第三十六話 六台目の荷車
夜の間に降り続いた雨は、夜明け前には上がっていた。
中山道にはまだ水溜まりが残り、行き交う人々は泥を避けながら歩いている。軒先から時折落ちる雨の名残が地面を濡らしていたが、東の空は少しずつ明るくなり、雲の切れ間から薄い日差しが差し始めていた。
そんな朝、勇吉は柿の木の家へ続く細い道の前で、早くも帰りたくなっていた。
「……清さん」
「何だ?」
「これ、昨日よりひどくなってねえか?」
清兵衛は返事をする代わりに、足元へ目を向けた。
昨日、荷車がはまった轍には黒く濁った水が溜まり、道の端へ寄ろうとすると草履の裏に泥がまとわりつく。表面だけなら乾き始めているところもあったが、踏み込むと柔らかな土が沈み、足を抜いた跡にはじわりと水が滲んできた。
「ひどくなってるな」
「だろ? じゃあ帰ろうぜ」
「何でそうなるんだよ」
「見に来たんだろ? 見たじゃねえか」
もっともらしく言う勇吉を、清兵衛は呆れた顔で見た。
「お前、まだ何もしてねえぞ」
「だからいいんだよ。昨日は見るだけのつもりが、最後には荷車まで押してたんだからな」
「今日は押す荷車もねえだろ」
「今はな」
勇吉は念を押すように答え、もう一度泥道を見渡した。
少し離れたところでは、榊原敬之助が轍の深さや周囲の土地の様子を確かめている。道の端を慎重に歩いていたが、草履が泥に取られたところで立ち止まり、足元をじっと眺め始めた。
「敬さん、どうだ?」
「なかなか立派な轍ですね」
「褒めるところじゃねえだろ」
「褒めてはいませんよ」
「じゃあ何なんだよ」
「見たままを申し上げただけです」
勇吉が清兵衛を振り返ると、当の清兵衛は道の先を見つめ、何やら考え込んでいる。
この二人と朝から一緒にいると、どうにも疲れる。しかも、まだ朝飯を食ったばかりだというのに。
そこへ、柿の木の家の弟が隣地の持ち主を伴ってやってきた。
「お待たせしました。昨日のお話のことですが」
清兵衛は二人に頭を下げ、雨で傷んだ道を示した。
「ご覧のとおりです。このまま荷車を通せば、また車輪を取られるでしょう。少し手を入れなければ、使うのは難しそうです」
隣地の持ち主は轍を覗き込み、苦い顔をした。
「だから言ったでしょう。雨が降るとこうなるんですよ。前にも荷車がはまって、えらい騒ぎになりましてね」
「この道は、ほかの家の方も使っているんですよね」
敬之助が尋ねると、男は頷いた。
「ええ。荷車が通らなくても、人は毎日行き来します。勝手に石を積まれたり、道を掘られたりすると困るんです」
「それはそうでしょうね」
清兵衛は相手の話を遮らずに聞いてから、あらためて事情を説明した。
五台分の荷を二十日ほど預かること。そのためには柿の木の家の納屋が必要で、どうしてもこの道を使わせてもらいたいこと。ただし、道を傷めたままにするつもりはなく、補修の方法や費用についても、土地を使う人々と相談したうえで決めたいこと。
隣地の持ち主は腕を組んで聞いていたが、清兵衛が話し終えても、すぐには返事をしなかった。
「二十日だけなら、まあ……」
そう言いかけたところで、家の弟が口を挟んだ。
「清兵衛さん、うちの小屋の方も、まだ承知したわけじゃありませんからね」
「ええ、分かっています」
「兄は人がいいから、貸してやればいいと言うんですが、前に荷を置かせた時は大変だったんですよ。約束の日になっても引き取りに来なくて、結局こっちで片づける羽目になりましてね」
昨日も聞いた話だったが、弟にとっては、それだけ苦い経験なのだろう。清兵衛は急かすことなく最後まで聞き、敬之助へ目を向けた。
「その点は、書付ではっきりさせるつもりです。預かる荷の数と期間、借り賃、荷を引き取る日。それから、約束の日を過ぎた場合にどうするかも決めておきます」
敬之助が持っていた紙を広げると、弟は少し驚いたように身を乗り出した。
「もう書いてあるんですか?」
「まだ下書きですが。ご心配な点があれば、今のうちに加えましょう」
弟は紙へ目を落とし、しばらく考え込んだ。昨日は口約束だけで済まされるのではないかと心配していたが、細かな取り決めまで書かれていると分かり、少しは安心したらしい。
その間に清兵衛は、朝のうちに呼んでいた権蔵へ声を掛けた。
「権蔵、道の方はどうだ?」
