き足した。
*
屋敷の借用について正式に話を進めようとすると、留守を預かる男も慎重だった。
「県のお役人が使うってことなら、主人に聞かねえと困ります」
「もちろんです。勝手に決めるつもりはありません」
柴崎が答えると、男は少し安心したようだった。
「ただ、借りるとなれば、どの部屋を使うのか、何を直すのか、後で元に戻してもらえるのか。そういうことも決めてもらわねえと」
持ち主への相談には時間が掛かる。返事が来たところで、承諾してもらえる保証もなかった。
結局、その日に決まったのは、屋敷の広さと傷んでいる箇所だけだった。
喜平次は帰り道、与七の持つ書付を覗き込んだ。
「ずいぶん書いたな」
「屋根、床、雨戸、井戸の具合。見りゃ見るほど直すところがある」
「結構な銭になりそうだな」
「そうだろうな。ところで、その銭は誰が出すんだ?」
「……そいつを、これから考えるんだろ」
与七は呆れたように笑った。
しかし喜平次は笑えなかった。
県庁が来れば、米も味噌も売れる。
そんな簡単なことを考えていた自分が、急に恥ずかしくなってきたのである。
その晩、妻に屋敷での出来事を話すと、彼女は夕飯を並べながら言った。
「そりゃそうでしょう。人の家を借りるんですから」
「分かってるよ」
「本当に?」
喜平次は箸を止めた。
「……今日は、ちょっと分かった気がする」
妻は不思議そうに夫の顔を見た。
「それなら、少しは進歩したんでしょうね」
「お前、亭主を何だと思ってんだ」
「味噌を余らせた人でしょう」
喜平次は大きく息を吐いたが、妻は涼しい顔で汁椀を置いた。
*
数日後、旅籠には再び町の男たちが集まった。
今回は前より人数が多い。屋敷の話を聞いて関心を持った商人もいれば、勝手に県庁の準備を進めていると聞き、様子を確かめに来た者もいた。
与七が修繕の見込みを書いた紙を広げると、年配の商人がすぐに顔をしかめた。
「こんなに銭が掛かるのか」
「全部直すと決めたわけじゃねえですよ。どこを使うかで変わります」
「県庁が来ると決まってもいねえのに、そんな銭を出せるか」
「だから、まだ見込みだって言ってるでしょう」
与七の声が少し荒くなったところで、柴崎が書付を引き寄せた。
「今日、銭を集めるつもりはありません。まず県の役人に、どのような建物が必要なのかを尋ねようと考えています」
「向こうに任せきりになるんじゃねえか?」
「任せきりにしないために行くんです。必要なことが分からぬまま屋敷を直しても、使えなければ無駄になります」
その説明に、何人かは納得したようだった。
しかし座敷の後ろから、別の声が上がった。
「その話、誰の名前で行くつもりだ?」
振り返ると、滝沢が立っていた。
柴崎は少し間を置いてから答えた。
「私と与七さんで、浦和へ行こうと思っています」
「誰が行くかじゃない。誰の考えとして話すつもりなのか、と聞いている」
与七が顔を上げた。
「岩槻で、県庁を迎える準備をしたい者がいるって話でしょう」
「それなら構わん。だが、岩槻の町一同の考えだとは言わんでくれ」
旅籠の主人が間へ入ろうとしたが、滝沢は手で制した。
「俺は、県庁が来ることに反対しているわけじゃない。むしろ、岩槻へ置くと定められた以上、そのとおりにしてもらえばいいと思っている」
「だったら、同じじゃありませんか」
喜平次が言うと、滝沢は首を振った。
「同じではない。県庁を置くという話と、そのために誰が屋敷を貸し、誰が銭を出すかという話は別だ」
座敷が静かになった。
「柴崎たちが役人に話すのは構わん。しかし、使える建物があると言えば、向こうは借りられるものだと思うかもしれん。町の者が協力すると言えば、銭を出すことまで決まっていると思うかもしれん」
柴崎は滝沢の言葉を遮らずに聞いていた。
