1、冬至祭の灯
冬至祭の朝は、まだ暗いうちから始まっていた。
廊下を行き交う足音が、いつもより早い。
燭台を磨く布の音、銀器を重ねる音、遠くの厨房から立つ湯気の匂い。
窓の外はまだ青黒いのに、城の中だけが先に目を覚ましている。
リリアは寝台の上で目を開けたまま、その気配を聞いていた。
眠れなかったわけではない。
けれど、深くも眠れなかった。
目を閉じるたび、見たくないものより先に、今日という日付だけがはっきり胸に落ちてきたからだ。
冬至祭。
一度目の夜と同じ日だと、身体が知っている。
エルナが静かに寝室へ入ってくる。
いつもの朝より声をひそめているのは、こちらを気遣ってというより、城全体がそういう空気だからだろう。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
リリアは小さく頷いた。
エルナはそれ以上、眠れましたかとも、大丈夫ですかとも聞かなかった。
ただ、白湯を置き、暖炉の火を少しだけ強くする。
いつも通りの順番で、いつも通りの手で朝を進めていく。
それがありがたかった。
けれど今日は、そのいつも通りさえ、どこか祭の前の仮の静けさに見える。
白湯を口に含む。
ぬるさはちょうどいい。
喉を通る熱はやさしいのに、胸の奥までは届かない。
「今日は、主塔側から礼拝堂へ向かうことになっております」
支度の途中、エルナが髪を整えながら言った。
「中庭は使いません」
「……うん」
「旦那様のご指示です」
知っている。
ここ数日で、父がどれだけ細かく夜を組み替えたか、もうリリアにも少しは見えるようになっていた。
温室へ続く回廊は閉じられ、花は遠ざけられ、甘い匂いのするものは祭の卓から外された。
見慣れない侍女は西棟へ近づかず、兵の顔ぶれまでそろえられている。
備えているのだ、とわかる。
わかるのに、不安は消えない。
髪を結われながら、リリアは窓の方を見た。
外はいつのまにか白んでいる。
積もった雪が朝の光を返して、城壁も中庭も、どこもひどく白い。
白いのに、冷たい。
明るいのに、夜の続きみたいだ。
祭服へ着替えると、その感覚はもっと強くなった。
淡い色の布。
いつもより少しよそゆきの襟元。
きれいに整えられた袖。
鏡はない。
それでも、自分が今日はいつもと違う形に整えられているのがわかる。
そのことが、なぜだか一度目の夜を近づける。
「きつくはございませんか」
エルナが帯を直しながら問う。
リリアは答えようとして、少し遅れた。
きついのは布ではない。
息の方だ。
「……へいき」
口にした途端、それが嘘だとわかった。
前なら、それで終わっていた。
平気ではなくても、平気と言ったままやり過ごしていた。
でも今は、その一言が喉のところでひっかかる。
エルナの手が止まる。
「お嬢様?」
「……平気じゃない」
自分でも驚くほど小さな声だった。
それでも、ちゃんと外へ出た。
エルナはすぐには何も言わなかった。
ただ、締めかけた紐をいったんゆるめる。
「少しお苦しいのですね」
「……うん」
それ以上うまく言えない。
苦しい。
でも何が、と問われたら困る。
祭服の布も、部屋の温度も、エルナの手も悪くない。
ただ、今日が冬至祭であることだけが、胸の奥をじわじわ狭くする。
そのとき、扉の外で足音が止まった。
短く、重く、迷いのない足音。
父だった。
エルナが一歩下がる。
リリアの肩が、考えるより先に固くなる。
扉が開く。
黒い軍装のまま、父が部屋へ入ってくる。
祭の日だからといって飾り立てたところは何もない。
いつもと同じ黒。
いつもと同じ灰銀の目。
けれど、その変わらなさが今は救いにも見えた。
父はまず部屋を見る。
暖炉、窓、祭服、エルナ、そしてリリア。
視線は順に動き、最後にリリアの顔で止まる。
「支度は」
「整っております」
とエルナが答える。
父は頷きもせず、もう一度だけリリアを見た。
「顔色が悪い」
率直だった。
