2、母の家の針目
揺籠布を持って父が出ていったあと、部屋の空気はしばらく戻らなかった。
暖炉の火は変わらず小さく鳴っている。
扉の外にも、いつものように人の気配がある。
けれど卓の上から古い布がなくなっただけで、部屋の中心がひとつ抜けたみたいに静かだった。
エルナは箱を閉じたあとも、すぐにはそれを下げさせなかった。
母の遺品が入っていた箱だ。軽々しく扱えないのだろう。
リリアは白湯を飲みながら、その閉じた蓋を見ていた。
あの布は、もうこの部屋にない。
それなのに、胸の奥のざわつきはまだ消えない。
古い糸の匂い。薄く甘い、夜の底に似た気配。
思い出したいわけではないのに、身体のどこかがあの布の続きを待っているみたいで、それが気味悪かった。
「お休みになりますか」
エルナに問われ、リリアは首を振った。
眠るほどではない。
でも絵本を開く気にもなれない。
だから窓辺の椅子へ移り、膝へ膝掛けをかけてもらって、そのまま雪の白さを見ていた。
昼のあいだ、父は戻ってこなかった。
代わりに出入りする侍女の足が、いつもより少し忙しい。
誰も詳しくは言わない。けれど主塔の方で何かが動いているのだと、空気だけでわかった。
夕方近くなってから、エルナが小さく息をついた。
「旦那様が、針子頭をお呼びだそうです」
「……はりこがしら」
「はい。昔から奥方様付きだった者を」
リリアは顔を上げた。
母に近かった人。
その言葉だけで、胸のどこかがかすかに鳴る。
父は自分を責めるためではなく、布の方を見ていた。
そのことに、あとから気づいた。
怖さはまだ消えない。
けれど今、動き出したものはそれだけではない。
夕餉のあと、父はようやく部屋へ来た。
黒い軍装は朝と変わらない。
だが机に向かうときの無駄のなさが、今日はいつもよりさらに硬い。
疲れているのかもしれない。けれど疲れを見せる人ではないから、余計にわかる。
父は部屋へ入るなり、まずリリアを見た。
次にエルナ、卓上の白湯、閉じられた箱。
そして短く言う。
「来るか」
何に、と問い返す前に、エルナがわずかに目を見開いた。
父はそれ以上説明しない。
だが今の一言は、明らかにリリアへ向けられている。
来るか。
父のそばへ。
主塔の別室へ。
あの布の続きのところへ。
胸が少しだけ強く打つ。
前なら、曖昧な問いはもっと怖かった。
どこへ、何のために、何を見せられるのかわからないまま従うのはつらい。
けれど今は、父が自分を問い詰めるためではなく、何かを確かめるために呼んでいるのだと、うっすらわかる。
「……いく」
答えるまでに少し間があった。
父はそれを急かさなかった。
ただ「そうか」とだけ返し、踵を返す。
エルナがすぐに外套を用意し、肩へ羽織らせてくれる。
廊下は冷える。
けれど今日は灯りが多く、影が浅かった。
主塔の小さな書記室には、すでに二人の女が呼ばれていた。
一人は城の針子頭で、もう一人は年配の侍女だ。
どちらも母が生きていた頃から城にいる者たちらしい。
卓の上には例の揺籠布が広げられている。
箱から出されたときよりもさらに丁寧に伸ばされ、縁の針目が見えるように置かれていた。
リリアは入った瞬間、その布から目を逸らした。
父はそれに気づいたはずなのに、何も言わない。
先に女たちへ向かって問う。
「見ろ」
命令はそれだけだ。
針子頭が布へ顔を寄せる。
年配の侍女も、少し遅れてその縁へ目を落とした。
「どうだ」
と父が聞く。
針子頭はすぐには答えなかった。
指先で縁を追い、裏返し、縫い目を確かめる。
それから眉を寄せる。
「城の針ではございません」
「そう見えるか」
「はい。細すぎます。それに、表の縫いと裏の縫いが違います」
「違う?」
「表は飾りのように見せて、内側にもう一つ、別の糸を走らせております」
父は黙ってそれを聞く。
年配の侍女が、おそるおそる口を開いた。
「奥方様のご実家では、産前に布を用意なさると聞いたことがございます」
「どういうものだ」
「赤子の産着や揺籠布に、女たちがそれぞれ針を入れるのだと。子の息災を願う、古いしきたりだとか」
息災。
その言葉はあまりにも普通で、逆にぞっとした。
もし本当にただの願掛けなら、どうしてこんなに夜へ近い匂いがするのだろう。
父の指が布の端を押さえる。
「願掛けにしては、念が深いな」
低い声だった。
針子頭が答える。
「守りの縫いにしても、ここまで細かくはいたしません。これは……縫いというより、組み込みに近うございます」
「組み込み」
「はい。布の形を整えるためではなく、布そのものへ何かを留めるような」
そこで女は言葉を切った。
主君の前で曖昧なことを言い切る勇気はないのだろう。
父は叱らなかった。
代わりに、さらに短く問う。
「母方だけの作法か」
年配の侍女が頷く。
「少なくとも、この城では見たことがございません」
そのとき、扉の外で衣擦れがした。
誰かと思うより早く、柔らかな声が入ってくる。
「懐かしいものを出しているのね」
オルタンシアだった。
リリアの肩がわずかにこわばる。
父の気配も一段硬くなる。
