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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第8章 二度目の冬至祭

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3、黒い温室

祈りが始まってしまえば、あとは静かだった。


礼拝堂の扉が閉まり、外のざわめきが遠のく。

灯は白く並び、磨かれた銀がその明かりをやわらかく返している。

祈祷の声は低く、長く、雪の夜にはよく似合う音だった。


似合いすぎて、リリアには少し怖かった。


前にも、こうして明るかった気がする。

前にも、白い灯があって、人の声があって、その全部の真ん中で自分だけが少しずつ遠くなっていった。


違う、と何度も思う。


今回は父がいる。

礼拝堂の入口に近い柱のそばで、黒いまま立っている。

見慣れた兵もいる。エルナも離れていない。

温室へ続く回廊は閉じられ、甘い匂いのするものも遠ざけられている。


違う。

今回は違う。


そう言い聞かせるたび、胸の奥で別の声がやわらかく笑う。


ほんとうに?


リリアは膝の上で手を重ねた。

祈りのあいだは動かないようにと言われている。

動きたくもなかった。

少しでも動けば、身体の中に潜んでいるものまで揺れそうだった。


祈祷の声が一段低くなる。


そのとき、不意に銀の燭台が視界の端で強く光った。


反射だ。

ただの反射だとわかるのに、白いはずの光の底が一瞬だけ黒く見えた。


黒いガラスみたいに。


リリアの呼吸が止まる。


視線を落とす。

もう見ない。

見なければ大丈夫だと、自分に言い聞かせる。


けれど今度は、匂いがした。


花ではない。

香油でもない。

父が切ったはずの甘さ。


ごく薄いのに、胸の奥だけにはっきり届く。

古い蜜がぬるく溶けたような、夜の底へ続く匂いだった。


リリアは肩をこわばらせる。


隣のエルナがすぐ気づいたらしい。

そっと身を寄せ、声にならないくらい小さく囁く。


「お嬢様」


リリアは首を振ろうとした。

平気ではない。

でも、今ここで「においがする」と言えば、それだけで礼拝堂の空気が変わる。

父はすぐに動くだろう。

人も動く。

皆が動く。


そのことが怖かった。


一度目は、誰にも言えないまま落ちていった。

二度目の今は、言えば動いてくれる人がいる。

それなのに、身体の奥に染みついた古い癖は簡単には消えない。


「……だいじょうぶ」


口だけでそう言うと、エルナは納得していない顔をした。

だが祈りの最中だ。

その場で何かを言い立てることはできない。


礼拝の言葉が続く。


白い灯。

祈りの声。

雪明り。

そして、どこからともなく寄ってくる甘い匂い。


そのすべてが、少しずつ一度目の夜と重なっていく。


──ねえ


耳の奥で、やわらかな声がした。


リリアは目を閉じた。


違う。

聞いてはいけない。

これは伯母の声でも、母の声でもない。

そのどちらにも似ようとする、もっと古いものの声だ。


──もう頑張らなくていいのよ


祈祷の声に混じって、囁きが落ちてくる。


──今年は、もう苦しまなくていい


さっき伯母に言われた言葉と、ほとんど同じだった。


だから、なおさらまずい。

境目がない。

どこからが人の言葉で、どこからが夜の囁きなのかわからない。


リリアは両手をきつく組んだ。

指が痛いくらいに。


そのとき、礼拝堂の外で鈴が鳴った。


祭の区切りを知らせる小さな音。

人が少しだけ動く気配が広がる。

祈祷役が声を変え、侍女が次の段取りへ移るために足を運ぶ。


ほんの短い、整ったざわめきだった。


それだけだったのに、リリアの胸の中では何かが一気にほどけた。


今だ、と囁きが甘くなる。


──静かなところへ行きましょう

──灯のないところへ

──こわいものが見えないところへ


「……っ」


小さく息が漏れる。


エルナがすぐこちらを見る。

同時に、入口の方にいた父の気配が動いたのもわかった。


近づいてくる。


そのこと自体は本来、救いのはずだった。

なのに今は、その一歩が来る前に自分の中の何かが壊れそうになる。


