第三十五話 桜屋の夜
「そっちじゃねえ! もう少し右だ!」
荷車の持ち主が声を張り上げると、勇吉は思わず手を止めた。
「右って、俺の右か? あんたの右か?」
「車輪の右だよ!」
「だったら最初からそう言えって!」
夕暮れの道に勇吉の声が響き、清兵衛は笑いをこらえながら荷車の反対側へ回った。
轍にはまった車輪は思った以上に深く沈んでいた。男が馬を進ませようとしても荷車はわずかに揺れるばかりで、積まれた木箱が傾くたびに縄が軋み、男は気が気ではない様子で荷台を見上げている。
「無理に引かせると、余計にはまりますよ」
清兵衛が声を掛けると、男は困り果てた顔で振り向いた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだ」
「一度、車輪の下に何か噛ませましょう。勇吉、そっちに平たい石はないか?」
「平たい石? ちょっと待ってろ」
勇吉は道端にしゃがみ込み、土に半ば埋もれていた石を二つ拾い上げた。大きさを確かめるように手の中で転がしてから、清兵衛に見せる。
「これくらいでいいか?」
「ああ、それでいい。こっちへ持ってきてくれ」
男が荷車を少し後ろへ戻し、清兵衛と勇吉が沈んだ車輪の前に石を据えた。荷台の傾きを確かめてから、清兵衛がゆっくり進ませるよう声を掛けると、馬は一歩、また一歩と足を踏み出した。
車輪が石に乗り上げたところで荷車が大きく揺れ、勇吉は慌てて荷台を支えた。
「おいおい、倒れるなよ!」
車輪は湿った土を削りながら持ち上がり、ようやく深い轍を抜けた。
「おお、動いた!」
男は嬉しそうに声を上げたが、勇吉は荷車より先に自分の手を見て顔をしかめた。
「ほら、泥だらけじゃねえか」
「いやあ、助かったよ。本当にありがとうな」
「礼なら清さんに言ってくれ。俺は帰ろうとしてたんだからな」
そう言って手についた泥を払うと、勇吉は男を見てにやりと笑った。
「まあ、今度会ったら一杯おごってくれよ」
「ははは、分かった。見かけたら声を掛けてくれ」
「帰る帰ると言いながら、よく働く奴だな」
清兵衛が笑うと、勇吉は顔をしかめた。
「誰のせいだと思ってんだよ」
男は何度も頭を下げ、荷車をゆっくりと進ませていった。
その姿が遠ざかっても、清兵衛は深く残った轍を眺めている。車輪が抜けた場所はさらに崩れ、道の端には柔らかな土が盛り上がっていた。
「これじゃ、また誰かがはまるな」
「だろうな。雨でも降ったら、もっとひどいぞ」
勇吉はそう言って空を見上げた。
夕焼けは西の低いところにわずかに残っているだけで、その上には灰色の雲が広がり始めていた。昼間よりも風が湿っているように感じられたが、勇吉にとっては、そんなことより早く飯を食いに行く方が大切だった。
「もういいだろ。今日は終わりだ」
「分かってるよ」
「本当だな?」
「ああ」
「じゃあ、桜屋だな」
清兵衛はようやく道から目を離した。
「お前、まだ飲む気力があるのか」
「飲む気力だけは残してあるんだよ」
「便利な身体だな」
「身体を見る仕事だからな」
「それと何の関係があるんだ?」
「いいから行くぞ。腹も減った」
勇吉はさっさと歩き出した。
清兵衛は苦笑しながら後を追ったが、その頭からは、柿の木の家へ続く道のことが離れなかった。
明日の朝には、あの道を荷車が通れるか確かめなければならない。家の持ち主との話も、隣の土地を通る許しも、まだ正式には決まっていなかった。
五台分の荷を二十日ほど預かり、さらに八人を泊められるかどうか。返事を求められているのは明日の夕方だ。
引き受けるなら、できることとできないことを見極めなければならない。
そう考えているうちに、前を歩く勇吉が振り返った。
「清さん、遅えぞ! 魚がなくなっちまうだろ!」
「お前は魚の心配か」
「当たり前だろ。道は明日もあるけど、うまい魚は今夜しかねえかもしれねえぞ」
なるほど、それも一理ある。
清兵衛は声を上げて笑い、少しだけ足を速めた。
*
桜屋の暖簾をくぐると、煮物の匂いに混じって、炭火で魚を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