権蔵は少し先でしゃがみ込み、轍の底に溜まった水を木切れで掻き出していた。立ち上がると、泥のついた手を軽く払い、道の先を指した。
「全部直すとなりゃ大仕事だ。だが、二十日ほど荷車を通すだけなら、やりようはある」
まず水を逃がし、ぬかるんだ部分に硬い土や砂利を入れて踏み固める。深いところには木を使うことになるかもしれないが、雨が続けば、また手を入れなければならないという。
「何日ぐらい掛かる?」
「人手を集めて、天気が持てば二日ほどで最低限は何とかなるかもしれん。ただ、荷を積んだ車が本当に通れるかは、やってみなきゃ分からねえぞ」
「そうか」
「それと、道の端まで勝手にいじるわけにはいかねえからな」
権蔵の言葉に、隣地の持ち主が頷いた。
「そこなんですよ。ほかの家の者も通りますからね。私一人がいいと言ったって、後で文句を言われちゃ困る」
「でしたら、今日のうちに皆さんへ話を通しましょう」
清兵衛が答えると、男は少し考えてから頷いた。
「私からも声を掛けてみますよ。ただし、道を直すなら、使い終わった後のことまで決めておいてください」
「もちろんです」
敬之助はそのやり取りを聞きながら、書付の余白に新しい条件を書き加えていた。
勇吉は少し離れたところで話を聞いていたが、清兵衛がようやく一息ついたところで口を開いた。
「なあ、清さん」
「何だ?」
「俺たち、最初は小屋を探してただけだよな?」
「ああ」
「何で道を直す話になってんだ?」
清兵衛は一瞬、返す言葉を失った。
横にいた敬之助が、口元に手を当てている。
「勇吉さん、それは私も少し不思議に思っています」
「敬さんまでそう思うだろ?」
「ただ、荷を運ぶには道が必要ですからね」
「分かってるよ。分かってるけどさ」
勇吉は草履の裏についた泥を落としながら、もう一度轍を眺めた。
「次は橋でも架けるって言い出すんじゃねえだろうな」
「そこまでは考えてねえよ」
「今は、だろ?」
清兵衛は何も答えなかった。
「おい、清さん!」
とうとう敬之助が堪えきれずに笑い出した。
*
昼過ぎには、加兵衛の帳面の周りに人が集まっていた。
柿の木の家を借りる費用、道の手入れに必要な人手と材料、荷の出し入れ、それに八人の宿泊。確認することは多かったが、最初の二台を預かった時と違い、誰が何を調べるのかはすでに決まっている。
加兵衛は権蔵から聞いた補修の見込みを帳面に書き加え、数字を見直してから眉をひそめた。
「思ったより掛かるな」
「だろうな」
「道の方にこれだけ使うと、荷を預かる金だけじゃ大して残らねえぞ」
「全部こっちで持てばな」
清兵衛の返事に、加兵衛は顔を上げた。
「相手にも負担してもらうつもりか?」
「荷を運び込むために必要な仕事だ。そこは話し合うしかねえだろ」
「向こうが嫌だと言ったら?」
「その時は断ることも考えなきゃならん」
あっさりした返事だった。
加兵衛はしばらく清兵衛の顔を見ていたが、やがて頷き、帳面を引き寄せた。
「なら、こっちの条件ははっきりさせといた方がいいな。後から金が掛かったって騒いでも、どうにもならねえ」
「ああ。補修にどこまで掛けるか、先に決めておこう」
敬之助も二人のやり取りを聞きながら、午前中に書き加えた内容を整理していた。
「道の補修については、見込みを超える場合の扱いも決めておいた方がいいでしょう。雨で再び傷めば、追加の手間が掛かるかもしれません」
「そうだな。無理に荷車を通して、荷を傷めるわけにもいかねえ」
清兵衛は頷き、今度は宗助へ向き直った。
「八人の泊まりはどうだ?」
「そっちは何とかなりそうだ。ただ、全員を同じところへ泊めるのは難しいな」
宗助は朝から旅籠を回っていたらしく、どの家に何人泊められるか、食事をどうするかまで確かめていた。
「三人と五人に分ければ受け入れてくれるところがある。飯も頼めるが、来る日だけは早めに知らせてもらわねえと困るぞ」
「まだ到着の日は決まってないんだ」
「だったら、決まったらすぐ知らせてくれ。八人も来るとなりゃ、向こうにも支度がある」
「分かった」
荷を受け入れるには、置き場所だけでなく、人の寝床や食事まで考えなければならない。最初の荷が来た時は、宗助があちこちの旅籠へ駆け回っていたが、今度は先に人数を確かめ、泊まる場所を押さえる段取りになっている。
