第三十八話 蕨の流儀
六台目の荷車が納屋の前を離れた頃には、中山道にも夕暮れの色が濃くなり始めていた。
浦和から来た男は、清兵衛たちとの話がまとまらなかったことを、それほど残念がってはいないようだった。荷を別の運び手へ引き継ぐという仕事が、今日明日で簡単に始められるものではないことくらい、商売をしていれば分かるのだろう。
結局、荷は降ろさず、宗助が紹介した旅籠へ向かうことになった。荷車を一晩置けるかどうかは宿の主人と相談するが、積んである荷は引き続き浦和の商人側が管理する。翌朝には浦和へ戻り、川口の運び手との話も確かめたうえで、改めて相談に来るという。
荷車が見えなくなると、清兵衛たちは納屋に収めた五台分の荷の確認に戻り、権蔵も道具を片づけ始めた。
辰五郎はその様子を眺めながら、どうにも落ち着かない気分でいた。
最初は、よその人間に仕事を取られるのではないかと思っていた。ところが清兵衛たちの話を聞いてみれば、今までになかった仕事が増えるかもしれないという。
それなら若い衆にも知らせてやりたいが、まだ何も決まっていない話を広めれば、後で余計な期待をさせることになる。
「……商売ってのは面倒くせえもんだな」
思わず漏らした言葉を、通り掛かった権蔵に聞かれてしまった。
「何だ、辰。お前が商売の心配か?」
「俺だって、たまには考えますよ」
「そりゃ珍しい」
「旦那まで、そういうこと言わねえでくださいよ」
権蔵は笑いながら道具を担ぎ直した。
「清兵衛だって、まだ引き受けると決めたわけじゃねえ。若い衆に話すなら、もう少し待った方がいいぞ」
「へい。そのつもりです」
「それならいい。こっちは道の手入れも考えなきゃならんし、荷が増えるなら、その分の人手も銭も必要になる」
権蔵は足元に残った浅い轍を見てから、納屋の方へ歩いていった。
辰五郎も改めて道へ目を向けた。
二日前までは、雨が降ると車輪が沈むような道だった。権蔵が人足を集めて補修し、ようやく荷を積んだ車が通れるようになったのだが、五台通しただけで新しい車輪の跡が残っている。
これから何十台も通るようになったら、どうなるのだろう。
そんなことを考えていると、柿の木の家の弟が納屋の戸口から出てきた。男は残っていた縄を束ね、戸を閉めようとしているところだった。
「おう、旦那。ちょいといいですかい」
辰五郎が声を掛けると、男は振り向いた。
「辰さんじゃありませんか。どうしました?」
「いや、今日の荷車のことで、少し聞きたいことがありましてね」
「ああ、六台目のことですか」
「ええ。これから荷が増えるかもしれねえって話なんですが、旦那の方はどうなんです?」
男は束ねた縄を戸口へ置き、辰五郎の方へ身体を向けた。
「どうと言われましてもねえ。そりゃ、納屋を使ってもらえれば借り賃も入りますし、悪いことばかりじゃありませんよ。ただ、最初に約束したのは五台分でしょう」
「そうですね」
「二十日ほど貸すという話で、道の方も使った後は手入れしてもらうことになってます。そこへ今日、また知らない荷車が来たもんですから、正直驚きました」
辰五郎は納屋を見た。
中には予定していた荷が収まっている。六台目の荷は結局降ろさなかったのだから、今のところ約束が破られたわけではない。
「でも旦那、荷が増えりゃ借り賃だって増えるんじゃありませんか?」
何気なく言ったつもりだったが、男の表情が変わった。
「辰さん、借り賃が増えれば何でもいいってわけじゃありませんよ」
「あ、いや、そういうつもりじゃ……」
「うちは別に、荷を預かる商売をしてるわけじゃないんです。使っていなかった納屋を、二十日ほどならと貸しただけなんですから」
男の声は荒くなかったが、辰五郎もすぐには言い返せなかった。
「兄は人がいいから、町のためになるなら貸してやれって言うんですがね。前にも荷を預かって困ったことがあったんですよ」
「ああ、その話なら聞いてます」
「約束の日になっても取りに来なくて、結局こっちで片づける羽目になりましてね。今度はそうならないようにと思って、いろいろ決めてもらったんです」