奥から聞こえる包丁の音はいつもと変わらず、客の話し声や盃の触れ合う小さな音が重なっている。長い台の向こうでは、お咲が馴染みの客と話しながら酒を注いでいた。
「いらっしゃいませ……って、何だい、勇さんじゃないか」
お咲は顔を上げるなり、二人の姿を見比べた。
「ずいぶんくたびれた顔してるねえ。清さんまで一緒とは、また何かあったんだろ?」
「何かあったどころじゃねえよ」
勇吉は空いている席に腰を下ろすと、ようやく一息ついた。
「今日は朝から荷物運んで、小屋を見に行って、挙げ句の果てに道で荷車まで押してきたんだぞ」
「へえ、そりゃ大変だったねえ」
お咲は気の毒そうに頷きながら、勇吉の前へ盃を置いた。
「じゃあ、まず一杯だね」
「分かってるじゃねえか」
「飲ませときゃ機嫌が直るんだから、勇さんは楽でいいよ」
「俺はそんな単純じゃねえぞ」
「はいはい。難しい男だねえ」
お咲は笑いながら酒を注ぎ、清兵衛の前にも盃を置いた。
「清さんも飲むでしょう?」
「いただこうかな」
「で、今度は何を始めたんだい?」
「荷を預かる場所を探してるんですよ」
「荷?」
「ええ。今日、最初の荷が入ったんですが、次は五台分の話がありましてね」
「五台?」
お咲の眉が上がった。
「そりゃまた、ずいぶん増えるんだねえ」
「まだ決まったわけじゃありません。明日の夕方までに返事をしなきゃならないんですが、置く場所も、そこまで運ぶ道も、簡単には決まりそうになくて」
「道まで?」
「そうなんですよ」
お咲はしばらく清兵衛を見つめ、それから勇吉へ視線を移した。
「……あんたたち、また面倒なこと始めたねえ」
「だろ?」
勇吉は勢いよく頷いた。
「俺もそう思ってんだよ」
「だったら、やめりゃいいじゃない」
「それを清さんに言ってくれよ」
「清さん、やめたら?」
清兵衛は盃を口へ運び、何事もなかったように答えた。
「まだ始まったばかりですよ」
お咲は大きくため息をついた。
「一番面倒な返事だねえ、それ」
「な? 清さんはいつもこうなんだよ」
二人のやり取りを聞いていた清兵衛は、盃を置いて首を振った。
「お前ら、よく似てるな」
「どこがだい!」
「どこがだよ!」
声が重なった。
お咲と勇吉は互いの顔を見て、揃って眉をひそめた。清兵衛がとうとう声を上げて笑い出すと、隣で飲んでいた馴染みの客まで肩を揺らしている。
「まったく、何がおかしいんだか」
お咲は呆れたように言いながらも、すぐに客の盃が空いていることに気づき、酒を注ぎ足した。
その手際のよさは、勇吉たちと冗談を言い合っている時も少しも変わらない。
「母ちゃん、また勇吉さんと喧嘩してるの?」
奥から現れたお鈴が、盆を抱えたまま声を掛けた。
「喧嘩じゃないよ。ちょっと話してただけだ」
「そういうのを喧嘩って言うんじゃないの?」
「言わないよ」
「じゃあ、どうして二人ともそんな顔してるの?」
勇吉が吹き出すと、お咲は娘を睨んだ。
「お鈴、余計なこと言ってないで、料理を運んできな」
「はーい」
お鈴は慣れた様子で返事をすると、笑いながら奥へ戻っていった。
「まったく、誰に似たんだか」
お咲が呟いたところへ、勇吉がすかさず口を挟んだ。
「お咲だろ」
「何だって?」
「いや、何でもねえ」
「聞こえてるよ」
勇吉は知らん顔で盃を口へ運んだ。
奥では源次郎が魚を返しているらしく、炭火の上で脂の落ちる音がした。間もなくお鈴が煮物を運んできて、その後ろから源次郎自身が焼き上がった魚を皿に載せて現れた。
「ほら、勇さん。熱いうちに食ってくれ」
「おお、いい匂いだな」
勇吉が箸を入れると、香ばしく焼けた皮の下から白い身がほろりとほぐれた。
「うめえな、これ」
源次郎は返事もせず、魚の焼け具合を確かめるように勇吉の箸先を見ていた。
「もう一皿頼んでもいいか?」
それを聞いて、源次郎の口元がわずかに緩んだ。
「腹に入るなら、焼いてやるよ」
「入るに決まってんだろ。今日は働いたんだから」
「そうかい。じゃあ、少し待ってな」
