4、冬至祭の支度
父が「行く」と言ってから、城の夜はあからさまに形を変えた。
変わったのは1つではない。
灯りの位置。
夜番の立つ場所。
西棟から主塔へ抜ける回廊の開閉。
侍女の出入り。
温室へ近づくための鍵の所在。
細かいものまで数えれば、たぶんリリアの知らないところでももっと多くの何かが組み替えられている。
けれど、目に見える変化はいつも同じだった。
暗がりが減る。
扉が勝手に開かない。
見慣れない顔がいなくなる。
そして、父の足音が夜ごと少し近くなる。
西棟の者たちは、それについて何も言わない。
ただ「旦那様のご指示で」とだけ言って、昨日までと違う手順を自然に通していく。
その言葉が今では、リリアを黙らせるためのものではなく、夜を切り分けるためのものに聞こえるようになっていた。
冬至祭まで、あと五日。
その数字を口にしたのは、エルナではなくカイだった。
主塔の小会議室。
暖炉の火は強く、窓は厚い布で覆われ、外の雪明りもほとんど入らない。卓の上には祭具の配置図、城内の見取り図、回廊の鍵束、そして温室周辺の簡素な図面が置かれていた。
リリアは部屋の隅の小椅子に座っていた。
こういう場へ呼ばれるのは、前ならもっと怖かったはずだ。
大人たちの話は早く、冷たく、何が決まっているのかがわからない。わからないまま置かれるのが苦しかった。
でも今は、少し違う。
自分のための話だと知っている。
しかも父は、今夜のこれは自分を責めるためではなく、守るための支度なのだと、ちゃんと行動で見せている。
怖さが消えたわけではない。
それでも、部屋の隅で耳を塞ぎたくなるほどではない。
父は会議卓の中央に立っていた。
黒い軍装のまま、片手を図面へ置き、必要なことだけを短く落としていく。
「温室の鍵は2つとも俺が持つ」
「副官、お前は北回廊を見ろ」
「祭具の搬入は時間を早めろ」
「伯母君は西棟まで。主塔側へは入れるな」
「夜番は見慣れた者だけで固める。交替の間を作るな」
命令が落ちるたび、カイが頷き、侍女長が短く返し、書記役が書き留める。
父は一つも言葉を飾らない。
「心配だから」も、「念のため」も言わない。
ただ、必要だからそうする、という形で現実を変えていく。
その硬さが、今はありがたかった。
「お嬢様」
不意に侍女長に呼ばれ、リリアは顔を上げた。
「冬至祭当日は、例年通りですと夕刻に西棟から中庭を通って礼拝堂へ向かいます。ですが今年は主塔側から回します」
「中庭は使わない」
父が重ねる。
「人目も多い。迂回しろ」
その一言に、カイが図面の上へ指を置く。
「ではこちらの渡り廊下から北階段へ」
「そうだ」
リリアはその図面を見た。
線が何本も引かれている。
扉、回廊、鍵、見張り。
どれも単独で見ればただの段取りだ。けれど今はその全部が、自分を黒い温室へ近づけないために引かれているのだとわかる。
そう思ったとき、胸の奥が少し冷えた。
温室。
その言葉が出るだけで、まだ身体のどこかが硬くなる。
黒いガラス。
湿った甘い匂い。
一度目の夜の終わり。
父はその反応を見たのか、ふいに視線をこちらへ寄越した。
「リリア」
低い声だった。
会議の最中に名を呼ばれると、今でも少し息が詰まる。
けれど前よりはましに、顔を上げられる。
「温室へ入る道は、他にもあるか」
問いは短い。
リリアはすぐには答えられなかった。
地図の上に描かれた道ではなく、自分の記憶の中の道を探さなければならなかったからだ。
一度目の夜、どうやってあそこへ行ったのか。
足で歩いた感触。
囁きに引かれて、暗がりへ寄っていった感じ。
扉を開けたのは自分だったのか、誰かに開かれたのか。
「……わからない」
最初に出たのはそれだった。
父は待つ。
追わない。
その待ち方に、今は少し助けられる。
リリアは図面から目を逸らし、窓の方を見た。
厚い布の向こうに、冬の明るさだけがある。
「でも」
言葉を探す。
「……甘いにおいがすると、近い」
部屋が静かになる。
自分でも、その言い方が曖昧なのはわかった。
でも今言えるのは、それが限界だった。
父は一度だけ頷く。
「香を使うものは切れ」
その命令に、侍女長が即座に頭を下げる。
「花も香油も、祭の間はすべて外します」
「菓子もだ」
と父が続ける。
「甘い匂いの出るものは温室側へ近づけるな」
カイがすぐ書き留める。
リリアはそのやり取りを見て、少しだけ胸が熱くなった。
自分の曖昧な一言が、こうやって現実へ変えられていく。
前なら、それはただの取り乱しとして流されていたかもしれない。
今は違う。
父は、断片のままでも拾って、形にしていく。
「他には」
父が問う。
「何かあるか」
またその問いだ、とリリアは思う。
けれど嫌ではなかった。
怖いままでも、今の父は自分から何かを引きずり出して責めるために聞いているのではない。
足りないものを探すために聞いている。
それが前より少しだけわかるから、答えようと思える。
「……くろい」
口にした瞬間、自分でも少し驚く。
「温室、くろいの」
カイが図面から顔を上げる。
侍女長も、書記役も、父の次の言葉を待つ。
「黒玻璃か」
父が言う。
リリアは小さく頷く。
「昼でも、夜みたい」
「灯りを入れる」
