第三十九話 空の荷車
川口の弥平が浦和の商家へ顔を出したのは、朝の荷車が動き始めた頃だった。
四十を少し過ぎた弥平は、今では人足や馬を手配する立場にいるが、忙しければ自分で荷を担ぎ、夜には若い衆と同じ釜の飯を食う。荷を運ぶ仕事に長く関わってきたせいか、よその店へ入っても、先に目が行くのは人の顔より荷車の方だった。
「おう、弥平さん。旦那がお待ちですよ」
出迎えた番頭に挨拶を返しながら庭を通ると、一台の車輪が妙な音を立てている。弥平は思わず足を止め、輪を軽く揺すってから、荷を積もうとしていた若い男を呼んだ。
「おい、そいつはちょいと見てもらえ。今は動いても、荷を積んで道の途中で止まっちゃ厄介だぞ」
「へい。昨日までは何ともなかったんですが……」
「昨日歩けた馬が、今日も元気とは限らねえだろ。それと同じだ」
若者が番頭を呼びに行くのを見届けたところへ、奥から店の主人が現れた。
「朝からうちの若い衆を捕まえて、何を始めたんだ?」
「悪いことじゃありませんよ。あの車輪、荷を積む前に見といた方がいい」
「まったく、店へ上がる前から仕事か。まあ、入ってくれ」
主人は笑って弥平を座敷へ通した。
この商家は、先日蕨へ六台目の荷車を送り込んだ商人とは別の店である。荷を積んだまま浦和へ戻ってきた御者の話から、蕨で新しい荷の引き継ぎが始まるらしいと聞きつけた主人が、昨日、川口へ使いを出したのだった。
座敷に入ると、机には書付と帳面が広がっていた。茶が運ばれてくるのを待つ間も、主人は一冊の帳面を閉じ、別の帳面の頁に指を挟んでいる。
「蕨の話でしょう?」
弥平が先に切り出すと、主人は顔を上げた。
「何だ、もう知ってるのか」
「昨日の使いから聞きましたよ。こっちにも噂は来てる。まだ仕事になったわけじゃねえんでしょう?」
「ああ。蕨の清兵衛って商人が、納屋を借りて荷を預かり始めたらしい。そこから川口の方へ運べるようになりゃ、何かと都合がいいんじゃねえかと思ってな」
「旦那のところの荷も、ですかい?」
「そういう荷があればな」
主人はわざと軽く答えたが、弥平は茶碗を手にしたまま、それ以上尋ねなかった。馴染みの商家がわざわざ使いを寄越してまで呼んだのだから、単に面白い噂を聞かせたいだけではないだろう。
「途中で荷を渡せりゃ、浦和の馬を遠くまで出さずに済む。お前らも蕨からなら、幾分楽になるんじゃないか?」
「楽になるかどうかは、荷次第ですね」
弥平は庭先の方を見た。荷車を出す声が響き、車輪が石を踏む乾いた音が聞こえる。
「蕨で待たされるんなら、川口から直接迎えに出るのと変わらねえ。降ろして積み直す手間もあるし、雨が降りゃ荷をどこへ置くかって話にもなる。預かってる間に傷んだら、誰の責任かも決めとかなきゃならねえでしょう」
「そこは清兵衛たちも考えてるらしい」
「なら結構。ただ、こっちで引き受ける前に、場所は見ておきてえですね」
「納屋には五台分の荷が入ってるそうだ」
「五台分、ねえ」
弥平は運ばれた茶を一口飲んだ。五台分が入ると聞いても、出入り口の広さや屋根の具合までは分からない。荷車を寄せられなければ、納屋が立派でも人足が余計に歩くことになる。
「一度、蕨へ見に行っても構いませんかい?」
「俺に聞くなよ。向こうに話を通さなきゃならねえだろ」
「そりゃそうだ」
二人は笑った。主人も、弥平が見もせずに仕事を請け負うとは思っていなかった。
*
「ところで旦那、一つ気になってることがあるんですがね」
弥平は空になった茶碗を置いた。
「蕨から川口へ荷を運んで、降ろした後はどうするんです?」
「どうするって、戻ってくるんだろう」
「空で?」
主人の指が帳面の上で止まった。
「俺も若い頃、川口まで荷を運んで、帰りには何も積まずに戻ったことが何度もありますよ。荷台は軽くて助かるが、馬は同じだけ餌を食う。陽が落ちりゃ人足も腹が減る。荷がないからって、道が短くなるわけじゃねえ」
「そりゃそうだが……」
「川口からこっちへ送りたい荷があれば、帰りにも積めるでしょう。途中の蕨で渡す形だって考えられる。ただ、荷主が都合よく見つかるとは限りませんからね。空で帰る日があるのも含めて、運び賃を考えなきゃならねえ」
弥平は銭の話をしているのに、主人の頭には庭の荷車が浮かんでいた。これまで帰り荷を探して、無駄足になったことは自分の店にもある。行き先の違う荷を、同じ場所で扱えるようになれば多少はましになるかもしれないが、口で言うほど簡単ではない。