権蔵の方も、納屋の中を見て考えてきたらしい。
「荷は奥から入れた方がいいな。出す順番が分かってるものは、手前に置く。俵の上に重い木箱なんか積まれちゃ困るから、その辺も最初に言っとかねえと」
加兵衛は帳面から顔を上げた。
「お前、そこまで考えてたのか」
「荷を運ぶ奴が困らねえようにしとくのが先だろ。置く場所が決まってなきゃ、運び込んでから右往左往することになる」
「そりゃそうだな」
「急いで運んで荷を壊したら、何のために預かってるか分からねえからな」
権蔵はそう言って、納屋の入口から奥へ荷を運ぶ順番を説明した。
清兵衛は黙って聞いていた。
最初の二台が来た時には、誰もが何をすればいいのか分からず、自分があちこちへ声を掛けていた。それが今では、加兵衛は金と荷を数え、宗助は人の寝床を探し、権蔵は荷を運ぶ段取りを考えている。
まだ始まったばかりの仕事なのに、少しずつ形ができ始めていた。
「で、勇吉は?」
宗助が何気なく尋ねた。
「勇吉?」
「あいつ、今日も来るんじゃなかったのか?」
「昼までだって言ってただろ。ちゃんと帰してやったよ」
「珍しいな」
「お前まで何だよ」
加兵衛は帳面をめくりながら、口元を緩めた。
「でも、また来るだろ」
「何で分かる?」
「気になると、自分で見に来るからな」
清兵衛は否定しなかった。
その頃、勇吉はすでに仕事場へ戻り、腰を痛めた男の身体を見ていた。
朝から泥道を歩かされたことも、清兵衛たちが荷の計算をしていることも、目の前の男には関係がない。前へ身体を倒す時の痛み方や、立ち上がる時の癖を確かめながら、勇吉はいつもの仕事に戻っていた。
*
夕方までに、柿の木の家の兄弟と隣地の持ち主、それに道を使う家々との話もまとまった。
納屋は二十日ほど貸すこと。ただし、預かった荷は約束の日までに必ず片づけ、残された荷があれば清兵衛たちが責任を持って対処すること。
道については、ほかの家の通行を妨げず、傷めた場合は清兵衛たちが手入れをすること。補修も、土地の持ち主たちが了承した範囲に限ることになった。
柿の木の家の弟は、敬之助が整えた書付を何度も読み返していたが、最後には兄の顔を見て頷いた。
「これなら、まあ……」
兄はほっとしたように笑った。
「清兵衛さん、よろしく頼みますよ」
「こちらこそ。ご迷惑をお掛けしないようにします」
ただし、これで荷車が安全に通れると決まったわけではない。
権蔵たちが道を手入れし、実際に空の荷車で通行を確かめること。荷を積んだ車を通すのは、それからという約束だった。
清兵衛たちは、その条件を持って荷主側との交渉に臨んだ。
相手が最も気にしたのは、やはり費用だった。
「荷を預けるだけのつもりだったんですがね。道の手入れまで必要となると……」
「こちらとしても、預かるために必要な費用をすべて負担するわけにはいきません」
清兵衛は落ち着いた声で答えた。
「ただ、道が傷んだままでは荷車を通せませんし、無理に運んで荷を傷めるわけにもいきません。先に必要な費用を決め、そこを超えるようなら改めて相談する。それでいかがでしょう」
加兵衛がまとめた帳面には、補修に掛けられる費用の上限と、それぞれが負担する分が分かるように記されていた。
相手は敬之助の書付と見比べながら、しばらく考え込んだ。
清兵衛は返事を急がせなかった。
無理な約束をしてまで仕事を引き受けても、後で困るのは自分たちだけではない。荷を預ける相手も同じなのだ。
やがて、相手が口を開いた。
「……分かりました。その条件でお願いしましょう。ただし、荷車を送るのは道の具合を確かめてからにしてください」
「もちろんです。準備が整い次第、こちらからお知らせします」
話がまとまったのは、日が傾き始めた頃だった。
五台分の荷を、およそ二十日間預かることが決まった。
加兵衛は帳面を閉じながら、深く息を吐いた。
「ようやく決まったな」
「ああ」
「けど、これからだぞ」
「分かってるよ」
「本当に分かってんのか?」
「お前まで勇吉みてえなこと言うなよ」
加兵衛は苦笑し、今度は納屋を使う日までに何を済ませるか、帳面を開いて確かめ始めた。
「勇吉なら、ここまで聞いたら帰るって言いそうだな」
「言うだろうな」