辰五郎は頭を掻いた。
確かに、荷を預かったまま取りに来なくなれば困るだろう。だが、それでも仕事が増えれば若い衆の稼ぎになる。
今日、勇吉に診てもらった若者のように、休みたくても休めない人間もいるのだ。
「旦那の言うことも分かりますけどね。こっちにも、仕事がなくて困ってる若いのがいるんですよ。荷が増えりゃ、あいつらにも稼ぎができるんです」
「それは分かります」
「だったら、少しくらい荷が増えたって……」
「辰さん」
男は辰五郎の言葉を遮るように、静かに名前を呼んだ。
「そちらの若い衆が困っているのは分かります。でも、うちだってここで暮らしてるんですよ」
辰五郎は口を閉じた。
男は納屋の戸に片手を置き、少し言いにくそうに続けた。
「借り賃をもらってるんだから、何でも我慢しろと言われちゃ困ります。うちにはうちの仕事があるし、家族もいるんですから」
「……そりゃ、そうでしょうけど」
辰五郎の返事には、まだ納得しきれないものが残っていた。
男もそれを感じたのだろう。困った顔をしたが、それ以上責めるようなことは言わなかった。
「別に、清兵衛さんたちが悪いと言ってるんじゃありませんよ。今日だって、六台目の荷は降ろさずに話をしてくれましたからね」
「ええ」
「ただ、これから先も荷が増えるなら、今までと同じ約束じゃ済まなくなるでしょう」
そう言って、男は納屋の前から道を指さした。
「それに、朝はあの道を使う家が多いんです。水を汲みに行く者もいますし、畑へ出る者もいます。今は荷車が来た時だけ気をつければいいんですが、何台も並ぶようになったら、そうもいきませんからね」
辰五郎は道を振り返った。
新しい砂利の先には家が並び、その間から細い道が畑へ続いている。
荷を運ぶために補修した道だと、どこかで思っていた。
だが、あそこはずっと前から、近所の人間が使っている道だった。
「……なるほどねえ」
口ではそう言ったものの、まだ胸のつかえは取れなかった。
仕事が増えれば助かる人間がいる。
しかし、そのために困る人間もいる。
どちらも蕨で暮らしている者同士だ。
「旦那、今日の話は清兵衛さんたちにも伝えときますよ。ただ、俺も若い衆の仕事を増やしてやりてえんで、簡単には諦められねえんです」
男は辰五郎の顔を見てから、ふっと笑った。
「それでいいんじゃありませんか。辰さんは若い衆のことを考えてる。私はうちのことを考えてる。それぞれ事情があるんですから」
「……そういうもんですかねえ」
「そういうもんですよ」
男は頭を下げ、納屋の戸を閉めた。
辰五郎はしばらくその場に立っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「ったく、難しいこと言いやがる……」
誰に聞かせるでもなく呟き、中山道へ向かって歩き始めた。
今日のところは、親分にでも話してみるしかなさそうだった。
*
その夜、辰五郎は親分の家を訪ねた。
蕨宿の表通りから少し離れたところにある古い家で、大きな屋敷というほどではないが、門構えはしっかりしている。庭には松が一本植えられ、辰五郎が子供の頃から変わらず同じ場所に立っていた。
座敷へ通されると、親分は一人で酒を飲んでいた。
五十をとうに越えた大柄な男で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。着物も特別上等なものではなく、膝を崩して座る姿は、知らない者が見れば近所の頑固親父と大して変わらないかもしれない。
ただし、町の人間でこの男を知らない者は少なかった。
人足や職人の世話をし、商売の揉め事に顔を出し、時には役人とも渡り合う。困り事があれば相談に来る者も多いが、できれば関わりたくないと距離を置く者もいる。
町の者は、この男を親分と呼んでいた。
「おう、辰。今日は遅かったな」
「へい。ちょいと話を聞いて回ってまして」
「何かあったのか?」
「いや、それがね……」
辰五郎は親分の前へ腰を下ろし、昼間の出来事を話し始めた。
