第62話 帰れと言うな
藤蔵が駆け込んできた時、勇吉は客の肩に手を当てていた。
「勇吉! いるか!」
「いねえよ!」
格子戸の向こうから聞こえた大声に、勇吉は振り返りもせず答えた。
目の前に座っているのは、朝から荷を担いでいたら首が動かなくなったという男だった。右を向こうとするたびに肩の付け根が痛むらしく、先ほどから身体ごと向きを変えている。
勇吉は男の肩から背中へ指を移し、腕を持ち上げた時の動きを確かめていた。首だけを無理に回そうとすると痛みが出るが、肩の位置を変えると少し楽になる。どうやら首ばかりが悪いわけでもなさそうだった。
「何だよ、いるじゃねえか!」
「見りゃ分かるだろ。人の身体診てんだから、そこで待ってろ!」
藤蔵は戸口で足を止めたものの、外の方が気になるのか、何度も振り返っている。
「悪いな、うるせえのが来ちまって」
勇吉がそう言うと、客の男が苦笑した。
「お知り合いですか?」
「知り合いじゃなきゃ、朝っぱらからあんな声で呼ばれねえよ。まったく、こっちは仕事中だってのに」
文句を言いながらも手は休めず、肩から背中の張りを確かめてから、もう一度男に首を動かさせた。先ほどより右を向けるようになったことが分かると、男は安心したように息を吐いた。
「ああ……ずいぶん楽になりました」
「だろ。だけど今日も同じように荷を担いだら、また痛くなるぞ」
「仕事ですからねえ」
「知ってるよ。だから持ち方を考えろって言ってんの。右ばっか使ってんだろ、お前」
男は驚いたように勇吉を見た。
「よく分かりますね」
「肩を見りゃ分かるよ。身体ってのは、ちゃんと使った分だけ文句を言うんだから」
男が笑いながら頷いたところで、勇吉も施術を終えた。立ち上がった客に、今日は無理をするなともう一度言い聞かせる。
「また痛くなったら来ます」
「来なくて済むなら、その方がいいんだけどな」
「それじゃ商売にならないでしょう」
「まあ、そうなんだけどさ」
勇吉の返事に客は笑い、銭を払って帰っていった。
格子戸が閉まるのを待ちきれなかったように、藤蔵が身を乗り出してくる。
「勇吉、ちょっと来てくれねえか」
「どこへ?」
「戸田だ」
「やだよ」
「まだ何も説明してねえだろ!」
「戸田まで行くんだろ? 十分嫌だよ」
藤蔵は呆れた顔をしたが、すぐに笑みを消した。
「竹松が、また川へ出ようとしてるんだ」
勇吉は片づけかけた布を手にしたまま、藤蔵へ顔を向けた。
「竹松?」
「ああ。一昨日、舟と岸の間へ落ちて足を痛めた奴だよ」
「知ってるよ。昨日、桜屋で聞いた」
「だったら話が早え。今朝も渡し場へ来て、仕事をするって聞かねえんだ」
「……何だって?」
昨夜、お咲から事故の話を聞いた時にも気になっていた。舟と岸の間へ落ちたというだけでは、どんな怪我をしたのか分からない。足を捻ったのか、何かに強くぶつけたのか、それとも挟まれたのか。無理に歩けるような状態でないことくらいは想像できたが、それにしても仕事へ戻るのは早すぎる。
「歩けるのか?」
「歩けるって言い張ってるが、右足を引きずってる。仲間が一度帰したのに、また戻ってきたそうでな」
「で、何をする気なんだよ」
「荷は持たねえから、舟の上で縄を扱わせろって」
「馬鹿か、あいつは」
勇吉は思わず声を上げた。
舟の上で縄を扱うなら、揺れる足場で踏ん張らなければならない。荷を担がないから安全だという話にはならなかった。
「最初に誰か診たんだろ?」
「事故の日に戸田の方で手当てを受けてる。しばらく動かさねえ方がいいって言われたらしい」
「ちゃんと言われてんじゃねえか。それで何で舟に乗るんだよ……」
以前、竹松が腰を痛めて来た時も同じだった。
仕事を減らせと言ったところ、そんなことをしたら飯が食えなくなると笑っていた。何とか重い荷を避けるよう説得したものの、その後どこまで守ったかは怪しい。
「清さんは?」
「先に戸田へ行ったよ。俺はお前を呼んでこいって頼まれた」
「清さんも、また面倒なことに首突っ込んでんな」
「一昨日の事故は、うちの荷の仕事だったからな。知らん顔はできねえだろ」
「そりゃそうだけどよ」
勇吉は口を尖らせながら棚へ向かった。
足を傷めていると聞いても、実際に診るまでは必要なものを決めきれない。布や使い慣れた道具を選び、風呂敷へまとめていると、藤蔵が傍らへ寄ってきた。
「そんなに持ってくのか?」