その懸念は、屋敷を見に行ってから自分も考えていたことだった。
「滝沢殿。今回、持ち主の承諾がない建物を使えると約束するつもりはありません。銭の負担についても同じです」
「では、誰の名前で行く?」
「県庁について相談したい、岩槻の者数名の名で行きます」
「町の総意ではないな?」
「ええ。町全体の考えがまとまったわけではありません」
滝沢はしばらく柴崎を見つめた。
かつて同じ藩に仕えていた頃なら、こうして人前で互いの立場を確かめ合うことなどなかった。上から決まったことに従う場面が多かったからである。
しかし、今は違う。
誰かが岩槻のために動こうとすれば、別の誰かが、その責任を問う。
「……分かった。それなら行ってくればいい」
滝沢はそう言ったが、まだ話を終えるつもりはないようだった。
「ただし、俺たちにも伝えておきたいことがある。必要なら、別に書付を出す」
柴崎は少し考え、頷いた。
「それも、よいと思います」
滝沢は意外そうな顔をした。
「止めないのか?」
「止める理由がありません。考えが違うなら、それも伝えた方がよいでしょう」
その返事を聞いて、滝沢は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。
彼にとっても、柴崎はただの相手ではない。昔から知る後輩であり、仕事の仕方も人柄も分かっている。
それだけに、今の柴崎が新しい役人のために動いているように見えることが、どうにも面白くなかった。
滝沢は座敷を出ていった。
後ろ姿を見送った喜平次は、思わず呟いた。
「……県庁を迎えるってのは、思ったより大変なんだな」
与七が横から答えた。
「お前、そればっかり言ってるぞ」
「だってよ、話が進むたびに面倒なことが増えるんだ」
「それが仕事ってもんだろ」
「俺は味噌を売る仕事をしてるんだよ」
座敷の何人かが笑い、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
*
会合の後、柴崎と与七は旅籠に残り、浦和へ持参する書付を整理していた。
そこへ喜平次が戻ってきた。
「柴崎さん、少し役に立つかもしれねえ話があるんですが」
「何でしょう」
「うちへ浦和から米の取引で来る男がいましてね。役所の近くの旅籠にも出入りしてるそうなんです」
喜平次は懐から小さな紙を取り出した。
会合の間に店へ戻っていた妻から、その男が今日も来たと聞き、慌てて引き止めて尋ねたのだった。
「役所の場所はもちろんですが、どの入口から使いが出入りしてるか、どこへ聞けば取り次いでもらいやすいか、少し聞いてきました」
柴崎は紙を受け取った。
そこには、役所へ向かう道筋と、近くの旅籠の名が書かれている。
「これは助かります」
「いや、役人の名前までは分からねえんですがね。行ってから迷うよりはいいでしょう」
与七が喜平次の肩を叩いた。
「お前、やるじゃねえか」
「何だよ、その言い方は」
「味噌のことしか考えてねえと思ってたからな」
「それはお前が勝手に思ってただけだろ」
二人が言い合う横で、柴崎は紙を丁寧に畳んだ。
町のことを考えているのは、自分のような元藩士だけではない。
役所のことなど詳しくない喜平次も、自分にできることを探している。
滝沢には滝沢の考えがある。
皆が同じ方向を向いているわけではないが、それぞれに岩槻の将来を気に掛けていることだけは確かだった。
「喜平次さん、ありがとうございます」
柴崎が改まって礼を言うと、喜平次は照れくさそうに手を振った。
「そんな大したことじゃありませんよ。商人は人に聞くのが仕事みたいなもんですから」
与七が笑った。
「聞くだけじゃなく、ちゃんと売れよ。味噌が余ってるんだろ?」
「うるせえな。今度お前に売りつけてやる」