六台目の荷車が来たこと、今度は浦和からの荷を蕨で別の運び手へ引き継ぎたいという相談だったこと、清兵衛たちはまだ引き受けると決めていないこと。
親分は酒を飲みながら聞いていたが、蕨の人足にも新しい仕事が回る可能性があると知ると、少し興味を示した。
「そりゃ悪い話じゃねえな」
「でしょう? 俺もそう思ったんですよ」
「で、お前は清兵衛に何て言った?」
「ちゃんと頼みましたよ。こっちの若い衆にも仕事を回してもらえねえかって」
「ほう」
親分は辰五郎の顔を眺めた。
「……お前が?」
「何です、その顔は」
「いや、珍しいこともあるもんだと思ってな」
「俺だって、いつも怒鳴ってるわけじゃありませんよ」
「そうかい」
親分は笑いを堪えるように酒器へ口をつけた。
辰五郎は面白くなかったが、今日は言い返さなかった。権蔵からも釘を刺されていたし、清兵衛たちが思った以上にきちんと話を聞いてくれたのも事実だった。
「それで、仕事は決まったのか?」
「いえ、まだです。銭のことやら、荷を壊した時の責任やら、いろいろ決めなきゃならねえそうで」
「そりゃそうだろ」
「それに、柿の木の家の弟にも話を聞いたんですがね……」
辰五郎はそこで言葉を濁した。
親分は何も言わず、酒器を傾けている。
「……親分、聞いてます?」
「聞いてるよ。続けろ」
辰五郎は昼間のやり取りを思い出しながら、納屋を貸す側にも事情があるという話をした。
最初の五台分だけを預かる約束だったこと、以前、荷を引き取ってもらえず困ったことがあること、荷車が増えれば道を使う近所の家にも迷惑が掛かるかもしれないこと。
親分は途中で口を挟まずに聞いていたが、柿の木の家の弟が借り賃の話に腹を立てたと聞くと、とうとう笑い出した。
「お前、あいつに借り賃が増えるからいいだろうって言ったのか?」
「……まあ、そんなようなことを」
「馬鹿野郎。そりゃ怒るに決まってるだろ」
「そんなにおかしいですかい?」
「おかしいに決まってる。あそこの弟は、前に荷を預かって散々な目に遭ってるんだぞ」
「それは聞いてますよ」
「だったら、銭の話より先に、何が心配なのか聞いてやりゃよかったんだ」
辰五郎は口を尖らせた。
「でも親分、俺だって若い衆の仕事を増やしてやりてえんですよ。荷が増えなきゃ、仕事だって増えねえでしょう」
「そりゃそうだ」
「だったら、少しくらい我慢してもらうこともあるんじゃありませんかね」
親分は酒器を置いた。
「……辰」
「へい」
「あの道の角に、婆さんが住んでる家があるだろ」
「ええ」
「昔から一人で住んでる、足の弱い婆さんだよ。知ってるな?」
「もちろんですよ。何度か顔も合わせてますし」
「ああ。あそこの娘が、毎朝手伝いに来てるんだがな」
辰五郎はその家を思い浮かべた。
小さな家で、年寄りの女が一人暮らしをしている。何年か前から娘が通ってきて、家のことを手伝っていた。
「朝になると、娘が道の先の井戸まで水を汲みに行くだろ。お前も見たことあるんじゃねえか?」
「へい。桶を担いで歩いてますね」
「そこへ荷車が何台も並んで、道を塞いじまったらどうする?」
「そりゃ……ちょっと待ってもらえば」
「毎朝か?」
辰五郎は口を閉じた。
親分は別に怒っているわけではない。
いつものように酒器を手にしたまま、辰五郎の返事を待っている。
「荷を運ぶ奴にも都合がある。あの家の者にも都合がある。どっちかが毎日我慢するってんじゃ、長続きしねえだろ」
「……そうですね」
「清兵衛たちは、ちゃんと話をつけて道を直したんだろ?」
「へい」
「だったら、荷が増える時も同じことをすりゃいい。今度は道を使う時間だって考えなきゃならねえだろうがな」
辰五郎はしばらく考えていたが、やがて顔を上げた。
「でも、それで商売にならなかったらどうするんです?」
「そりゃ清兵衛が考えるこった」
「……親分、そりゃ無責任じゃありませんかい?」
「何だと?」
親分の眉が動いたので、辰五郎は慌てて手を振った。
「いや、そういう意味じゃなくてですね!」
「じゃあ、どういう意味だ」
