第三十四話 柿の木の家
「で、今から行くのか?」
勇吉が尋ねると、清兵衛は通りの先を見たまま頷いた。
「まだ明るいからな。弟が来てるかどうかだけでも確かめたい」
「えっ、俺も?」
「お前、この前行っただろ」
「行ったけどさ。小屋を借りる話なら、清さんだけでいいんじゃねえの?」
「お前の方が顔を覚えられてるだろ」
「そんなに話してねえよ」
「じゃあ、もう少し話してこい」
清兵衛はそう言って歩き出したが、勇吉はすぐには後を追わず、閉められたばかりの納屋を振り返った。先ほどまで人の声や荷を運ぶ音が絶えなかった場所も、今は静まり返り、何事もなかったように夕方の通りへ溶け込んでいる。
二台分の荷を運んだ腕は、まだ重かった。
「今日じゃなくてもよくねえか?」
「明日の夕方までに返事をするんだろ」
「そうだけどさ」
「だったら今日だ。それに、お前にも小屋の様子を見てほしいんだよ」
「小屋の様子?」
「荷が五台分となりゃ、置けるかどうかも確かめなきゃならねえ。お前、この前中まで見ただろ」
「見たけど、俺は荷物の商いなんか知らねえぞ」
「知ってるよ。だから、見たままを教えてくれりゃいい」
返事の期限が明日なのは分かっている。それでも、荷運びを終えたばかりの勇吉には、今からもう一仕事という気にはなれず、重くなった腕を回しながら清兵衛の後を追った。
*
柿の木の家は、中山道から少し入ったところにあった。
通りの賑わいが遠ざかるにつれて家々の間から畑が見え始め、夕方の風が土の匂いを運んでくる。途中の細い道には荷車の轍が残っており、勇吉は深く窪んだところを避けながら歩いた。
「この辺り、ずいぶん道が悪いな」
「雨が降った後は、もっとひどいぞ」
清兵衛は慣れた様子で道の端を歩いていた。
「よく荷車が通れるな」
「通るから、こうなるんだろ」
「なるほどねえ」
勇吉は足元を見直した。乾いた土の表面は固くなっているが、車輪の跡だけが深く残り、ところどころに小石が集まっている。
以前来た時には気にも留めなかった道だった。
柿の木の家へ着くと、庭の端には前と変わらず大きな柿の木が立っていた。枝には青い実がつき、風が吹くたびに葉の間からちらちらと顔を覗かせている。
「まだ食えねえな」
勇吉が見上げると、清兵衛が振り返った。
「何が?」
「柿」
「食いに来たんじゃねえだろ」
「分かってるよ」
庭先では、以前話をした家の主が割った薪を束ねていた。
「おう、勇さんじゃねえか」
男は薪を置き、手についた木くずを払った。
「また来たのか。今日は清兵衛さんまで一緒かい」
「少しご相談がありましてね」
清兵衛が頭を下げると、男はすぐに小屋の方へ目を向けた。
「あれのことだろ?」
「ええ。以前、勇吉がお話しした小屋のことで」
「やっぱりな。何かあるとは思ってたよ」
男は笑いながら母屋の方へ向き直った。
「おい、ちょっと来てくれ」
奥から返事があり、しばらくして一人の男が姿を現した。
兄より少し若く、日に焼けた顔をしている。庭に置かれた薪を一度見てから、勇吉と清兵衛へ視線を移した。
「何だい」
「この間話した小屋のことだ。清兵衛さんたちが来てくれた」
弟は二人へ軽く頭を下げた。
「小屋を借りたいという話ですか」
「ええ。突然お訪ねして申し訳ありません」
清兵衛は改めて頭を下げた。
「実は商いの荷を預かる場所を探しておりまして、こちらの小屋を二十日ほどお借りできないかと思いましてね」
弟はすぐには返事をせず、庭の奥にある小屋を見てから兄へ顔を向けた。
「兄貴、二十日って聞いてたか?」
「いや、そこまでは」
「だろうな」
弟は小さく息をついた。
「この間は、使ってないから貸してもいいなんて言ってたけど、また勝手に話を進めたんじゃないだろうな」
「まだ何も決めちゃいねえよ」
「前もそう言ってたよ」
兄は少し困ったように笑った。
「前の話を持ち出すなよ」
「前のことがあるから言ってるんだよ」
勇吉は二人の顔を見比べた。
どうやら、以前にも似たようなことがあったらしい。
清兵衛は口を挟まず、兄弟のやり取りが落ち着くのを待ってから、弟へ向き直った。
「ご心配はもっともです。こちらも、無理にお願いするつもりはありません。まずはお話だけでも聞いていただけませんか」
弟は少し表情を緩めた。
「話を聞くくらいなら構いませんよ」