三人の笑い声が、夜の旅籠に響いた。
*
出発の朝、岩槻の町は冷え込んでいた。
旅籠の前では、柴崎と与七が書付を確かめている。使えそうな屋敷の間取りと修繕の見込み、町の商人たちの名前。まだ決まっていないことも多かったが、岩槻側として調べた範囲を整理したものだった。
喜平次は小さな包みを持ってやって来た。
「ほら、道中で食ってくれ」
与七が受け取って中を覗くと、握り飯が入っていた。
「気が利くじゃねえか」
「女房が持ってけって言うんだよ。腹減らして役人と話しても、ろくなことにならねえって」
「そりゃもっともだ」
柴崎も礼を言った。
旅籠の主人が奥から出てきて、二人へ声を掛ける。
「浦和の様子も、よく見てきてくれよ。役人がどこへ泊まって、何を食ってるのか。そっちも大事な話だからな」
「結局、飯と宿かい」
与七が笑うと、主人は真顔で答えた。
「県庁だろうが何だろうが、人間は寝て食わなきゃ働けねえんだ」
喜平次も笑った。
柴崎は書付を懐へ収め、道の先を見た。
「では、行ってまいります」
県庁を岩槻へ置いてもらうために、二人が向かう先は浦和だった。
喜平次は、そのことを考えると妙な気分になった。
岩槻に県庁が来るはずなのに、実際の県庁は浦和にある。そして、その県庁を岩槻へ迎えるために、わざわざ浦和まで出向かなければならない。
「……おかしな話だよな」
隣にいた旅籠の主人が尋ねる。
「何がだい?」
「県庁をうちの町へ持ってきてくれって頼むのに、こっちから別の町まで出掛けなきゃならねえんだ」
「役人が向こうにいるんじゃ、仕方ねえだろ」
「そうなんだけどよ。どうにも気に入らねえな」
道の向こうで与七が振り返った。
喜平次が手を上げると、与七も片手を上げて応えた。
やがて二人の姿は、朝の往来に紛れて見えなくなった。
*
その日の昼過ぎ、喜平次が店へ戻ると、滝沢が訪ねてきていた。
妻に勧められて腰を下ろしていたが、湯呑みにはまだほとんど手を付けていない。
「柴崎は出発したか」
「ええ。今朝、与七と一緒に」
「そうか」
滝沢は懐から畳んだ紙を取り出した。
旧藩士の何人かと相談してまとめた意見だという。
県庁を岩槻へ置くことには異存がない。ただし、旧藩の関係者や屋敷の持ち主の承諾がないまま、建物を役所へ使わせる話を進めることには反対する。また、一部の者の申し出を、町全体の意思として扱わないよう求める。
そのような内容だった。
「これを、浦和へ届けるつもりだ」
喜平次は紙を見つめた。
「柴崎さんたちが行ったばかりですよ」
「知っている」
「だったら、帰ってから話を聞いてもよくありませんかい?」
「それでは遅いかもしれん。向こうが町の考えを取り違える前に、伝えておきたい」
滝沢の声は静かだった。
喜平次は少し考えた。
柴崎たちは、町のために動いている。
滝沢たちも、町のために動いている。
どちらも岩槻を大切に思っているのに、どうして別々の書付を浦和へ送ることになるのだろう。
「……柴崎さんたちは、県庁を迎えたいんですよ」
「俺だって、来るなとは言っていない」
「じゃあ、もう少し話し合えばいいじゃありませんか」
滝沢は喜平次を見た。
「話し合ったさ。だが、考えが違うことまで同じにする必要はあるまい」
喜平次は返事ができなかった。
滝沢は紙を畳み直し、立ち上がった。
「今日中に使いを出す。お前にも知らせておこうと思ってな」
「……そうですか」
店を出ていく滝沢を、喜平次は黙って見送った。
妻が奥から顔を出した。
「何のお話だったんです?」
「県庁のことだよ」
「また?」
「ああ。今度は岩槻の中でも、考えが違うって話だ」
妻はしばらく夫の顔を見ていたが、やがて店先の米俵へ目を向けた。
「そりゃ、人が大勢いりゃ考えも違うでしょうよ」
「簡単に言うなあ」
