3、初花返し
翌日は、朝から雪が細かかった。
大きく降るのではない。
光の中に白い粉が絶えず流れていくような雪で、主塔の窓から見ると、空そのものが薄く削れているみたいに見えた。
リリアは、昨日と同じ書記室の椅子に座っていた。
今日はエルナもいる。
カイもいる。
卓の上には、揺籠布のほかに、産着が二枚、小さな守り袋、母の遺した細箱、そして何冊かの古い帳面が置かれていた。
父は最初から席についていた。
いつもなら立ったまま人を見下ろす方が似合う人なのに、今朝は椅子に腰を下ろし、帳面を一冊ずつ確かめている。座っているのに、部屋の中で一番張りつめて見えるのだから不思議だった。
「これです」
カイが、薄い綴じ冊子を1つ差し出した。
表紙は布張りで、文字も半ば擦れている。
城の記録ではない。母方から持ち込まれたものだと、一目でわかる古さだった。
父は受け取り、開く。
ページをめくる音だけが続く。
書かれているのは日記ではないらしい。
誰それがどうした、というようなことはどこにもない。
短い語句、布の寸法、針目の数、糸の色の違い。
女たちの手の中だけで受け継がれてきたものを、必要な分だけ記した冊子のように見えた。
リリアはそれを眺めながら、卓上の揺籠布から目を逸らせずにいた。
昨日ほど強くはない。
けれど、近くにあるだけで胸の奥がざわつく。
古い糸の匂い。
眠っていた布の匂い。
それに混じる、ごく薄い甘さ。
母の形見、という言葉では足りない。
もっと、夜に近い。
父の指が、冊子のある頁で止まった。
その沈黙で、部屋の空気が変わる。
カイがわずかに顔を上げ、エルナも息を止める。
父だけが何も言わないまま、そこへ書かれたものを見つめていた。
やがて、ひどく低い声が落ちる。
「……初花返し」
初めて聞く言葉だった。
言葉の意味はわからない。
なのに、胸の奥がひどく冷える。
父は同じ頁を、もう一度最初から読む。
読み違いでないと確かめるみたいに。
カイが問う。
「何と」
父は視線を上げないまま答えた。
「術の名だ」
術。
その一言で、書記室の空気がさらに重くなる。
父は冊子を閉じなかった。
開いたまま、今度は揺籠布の縁へ視線を移す。
「針子頭」
昨日と同じ女が一歩進み出る。
「はい」
「ここの針目をほどけ」
女は目を見開いた。
「ですが」
「少しでいい。端だけだ」
逆らえず、針子頭が小さな針を受け取る。
揺籠布の縁、二重になった折り返しのほんの一部へ爪をかけ、慎重に糸を抜いていく。
ひと針。
ふた針。
みっつ。
やがて、その内側からごく細い別糸が現れた。
普通の補強に使うには、あまりにも不自然な細さだった。
しかもただ走らせてあるのではなく、一定の間隔で結びが打たれている。
縫いではなく、記しに近い。
針子頭が息をのむ。
「これは……」
父が低く言う。
「読めるか」
「いえ。ですが、針目ではございません。文字のかたちに近いかと」
父は冊子へ視線を戻した。
その頁には、布の図と、縁へ沿って小さな印がいくつも書かれている。
その下に、短い文がある。
父はそれを声に出さずに読んだ。
読みながら、表情はほとんど変わらない。
なのに、変わらないことの方が恐ろしいほど、室内の温度が落ちていく。
カイが、今度は一段低い声で問う。
「何と、書いてあるのです」
父はすぐには答えなかった。
冊子。
揺籠布。
産着。
卓の上のその全部を一度視界へ入れてから、ようやく口を開く。
「母体に宿る初花の兆しが、子へ影を落とすとき」
声は低く、淡々としている。
「揺籠の布へ返りの路を縫い置く」
リリアの指先が冷えた。
返りの路。
その言い方だけで、何かを思い出しかける。
暗いところへ落ちていくのに、どこか別の場所へ戻る感覚。
夢の中で何度も落ちたはずの、あの底に少し似ていた。
父は続ける。
「花が咲ききる前」
そこで一度だけ言葉が止まる。
「討魔の加護ある刃にて断たれたなら、魂は最初の揺籠へ返る」
誰も何も言わなかった。
書記室の中から、音だけが消えたようだった。
雪の光が窓の外で揺れているのに、そこへ届くまでの空気が凍ったみたいに動かない。
リリアは父を見た。
父も、たぶん今、読んだ意味をすぐには理解していない。
理解していないのに、身体のどこかが先にわかってしまったような沈黙だった。
カイがかすれた声で言う。
「討魔の加護……それは」
父は答えない。
答えなくても、その場の誰もがわかっていた。
この城で。
この家で。
討魔の加護を継ぐ刃を持つのは、父だ。
黒狼公だけだ。
リリアの喉がきつくなる。
一度目の夜。
温室。
黒いガラス。
甘い匂い。
剣の光。
断片だけだったものが、急にひとつの線へ近づいてくる。
父の手が、冊子の端を強く押さえた。
白くなるほどではない。
でも、その人がほんの少しでも力を失うところを見たことのないリリアには、それだけで十分だった。
父はなおも黙っている。
沈黙のまま、頁の先をもう一度追う。
そして最後の一行へ目を留めた。
そこには、さらに短くこうあった。
「一度きり」
父が、その三文字を見つめたまま止まる。
カイが声を絞る。
「閣下」
返事はない。
あるのは、重い沈黙だけだ。
リリアは父から目を離せなかった。