源次郎が皿を下げて奥へ戻ると、お咲は得意そうに胸を張った。
「うちの人は料理だけは間違いないからね」
「料理だけってのは余計だろ」
奥からすぐに声が返ってきた。
「聞こえてたのかい」
「聞こえるように言ってんだろ」
勇吉が笑うと、お咲は涼しい顔で清兵衛の盃にも酒を注いだ。
「でもね、あの人の魚は本当にうまいんだよ」
その言葉だけは、誰も茶化さなかった。
*
桜屋の客が少し入れ替わった頃、暖簾をくぐって男が二人入ってきた。
一人は四十を過ぎた頃の、日に焼けた顔をした男。もう一人はそれより若く、二人とも草履には乾いた泥がこびりついている。
「いらっしゃいませ。お二人ですか?」
お咲が声を掛けると、年上の男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ええ。まだ飯は食べられますか?」
「もちろんですよ。こちらへどうぞ」
お咲が席を案内しようとしたところで、勇吉が顔を上げた。
「あれ、お前さんたち、今朝の荷の人じゃねえか?」
男たちも勇吉に気づいた。
「ああ! 荷を降ろすのを手伝ってくれた方ですね」
「そうそう。何だ、今までどこにいたんだ?」
「荷を片づけてから、仲間と明日の話をしてましてね。遅くなっちまいました」
二人は、今朝二台分の荷を運んできた七人のうち、蕨に残って泊まることになった三人の仲間だった。宿のことは宗助が手配しており、残った一人は先に休んでいるらしい。
「そりゃご苦労だったねえ。まず座っておくれよ」
お咲は二人を迎え入れると、お鈴に茶を頼み、源次郎には温かいものを先に出すよう声を掛けた。
ほどなくして湯気の立つ汁物が運ばれてくると、若い男は椀を両手で包むように持ち、ひと口すすって長い息を吐いた。
「ああ、生き返る」
「そんなに腹が減ってたのかい?」
勇吉が尋ねると、男は照れくさそうに笑った。
「腹も減りましたが、今日は足がもう駄目で」
そう言いながら膝を伸ばそうとしたものの、途中で顔をしかめた。
勇吉はその動きに目を留めた。
「足、ずいぶん張ってるみてえだな。今日は歩き通しか?」
「よく分かりますね。荷車に付き添って、ほとんど歩きっぱなしですよ」
「そりゃきついな。ふくらはぎも張るだろ」
「ええ、特にこっちが」
男が片方の足をさすると、勇吉は少し身を乗り出した。
「明日も歩くのか?」
「そのつもりです」
「だったら、今夜は無理せず休みな。疲れが残ってるところに、また無理するとろくなことにならねえぞ」
「へえ、詳しいんですね」
「まあ、人の身体を見るのが仕事だからな」
勇吉はそれだけ言って、自分の魚に箸を戻した。
清兵衛はその横顔を眺めていたが、何も言わなかった。
朝から文句を言い続けている男が、こういう時だけは何のためらいもなく人を気遣う。
それが勇吉という男だった。
「勇さん、そういうところはちゃんとしてるんだねえ」
お咲が感心したように言うと、勇吉は顔を上げた。
「どういう意味だよ」
「褒めてるんだよ。たまには素直に受け取りな」
「たまにはってのが余計なんだよ」
お咲は楽しそうに笑い、お鈴が空いた湯呑みに茶を注ぎ足すと、今度はほかの客のところへ向かった。
*
やがて男たちの前にも焼き魚が運ばれ、桜屋にはしばらく、箸の音と穏やかな話し声が流れていた。
清兵衛が二人に今日の荷の行き先を尋ねたのは、年上の男が飯を食い終え、茶をすすっている時だった。
「今日預かった荷は、この先どちらへ向かうんですか?」
「それがね、全部同じところじゃないんですよ」
男は湯呑みを置いた。
「荷主から聞いてる話じゃ、先へ運ぶ荷もあれば、途中で別の者に渡す荷もあるそうで。俺たちは言われたとおり運ぶだけですが、なかなか面倒なんです」
「面倒というと?」
「例えば、途中で分けられる荷まで、いったんまとめて遠くへ運ぶことがあるんですよ。そこから別の者が引き返すんだから、余計な手間がかかる」
若い男も、椀を置いて話に加わった。
「この前なんか、荷を届けた先で、また同じ道を戻ることになりましてね。何のために遠くまで行ったんだか分かりませんでした」
「そりゃ災難だったな」