書付をまとめていた敬之助も、二人の会話に口元を緩めた。
荷を預かる場所は決まり、通る道についても話がまとまった。だが、まだ荷は一つも入っておらず、道の補修もこれから始まる。
清兵衛は夕暮れの道を見ながら、ようやく最初の約束を取りつけたのだと実感していた。
*
それから二日、勇吉には何の声も掛からなかった。
朝になれば仕事を始め、昼には飯を食い、午後になればまた誰かの肩や腰に触れる。足首を痛めた男が来れば、長い道中で腰を悪くした旅人も来る。身体の方は放っておいても次から次へと何か起こるのに、あれだけ納屋を見回していた敬之助は姿を見せず、加兵衛も何も言ってこなかった。
清兵衛と道で会った時だけ、少し気になった。
「おう、清さん。何かあった?」
「別に」
それだけ言って、清兵衛は行ってしまった。
何だよ。聞いた自分が馬鹿みたいじゃないか。
まあいい。何もないなら、それが一番いい。
実際には、その二日の間に権蔵たちが道へ手を入れ、荷車の通るところを固めていた。柿の木の家の兄弟も納屋の片づけに協力し、敬之助は書付を確認しながら、加兵衛とともに荷の置き場所を決めている。
道の手入れが終わると、権蔵は空の荷車を何度か通して具合を確かめ、荷を積んだ車が通る際には、人を付けて車輪の様子を見ることにした。
宗助は八人の宿泊先を回り、荷車の到着する日が決まったことを伝えていた。食事の支度も必要になるため、旅籠の主人たちとは何度も話をしている。
勇吉には何も頼まれなかった。
三日目の朝には納屋のことなどほとんど忘れ、いつも通り仕事を始めていた。
最初に来たのは膝を痛めている男で、その次は首の動きが悪い女だった。二人目を終えて表へ出ると、中山道を馬が一頭通っていく。
いつもの景色だった。
旅人が歩き、荷を背負った男がその脇を抜け、少し離れて荷車の車輪が土を踏む音がする。宿場なのだから、人も荷も毎日ここを通る。
勇吉がそのまま中へ戻ろうとしたところへ、向こうから加兵衛がやってきた。
「勇吉、今、手空いてるか」
「見ても分からないと思うけど、空いてない」
「まだ何も言ってねえだろ」
「その台詞、もう聞き飽きたよ」
いつもなら何か返してくる加兵衛が、そのまま柿の木の家の方へ顎を向けた。
「榊原さんが来てる」
「何かあった?」
「今日、荷が来るんだよ」
「……あの納屋に?」
「そうだ」
「あ、本当に来るんだ」
「何だと思ってたんだよ」
「いや、清さんたちが何も言ってこねえからさ」
「お前、仕事あるんだろ。邪魔しちゃ悪いと思ってな」
「そういう時だけ気が利くんだな」
「どういう意味だよ」
加兵衛は笑いながら歩き出した。
「俺は先に行くぞ。暇になったら見に来りゃいい」
「今、仕事中」
「分かったって」
それ以上誘わず、加兵衛は柿の木の家の方へ歩いていった。
勇吉も仕事場へ戻り、使った布を畳んだ。
本当に使うんだ。
最初の二台を預かった古い納屋とは別に、あの柿の木の家まで使うことになったとは聞いていたし、清兵衛たちが何日も準備していたのだから、いずれ荷が来ることも分かっていた。それでも、実際に荷が運び込まれるとなれば少し見てみたい。
幸い、次の客が来るのは夕方だった。午前の仕事は終わっているし、納屋を覗いて戻るくらいなら十分に時間がある。
水を飲んでいると、外から荷車の音が聞こえた。
一台。
少しして、また車輪が土を踏んでいく。
別に珍しくない。
そう思いながら入口へ目をやると、さっきとは別の荷車が通っていった。どちらも同じ方へ向かっている。
「……なんか多くねえか?」
もう一台、車輪の音が近づいてきた。
勇吉は入口から通りを覗いた。
三台目も同じ方だった。
「……ちょっとだけ見るか」
草履を履き、柿の木の家へ向かって歩き出した。
別に急ぐ必要はない。荷が置かれるところを見たら、すぐ戻ればいい。
そう思っていたのに、家の屋根と柿の木が見えてきたところで、自然と歩みが速くなった。
*
「おや? 来たんですか」
敬之助が先に気づいた。
「来たよ。荷が来るって聞いたから」
「ずいぶん素直ですね」
「何だよ。来ちゃ悪いのかよ?」
「いえ。あの雨の日より話が早くなったなと思いまして」
「見るだけだからな」
「それも前に聞きました」
「うるせえな」
敬之助は少し笑い、手にした書付を畳んだ。