父は即座に決めた。
「温室の外周、礼拝堂側の回廊、全部だ。黒く見えるところを減らせ」
「承知しました」
とカイが答える。
「それから」
と父は続ける。
「祭具の銀燭台を回せ。反射が増える方がいい」
侍女長が短く返す。
「準備いたします」
リリアは膝の上の指を見た。
前なら、こういう場で自分から2つ目のことを言うのは無理だった。
怖い、苦しい、わからない。
そういう塊のまま固まって終わっていた。
今は違う。
全部は言えない。
でも、甘い匂い。黒い温室。そういう断片なら、父へ渡せる。
そのことに、自分であとから気づく。
会議が終わるころには、外はもう夕方の色になっていた。
人が退き、図面が畳まれ、鍵束だけが残る。
最後まで部屋にいたのは、父とカイ、エルナ、リリアだけだった。
カイが書付をまとめながら問う。
「閣下、西棟から礼拝堂へ移す間、お嬢様の護衛は」
「お前が前を行け」
「は」
「俺が後ろにつく」
その一言で、カイの手がわずかに止まる。
だがすぐ「承知しました」とだけ返した。
父が後ろにつく。
それは護衛として不自然ではない。
不自然ではないが、黒狼公ほどの男が自らそう言うことに意味がないはずもない。
カイが退室し、エルナも一礼して廊下へ下がる。
小会議室には、父とリリアだけが残った。
暖炉の火が小さく鳴る。
さっきまでは人がいたから平気だった。
父と二人だけになると、まだ少しだけ呼吸が変わる。
怖さは消えていないのだと、こういうときにはっきりする。
父は図面を片づけなかった。
手を置いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、低く問う。
「無理をしていないか」
それは今までの父の言い方とは少し違っていた。
「疲れたなら休め」ではない。
命令ではなく、確かめるための問いだった。
リリアはすぐには答えられなかった。
無理をしていないか、と聞かれても、よくわからない。
怖い。
でも逃げたくはない。
言うたびに、記憶が少しだけ形を持つのも苦しい。
それでも黙ったままの方が、もうもっと苦しい。
「……してる」
小さく言う。
「でも」
その先は少し難しかった。
でも、ちゃんと渡さなければならない気がした。
「……でも、お父様に言ったほうが、まし」
言ってしまったあと、喉が熱くなる。
父は何も言わない。
だが、その沈黙は前みたいに冷たくない。
重いまま、少しだけ近い。
「そうか」
やがてそれだけ返す。
リリアは俯いたまま続ける。
「ほんとは、いや」
「何がだ」
「思い出すの」
言葉が途切れる。
「でも……今年は、ちがうほうがいい」
それは願いに近かった。
祈りとも違う、もっと手触りのある願い。
父はようやく図面から手を離す。
長い指が卓から離れ、わずかに拳の形になりかけて、また戻る。
そんな小さな動きで、この人も自分なりに何かを押さえているのだとわかってしまう。
「違える」
父が言った。
短い。
でも、今この人にできるいちばん深い約束だと、リリアには思えた。
沈黙が落ちる。
リリアは暖炉の火を見た。
一度目の夜も、火はあったのだろうか。
もうそこまでは思い出せない。
けれど今は、目の前にある火の温度がちゃんとわかる。
「お父様」
呼ぶと、父の視線が落ちる。
「当日」
「何だ」
「……おそかったら、いや」
その一言で、父の目がほんのわずかに止まる。
遅かったら嫌。
それは、ただ来てほしいよりずっと具体的な願いだった。
一度目には間に合わなかったのだと、自分で言ってしまっているようなものでもある。
父はそれを否定しない。
「遅れない」
ただそれだけ言う。
飾りのない、冷たいほど短い言葉。
でも、リリアはその短さがよかった。
長く慰められたら、きっとまだ信じられない。
この人は短く言って、その通りに動く方が合っている。
リリアは小さく頷いた。
怖さはまだある。
一度目の夜も、父の剣も、黒い温室も消えていない。
それでも今、自分は父へ「遅かったら嫌」と言えた。
その言葉だけが、胸の奥でまだあたたかかった。
父が図面を畳む。
その音で、会議はもう終わりなのだと知れる。
冬至祭の支度は進んでいる。
同じ夜が来る。
今度こそ、それを変えるための準備も、静かに整っている。
部屋を出ると、主塔の廊下はいつもより明るかった。
灯りが増えたせいで影が薄い。
黒い場所が少ないだけで、胸の奥のざわつきも少しだけ浅くなる。
父は一歩後ろを歩く。
その位置が、今日だけはありがたかった。
前から近づかれると、まだ少し一度目が疼く。
でも後ろにいてくれるなら、逃げ道を塞がれる感じがしない。
それでいて、ちゃんといるとわかる。
その絶妙な距離を、この人が最初から知っていたわけではない。
今までの夜の中で、少しずつ覚えてきたのだ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
窓の外では、冬の空が早く暮れていく。
次の夜。その次の夜。
そして冬至祭。
もう逃げられない再演が、そこまで来ていた。
けれど今度は、ただ同じ夜が来るのではない。
父もまた、その夜へ向かっている。
それだけが、一度目にはなかったことだった。