「ありがとうございます」
清兵衛が頷くと、弟は小屋の方へ歩き出した。
「こちらへどうぞ」
*
小屋の前まで来ると、弟は戸に手を掛けたものの、すぐには開けなかった。
「兄貴、今朝ここに置いた道具はどうした?」
「奥へ寄せたよ」
「また勝手に動かしたのか」
「邪魔だったからな」
「だから、そういうところなんだよ」
兄が苦笑いすると、弟は呆れたように首を振り、それから戸を開けた。
中には農具と古い木箱がいくつか置かれているだけで、奥にはまだ十分な空間があった。勇吉が入口から覗き込むと、以前見た時より少し片づいているようにも見えた。
「ここなら結構入るな」
「入りますよ。ただ、秋には道具を入れるつもりなんです」
弟が答えると、清兵衛は小屋の中を見渡した。
「こちらは、今後もお使いになる予定があるんですね」
「ええ。今は空いてますが、ずっと空けておくわけにはいきません」
「今から二十日なら、まだ間に合うんじゃねえの?」
勇吉が口を挟むと、弟は振り返った。
「荷が二十日できちんとなくなるなら、そうでしょうね」
「なくならねえの?」
「それは、こちらが聞きたいんですが」
勇吉は清兵衛を見た。
清兵衛は苦笑いを浮かべた。
「確かに、その通りですね」
弟は小屋の戸口に立ったまま続けた。
「前にも兄貴が、少しの間だからと知り合いに場所を貸したことがあったんです。ところが、いつまでたっても荷を取りに来なくて、結局こっちが困りましてね」
「そんな昔のこと、まだ覚えてるのか」
兄が言うと、弟はすぐに振り向いた。
「片づけたのは俺だろ」
「そうだったな」
「兄貴は、貸したことさえ忘れてたじゃないか」
兄は言い返さず、頭をかいた。
勇吉は思わず笑いそうになったが、弟の顔を見ると、笑うのはやめておいた。
なるほど。
これなら慎重になるのも分かる。
「それでしたら、二十日を過ぎた場合のことも、先に決めておきましょう」
清兵衛が言った。
「荷が残ったとしても、そのまま置き続けることはしません。別の場所へ移すなり、引き取りを頼むなり、こちらで責任を持ちます」
弟は少し考えた。
「その約束を、書いていただけますか」
「ええ。加兵衛に書付を用意させましょう。借り賃や、万一小屋を傷めた場合のことも、きちんと決めておきたいと思っています」
弟はようやく頷いた。
「それなら、小屋のことは考えてもいいです」
「お、決まり?」
勇吉が言うと、弟はすぐに首を振った。
「まだですよ」
「今度は何だよ」
「荷車です」
*
弟に案内され、三人は小屋の裏へ回った。
母屋の脇から続く細い道があり、その先は隣の家の敷地に沿って伸びている。道の端には草が生え、中央には車輪が通った跡が二本、浅い溝のように残っていた。
勇吉が前に来た時も、荷車を通すなら隣へ話をしなければならないと聞いていた。
「荷車は通れるのか?」
勇吉が尋ねると、弟は道の端を指した。
「一台ずつなら通れます。ただ、ここを使うなら隣の家の前を通ることになるんです」
清兵衛は道を見渡した。
「お隣には、もうお話をされているんですか?」
「いえ、まだです。そもそも、こちらも今日初めて詳しい話を聞いたところですから」
「それはそうですね」
清兵衛は頷いた。
「でしたら、私たちから事情を説明して、お願いしてみましょう」
勇吉も道の先を覗いた。
「聞いてみるしかねえよな」
「そう簡単じゃないんですよ」
弟が言った。
「何が?」
「ここは昔から、お互いに気を遣って使ってる道なんです。うちの荷車がたまに通るのと、知らない商人の荷車が何台も通るのじゃ、話が違うでしょう」
清兵衛は足元の轍を見た。
「確かに、これだけ跡が残っていると、荷を積んだ車が増えれば傷みも早くなりそうですね」
「そうなんです。雨が降れば、もっと深くなりますから」
勇吉は、さっき歩いてきた道を思い出した。
「そんなに傷むもんなのか?」
「荷を積んだ車が何台も通れば、傷みますよ」
弟は少し笑った。
「勇さんは、道を直したことがありますか?」
「ねえな」
「でしょうね」
「何だよ、その言い方」
「いや、悪い意味じゃありません。通る方は気にしないことでも、住んでる方は気になるってことです」
勇吉は言い返しかけたが、やめた。
さっき納屋の持ち主も、床が傷むことを心配していた。