「……お前は相変わらず細けえな」
「旦那に言われたくありませんね。一文違えば番頭さんを呼び戻すでしょう」
「一文も積もれば銭になる」
「俺には馬の餌代が、その一文ですよ」
主人は吹き出し、弥平も笑った。
笑いが収まると、主人は書付を脇へ寄せた。
「実を言や、浦和の仕事が少なくなりゃ困る連中もいる。便利だからって、うちが指をくわえて見てるわけにもいかねえからな」
「まあ、旦那ならそう考えるでしょうね」
「悪いか?」
「いいえ。旦那が新しい荷を集めてくれりゃ、俺にも仕事が回るかもしれませんし」
弥平は笑みを浮かべたが、続ける言葉ははっきりしていた。
「ただ、清兵衛さんとやらが何を考えてるかも分からねえのに、俺らだけで蕨の仕事を決めるわけにはいきませんよ」
「分かってるさ」
「それなら、まず先方に聞いてみましょう。話だけでも、と言ってもらえるなら、俺も納屋と道を見せてもらいてえ」
「道まで見るのか?」
「荷車は納屋まで勝手に歩いちゃくれませんからね。道幅があっても、曲がり角でつっかえることがある。雨上がりなら車輪が沈むところもあるでしょう」
主人はしばらく弥平の顔を見ていたが、やがて番頭を呼んだ。
「蕨の清兵衛さんへ書付を頼む。川口の弥平と荷の扱いについて話したい、先方が構わねえなら納屋と道を見せてもらいたい、と」
「承知しました」
番頭が下がると、庭から若い男の声がした。さっきの車輪について、修理を頼む先を相談しているらしい。
「旦那、あっちをちょいと見てもいいですかい」
「まだ返事も来てねえぞ」
「返事が来るまでここで座ってても、車輪は直りませんから」
弥平は立ち上がった。主人が呆れて手を振ると、礼をして庭へ出ていく。
主人はその背中を見ながら、帳面に挟んだ指を抜いた。蕨で何が始まるのか、まだよく分からない。だが、荷を見もしないうちから儲け話をするより、車輪の音を気にする男を連れていく方が、話は早そうだった。
*
その日の夕方、勇吉は桜屋の暖簾をくぐるなり、鼻をひくつかせた。
「何だ、いい匂いするじゃん」
「勇吉さん、いらっしゃい。今日は里芋ですよ」
お鈴が奥から顔を出し、いつもの席を示した。
勇吉は朝から患者を診ていて、最後に来た女には腰を診るはずが嫁と姑の話を延々聞かされた。身体を動かしてもらおうと頼むたびに「ああ、そうそう」と別の話が始まるものだから、施術が終わった頃には勇吉の方が肩を回したくなっていた。
「酒も頼む。あと、何か腹にたまるやつ」
「はいはい。先に煮物を持ってきますね」
お鈴は小皿を運び、勇吉の酒器を置くと、隣の卓で空いた皿を手際よく重ねていった。いつもより忙しそうなのに、源次郎の姿は見えない。
「親父さんは?」
「奥で仕込みしてますよ。今日はちょっと多めに作っておこうって」
「へえ、何かあるの?」
「最近、夕方に飯を食べに来るお客さんが増えたんです。荷を運んできた人たちが何人か一緒に来て、早く食べられるものはないかって。この前はお父っつぁんが一人ずつ注文を聞いてるうちに、待たせちゃって」
勇吉は里芋を口に運び、熱さに目を細めながら頷いた。
「清さんたちの荷かな。納屋でいろいろ始めてるみたいだし」
「そうかもしれませんね。荷を運んできた方って、食べ終わるとすぐ出ていくことが多いんですよ」
お鈴は客の言葉をよく覚えていた。誰がどこから来たかを詮索しているわけではないが、旅人と荷を運ぶ人では食べる速さも、店を出ていく時刻も違う。源次郎が客と話し込んでいる間に、そうしたことが自然と目に入るのだった。
「だから今日は、温めればすぐ出せるものを増やしたんです。お父っつぁんには、余ったら明日食べればいいじゃないって言ったんですけどね」
「親父さん、何て?」
「そんなに毎日客が来るもんか、ですって」
「親父さんらしいなあ」
勇吉が笑ったところへ、奥から源次郎が鍋の蓋を持って現れた。
「おい、聞こえてるぞ。俺だって余らせたくねえんだよ」
「だったら、今日はお客さんが来るといいね」
「お前は食ってりゃいいんだ」
源次郎が蓋を持って奥へ戻ると、お鈴は小さく肩をすくめた。勇吉は里芋をもう一つ取ってから、酒器を持ち上げる。
「でも、お鈴ちゃんが気づかなかったら、今日も昨日みたいに慌ててたかもな」
「そうならないといいんですけど」
その時、暖簾の向こうで足音が重なった。
「親父さん、飯はまだあるかい?」