その向こうでは、もう荷が下ろされていた。
数日前まで古い俵と道具が積まれていた納屋の入口を男たちが行き来し、新しい俵が奥へ運び込まれていく。土の床には車輪から落ちた泥が付き、さっきまで外にいた馬の匂いまで残っていた。
納屋の中には、荷を置く場所が分かるように目印が付けられている。
権蔵は入口に立ち、荷が運び込まれるたびに置き場所を指示していた。若い男が木箱を俵の上に重ねようとすると、すぐに止める。
「おい、そこじゃねえ。そっちの箱は手前だ。急がなくていいから、崩さねえように運べよ」
男たちは言われた場所へ箱を置くと、また次の荷を取りに戻っていった。
最初の荷が来た時には、置き場所が決まらず、みんながあちこちで声を掛け合っていた。それが今では、権蔵の指示だけで荷が次々と運び込まれている。
勇吉はその様子を眺めながら、少し感心していた。
「おい、敬さん。道、直したのか?」
「手を入れましたよ。権蔵さんたちがずいぶん働いてくれました」
「へえ……」
「ただ、雨が続けばまた傷むでしょうね」
「そりゃそうだろうけどさ」
勇吉は入口へ続く道を見た。
深かった轍は埋められ、ところどころ新しく入れた砂利が見える。まだ完全に固まったわけではなさそうだが、荷を積んだ車が通ってきたことを考えれば、以前とはずいぶん違っていた。
「清さん、随分やったんだな」
「清兵衛さんだけではありませんよ。加兵衛さんも宗助さんも、みんな忙しそうでした」
「俺には何にも言わなかったぞ」
「勇吉さんにはお仕事がありますからね」
「……そうだけどさ」
何だか少しだけ、仲間外れにされたような気がした。
もちろん、荷運びに呼ばれたいわけではない。
絶対に違う。
そこへ加兵衛が帳面を持ってやってきた。
「おう、勇吉。結局来たのか」
「来たよ。どうなったか気になってさ。ちょっと見るだけだけどな」
「珍しく素直だな」
「何だよ、今日そればっかりじゃねえか」
加兵衛は笑いながら、荷を運んでいる男たちへ目を向けた。
「権蔵が中を見てるから、あっちは大丈夫だな」
「何だ、俺も手伝った方がいいのか?」
「いや、今んところお前の仕事はねえよ」
「えっ、ないの?」
「運ぶ奴はいるし、置き場所も決めてある。お前が入ると、かえって邪魔になるかもしれねえ」
「そこまで言うか?」
「冗談だよ」
「冗談に聞こえねえんだけど」
勇吉は納屋の中を覗いた。
権蔵が男たちに声を掛け、俵も木箱も決められた場所へ運ばれていく。清兵衛がいなくても、加兵衛がいちいち指示をしなくても、仕事は進んでいた。
「……俺、いらないじゃん」
「そういうことだな」
「何だよ。せっかく来たのに」
「お前、見に来ただけなんだろ?」
「そうだけどさ」
「じゃあ見てりゃいいじゃねえか」
加兵衛は何でもないことのように言って、帳面へ目を戻した。
勇吉は少し拍子抜けした。
初めて荷が来た時は、誰かが何かを頼みに来て、気がつけば自分まで荷を運んでいた。それが今は、何もすることがない。
まあ、いい。
仕事がないなら、帰ればいいだけの話だ。
そう思ったところで、納屋の入口にいた若い男が、大きな木箱を一人で持ち上げようとしているのが見えた。
男は膝を伸ばしたまま腰を曲げ、箱の端に手を掛けている。荷の方ばかり見ているせいか、自分の足元にはあまり気を配っていない。
「おい、ちょっと待て!」
勇吉は思わず声を掛けた。
「そんな持ち方したら腰やっちまうぞ」
男が顔を上げた。
「え?」
「一人で持つには重いだろ。ほら、そっち持て。俺がこっち持つから」
二人で箱を持ち上げると、思ったより重かった。
「……おい、これ何が入ってんだ?」
「さあ、俺も中までは」
「知らねえのかよ」
「荷主から預かったもんですから」
「そりゃそうか」
勇吉は男と歩調を合わせ、権蔵の指した場所へ箱を運んだ。狭い通路を抜けてようやく下ろしたところで、後ろから清兵衛の声がした。
「お前、帰るんじゃなかったのか?」
「……俺もそう思ってたんだよ」
「結局働いてるじゃねえか」
「一箱だけだぞ。一箱!」
清兵衛が笑うと、帳面を確認していた加兵衛まで顔を上げた。
「お前、仕事がねえって言ったら、自分で見つけてくるんだな」
「うるせえよ!」
近くにいた人足たちも、二人のやり取りを聞いて笑っていた。