「行ってから足りねえって言われても困るだろ」
「だったら、俺が持つぞ」
「お前、ずいぶん親切じゃねえか」
「また竹松が舟へ乗ったら、こっちの仕事まで止まっちまうからな」
「……なるほど。そっちか」
勇吉が笑うと、藤蔵も肩をすくめた。
渡し場の連中には竹松を舟へ近づけるなと言ってあるらしい。それでも隙を見て動こうとするから、誰かがついていなければならないという。
「だったら縄でつないどけよ」
「怪我人を馬みてえに扱えるか」
「お前、いつも馬には優しいじゃねえか」
「馬は言うこと聞くからな」
「そりゃ竹松より利口だ」
二人で笑ったあと、勇吉は風呂敷を結び直した。
家の者へ戸田まで出掛けることを伝え、履物を確かめて外へ出る。
「ったく、俺は蕨で仕事してたんだぞ。帰りが遅くなったら清さんに文句言っとけ」
「分かった」
「お前もだよ」
「俺もかよ!」
勇吉は返事の代わりに歩き出した。
休めと言われて休まない人間のために、わざわざ自分が出向かなければならないのも妙な話だったが、竹松があの足で川へ戻るところを想像すると、文句を言っている時間も惜しくなっていた。
*
蕨宿を抜けて南へ向かう道には、朝から荷を運ぶ男たちの姿があった。
馬に引かせた荷車が乾ききらない土を踏み、人足が大きな包みを背負って歩いていく。東京へ向かう旅人や商人も行き交っており、顔見知りを見つけた藤蔵は、そのたびに声を掛けられていた。
勇吉の目は、そんな人々の歩き方へ自然と向いてしまう。
片方の肩だけ下げて荷を担いでいる男がいれば、腰を痛めなければいいがと思う。足を少し引きずって歩く年寄りには、どちらの膝が悪いのか気になる。
別に一人ずつ診ているつもりはない。長く人の身体に触れていると、妙な動きが嫌でも目に入るだけだった。
「なあ、藤蔵。竹松はどうやって落ちたんだ?」
「荷を下ろして、舟から岸へ移るところだった。舟が少し離れたのに、そのまま足を出しちまったんだ」
「舟ごとひっくり返ったわけじゃねえんだな?」
「ああ。俺は濡れた荷を引き上げる方にいたから、落ちる瞬間までは見てねえけどな」
藤蔵によれば、引き上げた時には右足を痛がり、立とうとしても力が入らなかったらしい。
「何かに挟まったのか?」
「そこまでは分からねえ。気づいた時には岸へ引き上げられてたからな」
「ふうん……」
勇吉は道の先を見た。
舟と岸の間なら、足が狭いところへ入り込んだ可能性もある。滑った勢いで捻っただけなのか、舟べりにぶつけたのかによっても話は違う。
「最初に手当てしたのは誰だ?」
「戸田の方で骨つぎをやってる人だって聞いたけど」
「知ってる人かな」
「名前は聞いてねえや」
「使えねえな、お前」
「何だよ、それ!」
藤蔵は笑ったあと、思い出したように竹松の話を始めた。
「そういや、前にもあいつが荷車を泥にはめたことがあってさ」
「竹松が?」
「ああ。みんなで押そうって言ったのに、一人で動かせるって聞かねえんだ。結局、車は動かねえし、本人は泥だらけになるし、最後は三人がかりで押し出したんだよ」
「何やってんだ、あいつ」
「そのくせ、『俺が最初に動かしたから出たんだ』って言うんだぜ」
勇吉は声を上げて笑った。
「そりゃ竹松らしいな。あいつ、負けるのが嫌なんだよ」
「そうなんだろうな。仕事ができる奴なのは確かなんだけどよ」
藤蔵は笑みを収め、前方から来た荷車を避けながら続けた。
「今日も人が足りねえんだ。竹松がいれば助かるのは本当だが、あの足じゃ任せられねえ。無茶されると、ほかの奴まで手を取られるからな」
「だったら仕事させなきゃいいだろ」
「させねえよ。ただ、あいつが黙って帰るとも思えねえんだ」
それは勇吉にも分かる気がした。
怪我をした人間が無理をするのは珍しくない。痛みがあっても働かなければならない者はいるし、休めと言われても、その日の稼ぎが惜しくて仕事に出る者もいる。
竹松の場合は、少し事情が違うのかもしれなかった。
「竹松の奴、女房と子供がいたよな?」
「ああ。子供はまだ小せえよ」
「そうか」
「何で?」
「別に」
勇吉はそれ以上聞かなかった。
前に腰を診た時、竹松は休まず働いている理由を笑いながら話していた。
あの時は、まだどうにか荷を担げた。
今度は足を引きずっているというのだから、同じようにはいかないだろう。