「俺ぁ、てっきり親分なら何かいい考えがあるんじゃねえかと思って……」
親分はしばらく辰五郎を眺めていたが、やがて吹き出した。
「お前、俺が何でも知ってると思ってんのか?」
「いや、まあ……」
「荷の商売なんぞ、清兵衛の方がよっぽど詳しいだろうが。俺に聞かれても、銭の計算なんざ分からねえよ」
「……そういうもんですかねえ」
「そういうもんだ」
親分は何でもないことのように答えると、酒を注ぎ足した。
辰五郎は納得したような、していないような顔で座っていた。
親分はそんな様子を眺めながら、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「で、お前はどうしたいんだ?」
「へ?」
「若い衆に仕事を増やしてやりてえんだろ?」
「そりゃ、そうです」
「だったら、その話を清兵衛にしてこいよ」
「でも、旦那の方は……」
「そっちの話も一緒にしてやりゃいいじゃねえか」
辰五郎は口を閉じた。
親分はそれ以上何も言わず、酒器を傾けている。庭では松の枝が風に揺れ、障子の隙間から夜の冷たい空気が入ってきた。
辰五郎には、まだ答えが出せなかった。
若い衆に仕事を増やしてやりたいし、柿の木の家も困らせたくない。だが、どちらも一度にうまくいく方法など、自分には思いつかない。
「……親分」
「何だ?」
「俺が話したところで、清兵衛さんたちがうまくやってくれるとは限らねえでしょう」
「当たり前だ」
「だったら……」
「だから、話してみろって言ってんだよ」
親分は笑った。
「お前が全部決める必要なんざねえ。お前が知ってることを、知らねえ奴に教えてやりゃいいんだ」
辰五郎は何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。
清兵衛たちは、柿の木の家の弟がどんなことを心配しているのか、まだ詳しくは聞いていないかもしれない。
自分は今日、その話を聞いてきた。
だったら、それを伝えることくらいはできる。
「……分かりましたよ」
辰五郎がようやく答えると、親分は嬉しそうに笑った。
「何だ、今日は随分素直じゃねえか」
「親分が散々言うからでしょうが」
「馬鹿野郎。俺は何も決めちゃいねえよ」
辰五郎は頭を掻いた。
確かに、親分は一度も、こうしろと命じていない。
それなのに、どうやら明日はまた納屋へ行くことになりそうだった。
*
「そういや、岡田さんも似たようなこと言ってましたよ」
辰五郎が思い出したように口を開いた。
「昔からの宿場の仕事もあるし、勝手なことはできねえって」
「加兵衛が?」
「へい」
親分は酒器を置き、庭へ目を向けた。
「……あいつらしいな」
辰五郎は意外そうに親分を見た。
親分と岡田家の当主は、昔から何かと意見が合わない。商売のことでも町のことでも、二人が簡単に同じ考えになることは少なかった。
「親分、岡田さんとは仲が悪いんじゃありませんでしたっけ?」
「誰がそんなこと言った」
「いや、いつも顔合わせると、ろくに口も利かねえじゃありませんか」
「仲良くする必要がどこにある」
親分は何でもないことのように答えた。
「向こうが約束を守ってりゃ、それで十分だ」
「……そういうもんですかい?」
「そういうもんだ」
親分は酒器を傾けたが、ふと思い出したように口を開いた。
「もっとも、あいつは昔から細けえことにうるせえ男だからな」
「親分がそれ言いますかい」
「何だと?」
「いや、何でもありません」
辰五郎は慌てて首を振った。
親分はしばらく睨むような顔をしていたが、やがて吹き出した。
「お前も、だんだん口が達者になってきたな」
「親分の真似してるんですよ」
「馬鹿野郎。俺はお前ほど余計なこと言わねえよ」
辰五郎は返事をしなかった。
ここで何か言えば、また話が長くなるのが分かっていたからだ。
それでも、親分の機嫌が悪くないことは、長年の付き合いでよく分かっていた。
「そういや、今日は勇吉にも会いましてね」
辰五郎が話題を変えたのは、親分が酒を注ぎ足した時だった。
「勇吉?」