優しくはない。
でもごまかしもない。
リリアは父を見返した。
少し前の自分なら、ここで目を逸らしていただろう。
けれど今日は、逸らす前に言わなければならない気がした。
喉がからからだった。
それでも口を開く。
「……遅れないで」
言えた、と思ったのは、言ってしまったあとだった。
部屋が静かになる。
エルナは息をのんだが、何も言わない。
父だけが、その言葉をそのまま受けている。
一度目には、遅かった。
そのことを、自分は今、ほとんどそのまま言ってしまったのだと、少し遅れてわかる。
父はしばらく黙っていた。
長くもなく、短くもない沈黙だった。
軽く返してはいけないと知っている人の間だった。
「遅れない」
落ちた声は低く、いつも通り短い。
けれど、その短さの中に迷いがない。
リリアはそれを聞いて、ほんの少しだけ息を吐いた。
安心、と呼ぶにはまだ細すぎる。
でも、胸の奥で固くなっていたものの一部が、たしかにゆるむ。
父はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、エルナへ視線を向ける。
「甘い匂いのするものは近づけるな」
「はい」
「礼拝堂の前で止める。中へ入れる時間は俺が決める」
「かしこまりました」
全部、命令の形だ。
それなのに、今日の父の言葉はどれも、同じところへ向いているとわかる。
自分を一人であの夜へ近づけないために。
父が出ていったあと、エルナはそっと肩へ手を置いた。
「旦那様は、遅れないと仰いました」
リリアは小さく頷く。
言葉だけなら、まだ信じきれない。
でも父は、言ったことをそのまま配置に変えてきた。
灯りを増やし、花を切り、鍵を持ち、道を変えた。
その積み重ねがあるから、たった四文字が胸に残る。
昼が近づくにつれ、城の中の気配はさらに濃くなった。
礼拝堂へ運ばれる祭具。
祈祷役の声。
磨かれた銀の燭台。
焼き菓子の代わりに出された温かなスープの匂い。
いつもなら花で満ちるはずの廊下が、今日は火と金属と雪の匂いしかしない。
そこにも父の手が入っているのだとわかる。
それでも、冬至祭は冬至祭だった。
灯が増える。
人の気配が多い。
遠くから聞こえるざわめきが、城全体を少しだけ浮かせている。
皆にとっては祝祭なのだろう。
けれどリリアにとって、その明るさはかえって不穏だった。
明るいほど、影の場所が気になる。
人が多いほど、ひとりになったときの冷たさが近く感じられる。
主塔側の廊下へ出ると、灯具はいつもより多く、黒いところがほとんどなかった。
兵もみな見慣れた顔だ。
カイが少し先で立っていて、こちらを見ると、黙って一礼した。
そのさらに向こうに父がいる。
後ろにつく、と昨夜言っていた通り、今日は父が前ではなく少し離れた位置を取っていた。
前から近づかれると、まだ身体の奥がこわばる。
でも後ろにいてくれるなら、逃げ道を塞がれる感じがしない。
それを、この人は覚えたのだ。
そう思うと、胸の奥に小さな熱が差す。
礼拝堂へ向かう途中、雪明りが高い窓から細く落ちていた。
白い。
冷たい。
きれいなくせに、なぜだか最初の冬至祭の夜と同じ色をしている。
リリアは無意識に指を握りかけ、そこで止めた。
今はまだ大丈夫。
まだ父の足音が後ろにある。
まだ温室の匂いもしていない。
けれど、祭が始まればどうなるのだろう。
祈りの声。
灯。
白い息。
雪。
人のざわめき。
一度目と同じものが、今夜も揃っていく。
礼拝堂の前まで来たところで、エルナが一瞬だけ別の侍女に呼ばれた。
祭具のことで確認があるらしい。
エルナはすぐ戻りますと囁いて、ほんの二、三歩だけ離れる。
たったそれだけの隙間だった。
なのに、その隙間へ落ちてくる声は、あまりにもやわらかかった。
「怖いなら、無理に笑わなくていいのよ」
振り向かなくてもわかる。
伯母だ。
その声を聞いた瞬間、礼拝堂の灯が急に一度目の夜と同じ色に見えた。