勇吉は泥のついた手を払いながら、もう一度納屋の中を見回した。
数日前まで、あの納屋はほとんど空だった。
今は人が行き来し、荷が次々と奥へ運び込まれている。荷を運ぶ男たちの声や、俵を下ろす時の鈍い音が、古い建物の中に響いていた。
妙なものだ。
場所は同じなのに、まるで違う建物になったように見えた。
*
「じゃあ戻るか」
勇吉が草履の泥を落としていると、加兵衛が帳面を閉じた。
「俺も一度向こうへ行ってくる。宗助に人数を伝えなきゃならねえ」
「八人だろ?」
「ああ。そっちはもう話がついてる」
「じゃあ、俺は帰るぞ」
「好きにしろ」
「何だよ。今日はやけに素直だな」
「仕事ある奴を止めてどうする」
「いつもそれくらいならいいのに」
勇吉が帰ろうとしたところで、道の向こうから男たちの声が聞こえてきた。
最初の荷車が戻ってくるのかと思ったが、違った。荷を積んだ車が新たに一台、その後ろからもう一台、柿の木の家へ向かってくる。
敬之助は手元の書付を確かめ、到着した荷車に目を向けた。
「残りの二台ですね」
「これで五台か?」
「ええ。予定どおりなら、これで全部です」
男たちが馬を止め、権蔵の指示で荷を降ろし始めた。
加兵衛は書付と荷の数を照らし合わせ、敬之助も一台ずつ確認している。宗助が手配した宿泊場所へは、仕事を終えた者から案内することになっていた。
今度は誰も大きな声を上げていない。
権蔵が荷の置き場所を指し示し、男たちはそれに従って動いている。空になった荷車は次の車が通れるように場所を空け、馬も道を塞がないところへ移された。
最初の荷が来た時とは、ずいぶん違う。
「へえ、ちゃんとできるもんだな」
「何がです?」
「いや、最初はあんなに大騒ぎだったのにさ」
敬之助は書付を畳み、納屋の中へ目を向けた。
「一度やってみれば、分かることもありますから」
「敬さんが言うと、何だか偉そうに聞こえるな」
「実際、少しは偉くなったつもりですよ」
「自分で言うかね」
二人が話しているうちに、最後の荷車も空になった。
五台分。
荷はすべて納屋へ運び込まれ、加兵衛が最後の印を帳面に付けた。積み上げられた荷を一つずつ数え直し、置き場所にも間違いがないことを確かめると、ようやく清兵衛へ顔を向けた。
「数は合ってる。置き場所も問題ねえ」
「そうか。ご苦労だったな」
「礼なら権蔵たちに言ってくれ。俺は数えてただけだ」
「数えるのも大事な仕事だろ」
加兵衛は少し照れくさそうに鼻を鳴らし、帳面を閉じた。
勇吉は二人を見ていた。
何だか、今日は本当に何も起きなかった。
それが少し不思議だった。
いや、何も起きない方がいいんだけどさ。
「じゃあ、俺は――」
帰る、と言いかけたところで、敬之助の手が止まった。
「……おかしいですね」
「何が?」
敬之助は道の方を見ていた。
勇吉もその視線を追うと、荷車が一台、こちらへ向かってくるのが見えた。
五台分は、たった今全部運び込んだはずだった。
「おい、敬さん」
「はい」
「なあ……あれ、六台目じゃねえの?」
「そうですね」
「そうですねじゃねえよ!」
敬之助は書付を開き、もう一度数を確かめた。
「私が聞いていたのは五台です」
「じゃあ何で来るんだよ」
「まだ分かりません」
「止めろよ」
「荷車が来ること自体は止められませんよ」
「そういう意味じゃねえって!」
さっきまで納屋の前にいた家の弟も、騒がしさに気づいて道へ出てきた。
「おいおい、まだ来るのか?」
敬之助は落ち着いた声で答えた。
「いえ。こちらで受けると決めた荷は、もう全部入りました」
「じゃあ、あれは何だ?」
「これから確かめます」
勇吉は敬之助の顔を見た。
「何で敬さん、そんな落ち着いてんだよ」
「慌てても荷の数は変わりませんから」
「そういう話じゃねえんだよ!」
荷車は納屋の前まで来ると、少し離れた場所に止まった。
今までの荷車とは違い、荷台には縄でしっかり縛られた木箱がいくつも積まれている。馬の手綱を引いていた男が周囲を見回し、その後ろから別の男たちが降りてきた。
加兵衛は帳面を閉じたばかりだったが、予定にない荷車と分かると、すぐに男たちの方へ歩いていった。
「悪いが、こっちで受ける荷はもう全部入ってるぞ。どこの荷だ?」