勇吉が笑うと、男も苦笑した。
「荷車に乗せられる荷はいいですよ。人間は自分の足で戻らなきゃならないんですから」
「そりゃそうだ」
年上の男は、少し考えてから続けた。
「途中で一度降ろせて、行き先ごとに分けられれば助かるんですけどね。ただ、どこでもいいってわけにはいかねえ。荷がなくなったり、違う荷を渡したりしたら大事ですから」
「荷主も、そう簡単には任せられないでしょうね」
清兵衛が言うと、男は頷いた。
「ええ。預ける相手を信用できなきゃ、話になりません」
清兵衛は、盃を持つ手を止めた。
今朝預かった荷について、加兵衛は数や品目を確かめ、帳面へ細かく書き留めていた。勇吉には細かすぎるように見えたその仕事も、荷を預かる側には欠かせないものだった。
荷を置くだけなら、空いた小屋があればいい。
だが、そこから別の土地へ運ぶ荷を分けるとなれば、話は変わる。
預かった荷を間違いなく返すこと。誰に渡すのかを確かめること。運ぶ者が次の道へ迷わず出られること。
それらが揃わなければ、ただ荷を集めただけになってしまう。
清兵衛は今日の二台分の荷を思い浮かべた。
あれだけでも人手が要った。
では、五台分ならどうなる。
そして、もし五台の次に、また別の荷が来たとしたら――。
「清さん」
勇吉の声に、清兵衛は顔を上げた。
「何だ?」
「今、何か考えただろ」
「考えちゃいけねえのか?」
「いや、別にいいけどよ。清さんが急に黙る時は、大体ろくなことにならねえんだよ」
「ひどい言われようだな」
「今日一日付き合ってりゃ、そうも言いたくなるって」
勇吉が盃を持ち上げると、お咲が横から口を挟んだ。
「でも清さん、五台分だってまだ決まってないんだろ?」
「ええ。明日の道次第ですね」
「だったら、その先のことは決まってから考えりゃいいじゃないか」
清兵衛は少し笑った。
「それもそうですね」
「おっ、珍しく素直じゃねえか」
勇吉が感心すると、清兵衛は涼しい顔で答えた。
「考えねえとは言ってないぞ」
「ほらな!」
その声に年上の男が笑い、若い男もつられて肩を揺らした。
お咲は呆れたように首を振ったが、清兵衛の前へ酒を注ぎ足す手つきは、どこか楽しそうだった。
*
客足が落ち着くと、桜屋には煮物の匂いと、炭火の残り香だけがゆっくり漂うようになった。
お鈴は空いた器を片づけながら、先ほどの男たちに声を掛けた。
「お二人は、明日も蕨にいるんですか?」
「朝には仲間と相談してから、また動くことになると思いますよ」
「そうなんですね。蕨にはよく来られるんですか?」
「通ることはありますが、泊まるのは久しぶりです。まさか、こんなところで荷を預かってもらえるとは思いませんでした」
「それじゃ、また来ることもあるんですか?」
若い男が笑った。
「荷主がここを気に入れば、そうなるかもしれませんね」
「だったら、また食べに来てくださいね」
お鈴の言葉に二人は頷き、今夜の魚はうまかったと、奥にいる源次郎にも聞こえる声で礼を言った。
源次郎は奥から「ああ、また来てくれ」と短く返しただけだったが、お鈴がその横顔を覗くと、少し嬉しそうにしていた。
「父ちゃん、褒められてよかったね」
「うるさい。そこの器を持ってきな」
「はいはい」
お鈴は笑いながら盆を持ち上げた。
そのやり取りを眺めていたお咲が、ぽつりと言った。
「荷が増えりゃ、腹を空かせた人も増えるんだねえ」
「そうかもしれませんね」
清兵衛が答えると、お咲は少し考えた。
「でも、毎晩こんなに忙しくなったら困るねえ」
「客が増えるのはいいことだろ」
勇吉が笑う。
「そりゃありがたいよ。でもね、せっかく来てくれたお客さんと、ろくに話もできないんじゃつまらないじゃないか」
「商売人の言うことかよ」
「何だい。勇さんだって、仕事が増えると文句ばっかり言ってるじゃない」
「俺はちゃんとやることやって言ってんだよ」
「あたしだってやることやってるよ」
「じゃあ、いいじゃねえか」
「だから、いいんだよ」
二人が妙なところで納得すると、清兵衛は笑いをこらえるように盃を口へ運んだ。