この人は今、何を見ているのだろう。
冊子か。
布か。
それとも、一度目の自分が知らない夜か。
やがて父は、冊子を閉じた。
その動きは静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
「一度きりだ」
誰に向けたともつかない声だった。
「返りは、一度きり」
それでようやく、リリアにも意味が届きはじめる。
一度目で終わるはずだった。
父に討たれて、終わったはずだった。
なのに目が覚めたら、赤ん坊に戻っていた。
それが、この布のせいだというのか。
揺籠布。
母の家の針目。
返りの路。
父はようやく顔を上げた。
灰銀の目が、まっすぐリリアへ向く。
そこにいつもの怖さがないわけではない。
でも今は、それより先に、言葉を失った人の目だった。
責める目ではない。
問い詰める目でもない。
何かを知ってしまって、まだそれを自分の中へ落とし切れていない目だった。
リリアの胸が強く鳴る。
全部は言えない。
まだ言えない。
でも、このまま黙っていると、父はまた一人でこの意味を背負おうとする気がした。
怖い。
それでも、口を開く。
「……お父様」
自分の声が少し震えている。
父は何も言わず、ただ見る。
リリアは毛布の端を握った。
一度目の最後まで、見てもらえなかったと思っていた。
でも、今この人は見ている。
だからこそ、余計に痛い。
「……あの夜」
そこまで言って、息が止まりかける。
「お父様、いた」
それだけだった。
説明にはならない。
でも、父の肩がほんのわずかに強張るのがわかった。
リリアは続ける。
「こわかった」
喉がひりつく。
「でも……きた」
剣、とは言えなかった。
討った、とも言えなかった。
それでも父には届いたらしい。
目の前で、黒狼公が初めて、本当に動かなくなる。
戦場でも、会議室でも、この人がこんなふうに言葉を失うのを、誰も見たことがないのではないかと思うほどだった。
カイも何も言えない。
エルナはただ、リリアの背へそっと手を置く。
そのぬくもりだけが、今の書記室で現実のものだった。
父は立ち上がらなかった。
座ったままでもない。
ただ、椅子の肘へ置いた手にわずかに力が入り、そのまま抜けない。
ようやく落ちた声は、ほとんど息に近かった。
「……そうか」
それだけだった。
違う、とも。
そんなことはない、とも。
言わない。
言えないのだと、リリアにもわかった。
父は冊子をもう一度開く。
開いても、すぐには文字を追えない。
視線だけがそこへ落ちて、何も読めないまま止まっている。
その手前で、カイが低く訊く。
「閣下。これは……」
父は答えない。
答えないまま、やがてようやく言う。
「俺が」
その声が、途中で切れる。
黒狼公が、言葉を切る。
リリアは息を詰めた。
父はもう一度、今度ははっきり言った。
「俺が、終わらせた夜だ」
書記室の空気が、そこで完全に変わった。
それは告白ではない。
懺悔でもない。
ただ事実を口にしただけだ。
なのに、その一言で、今まで断片だったものが全部、逃げ場を失った。
一度目で。
父は娘を討った。
その剣が終わりではなく、二度目を始める最後の条件だった。
あまりにも皮肉で、あまりにも重い。
父はその重さを、今ここで初めて真正面から受けている。
リリアは父の顔を見た。
泣いてはいない。
崩れてもいない。
それでも、たぶんこの人は今までで一番深く刺されている。
何も言わない方が、わかってしまう。
しばらくして、父は冊子を閉じた。
今度はもう迷いがなかった。
痛みが消えたのではなく、痛みごと決めた顔だった。
「カイ」
「は」
「冬至祭の手順を出せ」
カイが目を上げる。
「……今夜のうちに」
「温室の鍵は俺が持つ。伯母君の出入りは切れ」
「承知しました」
「西棟から主塔まで、夜番は倍だ」
「はい」
「護衛は入れ替えるな。見慣れた顔だけを置け」
命令が落ちるたび、書記室に現実が戻ってくる。
父は泣かない。
悔やみもしない。
その代わり、知ってしまった事実をそのまま冬至祭の支度へ変えていく。
それがこの人のやり方なのだと、リリアは少しだけわかった。
父の視線が、最後にもう一度リリアへ向く。
今度は怖さだけではなかった。
「今年は違う」
短い声だった。
約束とも慰めとも言い切れない。
でも、それ以上長い言葉より、ずっと重かった。
リリアは喉の奥が熱くなるのを感じた。
信じ切れるわけではない。
まだ父は怖い。
一度目の夜も消えない。
それでも今、自分から1つだけ言わなければならない気がした。
「……お父様」
父が見る。
「来て」
その二文字を言った瞬間、自分でも少し驚いた。
前なら言えなかった。
必要だから近くへ行くことはできても、来てほしいと自分から言うことはできなかった。
父はしばらく何も言わなかった。
その沈黙は長くなかった。
でも、返事を間違えないために必要な長さだった気がした。
「行く」
それだけだった。
リリアは俯く。
胸の奥が痛い。
でも、その痛みの中に、前とは違う細い熱が混じっていた。
冬至祭は近い。
同じ夜が、もう一度来る。
けれど今度は、その夜へ向かっているのが自分だけではない。
書記室の窓の外で、雪はまだ細かく降り続いていた。