「ここで荷を扱ってる方がいると聞いたんですが」
年配の男が答えた。
「浦和の方から来ましてね。清兵衛さんという方はいらっしゃいますか?」
「清さんに?」
「ええ。少し相談したいことがありまして」
勇吉は思わず清兵衛の方を見た。
清兵衛も男の言葉を聞いていたが、その前に別の男が口を開いた。
「それと、今夜、二人ほど泊まれるところはありませんか?」
勇吉は敬之助の顔を見た。
「荷は五台だけって言ったよな?」
「ええ」
「泊まるのも八人だよな?」
「その予定です」
「……人、増えてんじゃん」
「増えていますね」
「増えていますねじゃねえよ!」
予定していた八人の宿泊先は、宗助がすでに手配している。しかし、今来た男たちはその中に入っておらず、宿泊場所も決まっていないらしい。
加兵衛は新しく来た者たちに荷を降ろさないよう伝え、権蔵も人足たちへ、道を塞がない場所で待つよう指示していた。
さっきまで整然と進んでいた納屋の前が、急に慌ただしくなっている。
そこへ加兵衛が戻ってきた。
「勇吉、宗助呼んできてくれ」
「ほら来た!」
「何がだよ」
「こうなると思ったんだよ!」
「いいから頼む。泊まる場所なら宗助の方が分かる」
加兵衛の後ろでは、馬をつなぐ場所を尋ねる者と、荷をどこへ置けばいいのか聞く者が、ほとんど同時に声を上げていた。
権蔵が荷を降ろすなと指示しているが、道の方にはまだ旅人が通っており、荷車をどこへ寄せるかだけでも一苦労だった。
勇吉はその様子を見て、言い返しかけた言葉を飲み込んだ。
「……宗助呼べばいいんだな?」
「頼む」
「最初からそう言えよ」
「最初からそう言ってるだろ」
「そうだっけ?」
「いいから早く行け!」
「分かったよ!」
勇吉は歩き出しかけて、肝心なことを聞いていないのに気づいた。
「あのさ、宗助、今どこ?」
「知らん!」
馬のそばから加兵衛の声だけが飛んできた。
「知らねえのかよ!」
加兵衛は答える間も惜しいらしく、荷車の脇で男たちに馬を移動させるよう声を掛けていた。狭い道に馬が二頭並び、後ろから来た旅人まで足を止めている。
「旅籠の方じゃないか!」
「どこの?」
「それくらいお前の方が知ってるだろ!」
「何でだよ!」
敬之助は書付を持ったまま、二人のやり取りを聞いていた。
勇吉は何か言い返そうとしたが、納屋の前を見てやめた。
数日前まで、あの場所には古い俵や木箱が置かれているだけだった。
今は荷が積まれ、知らない男たちが声を掛け合い、馬が鼻を鳴らしている。荷を預ける者だけでなく、宿を探す者まで集まっていた。
それでも、道は同じだった。
いつもの家が並び、いつもの中山道が蕨宿を抜けている。荷車も馬も旅人も、昨日まで何度となくここを通っていた。
ただ、今まで通り過ぎていたものが、今日はここで止まっていた。
「勇吉! 宗助!」
加兵衛の声が飛んできた。
「うるせえな、分かってるよ!」
勇吉はようやく納屋に背を向け、宗助を探して走り出した。
ちょっと覗いて帰るだけのつもりだったのだ。
それなのに、結局また走らされている。
「ったく、何でいつもこうなるんだよ!」
*
勇吉が走り去った後も、納屋の前の騒がしさは収まらなかった。
権蔵が新しい荷車を道の脇へ寄せ、ほかの者の通行を妨げないようにしている。その横では敬之助が書付を確かめ、加兵衛は予定していた五台分の荷と、新しく来た荷が混ざらないように目を配っていた。
宗助は今頃、予定していた八人の宿泊先を回っているはずだった。勇吉が探しに行ったところで、すぐに見つかるかどうかは分からない。
それでも、今までなら全員が荷車の周りへ集まり、誰かが何かを決めるのを待っていたところだ。
今は権蔵が馬と荷車を見て、加兵衛が荷を確かめ、敬之助が書付を調べている。
清兵衛はそれぞれの動きを確かめてから、浦和から来た男へ向き直った。
「私が清兵衛ですが、どのようなご用でしょう?」
「初めまして。浦和の方で荷を扱っている者です。こちらで荷を預かってもらえるようになったと聞きましてね」
「ええ。まだ始めたばかりですが」
「それで、少し相談したいことがあるんです」
男は背後の荷車へ目を向けた。
縄でしっかり縛られた木箱が積まれているが、荷を降ろす様子はない。
「荷を預けたいというお話でしょうか?」
「いえ、少し違います」