戸田へ近づくにつれ、川から湿った風が流れてくるようになった。勇吉は肩の風呂敷を掛け直し、先を歩く藤蔵へ声を掛けた。
「……それにしても遠えな」
「まだそんなに歩いてねえだろ」
「俺は普段、家で人の身体診てんだよ。荷車引いて歩き回ってるお前と一緒にすんな」
「だったら少し休むか?」
「休んだら竹松が舟に乗っちまうだろ」
「じゃあ急ごうぜ」
「だから歩いてんじゃねえか!」
藤蔵は笑いながら足を速めた。
勇吉も文句を言いながら、その後を追った。
*
戸田の渡しは、朝から荷を運ぶ男たちで賑わっていた。
岸へ寄せられた舟の周りでは人足が忙しく行き交い、荷を担ぐ掛け声に混じって、舟べりに木箱が触れる鈍い音が聞こえる。流れに押されて舟が揺れるたび、岸へつないだ縄が張ったり緩んだりしていた。
「今日は荷が立て込んでるんだ。昨日も止まった分があるからな」
藤蔵は言いながら、積まれた荷と舟の位置を見比べている。
「あっちの舟、まだ出てねえな。おい、そこの縄、岸へ引っ掛かるぞ!」
近くの人足が慌てて縄を引き直した。
勇吉はその様子を眺めていたが、少し離れたところから聞き慣れた声がすると、そちらへ顔を向けた。
「竹松! いい加減にしろって!」
清兵衛だった。
岸へつながれた舟の近くで、数人の人足に囲まれた男と何やら言い合っている。
男の姿はすぐに分かった。
竹松だ。
右手には縄を握っているものの、立ち方がおかしい。右足をわずかに後ろへ引き、左側へ腰を逃がすようにしている。身体の向きを変えようとした時にも、右足を軸にすることを避けていた。
「……あいつ、何やってんだ?」
勇吉が眉を寄せると、藤蔵が清兵衛を呼んだ。
「清さん! 勇吉連れてきたぞ!」
振り返った清兵衛は、ほっとしたように息を吐いた。
「おお、来たか! こいつがどうしても帰らねえんだよ」
「来たかじゃねえよ。朝っぱらから人を呼び出しやがって」
「文句はあとで聞く。まず足を診てくれ。ここでまた倒れられたら、舟の仕事が止まっちまう」
「お前まで仕事の話かよ」
「実際、止まるんだから仕方ねえだろ」
文句を言いながら近づく勇吉を見て、竹松が露骨に嫌そうな顔をした。
「……何だよ。お前まで呼んだのか」
「俺だって来たくなかったんだよ。清さんに呼ばれたんだ」
「俺は病人じゃねえぞ」
「知ってるよ。馬鹿なのも前から知ってる」
近くにいた人足が吹き出した。
「何だと?」
「足を怪我して舟に乗ろうとしてる奴が、賢えわけねえだろ」
「荷は持たねえって言ってんだよ。縄くらい扱える」
「その縄を扱う足が動かねえんだろうが」
竹松は言い返そうとしたが、勇吉の目はすでにその足元へ向いていた。向きを変える時でさえ右足にはほとんど重さを掛けず、左へ腰を逃がしている。本人は平気なつもりなのだろうが、長く人の身体を診てきた勇吉には、痛みを庇っていることなど一目で分かった。
「竹松、そのまま動くな」
「何だよ」
「いいから。今の立ち方、自分じゃ分かってねえだろ」
竹松は不満そうに顔をしかめた。
「何ともねえよ」
「だったら何で、さっきから右足を浮かせてんだ?」
「浮かせてなんか……」
「舟が揺れたら、どっちの足で踏ん張るんだよ」
「……何とかなる」
「ならねえよ。今だって右足を庇って立ってんだろ」
竹松は自分の足元へ目を落とした。
勇吉はそれ以上言い合わず、清兵衛へ顔を向けた。
「足を診られる場所はねえのか?」
「すぐそこの小屋が空いてる」
「だったら、そっちへ行くぞ」
竹松が反論するより先に藤蔵が肩を貸そうとしたが、本人はまだ一人で歩けると言い張っている。
「立てるのは分かったから、余計なところで意地張んなよ」
藤蔵はそう言って肩を差し出した。
それでも竹松が動こうとしないので、勇吉は少し呆れた顔になった。
「お前なあ、見物人まで集まってんじゃねえか。そんなに大勢の前で診られてえのか?」
周りにいた人足たちが笑い、竹松はようやく縄を手放した。
「……分かったよ!」
清兵衛がその縄を受け取り、藤蔵とともに竹松を支える。
小屋へ向かう短い距離でも、竹松の右足はほとんど役に立っていなかった。肩を借りていることが気に入らないのか、何度か自分で歩こうとするたび、藤蔵に止められている。
勇吉はその後ろを歩きながら、竹松の右足から目を離さなかった。
あの頑固者が、とうとう人の肩を借りなければ歩けなくなっている。
冗談を言っている場合ではなさそうだった。