父が遅れないように。

来る前に。

来てしまう前に。


意味のわからない焦りが胸を噛む。


リリアは立ち上がっていた。


自分でも、そうしてから気づいた。


「リリア」


父の声が飛ぶ。


聞こえた。

聞こえたのに、足が止まらない。


「お嬢様!」


エルナの声も、兵の動く音もした。

けれど礼拝堂の中には人が多い。

祭具も、灯も、狭い通り道もある。

ほんの数歩の遅れが、今はとても長く感じた。


リリアは礼拝堂の脇の小扉をくぐる。


そこは主塔へ戻るための脇廊下だ。

温室へ続く道ではない。

だからこそ、父も兵も完全には塞いでいなかった。


伯母は直接、そこへ行けとは言わなかった。

ただ「静かなところ」と言っただけだ。

囁きもまた、そこから先はリリア自身の足に選ばせる。


それがいちばん卑怯だった。


廊下は暗くない。

灯もある。

けれど礼拝堂の白い明るさを見たあとでは、十分すぎるほど影が濃い。


──ほら

──もう少し


甘い匂いが強くなる。


リリアは走っているのか、引かれているのか、自分でもわからなかった。

ただ、止まればその場で何かに追いつかれる気がした。


後ろで足音がする。

父か。

兵か。

わからない。

確かめる勇気はない。


一度目にも、後ろから誰かの足音はしていただろうか。

もう思い出せない。

覚えているのは、温室の黒いガラスと、甘い匂いと、最後の剣だけだ。


曲がり角をひとつ、ふたつ。


脇階段を降りる。

そこは主塔と西棟をつなぐ古い通路で、今は祭の導線から外されている。

本来ならここに人はいない。


なのに、扉は半ば開いていた。


開けたのが誰か、考えない方がよかった。

答えなどわかりきっている。


リリアはその前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。


ここから先へ行けば、もっと戻りにくい。

それはわかる。

怖い。

でも、背後から近づいてくる父の気配を思うと、なぜだか焦りの方が勝った。


また遅かったらどうしよう。

来るのが間に合っても、見分けてもらえなかったら。


その恐怖が、一度目からいちばん深く残っている。


リリアは震える手で、結んでいた細いリボンを解いた。

髪ではなく、袖口に結ばれていた淡い色の細紐だ。


それを、開いた扉の金具へ結びつける。


小さな目印。

父が見つけられるように。

自分が完全に消えないように。


それだけが、今できる精一杯だった。


──えらい子ね


囁きが笑う。


優しい声だった。

吐き気がするほど優しい。


リリアは唇を噛み、扉の向こうへ入った。


その先の空気は、礼拝堂とも主塔とも違った。


冷たいのに湿っている。

甘いのに古い。

石の壁に囲まれているはずなのに、土の奥へ降りていくような気配がある。


温室へ近い。


身体がそれを知って、膝が少し震えた。


もう戻ろう。

今ならまだ戻れる。


そう思うのに、足は前へ出る。

一度目よりはっきり抵抗しているのに、一度目よりも自分の無力さがわかってしまうのがつらかった。


──大丈夫

──誰もあなたを傷つけない

──もう剣も来ないわ


その一言で、リリアの目の奥が熱くなる。


剣。


それを言えるのは、夜の囁きだけだ。

伯母はそこまで口にしない。

だからこそ、もう引き返さなければならないのだと、頭はわかる。


「……いや」


小さく言う。


声は、ほとんど自分の耳にしか届かなかった。


それでも、言った。

一度目には言えなかった「いや」を、今はちゃんと外へ出している。


──それでも来てしまったでしょう


囁きがやわらかく返す。


その通りだった。

否定できない。

いやと言いながら、足はここまで来てしまっている。


回廊の先に、黒いものが見えた。


黒玻璃。


温室の壁だ。


灯の届かない場所で、それだけが夜を固めたみたいに立っている。

一度目と同じ。

夢で何度も見た形。

見た瞬間、膝の力が抜けそうになる。


温室の扉は閉じていた。

けれど隙間から、甘い匂いがはっきり漏れている。


そこへ、やわらかな声が落ちた。


「かわいそうに」


今度は囁きではない。


オルタンシアだった。