お咲はそれを見逃さなかった。
「清さん、人をからかって飲む酒はうまいかい?」
「なかなか」
「嫌な男だねえ。だったら清さん、うまい酒を一杯おごっておくれよ」
「女将、一杯だけですよ」
「分かってるよ」
嬉しそうに盃を取り出したところへ、お鈴が戻ってきた。
「母ちゃん、また飲むの?」
「まだ一杯しか飲んでないよ」
「さっきも飲んでたでしょう」
「あれは味見だよ」
「お酒の味見なんかしなくていいでしょ」
勇吉が吹き出した。
「女将、娘に怒られてんじゃねえか」
「勇さんまでうるさいねえ」
「酒が弱いんだから、ほどほどにしとけよ」
「勇さんにだけは言われたくないよ」
お咲は言い返しながら盃を口へ運んだが、しばらくすると頬が赤くなり、気持ちよさそうに目を細め始めた。
「……何だか、今日はいい夜だねえ」
「母ちゃん、もう眠くなってるでしょ」
「眠くなんかないよ」
「じゃあ、目を開けてみて」
「開いてるだろ」
「半分しか開いてないよ」
勇吉が笑っていると、奥から源次郎が顔を出した。
「お咲、まだ片づけが残ってるぞ」
「分かってるよ」
「分かってねえから言ってんだ」
「まったく、うちの人は口うるさいねえ」
「料理だけはうまい男だからな」
勇吉が小さく呟くと、お咲はすぐに顔を上げた。
「そうそう、料理だけは……って、勇さん!」
今度は清兵衛だけでなく、お鈴まで声を上げて笑った。
源次郎は呆れたように首を振ったが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
そこへ、暖簾の向こうから声がした。
「すみません、まだ飯は食べられますか?」
つい先ほどまで眠そうにしていたお咲が、すっと背筋を伸ばした。
「はい、もちろんですよ。さあ、こちらへどうぞ」
声も表情も、先ほどとはまるで違う。
勇吉が目を丸くすると、お鈴が小声で言った。
「母ちゃん、お客さんが来ると急に元気になるんですよ」
「あれで酒に弱くなきゃなあ」
「勇さん、聞こえてるよ!」
新しい客を席へ案内しながら、お咲が振り返った。
勇吉は笑いながら、残っていた酒を飲み干した。
この女将には、どうにも敵わない。
*
夜も更け、桜屋の外を行き交う人の声が少なくなった頃、勇吉と清兵衛はようやく腰を上げた。
「そろそろ帰るか」
「そうだな。明日も早いんだろ」
「ああ。道を見に行かなきゃならん」
「朝だけだからな。昼までには戻るぞ」
「分かってるよ」
勇吉は清兵衛の顔をじっと見た。
こういう時の清兵衛は、返事だけなら実に素直なのだ。
「明日は道の具合を見て、直すならどれだけ手間がかかるか確かめる。それだけだろ?」
「そうだよ。詳しい者にも声を掛けるつもりだが、直せると決まったわけじゃねえ」
「だったらいいけどな」
「何をそんなに心配してるんだ」
「清さんといると、話が勝手に大きくなるからだよ」
清兵衛は笑いながら勘定を済ませた。
お咲が二人に声を掛ける。
「もう帰るのかい?」
「女将こそ、そろそろ寝た方がいいんじゃねえの?」
「何だい、まだ眠くないよ」
「そうかい。じゃあ、また来るよ」
「はいはい。今度は面倒な話じゃなくて、楽しい話を持ってきな」
「清さんに言ってくれ」
清兵衛も頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「はいよ。またおいで」
お鈴が暖簾のところまで見送りに来ると、勇吉は軽く手を上げた。
「お鈴ちゃん、源次郎さんにもよろしくな。魚、うまかったよ」
「ありがとうございます。また食べに来てくださいね」
二人が外へ出ると、昼間よりも冷たく湿った風が頬を撫でた。
中山道はすっかり静かになり、遠くで一台の荷車が軋む音を立てながら通り過ぎていく。
清兵衛がその音の方へ目を向けると、勇吉が隣で口を開いた。
「なあ、清さん」
「何だ?」
「五台分の荷、本当に預かるつもりなのか?」
「まだ分からん」
「小屋も決まってねえし、道もあの有様だぞ。八人泊める話まであるんだろ?」
「だから明日の朝、確かめるんだよ」
清兵衛は歩みを緩めた。
