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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第8章 二度目の冬至祭

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2、やさしい手の誘い

振り向く前から、逃げた方がいいとわかっていた。


それなのに、リリアはすぐには動けなかった。


礼拝堂の前には冬至祭の灯が並んでいる。

磨かれた銀の燭台が白く光り、祈りのための布が静かに垂れている。

まわりには人もいる。兵も、侍女も、祈祷役も。

ひとりではない。

ひとりではないのに、伯母の声が落ちた瞬間だけ、その場所の音が薄くなる。


「少しお顔が強ばっているわ」


オルタンシアがリリアの隣へ立つ。


今日の伯母は、祭の日にふさわしい淡い色の衣をまとっていた。

雪の白さに溶けるような薄銀の布で、遠目には冷たく見えるのに、近くへ来ると春先の水みたいなやわらかさがある。


「無理をしなくていいのよ」

低い声が続く。

「こういう日は、見ているだけでも疲れてしまうもの」


責める気配はない。

むしろ、本当に気づかっているように聞こえる。


そこが怖かった。


リリアは礼拝堂の灯ではなく、伯母の袖口を見た。

細い刺繍がある。

母のものだったかもしれないと思わせる、品のいい模様だ。


「……お父様が」

ようやくそれだけ言うと、伯母はやわらかく首を傾けた。


「ええ。レオンハルトは見ているわ」

それから、ごく小さく笑う。

「でも、見ていることと、楽にしてくれることは別でしょう?」


胸の奥がひやりとした。


その言葉は、ずっと前にも聞いた。

聞いて、そのたびに少しだけ楽になった。

今も、言われた瞬間だけ、張りつめていたものがほんの少しゆるむ。


だから、なおさら怖い。


「今日は人も多いし、灯も強いわ」

伯母が周囲へ目をやる。

「少し静かなところで息をつけたらいいのにね」


その言い方は、自然だった。


礼拝堂の前は人の出入りが多い。

祈りの時間が近いせいで足音も絶えない。

侍女が行き交い、銀器の触れあう音まで聞こえる。

たしかに、静かではない。


リリアは黙ったまま、手袋の上から自分の指先を押さえた。

冷えている。

でも、まだ動ける。


伯母の声に流されるまま歩き出したらいけないと、頭のどこかは知っている。

今回は違う。

前よりも、その危うさがわかる。


「……だいじょうぶ」

自分でも驚くほどかすかな声だった。


オルタンシアはすぐには返さなかった。

否定せず、笑いもせず、ただ一度だけリリアの横顔を見る。


「そう」

低く言ってから、ほんの少しだけ身をかがめた。

「でも、頑張りすぎる必要はないわ」


その近さに、リリアの肩が固くなる。


前なら、それだけで一歩引いていただろう。

あるいは、何も言えないまま伯母の言葉の方へ体が傾いていたかもしれない。


けれど今は、かろうじて足を止めていられる。


「……エルナ、戻る」

「戻る前に、少しだけ外の空気を吸いましょうか」


伯母の声はあくまでやさしい。

無理に腕を引いたりしない。

ただ、別の選択肢をそっと目の前へ置いてくる。


「礼拝堂の裏手は静かよ。雪明りもきれい」

「……」

「ほんの少しだけ。人の声が遠い場所へ行って、落ち着いたら戻ればいいわ」


礼拝堂の裏手。


それは温室へ続く道ではない。

少なくとも、すぐにはそうではない。

だから余計に断りにくい。


完全な嘘ではない。

まっすぐ破滅へ誘っているわけでもない。

ただ、少しだけ人の輪から外す。

少しだけ父の視線の届きにくい方へ寄せる。

伯母はそういうやり方をする。


リリアは唇を引き結んだ。


行きたくない。

でも、ここにこのまま立っているのも苦しい。

礼拝堂の灯が明るすぎる。

人の声が多い。

父の足音が近いとわかるぶん、自分の呼吸の乱れがよけいにはっきりしてしまう。


伯母は、そこへぴたりと指をかけてくる。


「今年は、もう苦しまなくていいのよ」


その一言で、胸の奥が強く揺れた。


もう苦しまなくていい。


甘い言葉だった。

あまりにも甘くて、一度目の夜に聞いた声の続きを思わせる。

それでも伯母の口から言われると、夜の囁きよりずっと人の言葉に近い。


だから、危ない。


リリアは小さく首を振った。


「……だめ」

やっと出たのは、その一言だった。


伯母の目がわずかに細くなる。

怒ったわけではない。

むしろ、少し驚いたようにも見えた。


「だめ?」

「……お父様が、遅れないって」

言いながら、自分の声が震えているのがわかる。

「だから」


そこまで言って、リリアはようやく気づく。


自分は今、伯母に対して父を理由に断っている。


前ならできなかった。

伯母のやさしさの前では、父の怖さの方が先に立ってしまっていた。

今は違う。

怖いままでも、父が来ると言ったことを支えにできる。


伯母はしばらく黙っていた。


その沈黙の間だけ、礼拝堂の前のざわめきがまた少し戻る。

銀器の音。遠い祈祷の声。誰かの靴音。


やがて伯母は、ひどく静かな声で言った。


「そう」