「荷を置く場所があっても、そこまで運べなきゃ意味がねえからな」
清兵衛がぽつりと言った。
勇吉が振り返ると、清兵衛は道の先を見ていた。
「荷車を通すなら、道のことも考えなきゃならん。小屋だけ借りられても、荷を運び込めなければ困るだろ」
「そりゃそうだけどさ」
「だから、まずは隣の方にお話を聞いてみよう」
清兵衛は弟へ向き直った。
「お手数ですが、お隣へご案内いただけませんか」
「構いませんよ。ただ、向こうが何と言うかは分かりません」
「もちろんです」
*
小屋へ戻る途中、兄が弟へ声を掛けた。
「お前、貸したくないわけじゃないんだろ?」
「そうだよ」
「だったら、もう少し言い方があるだろう」
「兄貴が何でもいいって言うから、俺が聞くんだよ」
「昔から細けえ奴でな」
兄が清兵衛へ笑いかけると、弟はすぐに口を開いた。
「細かくないと、あとで困るんだよ。前みたいにな」
「またその話か」
「忘れた頃に言わないと、兄貴はまた同じことするだろ」
勇吉はとうとう笑ってしまった。
「兄弟ってのも大変だな」
「勇さんも、何かあれば分かりますよ」
弟が言うと、勇吉は肩をすくめた。
「俺はなるべく面倒なことは避けたいね」
「そう言いながら、今日も来てるじゃないですか」
「連れてこられたんだよ」
清兵衛が横から口を挟んだ。
「ちゃんと歩いて来ただろ」
「清さんが先に歩き出したんだろ」
弟も笑った。
先ほどまで少し硬かった表情が、ようやく柔らかくなっていた。
「それで、何を決めておけばいいんだ?」
勇吉が尋ねると、弟は少し驚いたように顔を上げた。
「勇さんも、そこまで考えてくださるんですね」
「何だよ。俺だって話くらい聞くよ」
「そうですね。失礼しました」
弟は笑いながら頷いた。
「まず、いつからいつまで使うのか。それから荷の量と種類。小屋を傷めた時のことも、先に決めておきたいですね」
清兵衛が答えた。
「そのあたりは、加兵衛と相談して書付にまとめてまいります。借り賃も含めて、改めてお話しさせてください」
「分かりました。それなら、こちらも考えておきます」
兄は二人のやり取りを聞きながら、満足そうに頷いていた。
「ほら、話してみりゃ何とかなるもんだろ」
弟は兄を見た。
「まだ何も決まってないよ」
「そうだったな」
兄は笑った。
勇吉もつられて笑ったが、弟の方は、もう一度小屋の戸が閉まっていることを確かめていた。
*
隣の家へ向かう頃には、日がだいぶ傾いていた。
弟が先に立ち、低い垣根に沿って歩いていく。途中、勇吉が轍の深いところへ足を入れかけると、弟が振り返った。
「そこ、気をつけてください。雨の後は水が溜まるんです」
「今は乾いてるから大丈夫だろ」
「そう思って踏むと、足を取られるんですよ」
勇吉は足を引き、少し離れたところへ踏み直した。
「詳しいな」
「毎日通ってますから」
弟は当たり前のように答えた。
家の前では、年配の男が畑仕事の道具を片づけていた。
弟が声を掛けると、男は顔を上げた。
「おう、どうした」
「ちょっと道のことで相談がありまして」
男は勇吉と清兵衛を見た。
「道?」
清兵衛が一歩前へ出た。
「突然お邪魔して申し訳ありません。清兵衛と申します。実は、こちらの小屋をお借りして商いの荷を預かる話がありまして、その際に荷車を通す道について、ご相談に伺いました」
男は手に持っていた道具を脇へ置いた。
「荷車を通すのか」
「はい。ただ、ご迷惑になるようでしたら無理にお願いするつもりはありません。まずは事情を聞いていただければと思いまして」
男は少し考え、それから畑の方へ目を向けた。
「荷車を通すこと自体は構わねえよ」
勇吉はほっとした。
思ったより話が早い。
ところが男は、そこで言葉を切った。
「ただし、一つ頼みがある」
清兵衛は頷いた。
「何でしょう」
男は畑の向こうを指した。
「今度、荷車を通すなら、あの先の道も見てきてくれねえか」
勇吉は指された方を見た。
家と畑の間を抜けた先に、細い道が続いている。そこにも車輪の跡が残っていたが、手前の道より深く、ところどころ土が盛り上がっていた。
「何かあるのか?」
勇吉が尋ねると、男は少し困ったように笑った。
「最近、あそこを通る荷車が増えてな。道が傷んできてるんだよ」
「それなら、直せばいいんじゃねえの?」