「へい。うちの若いのが手ぇ痛めてたんですが、あいつが診てくれましてね。今日は休ませろって言うんで、もう帰したんですよ」
親分は酒器を口へ運びかけたまま、辰五郎を見た。
「誰だ、怪我したのは」
「この前、親父が身体悪くしたって話した若いのですよ」
「ああ、あの家の倅か」
「へい。あいつ、親父の代わりに働こうとして、無理ばっかするんで困ってまして」
「それで、勇吉が診てやったのか」
「そうなんですよ。ただ、あいつの言い方がまた変でしてね」
辰五郎は昼間の出来事を思い出しながら、勇吉に散々言い返されたことを話した。
自分がいくら休めと言っても聞かなかった若者が、勇吉に手を診てもらうと素直に言うことを聞いたこと。勇吉は何かと余計な一言を挟んできたが、若者の手を無理に動かさず、悪くしないよう注意してくれたこと。
親分は途中で口を挟まず、時折酒を飲みながら聞いていた。
「いやあ、妙な野郎ですねえ。昔からあんな調子なんですかい?」
「昔からだ」
親分の口元が、ほんの少し緩んだ。
「でしょうねえ。俺ぁあいつと話してると、どうにも調子が狂うんですよ」
「お前とは相性がいいんじゃねえか」
「冗談じゃありませんよ。あんなのと毎日顔合わせてたら、こっちが疲れちまう」
辰五郎がそう言うと、親分は声を立てて笑った。
「そりゃ面白えな」
「親分は笑い事でしょうけどね」
辰五郎は少し口を尖らせたが、親分が勇吉の話を楽しそうに聞いているのを見ると、それ以上文句を言う気にもならなかった。
「……親分、勇吉とは随分長い付き合いなんですかい?」
「まあな」
「だったら、今度会った時に何か言っといてくださいよ。人がせっかく礼を言ってんのに、また余計なこと返してきやがって」
「礼を言ったのか?」
「言いましたよ。助けてもらったんですから」
親分は辰五郎を見て、少し嬉しそうに笑った。
「そりゃ結構なこった」
「何がです?」
「お前も、たまにはちゃんと礼を言えるんだな」
「親分!」
座敷に笑い声が響いた。
辰五郎は不満そうな顔をしていたが、そのうち自分でも笑い出してしまった。
親分が勇吉をどう思っているのか、結局はよく分からない。
ただ、勇吉の話になると親分の機嫌が少しよくなることだけは分かった。
*
翌朝、辰五郎は再び納屋を訪ねた。
清兵衛はすでに来ており、敬之助と一緒に帳面を確かめていた。加兵衛も少し離れたところで人足に声を掛けている。
「おう、辰五郎。今日は早いな」
清兵衛が顔を上げると、辰五郎は頭を掻いた。
「いや、昨日の話で、ちょいと伝え忘れたことがありましてね」
「何だ?」
「柿の木の家の弟から聞いたんですが、これから荷車が増えるようなら、道を使う時間も考えてほしいってんですよ」
清兵衛は眉を動かした。
「時間?」
「ええ。朝は近所の家の者が道を使うんで、荷車が何台も並ぶようじゃ困るそうで」
敬之助が書付から顔を上げた。
「なるほど。それは確かに考えなければなりませんね」
「今の五台分について文句があるわけじゃねえそうです。ただ、これから先も荷が増えるなら、もう一度ちゃんと話をしてほしいって」
清兵衛は、その言葉を最後まで聞いてから答えた。
「分かった。こっちも勝手に荷を増やすつもりはないよ。今後の話をする時には、道のことも一緒に相談しよう」
「お願いします」
辰五郎が頭を下げると、話を聞いていた加兵衛が近づいてきた。
「何だ、辰五郎。今日は随分おとなしいな」
「……岡田さんまで、それ言うんですかい」
「いや、悪い意味じゃないぞ。昨日から、ちゃんと話を聞いてくれるんで助かるよ」
加兵衛の笑い方がどうにも信用できず、辰五郎は顔をしかめた。
「俺だって、いつも怒鳴ってるわけじゃありませんよ」
「分かってる、分かってる」
「絶対、分かってませんよね?」
清兵衛まで笑い出したので、辰五郎はますます面白くなかった。
もっとも、肝心の話はきちんと伝わったらしい。敬之助は手元の書付に、荷車を通す時間と近隣の家々への確認について書き加えていた。
条件は一つ増えたが、それで商売ができなくなると決まったわけではない。