それから、少しだけ悲しそうに笑う。

「でも、あの人はいつだって遅いわ」


その一言が、リリアの胸をまっすぐ刺した。


一度目に遅かったことを、伯母は知っているのかもしれない。

知らなくても、そう言えてしまう。

その残酷さが、今日ははっきり見えた。


「ちがう」


リリアは反射みたいに言った。

言ってから、自分で驚く。


伯母の目が動く。


「違う?」

「……こんどは」

言葉がうまくつながらない。

それでも、黙ったらいけない気がした。

「こんどは、ちがう」


その瞬間、伯母のやわらかな表情に、ごくわずかな影が差した。


すぐ消えた。

見間違いかと思うほどの一瞬だった。

けれどリリアは、今度は見逃さなかった。


この人は、やさしいだけではない。


やさしい顔の下に、こちらが父を選ぶことを望まない何かがある。


その違和感が、はじめて輪郭を持った。


伯母はそれでも微笑んだ。


「あなたがそう思いたいなら、それでもいいわ」

囁くような声だった。

「でも、つらくなったらすぐにいらっしゃい。礼拝堂の裏は静かよ」


そう言って、伯母は無理に手を伸ばさなかった。

触れず、引かず、ただ道だけを示して一歩引く。


それがまた巧みだった。


無理に連れて行かれたのではないと思わせる。

自分で選んでしまえる余地を残す。

その余地こそが、いちばん危ないのに。


そのとき、後ろで重い足音が止まった。


父ではない。

カイでもない。

兵の足音だ。


「お嬢様」

見慣れた兵が一礼する。

「お時間です」


伯母は何も言わず、ただ微笑んだままリリアを見る。

どうするの、と問うでもなく、急かすでもなく。


リリアは兵の方を見た。

それからもう一度、伯母を見る。


礼拝堂の裏手は静かだろう。

少しだけなら、息もつきやすいかもしれない。

伯母の言うことは、半分くらい本当だ。

だから怖い。


リリアは息を吸った。


「……いかない」

今度は少しだけはっきり言えた。


兵が目を伏せる。

伯母は微笑みを崩さない。


「そう」

その声は、少しも責めていなかった。

「あなたが決めたなら、それでいいわ」


やさしい。


でも、そのやさしさの奥にあるものを、もう前みたいには信じられない。


伯母はそこで踵を返すでもなく、礼拝堂の灯の向こうへ視線をやった。


「祭が終わるまで、ずいぶん長いわね」


独り言みたいな声だった。


その一言のあと、伯母は本当に何もせず離れていく。

衣擦れの音だけ残して、人の流れの中へ消えていく。


兵がもう一度頭を下げた。


「旦那様がお待ちです」


その言葉で、リリアの背筋が少しだけ伸びる。


怖いままでも、足を動かせる。


兵のあとについて歩き出しながら、リリアは自分の手を見た。

震えてはいる。

でも、さっきのように伯母の方へ一歩出そうとはしていない。


礼拝堂の中へ入ると、空気はさらに白かった。


祈りのための灯が列をなし、磨かれた銀が光を跳ね返している。

祝祭の明るさなのに、どこか冷たい。

一度目の夜も、きっとこういう光だったのだと思う。


父は礼拝堂の奥までは入っていなかった。

入口に近い柱のそばで立ち、まわりの動きを見ている。


こちらに気づくと、目だけが寄越される。


その視線に、リリアは少しだけ足を止めかけた。

けれど伯母のさっきの言葉が、まだ耳の端に残っている。


あの人はいつだって遅いわ。


違う。

今回は違う。

そう思いたいだけかもしれない。

それでも、今はその“思いたい”を手放したくなかった。


父が短く問う。


「どうした」


近づきすぎない距離だった。

前より少し離れて立っている。

それも、この人なりの気遣いなのだと、今ならわかる。


リリアは答える前に、ほんの少し迷った。


伯母が来たことを言うべきか。

礼拝堂の裏手へ誘われたことを。

前なら黙っていただろう。

言えば何かが動く。

その動く音が怖くて、何も言えなかった。


でも今は違う。


「……お伯母様が、いた」


父の目がわずかに細くなる。


「何を言った」

「静かなところ、行こうって」

「ほかは」

リリアは喉を鳴らす。

「……今年は、もう苦しまなくていいって」


父はそこで何も言わなかった。

怒りもしないし、すぐ命令も飛ばさない。

ただ、目に見えない何かをさらに一段深く確かめたように、沈黙が重くなる。


やがて低く落ちる。


「離れるな」

「……うん」

「エルナ」

「はい」


いつのまにか戻っていたエルナが、すぐそばへ来る。

父はさらに兵へ短く指示を飛ばした。

礼拝堂の裏手に誰を置くか、どの扉を閉じるか、その全部を短く、迷いなく。


それを聞きながら、リリアは胸の奥が少しだけ静まっていくのを感じた。


伯母のやさしい誘いに、前より長く耐えられた。

しかも、父へちゃんと言えた。


それでも、夜はまだ始まったばかりだ。


礼拝堂の灯は白く揺れている。

祈りの声が遠くで重なる。

そしてその明るさの向こうで、黒い温室はきっと今も黙って待っている。


祭はまだ終わらない。


むしろ、ここからだと、リリアにはわかっていた。

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