入ってきたのは、仕事を終えたらしい三人の男だった。肩に縄の跡が残り、一人はまだ袖で額の汗を拭っている。
「あるぞ。座ってな!」
奥から顔を出した源次郎が答えるより早く、お鈴は器を三つ取り出していた。
「温かい煮物なら、すぐに出せますよ。ご飯もあります」
「そりゃ助かる。今日はもう腹が減って仕方ねえんだ」
男たちはほっとした顔で腰を下ろした。源次郎は鍋の方へ戻りながら、お鈴に目配せしたが、娘はわざと気づかないふりをして皿を並べている。
「……あいつの言う通りになっちまったな」
勇吉にだけ聞こえる声で源次郎がぼやいたので、勇吉は酒を吹きそうになった。
「いいじゃん。親父さんの飯がうまいってことだろ」
「そういうことにしとくか」
源次郎が笑って奥へ戻ると、桜屋には鍋の蓋が触れ合う音と、腹を空かせた客たちの声が広がった。
清兵衛たちが荷をどれだけ扱えるのか、勇吉には見当もつかない。ただ、荷車が一台通れば、腹を減らした人が何人かやって来る。そういうことなら、目の前で分かる。
少し遅れて、馴染みの人足が暖簾をくぐった。勇吉の隣へ腰を下ろすと、酒を頼むついでに声を掛けてくる。
「勇吉さん、この前、辰さんとこの若いのを診たんだって?」
「ああ、手ぇ痛めた奴ね。どうしてる?」
「辰さんが今日も休ませたらしい。本人は出たがってるそうだけどな」
「そっか。腫れがひどくなってなきゃいいけど。無理すんなって伝えといてよ」
「分かった。……それより、その煮物うまそうだな」
「うまいよ。俺が保証する」
「お前が作ったみてえに言うなよ」
人足の笑い声に、奥から源次郎の「聞こえてるぞ」が飛んできた。勇吉は酒器を持ったまま笑い、お鈴は新しい客の飯を先に運んでいった。
*
翌日、浦和からの書付が清兵衛のもとへ届いた。
清兵衛は差出人を確かめると、目の前の敬之助に見せた。
「先日、六台目の荷車を寄越したところとは別の商家だ。蕨で荷を引き継ぐ話を聞いたらしい」
「噂が広がるのは早いですね。それで、何と?」
「一度、話をしたいそうだ。川口の弥平という運び手も一緒に来たがってる」
敬之助は書付を受け取り、日取りについては先方の都合を聞いて決めたい、とある箇所を確かめた。正式に荷を引き受けるという約束ではなく、まずは現場を見て、できる仕事を考えたいという申し出だった。
「こっちが川口へ話をしに行く前に、向こうから来るとは思わなかったな」
清兵衛は面白そうに笑ったが、敬之助は書付の末尾へ目を留めた。
「清兵衛さん、この弥平という方、納屋だけじゃなく、そこへ入る道も見せてほしいそうですよ」
「道まで見るのか?」
「荷車の通り具合を確かめたいのでしょう。権蔵さんにも来ていただいた方がよさそうです」
「ああ。加兵衛さんにも話そう。それから、柿の木の家には、荷を増やす話じゃなく、まず見に来るだけだって伝えておかねえとな」
清兵衛は敬之助の手元の書付を、もう一度覗き込んだ。
運び賃のことも、引き継ぐ荷のことも、まだ書かれていない。あるのは、納屋と道を見たいという申し出だけだ。
「変わった男だな。商売の話より先に道とはねえ」
「それだけ、道で苦労してきた方なのかもしれません」
「そうかもな」
清兵衛は納屋へ向かう道の方を見た。権蔵たちがようやく通れるようにしたばかりの道だ。近所の家々への気遣いもいるし、納屋を借りているのは二十日ほどにすぎない。隠すような話ではないが、知らずに来た者がどう思うかは分からなかった。
「……敬さん。来る時は、何も飾らずに見てもらおう」
「ええ。その方がよいと思います」
「使えるもんなら使ってもらいたいし、駄目ならどこが駄目なのか聞きたい。こっちで考えてるだけじゃ、分かんねえこともあるだろうからな」
敬之助が返事の書付を用意し始めると、清兵衛はその脇で、初対面の男がどこから見て回るのかを想像していた。
荷を置く納屋か、それとも補修した道か。
川口から来る弥平は、何を確かめ、どんな顔をするのだろう。
「清兵衛さん、返事には何と書きましょう?」
敬之助が筆を取って尋ねると、清兵衛は少し考え、いつもの調子で笑った。
「そうだな。……道も納屋も、ありのまま見ていただきたい、でどうだ?」
「よろしいと思います」
敬之助は書付へ筆を走らせた。
それを横目に、清兵衛はもう一度納屋の方へ目を向けた。
あそこへ荷を運び入れる道には、権蔵たちが直した後にも、新しい車輪の跡が残っている。
川口からやって来る男は、その轍を見て何と言うだろうか。
***