「だって、うちの中だってそうじゃありませんか。あなたは仕入れを増やしたい。私は増やしたくない」
喜平次は思わず笑った。
「そりゃ、県庁の話とは違うだろ」
「違いますかねえ」
妻は米俵を一つ、店の奥へ寄せた。
「どっちも、これから先をどうするかって話でしょう」
喜平次は返す言葉がなかった。
*
数日後、浦和の役所では、朝から使いの者が出入りしていた。
新しい県の仕事は多く、旧い県や藩から引き継ぐこと、役人の手配、各地の報告など、机の上には片づけても片づけても書付が積み重なっていく。
その中に、岩槻からの書付が二つあった。
一つは、県庁を岩槻へ置くため、必要な建物や設備について教えを請いたいというものだった。
使いとして柴崎と与七が訪れ、候補となる屋敷の間取りや、修繕の見込みまで持参している。
役人はその紙を見ながら、感心したように言った。
「岩槻の方でも、随分調べてきたんだな」
隣にいた同僚も、間取りを覗き込んだ。
「建物を用意するつもりはあるようですね」
「ああ。ただ、持ち主の承諾まで取れているわけではなさそうだ」
役人は書付を机へ置き、もう一通を開いた。
こちらは旧藩士の滝沢らからの意見だった。
県庁が岩槻へ置かれること自体に異議はない。しかし、旧藩に関係する屋敷の使用については、関係者の承諾を得ずに進めるべきではない。
また、一部の者の申し出を、町全体の意思として扱わないよう求める。
読み終えた役人は、二つの書付を並べた。
「……なるほど。そういうことか」
「どうしました?」
「片方は、県庁を迎えるために必要なことを教えてほしいと言っている。もう片方は、勝手に町の考えを決めるなと言っている」
同僚は書付を覗き込んだ。
「どちらも岩槻からですか?」
「ああ」
「それは、どう返事をするんです?」
役人はすぐには答えなかった。
目の前の間取りは、よく調べられている。役所に使えるかどうかは別として、岩槻の者が手を尽くしていることは分かる。
しかし、同じ町から届いたもう一通には、建物を貸す側の事情が書かれている。
県の役人としても、持ち主の承諾がない屋敷を、勝手に使うと決めるわけにはいかない。
「まず、岩槻から来た二人の話を聞こう」
「では、お通ししますか」
「ああ。それから、もう一通の方も上へ伝えておいてくれ。町の者が皆同じ考えだと思って話を進めたら、後で厄介なことになりそうだ」
同僚は書付を持って立ち上がった。
しかし、役人はもう一度呼び止めた。
「待ってくれ」
「何でしょう」
「その二人は、いつからこちらに?」
「今朝から待っておられます」
「そうか……」
役人は二つの書付へ目を戻した。
県庁を置くと定められた町から、その県庁について異なる意見が届けられている。
しかも、どちらも県庁を岩槻へ置くこと自体には反対していない。
それでも、話がまとまらない。
「……まずは、どこまで岩槻の者たちに約束できるのか、確かめる必要があるな」
同僚が出ていくと、役人は柴崎たちの書付をもう一度手元へ引き寄せた。
使えそうな屋敷の広さ、修繕の見込み、町の有力者の名前。
よく調べてある。
その隣には、旧藩士たちの名を連ねた異議の書付が置かれていた。
役人はしばらく二つを見比べていたが、やがて間取りの紙を畳み、滝沢たちの書付をその上へ重ねた。
廊下の向こうから足音が近づいてくる。
「岩槻からお越しの方々を、お連れしました」
「お通ししてくれ」
役人は立ち上がり、襟元を直した。
戸が開き、柴崎と与七が姿を現した。
柴崎は丁寧に頭を下げ、与七もそれに続く。
二人とも、ようやく県の役人と直接話ができると思っていた。
しかし、役人の机には、すでに岩槻から届いたもう一通の書付が置かれていた。
柴崎たちは、まだそれを知らなかった。
***




