2、やさしい手の誘い
振り向く前から、逃げた方がいいとわかっていた。
それなのに、リリアはすぐには動けなかった。
礼拝堂の前には冬至祭の灯が並んでいる。
磨かれた銀の燭台が白く光り、祈りのための布が静かに垂れている。
まわりには人もいる。兵も、侍女も、祈祷役も。
ひとりではない。
ひとりではないのに、伯母の声が落ちた瞬間だけ、その場所の音が薄くなる。
「少しお顔が強ばっているわ」
オルタンシアがリリアの隣へ立つ。
今日の伯母は、祭の日にふさわしい淡い色の衣をまとっていた。
雪の白さに溶けるような薄銀の布で、遠目には冷たく見えるのに、近くへ来ると春先の水みたいなやわらかさがある。
「無理をしなくていいのよ」
低い声が続く。
「こういう日は、見ているだけでも疲れてしまうもの」
責める気配はない。
むしろ、本当に気づかっているように聞こえる。
そこが怖かった。
リリアは礼拝堂の灯ではなく、伯母の袖口を見た。
細い刺繍がある。
母のものだったかもしれないと思わせる、品のいい模様だ。
「……お父様が」
ようやくそれだけ言うと、伯母はやわらかく首を傾けた。
「ええ。レオンハルトは見ているわ」
それから、ごく小さく笑う。
「でも、見ていることと、楽にしてくれることは別でしょう?」
胸の奥がひやりとした。
その言葉は、ずっと前にも聞いた。
聞いて、そのたびに少しだけ楽になった。
今も、言われた瞬間だけ、張りつめていたものがほんの少しゆるむ。
だから、なおさら怖い。
「今日は人も多いし、灯も強いわ」
伯母が周囲へ目をやる。
「少し静かなところで息をつけたらいいのにね」
その言い方は、自然だった。
礼拝堂の前は人の出入りが多い。
祈りの時間が近いせいで足音も絶えない。
侍女が行き交い、銀器の触れあう音まで聞こえる。
たしかに、静かではない。
リリアは黙ったまま、手袋の上から自分の指先を押さえた。
冷えている。
でも、まだ動ける。
伯母の声に流されるまま歩き出したらいけないと、頭のどこかは知っている。
今回は違う。
前よりも、その危うさがわかる。
「……だいじょうぶ」
自分でも驚くほどかすかな声だった。
オルタンシアはすぐには返さなかった。
否定せず、笑いもせず、ただ一度だけリリアの横顔を見る。
「そう」
低く言ってから、ほんの少しだけ身をかがめた。
「でも、頑張りすぎる必要はないわ」
その近さに、リリアの肩が固くなる。
前なら、それだけで一歩引いていただろう。
あるいは、何も言えないまま伯母の言葉の方へ体が傾いていたかもしれない。
けれど今は、かろうじて足を止めていられる。
「……エルナ、戻る」
「戻る前に、少しだけ外の空気を吸いましょうか」
伯母の声はあくまでやさしい。
無理に腕を引いたりしない。
ただ、別の選択肢をそっと目の前へ置いてくる。
「礼拝堂の裏手は静かよ。雪明りもきれい」
「……」
「ほんの少しだけ。人の声が遠い場所へ行って、落ち着いたら戻ればいいわ」
礼拝堂の裏手。
それは温室へ続く道ではない。
少なくとも、すぐにはそうではない。
だから余計に断りにくい。
完全な嘘ではない。
まっすぐ破滅へ誘っているわけでもない。
ただ、少しだけ人の輪から外す。
少しだけ父の視線の届きにくい方へ寄せる。
伯母はそういうやり方をする。
リリアは唇を引き結んだ。
行きたくない。
でも、ここにこのまま立っているのも苦しい。
礼拝堂の灯が明るすぎる。
人の声が多い。
父の足音が近いとわかるぶん、自分の呼吸の乱れがよけいにはっきりしてしまう。
伯母は、そこへぴたりと指をかけてくる。
「今年は、もう苦しまなくていいのよ」
その一言で、胸の奥が強く揺れた。
もう苦しまなくていい。
甘い言葉だった。
あまりにも甘くて、一度目の夜に聞いた声の続きを思わせる。
それでも伯母の口から言われると、夜の囁きよりずっと人の言葉に近い。
だから、危ない。
リリアは小さく首を振った。
「……だめ」
やっと出たのは、その一言だった。
伯母の目がわずかに細くなる。
怒ったわけではない。
むしろ、少し驚いたようにも見えた。
「だめ?」
「……お父様が、遅れないって」
言いながら、自分の声が震えているのがわかる。
「だから」
そこまで言って、リリアはようやく気づく。
自分は今、伯母に対して父を理由に断っている。
前ならできなかった。
伯母のやさしさの前では、父の怖さの方が先に立ってしまっていた。
今は違う。
怖いままでも、父が来ると言ったことを支えにできる。
伯母はしばらく黙っていた。
その沈黙の間だけ、礼拝堂の前のざわめきがまた少し戻る。
銀器の音。遠い祈祷の声。誰かの靴音。
やがて伯母は、ひどく静かな声で言った。
「そう」
それから、少しだけ悲しそうに笑う。
「でも、あの人はいつだって遅いわ」
その一言が、リリアの胸をまっすぐ刺した。