「ところで辰、昨日の若いのはどうだ?」
清兵衛に尋ねられ、辰五郎は少し驚いた。
「昨日の若いの?」
「手ぇ痛めた奴だよ。勇吉が診てやったんだろ」
「ああ、あいつですか。今日は休ませてますよ。もっとも、本人は仕事に出たがってましたけどね」
「そうか。無理させるなよ」
「へい」
辰五郎は返事をしながら、清兵衛と加兵衛の顔を見た。
自分たちの話を聞く気がない相手ではない。
ならば、最初から喧嘩腰になる必要もなかったのだろう。
「……清兵衛さん」
「何だ?」
「今度、人手が必要になったら、先に声を掛けてくださいよ。使える若いのは揃ってますから」
「その時は頼むよ」
「へい。よろしくお願いします」
辰五郎は頭を下げ、今度こそ納屋を後にした。
何も決まっていないのは昨日と同じだったが、来た時よりは少し気分が軽くなっていた。
*
それから二日後、浦和の商家では朝から帳面を広げる音がしていた。
五十を過ぎた主人が、番頭から最近の荷の動きについて報告を受けている。
この家では長年、周辺の商人から荷を預かり、行き先ごとに運び手を手配してきた。人と馬を使う商売は、荷の数だけでなく、誰に頼めるかによって大きく変わる。
主人は帳面の数字に細かい男だった。
人足へ支払う銭が一文違っていても見逃さず、逆に帳面に間違いがなければ、若い者が多少の失敗をしてもあまり怒らない。
そんな主人が、番頭の持ってきた話に手を止めた。
「……蕨で荷を引き継ぐ?」
「ええ。まだ正式には決まっていないようですが」
「どこで聞いた?」
「先日、蕨へ荷車を出したところの御者からです。今朝、馬を預けに来た者と話していたところを聞きまして」
「ほう」
主人は帳面を閉じた。
浦和から蕨へ荷を運んだ御者は、翌朝には荷を積んだまま戻ってきたらしい。蕨で受け取ってもらえなかったのではなく、話し合いがまとまるまで荷を降ろさなかったという。
「それで、向こうで荷を扱ってるのは誰だ?」
「清兵衛という商人です。それに、蕨宿の岡田加兵衛も関わっているとか」
「岡田か……」
主人はしばらく考え込んだ。
岡田家の名前なら知っている。蕨宿の本陣や問屋を務めてきた家で、宿場の仕事にも詳しい。
「あそこが関わってるなら、単に空いた納屋を貸してるだけじゃなさそうだな」
「そうでしょうか」
「加兵衛は古い付き合いの連中も多い。新しい仕事を始めるにしても、そう簡単に動く男じゃねえよ」
主人はそう言いながら別の帳面を引き寄せ、頁をめくっていたが、以前の取引を記したところで指を止めた。
「川口の方から荷を運ぶ者を呼ぶって話だったな」
「ええ。そう聞いています」
「なら、こいつかもしれねえ」
「どなたです?」
「川口で荷を扱ってる男だ。うちも何度か頼んだことがある」
番頭は帳面を覗き込んだ。
「では、その方が蕨の仕事を引き受けるのでしょうか?」
「さあな。ただ、川口から荷を運ぶとなりゃ、声が掛かってもおかしくねえ」
荷を蕨で引き継げれば、浦和から先まで運ぶ必要がなくなる。人も馬も長く使わずに済むのは確かに便利だ。
しかし、その分、今まで自分たちが扱ってきた仕事が減るかもしれない。
商売人にとって、便利になることと、自分の儲けが増えることは必ずしも同じではなかった。
「……旦那、どうなさいます?」
番頭が尋ねると、主人は帳面を閉じた。
「川口の男へ、使いを出してくれ」
「川口へですか?」
「ああ。一度、話を聞きたいとな」
「蕨の荷のことで?」
「そうだ」
番頭は少し迷った。
「しかし旦那、蕨の商人が話を進めているところへ、こちらから声を掛けてもよろしいんでしょうか」
主人は笑った。
「何を遠慮することがある。まだ何も決まっちゃいねえんだろ」
「それはそうですが……」
「向こうが商売するなら、こっちだって商売する。それだけの話だ」
主人は閉じた帳面を軽く叩いた。
「それにな、川口の連中が蕨から先を運ぶってんなら、うちで扱ってる荷だって頼めるかもしれねえ。向こうの話を聞かずに決めつけるのは損だろ」