「無理なら断るしかねえ。預かれねえ荷を預かるとは言えんからな」
勇吉は少し驚いたように清兵衛を見た。
「清さんでも断ることあるんだな」
「当たり前だろ。商売だからって、何でも引き受けりゃいいわけじゃねえ」
「そりゃそうだ」
「ただな」
清兵衛は、遠ざかる荷車を見送った。
「今日の二台も、最初はどうなるかと思ってた。それが何とか預かれたんだ。明日だって、できることを一つずつ確かめりゃいい」
勇吉はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「まあ、それなら俺も文句はねえよ」
「珍しいな」
「ただし、昼までだからな」
「分かってるよ」
「本当だな?」
清兵衛は答えず、歩き出した。
「おい、清さん!」
その背中を追いかけながら、勇吉は呆れたように笑った。
長い付き合いだ。
清兵衛が一度こうと決めたら、途中で投げ出さないことくらい知っている。
それに、今日の荷を運んできた連中が、桜屋でうまそうに飯を食っていたことも思い出した。
荷を預かる仕事が増えれば、ああいう人間も増えるのだろう。
それは、そう悪いことでもない気がした。
もっとも、だからといって自分まで毎日荷車を押すのは御免だったが。
「清さん、明日は俺にもちゃんと仕事があるんだからな!」
「分かってるって!」
少し先から返事が聞こえた。
勇吉はもう一度だけ念を押そうとしたが、やめた。
どうせ、朝になれば分かることだ。
*
二人が帰った後、桜屋ではお咲とお鈴が器を片づけ、源次郎が奥の火を落としていた。
荷運びの二人も勘定を済ませ、今夜の魚はうまかったと何度も礼を言って帰っていった。
「またおいでよ。今度はゆっくり酒でも飲んでいきな」
お咲が暖簾の向こうへ声を掛けると、年上の男は振り返って笑った。
「ええ。ここで荷を預かってもらえるなら、また来ることもあるでしょうから」
その言葉を聞いたお咲は、客の姿が見えなくなってからも少しだけ暖簾を眺めていた。
今朝、荷が二台分入った。
その荷を運んできた者たちが、こうして桜屋で飯を食っていった。
これから荷が増えれば、また別の客が来るのだろう。
客が増えるのはありがたい。
ただ、毎晩忙しくなるのは少々困る。
「……ほどほどが一番なんだけどねえ」
お咲は誰にともなく呟き、最後の盃を拭き始めた。
「母ちゃん、何か言った?」
「何でもないよ。そっちの器、しまっておくれ」
「はーい」
お鈴が返事をした、その時だった。
ぽつり。
お咲は手を止めた。
屋根の上で、小さな音がしたような気がした。
ぽつり、ぽつり。
今度は、はっきりと聞こえた。
「あら、雨かい?」
奥から出てきた源次郎が暖簾を少し持ち上げ、外を覗いた。
「降ってきたな」
「嫌だねえ。明日は洗い物が乾きにくくなるよ」
「それだけで済めばいいがな」
源次郎は暗い道へ目を向けた。
「昼間から雲が重かった。こりゃ、少し降るかもしれねえぞ」
お咲も暖簾の隙間から外を見た。
道の土が、雨粒の落ちたところから少しずつ黒く変わっていく。
「……そういえば、清さんたち、明日の朝に道を見に行くって言ってたねえ」
「道?」
「荷車を通すんだってさ。何だか、ずいぶん面倒なことになってるみたいだよ」
源次郎は小さく唸った。
「雨が降りゃ、あの辺りの道は厄介だろうな」
「そうかい」
お咲は少し考えたが、やがて小さく笑った。
「まあ、清さんなら何とかするだろ」
「勇吉さんも一緒なんでしょ?」
お鈴が尋ねると、お咲は頷いた。
「そうらしいよ」
「じゃあ、また二人で言い合いになるね」
「そうだろうねえ」
お咲は楽しそうに笑った。
「まったく、あの二人はいつまでたっても変わらないんだから」
源次郎が暖簾を下ろすと、外の雨音が少し遠くなった。
やがて桜屋の明かりが消え、店の中が静かになっても、雨は降り続いていた。
中山道の土を濡らし、家々の軒先から滴を落としながら、雨水は低いところへ少しずつ流れ込んでいく。
そして、柿の木の家へ続く細い道にも。
昼間、荷車の車輪が深く刻んだ轍の底に、黒い水が静かに溜まり始めていた。