温室の前に、伯母が立っている。

淡い衣の裾だけが、黒いガラスの前でやけに白い。

礼拝堂にいたときと同じやさしい顔で、リリアを見ている。


「ここまで一人で来たのね」

伯母の声は低い。

「本当に、頑張り屋さん」


リリアはその場で首を振った。


「……ちがう」

「ええ。知っているわ」

伯母は微笑む。

「来たかったわけではないのよね。でも、つらかったのでしょう」


その言い方が、あまりにも自然だった。


ここへ来てしまったことを責めない。

来たかったわけではないと最初からわかっているように言う。

だから、かえって足がすくむ。


「もう、無理に礼拝堂へ戻らなくていいの」

伯母は一歩も近づかない。

「誰かの前で、平気な顔をしなくていい」

「……」

「ここなら静かよ」


違う。


静かではない。

ここは危ない。

一度目の終わりの場所だ。

それを知っているのに、伯母の声はその知識より先に、疲れた胸へ染みてくる。


リリアは温室の扉を見た。


黒い。

甘い。

いやだ。

それでも扉の向こうから呼ばれている感じがする。


「お父様が」

やっと絞り出す。


伯母は少しだけ目を伏せた。


「ええ。あなたは、あの人に来てほしいのね」

「……くる」

「そうかもしれないわ」


その返事が、わずかに遅い。


一度目と同じだと、胸のどこかが叫ぶ。

来るかもしれない。

でも間に合わないかもしれない。

間に合っても、また見分けてもらえないかもしれない。


その恐怖が強すぎて、逆にもうここで終わってしまいたいような気持ちがよぎる。


伯母はその揺れを見ていたのだろう。


「大丈夫」

と、ほんの少しだけ声を落とす。

「今夜は、もう何も怖くないわ」

「うそ」

「うそではないの」

「……うそ」

今度は少しだけ強く言えた。


伯母の微笑みが、ほんのわずかに薄くなる。


「どうしてそう思うの?」

「……お伯母様が、いるから」


言ってしまってから、自分で驚いた。


伯母が一瞬、黙る。


その沈黙だけで十分だった。


やさしい。

でも安全ではない。

その違いを、リリアはとうとう言葉にしてしまったのだ。


温室の中で、何かがざわめく。


黒い蔓のような影が、ガラスの向こうをゆっくり這った気がした。

甘い匂いが急に濃くなる。


伯母がその気配へ目をやる。


表情は変わらない。

けれどやさしさの奥にあったものが、今度ははっきり見えた。

救いたいのではない。

咲かせたいのだ。


「惜しかったわね」

伯母が言う。

「もう少しだったのに」


何が、とは言わない。

言わなくても、もう十分だった。


リリアは一歩だけ後ずさった。

でも背中がすぐ冷たいガラスに触れる。

逃げ道は狭い。

温室の黒と伯母の白のあいだに、自分だけが立たされている。


甘い匂いで、頭が少しぼうっとする。


──ねえ

──もういいでしょう


囁きがまた戻る。


伯母の声と、夜の囁きが、今はもうほとんど同じ場所から聞こえる。


リリアは目を閉じた。


来て。

遅れないで。

お父様。


その願いだけが、まだ胸の奥で細く残っている。


けれど甘い匂いは濃くなる。

黒い温室が、一度目と同じ形で目の前にある。

膝が折れそうになる。


伯母がようやく一歩だけ近づく。


「大丈夫よ」

その手はまだ触れない。

「今度こそ、あなたはひとりじゃないわ」


違う、と言いたかった。


でも喉はもううまく動かなかった。


リリアは震える指で、自分の袖口を探る。

そこにもうリボンはない。

扉に残してきた。

だから、父は来る。

気づいてくれる。

そのはずだと、自分に言い聞かせる。


温室のガラスに、リリアの顔がぼんやり映る。

白い。

青い。

八歳の子どもの顔だ。


一度目の夜には、その顔を父は最後まで見てくれなかったと思っていた。


二度目の今は、どうだろう。


匂いが濃い。

足がもううまく動かない。

視界の端で、黒い影が花びらの形を取りかけている。


それでも、最後のところでリリアは目を閉じなかった。


扉の向こうから来るはずの足音を、まだ待っていた。

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