「それが簡単じゃねえんだ」
男は道の先へ目を向けた。
「この前の雨の後なんか、荷車が動けなくなってな。近所の者が何人も出て、ようやく引っ張り出したんだ。畑へ行こうにも通れなくなって、えらい迷惑だったよ」
「そんなことがあったのか」
「うちだけの道じゃねえからな。使ってる家が何軒もある。みんな自分のところだけなら直すって言うんだが、その先になると誰も手を出さねえ」
清兵衛は黙って話を聞いていた。
男は続けた。
「昔は、こんなに荷車が通らなかったんだ。たまに通るくらいなら、傷んだところを直して済んだんだがな」
勇吉は道の向こうを見た。
荷車が一台通るには十分そうな道だったが、ところどころに深い轍が残っている。
「つまり、そこを何とかしろってこと?」
「何とかしてくれとは言わねえよ。ただ、荷を運ぶなら、あそこも通ることになるだろう?」
清兵衛はゆっくり頷いた。
「そうですね。通らせていただく以上、こちらも考えなければなりませんね」
「だったら、一度見ておいてくれ。通すかどうかは、それから考えよう」
清兵衛は道の先を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「道を直すとなれば、人も銭も要りますね」
男が頷いた。
「そういうことだ」
「こちらだけで勝手に決められる話でもありませんし、荷を預かることで得られるものと、直すための負担も考えなければなりません」
清兵衛は男へ向き直った。
「明日の朝、道の様子を確かめさせていただいてもよろしいでしょうか。そのうえで、どなたにお話を通せばよいのかも教えていただければと思います」
「それなら構わねえよ」
男は頷いた。
「ただ、あそこを使ってる家は何軒もあるからな。俺一人で決められることじゃねえ」
「承知しています」
清兵衛が頭を下げると、男も軽く頷いた。
勇吉は二人の話を聞きながら、清兵衛の顔を覗き込んだ。
「なあ、清さん」
「何だ」
「俺たち、荷物置く場所を探してたんだよな?」
「ああ」
「何で道を直す話になってんの?」
清兵衛は少し考え、それから小さく笑った。
「荷車を通そうとしたからだろ」
「そりゃそうだけどさ……」
勇吉はもう一度、道の先を見た。
細い道は家々の間を抜け、その向こうで中山道へつながっている。そこを荷車が通るようになれば便利になるだろうが、そのためには、まだ何人もの話を聞かなければならないらしい。
「面倒くせえなあ」
勇吉が呟くと、隣家の男が笑った。
「だから今まで、誰も手をつけなかったんだよ」
清兵衛は笑わなかった。
道の先をじっと見つめている。
勇吉はその横顔を見て、嫌な予感がした。
清兵衛がこういう顔をする時は、大抵ろくなことにならない。
「……清さん?」
返事はなかった。
「おい、清さん」
「勇吉」
「何だよ」
「明日の朝、もう一度ここへ来よう」
勇吉は目を閉じた。
やっぱりだ。
「俺、明日も仕事あるんだけど」
「分かってる。朝のうちに済ませるつもりだ。それに、道のことを知ってる奴も呼ぶ」
「俺が行っても役に立たねえだろ」
「そうとも限らん。今日みたいに、気づいたことを言ってくれりゃいい」
勇吉は少し考えた。
「朝だけだぞ」
「ああ」
「昼までには戻るからな」
「分かったよ」
清兵衛は笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「明日の夕方には、五台分の荷を預かれるかどうか返事をしなきゃならねえ。小屋のことも道のことも、朝のうちに見込みを立てたいんだ」
「間に合うのか?」
「分からん。だから、できるところまで確かめる」
勇吉はため息をついた。
「清さんも大変だな」
「お前もな」
「俺まで入れるなよ」
清兵衛は笑いながら、もう一度道の先へ目を向けた。
その先では、夕暮れの中を一台の荷車がゆっくりと進んでいた。
車輪が深い轍にはまり、荷台が大きく傾く。御者が慌てて馬を止め、積んでいた荷が崩れないよう縄を確かめている。
「おいおい、大丈夫かよ」
勇吉は思わず一歩踏み出した。
清兵衛もすぐに歩き始めた。
「ちょっと見てくる」
「だから、俺は帰るって言ってんだろ!」
そう言いながら、勇吉も後を追った。
夕暮れの道に、荷車の車輪が軋む音が響いていた。