番頭はようやく納得したようだった。
「では、何と伝えましょう」
「近いうちに浦和へ寄ってほしい。新しい荷の仕事について相談したい、とだけ言えばいい」
「運び賃のことは?」
「まだするな。向こうが何を考えてるかも分からねえうちに、こっちから銭の話をする必要はない」
「承知しました」
番頭が書付を用意し始めると、主人はもう一度帳面を開いた。
「それと、蕨の連中の悪口なんぞ言うなよ」
「もちろんです」
「向こうが何をしようが、うちはうちの商売を考えりゃいい。余計な敵を作るこたぁねえからな」
そう言って、主人は再び数字を確かめ始めた。
番頭が部屋を出ていっても、帳面をめくる手は止まらなかった。
*
その日の昼過ぎ、浦和からの使いが川口へ着いた。
中山道から少し入ったところにある荷扱いの店では、男たちが俵や木箱を運び、店先では馬が飼葉を食んでいた。
使いの男が主人を訪ねると、奥から四十ほどの男が出てきた。
日に焼けた顔に使い込まれた着物。腰には短い帳面を挟んでいる。荷を運ぶ仕事を長くしてきたらしく、男たちが声を掛けるたびに、手を止めずに指示を返していた。
「浦和から?」
「へい。主人から書付を預かってまいりました」
男は書付を受け取り、その場で目を通した。
「……新しい荷の仕事について相談したい、か」
「ええ。近いうちに一度、浦和へお越しいただければと」
「随分急な話だな」
「申し訳ありません。ただ、主人がどうしても一度お話を伺いたいと……」
男は返事をせず、書付をもう一度読み返した。
その様子を見て、使いは落ち着かなくなった。
「何か、ご都合が悪いでしょうか」
「いや、そういうわけじゃねえ。ただな、こっちにも最近、似たような噂が入ってきてんだよ」
「噂、ですか?」
「ああ。蕨で荷を預かって、別の運び手へ引き継ぐって話だ」
使いは思わず顔を上げた。
「それは、もしかして……」
「お宅の旦那が気にしてる話と同じじゃねえのか?」
男は何でもないことのように言った。
使いが驚いた顔をすると、男は少し笑った。
「荷を運ぶ連中の話は早えんだよ。もっとも、正式に仕事を頼まれたわけじゃねえ。どこまで本当かも、まだ分からん」
「……そうでしたか」
「で、お宅の旦那は、その話をどうしたいんだ?」
「それは、直接お会いしてから相談したいと申しておりまして」
男は書付を畳み、懐へ収めた。
浦和には昔からの取引先があるし、蕨で荷の引き継ぎが始まるなら、仕事が増える可能性もある。
しかし、誰の荷を、どこで受け取り、いくらで運ぶのか。そこが決まらなければ、引き受けるも何もなかった。
「……分かった。明日、浦和へ顔を出すと伝えてくれ」
「ありがとうございます!」
「礼はまだ早えよ。話を聞くだけだ」
「もちろんです」
使いはもう一度頭を下げ、店を後にした。
男はその背中を見送ってから、懐の書付を取り出した。
浦和の商人から、わざわざ使いを寄越してきた。
どうやら蕨で始まろうとしている仕事を、向こうも気にしているらしい。
「……面白えことになってきたな」
男はそう呟くと、店の奥にいた若い衆を呼んだ。
「おい、明日の朝、浦和へ行くぞ。俺が戻るまでの荷は、お前らで段取りしとけ」
「へい。何かあったんですかい?」
「商売の話だ」
男は笑いながら、帳面を腰へ差し込んだ。
「ただし、まだ引き受けるとは決めてねえぞ」
若い衆が頷くと、男は再び店先の荷へ目を向けた。
蕨で荷を引き継ぐという話は、まだ噂の域を出ていない。正式な依頼もなければ、運び賃の取り決めもない。
それでも、浦和の商人が自分を呼んでいる。
明日は、その話を聞きに行くつもりだった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
『蕨で荷を扱おうとしている清兵衛という男は、浦和の商人が自分に声を掛けたことを知っているのだろうか。』
男は少し考えたが、今は確かめようがなかった。
とりあえず明日、浦和で話を聞いてから考えればよい。
そう決めると、男は再び荷の数を確かめ始めた。
***