男は首を振った。
「荷をここに置いていきたいわけじゃないんです。ここから先は、別の者に運ばせたいと思いましてね」
「別の者に?」
「ええ。浦和から先まで運んでいたんじゃ、馬も人も戻るのに時間が掛かります。ここで荷を引き継いでもらえれば、こちらは早く戻れますし、向こうも自分の持ち場だけ運べば済みます」
清兵衛は男の話を聞きながら、数日前の桜屋で聞いた言葉を思い出していた。
荷を途中で降ろし、行き先ごとに分けられれば助かる。
あの時は、荷運びの男が酒を飲みながら口にした話だったが、目の前の商人も似たような不便を感じているらしい。
ただ、今回は荷を預かるのとは少し違う。別の運び手へ確実に渡すとなれば、預かった時の数だけでなく、誰に何を渡したのかまで確かめなければならない。
「つまり、こちらで荷を受け取り、次の運び手に渡してほしいということですか?」
「そうです。ただし、数を間違えられちゃ困りますからね。誰から受け取って、誰へ渡したのか、それをきちんと確かめてもらいたいんです」
清兵衛は納屋の前にいる加兵衛へ目を向けた。
加兵衛はちょうど帳面を開き、敬之助と何かを確認しているところだった。
荷を受け取ることも、数を確かめることも、今日までの仕事で少しは慣れてきた。だが、相手が変われば、引き渡した後に数が合わなかった時の責任も変わってくる。
まして、荷を受け取る者が約束の時刻に来なかったらどうするのか。預かった荷をどこに置くのか、誰が見張るのかも決めなければならない。
清兵衛が考えている間、男も急かさずに待っていた。
「……一つ伺ってもよろしいですか」
「何でしょう?」
「次に荷を運ぶ方は、もう決まっているんですか?」
「ええ。川口の方から来てもらうつもりです。ただ、こちらで確かに荷を渡してもらえる場所がなければ、頼めませんからね」
「なるほど」
清兵衛は頷いた。
今まで通り過ぎていた荷を、ここで止める。
それだけでも、蕨宿には少しずつ人が集まり始めていた。
ところが、目の前の男が求めているのは、荷を止めることだけではない。ここで別の運び手へ渡し、さらに先へ運ぶことだった。
「もちろん、ただでお願いしようとは思っていません」
男がそう付け加えると、清兵衛は少し笑った。
「それはありがたいお話ですが、まずは荷の数と、受け渡しの条件を聞かせてください」
「引き受けていただけますか?」
「いえ。まだ、引き受けるとは申し上げていません」
男は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「なるほど。慎重な方だ」
「預かった荷を間違えたら、困るのはお互いですから」
「そのとおりですね」
清兵衛は加兵衛と敬之助を呼ぶため、納屋の方へ振り返った。
たった今、五台分の荷を無事に預かり終えたところだった。その仕事が片づいたと思った矢先に、今度は別の相談が持ち込まれている。
呼ばれた加兵衛は、清兵衛の隣に立つと、まず男の荷車を見た。
「……清さん、今度は何だ?」
「まだ何も決まっちゃいねえよ」
「その言い方、勇吉と同じじゃねえか」
清兵衛は答えず、浦和から来た男を二人に紹介した。
話を聞いた加兵衛は、今しがた閉じたばかりの帳面へ目を落とし、それから荷車に積まれた木箱を数え始めた。
「……まさか、これも数えるのか?」
「まずは話を聞いてからだな」
「やっぱりな」
加兵衛がため息をつく横で、敬之助は書付を取り出していた。
「では、最初から順に伺いましょうか」
男が荷の行き先を説明し始めると、敬之助は必要なことを書き留め、加兵衛も帳面を開いて荷車の方を確かめた。
清兵衛は二人の様子を見ながら、もう一度、浦和の商人へ向き直った。
荷を預かる場所を一つ用意するだけでも、あれほど苦労したというのに、今度は荷を別の者へ引き渡す話である。
それでも、この話を聞かずに帰す気にはなれなかった。
納屋の前では、荷を運び終えた男たちが声を掛け合い、道の向こうでは旅人が行き交っている。馬の蹄が土を踏む音も、荷車の車輪が軋む音も、いつもと何も変わらない。
その中で、清兵衛たちは新しい荷の話を聞き始めていた。
そして、宗助を探して走っている勇吉だけが、そんなことになっているとはまだ知らなかった。




