4、災厄を断つ
最初に聞こえたのは、剣の音ではなかった。
足音だった。
重く、短く、迷いのない足音。
石の回廊をまっすぐこちらへ来る音が、甘い匂いの奥からはっきり近づいてくる。
リリアは息を呑んだ。
来た。
胸の奥で、そう思う。
思った瞬間、別の恐怖も同じだけ強く跳ね返ってきた。
来てしまった。
また、来てしまった。
一度目の夜も、父は来た。
黒い温室。甘い匂い。剣の光。
最後に来たのに、最後まで見てもらえなかったと思っていた夜。
二度目の今、その足音は同じように重い。
同じように迷いがない。
だからこそ、膝が笑う。
オルタンシアがゆっくり振り返る。
その動きに焦りはない。
むしろ、ずっと待っていた人を迎えるような静けさだった。
「来たのね、レオンハルト」
温室の前に立つ伯母の声は、まだやわらかい。
白い衣の裾だけが、黒玻璃の前でやけに明るく見える。
回廊の闇を裂いて、父が現れる。
黒い軍装。
抜き放たれた剣。
灰銀の目。
けれど一度目と決定的に違ったのは、その目が最初からリリアを見ていたことだった。
温室ではない。
伯母でもない。
黒く膨らみかけた影でもない。
まず、リリアを見る。
その視線が届いた瞬間、胸の奥で何かがひどく痛んだ。
見られている。
今、ちゃんと。
父は足を止めない。
だが、まっすぐ温室へ向かうのでもなかった。
一歩ごとに、黒い気配とリリアの位置を測るように進んでくる。
「動くな」
低い声だった。
誰に向けたものか、一瞬わからない。
伯母か。
黒花か。
それともリリアか。
けれど父の目は、まだリリアから逸れていなかった。
「そこを離れるな」
今度はわかった。
リリアへ向けた声だ。
一度目には、そういう命令はなかった。
リリアの喉が熱くなる。
でも足はまだ動かない。
黒玻璃が背に冷たく、甘い匂いが濃すぎる。
目を逸らせば、そのまま温室の方へ引かれてしまいそうで、かえって動けなかった。
オルタンシアが、ひどく静かに息をつく。
「そんな声を出さなくてもいいでしょう」
やわらかな声だった。
「この子はもう、十分に怖がっているわ」
父は答えない。
その沈黙のまま、さらに一歩近づく。
温室の黒いガラスの内側で、影が大きく蠢いた。
花弁の形を取りかけた闇が、ゆっくりリリアの肩へ蔓を伸ばそうとする。
リリアは息を呑んだ。
来る。
絡みつく。
一度目と同じように。
その瞬間、父の剣が閃いた。
速かった。
でも、ただ速いのではない。
一直線にリリアへ向けて振り下ろされるのではなく、その肩のすぐ脇、髪先にも触れないほどのきわどい位置へ、黒い蔓だけを断ち切る軌道だった。
音が遅れて響く。
裂けたのは布でも肉でもない。
濡れた花弁と茨をまとめて引き裂いたような、嫌な音だった。
リリアは思わず目を見開く。
父の剣は、自分へ来なかった。
自分を包みかけていた黒だけを断った。
それがわかった瞬間、膝から力が抜けかける。
オルタンシアの目が、はじめて冷たく細まる。
「見えるのね」
囁くような声だった。
「そこまで、はっきり」
父はようやく伯母へ視線を向けた。
「お前か」
その一言に、飾りは何もなかった。
怒りも、驚きも、問いただす調子もない。
事実を確かめた声だった。
オルタンシアは微笑む。
「そうね」
少しだけ肩をすくめる。
「けれど、わたくしだけのせいにするのは酷だわ。咲くものは咲く。器があれば、なおさら」
「黙れ」
父の声は低いままだった。
「それ以上、そいつへ触れるな」
そいつ、という言い方に、リリアは一瞬だけ伯母ではなく、黒花の方を指したのだとわかった。
オルタンシアも気づいたらしい。
笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「最後まで、そうやって切り分けるつもり?」
「初めから分かれている」
「本当に?」
その問いと同時に、温室の黒いガラスが内側から鳴った。
ぱき、と乾いた音。
細いひびが走る。
そこから甘い匂いが一気に濃くなった。
リリアの視界が揺れる。
──ほら
──また間に合わない
囁きが耳のすぐそばへ落ちてくる。
オルタンシアの声と、夜の囁きが、ほとんど同じ高さで重なる。
「見てごらんなさい、リリア」
伯母はまだやさしい声で言う。
「この人は結局、剣しか持たないのよ」
違う、と言いたい。
けれど甘い匂いが濃すぎて、言葉が喉の奥で絡む。
一度目の夜が胸の中で起き直す。