一度目に遅かったことを、伯母は知っているのかもしれない。
知らなくても、そう言えてしまう。
その残酷さが、今日ははっきり見えた。
「ちがう」
リリアは反射みたいに言った。
言ってから、自分で驚く。
伯母の目が動く。
「違う?」
「……こんどは」
言葉がうまくつながらない。
それでも、黙ったらいけない気がした。
「こんどは、ちがう」
その瞬間、伯母のやわらかな表情に、ごくわずかな影が差した。
すぐ消えた。
見間違いかと思うほどの一瞬だった。
けれどリリアは、今度は見逃さなかった。
この人は、やさしいだけではない。
やさしい顔の下に、こちらが父を選ぶことを望まない何かがある。
その違和感が、はじめて輪郭を持った。
伯母はそれでも微笑んだ。
「あなたがそう思いたいなら、それでもいいわ」
囁くような声だった。
「でも、つらくなったらすぐにいらっしゃい。礼拝堂の裏は静かよ」
そう言って、伯母は無理に手を伸ばさなかった。
触れず、引かず、ただ道だけを示して一歩引く。
それがまた巧みだった。
無理に連れて行かれたのではないと思わせる。
自分で選んでしまえる余地を残す。
その余地こそが、いちばん危ないのに。
そのとき、後ろで重い足音が止まった。
父ではない。
カイでもない。
兵の足音だ。
「お嬢様」
見慣れた兵が一礼する。
「お時間です」
伯母は何も言わず、ただ微笑んだままリリアを見る。
どうするの、と問うでもなく、急かすでもなく。
リリアは兵の方を見た。
それからもう一度、伯母を見る。
礼拝堂の裏手は静かだろう。
少しだけなら、息もつきやすいかもしれない。
伯母の言うことは、半分くらい本当だ。
だから怖い。
リリアは息を吸った。
「……いかない」
今度は少しだけはっきり言えた。
兵が目を伏せる。
伯母は微笑みを崩さない。
「そう」
その声は、少しも責めていなかった。
「あなたが決めたなら、それでいいわ」
やさしい。
でも、そのやさしさの奥にあるものを、もう前みたいには信じられない。
伯母はそこで踵を返すでもなく、礼拝堂の灯の向こうへ視線をやった。
「祭が終わるまで、ずいぶん長いわね」
独り言みたいな声だった。
その一言のあと、伯母は本当に何もせず離れていく。
衣擦れの音だけ残して、人の流れの中へ消えていく。
兵がもう一度頭を下げた。
「旦那様がお待ちです」
その言葉で、リリアの背筋が少しだけ伸びる。
怖いままでも、足を動かせる。
兵のあとについて歩き出しながら、リリアは自分の手を見た。
震えてはいる。
でも、さっきのように伯母の方へ一歩出そうとはしていない。
礼拝堂の中へ入ると、空気はさらに白かった。
祈りのための灯が列をなし、磨かれた銀が光を跳ね返している。
祝祭の明るさなのに、どこか冷たい。
一度目の夜も、きっとこういう光だったのだと思う。
父は礼拝堂の奥までは入っていなかった。
入口に近い柱のそばで立ち、まわりの動きを見ている。
こちらに気づくと、目だけが寄越される。
その視線に、リリアは少しだけ足を止めかけた。
けれど伯母のさっきの言葉が、まだ耳の端に残っている。
あの人はいつだって遅いわ。
違う。
今回は違う。
そう思いたいだけかもしれない。
それでも、今はその“思いたい”を手放したくなかった。
父が短く問う。
「どうした」
近づきすぎない距離だった。
前より少し離れて立っている。
それも、この人なりの気遣いなのだと、今ならわかる。
リリアは答える前に、ほんの少し迷った。
伯母が来たことを言うべきか。
礼拝堂の裏手へ誘われたことを。
前なら黙っていただろう。
言えば何かが動く。
その動く音が怖くて、何も言えなかった。
でも今は違う。
「……お伯母様が、いた」
父の目がわずかに細くなる。
「何を言った」
「静かなところ、行こうって」
「ほかは」
リリアは喉を鳴らす。
「……今年は、もう苦しまなくていいって」
父はそこで何も言わなかった。
怒りもしないし、すぐ命令も飛ばさない。
ただ、目に見えない何かをさらに一段深く確かめたように、沈黙が重くなる。
やがて低く落ちる。
「離れるな」
「……うん」
「エルナ」
「はい」
いつのまにか戻っていたエルナが、すぐそばへ来る。
父はさらに兵へ短く指示を飛ばした。
礼拝堂の裏手に誰を置くか、どの扉を閉じるか、その全部を短く、迷いなく。
それを聞きながら、リリアは胸の奥が少しだけ静まっていくのを感じた。
伯母のやさしい誘いに、前より長く耐えられた。
しかも、父へちゃんと言えた。
それでも、夜はまだ始まったばかりだ。
礼拝堂の灯は白く揺れている。
祈りの声が遠くで重なる。
そしてその明るさの向こうで、黒い温室はきっと今も黙って待っている。
祭はまだ終わらない。
むしろ、ここからだと、リリアにはわかっていた。