剣の光。黒い温室。見てもらえない絶望。
目の前の父はちゃんとこちらを見ているのに、身体がそれを信じない。
「リリア」
父が名を呼ぶ。
その声だけが、ほかの音と違う重さで落ちる。
「こっちを見ろ」
短い。
命令の形だ。
けれど、剣より先に来た言葉だった。
リリアは震えながら顔を上げる。
父はもう温室を見ていなかった。
黒い影がガラスの向こうで膨れようとしていても、伯母が何かを囁いていても、灰銀の目はまっすぐリリアを捉えている。
一度目にはなかった目だった。
「息をしろ」
父が言う。
「そこにいろ」
リリアは唇を開いた。
冷たい空気が喉を通る。
浅い。けれど、吸えた。
その一瞬を、父は逃さない。
黒い影が再び温室の割れ目から伸びる。
今度は蔓ではなく、花弁に似た闇の塊だった。
伯母の足もとから這い上がり、リリアへ覆いかぶさろうとする。
父の剣が、もう一度走る。
銀ではなく、黒に近い光だった。
討魔の加護が走るたび、刃の輪郭だけが雪明りより冷たく光る。
二度目の一閃は、さらに深かった。
リリアの前へ半歩だけ滑りこみ、その肩口を庇うような位置で、黒花の核へ刃を突き立てる。
裂ける音。
甘い匂いが一瞬だけ腐り、すぐに冷たい鉄の匂いへ押し返される。
父の腕が、次の瞬間にはリリアの肩を抱いていた。
強くはない。
押しつぶすほどではない。
けれど、後ろへ落ちないよう確かに支える手だった。
リリアは息を呑む。
父の体温が、軍装越しに伝わる。
剣はまだ前へ向いている。
自分を抱えたまま、黒いものだけを切っている。
一度目と違う。
違う、と、今度こそ身体の方が先に知る。
オルタンシアの微笑みが消えた。
「そこまでするのね」
低い声だった。
「娘を抱えたまま、災厄に刃を入れるなんて」
父は答えない。
その代わり、リリアを背へ庇ったまま一歩踏みこむ。
黒花の蔓が伯母の腕に絡み、白い衣へ夜の染みみたいに広がっていく。
それでも伯母の顔に怯えはない。
「この子は器としては上等だったわ」
伯母が言う。
「やさしく育てれば、もっときれいに咲いたのに」
「黙れ」
「あなたが見ないから、わたくしが見てあげただけでしょう」
その一言に、回廊の空気がぴんと張る。
リリアは父の背越しに伯母を見た。
やさしい伯母。
母の話をしてくれた人。
髪を梳いて、怖さに名前をつけてくれた人。
その全部が嘘だったわけではないのだろう。
だから余計に、今の顔が残酷だった。
父の声は、驚くほど静かだった。
「一度目は、見られなかった」
その言葉に、リリアの胸が強く打つ。
「だが今は違う」
伯母が何か言い返すより早く、父の剣が最後に振り抜かれる。
今度の軌道は迷わなかった。
黒花と伯母が結びついている中心だけを、まっすぐ断つ。
白い衣が揺れる。
黒い花弁が雪のように散る。
甘い匂いが濃く広がり、次の瞬間には急速に冷えていく。
オルタンシアの身体が崩れた。
崩れながらも、その顔だけは最後まで穏やかだった。
痛みに歪むのではなく、何かを見誤った人の静かな驚きが残っている。
「……あの人より、あなたの方が」
かすれた声が落ちる。
「よほど、怖いひとね」
それが最後だった。
黒い花弁が床へ落ちる。
甘い匂いは薄れ、代わりに雪と鉄の冷たさだけが残る。
静かだった。
あまりにも静かで、リリアはしばらく何もわからなかった。
終わったのか。
まだ何か来るのか。
自分は切られていないのか。
生きているのか。
父の腕が、まだ肩を支えている。
それでようやく、今も立っているのだと知れる。
「……お父様」
自分の声が、自分のものではないみたいに遠かった。
父はすぐには返事をしない。
剣先についた黒いものを振り落とし、息をひとつだけ整えてから、ようやくこちらを見る。
灰銀の目は、今度もちゃんとリリアを見ていた。
「終わった」
短い声だった。
それだけで十分だった。
リリアはそこでようやく、完全に力を失う。
膝が折れるより先に、父の手が腰を支えた。
抱き上げられるほど軽くではない。
でも落ちないよう、崩れないよう、しっかり支える腕だった。
黒い温室の前で、一度目にはなかった形で。
リリアは父の軍装へ額を押しつけた。
冷たい布。
その下にある、確かな体温。
囁きはもう聞こえない。
甘い匂いも、ほとんど消えている。
父の腕の中で、初めてはっきりわかった。
父の剣は、自分を終わらせるためではなかった。
今夜、それはちゃんと、自分以外のものだけを断ったのだ。