伯母は許しを待つふうもなく、しかし無遠慮にも見えない足取りで室内へ入ってきた。
母に似た顔。冬の城の中でそこだけ別の季節を持っているみたいな色。
卓の上の揺籠布を見ると、その目がほんの一瞬だけ止まった。
本当に、ほんの一瞬だけだった。
けれど父はそれを見逃さなかったはずだと、リリアにはわかった。
なぜならその直後、父の視線が伯母へ向き直る音が、部屋の空気でわかったからだ。
「知っているのか」
父が問う。
伯母は微笑む。
「わたくしの妹が用意したものだもの。知らないはずがないでしょう」
「何だ、これは」
「揺籠布よ」
その返しが、わずかにずれている。
父が聞きたいのは名前ではない。
けれど伯母は最初からそこを少しだけ外してくる。
「何を縫い込んである」
父は言い直した。
オルタンシアはそこで初めて、微笑みを薄くした。
「女たちの祈りよ」
「祈りで済ませるな」
「では、しきたりと言いましょうか。あの家の女は、出産の前に産着や布へ針を入れるの。子が無事に生まれ、無事に朝を迎えるように」
その言い方は穏やかだった。
けれど、最後の「朝」という言葉に、リリアの胸が小さく鳴る。
朝。
夜のあとに来るもの。
一度目には失われたもの。
父の目が細くなる。
「ただの守りか」
伯母は少しだけ首を傾げる。
「ただの、とは」
「それ以上の意味があるのか」
伯母はすぐには答えなかった。
卓上の布へ目を落とし、その縁の針目を指でなぞる。
その指先はやわらかく見えるのに、見ているだけで冷たいものが背を撫でる。
「強い夜に備えるためのものでもあるわ」
やがてそう言った。
「子どもは弱いもの。とくに、生まれたばかりの子は」
それだけなら、まだ不自然ではない。
けれど父は納得していない顔だった。
「なぜ今、それに反応した」
問われたのは伯母ではなく、リリアだった。
リリアははっと顔を上げる。
父は揺籠布を見ているのではない。
見て、それからこちらを見ている。
伯母のいる前で、逃がさない目だった。
けれど責める目ではない。
あくまで確かめるための目だ。
胸が浅く上下する。
言わなければならない。
でも何を言えばいいのかわからない。
夜の匂い。甘い匂い。揺籠布。母の家。
その全部がまだ混ざったままだ。
「……いや」
最初に出たのは、それだけだった。
父は待つ。
「これ……」
息を吸う。
「これ、お母様のにおいじゃない」
自分で言ってから、少し驚いた。
母の匂いなど知らないはずなのに。
それでも、違うと思った。
母の形見なら、もっとやわらかく、もっと遠いもののはずだ。
これは違う。もっと近い。夜に近い。
伯母の目が、ほんのわずかに細くなる。
父はその一言を受けても、すぐには何も返さなかった。
だが視線だけが、揺籠布へ戻る。
「母の家のしきたりか」
と、今度は伯母へ向けて問う。
「そうよ」
「誰でも知っているものか」
「女たちなら」
「男は知らない」
「知る必要がないもの」
その返しに、父の沈黙が一段深くなる。
知らなかった。
妻が産前に何を縫い込んでいたか。
その布が何を意味するか。
それを知らないまま、母は死に、娘は育ち、夜は深くなった。
書記室の空気が少しずつ冷えていく。
父は揺籠布をたたまなかった。
むしろさらに広げ、縁を見、裏を見、針目の重なりを確かめる。
「その家の女は、皆こうするのか」
「ええ」
「出産の前に」
「そうね」
「何のために」
伯母はそこで初めて、答えを少し遅らせた。
「守るためよ」
それはたぶん嘘ではない。
でも全部でもない。
そのことが、部屋の全員に伝わった。
父はそれ以上その場で追わなかった。
代わりに、針子頭と年配の侍女へ向けて短く言う。
「下がれ」
二人は一礼して退く。
エルナも控えようとしたが、父は止めなかった。
リリアのそばに残ることを許したまま、伯母と揺籠布を同じ視界へ置いている。
しばらく、誰も喋らなかった。
暖炉はない。
小さな書記室だから火の音もなく、廊下の向こうの灯りだけが扉の隙間から細く入ってくる。
その静けさの中で、父がようやく言った。
「これは、ただの祝い布ではないな」
伯母は笑わなかった。
「そうね」
その一言だけで、リリアの指先が冷える。
父は揺籠布を持ち上げる。
今度はもう、母の形見を見る手ではない。
答えを隠した布を持つ手だった。
「明日、もう一度見る」
低い声が落ちる。
「母方の記録を出せ。産前の品も、出産時のものも、残っているものはすべてだ」
誰に言ったというより、決定そのものが室内へ落ちた。
伯母はそれを聞いても表情を変えなかった。
ただ、リリアの方を一度だけ見る。
その目はやさしい。
やさしいのに、今日はそのやさしさに寄っていきたいとは思えなかった。
リリアはエルナの袖を少しだけ握る。
父はその動きを見た。
けれど何も言わない。
「今日はここまでだ」
それだけ告げて、揺籠布を自分の腕へ抱える。
伯母にも渡さない。
侍女にも持たせない。
オルタンシアは軽く息をついた。
「本当に、変わらない人ね」
父は答えない。
「知れば、あとには引かない」
その言葉だけ残して、伯母は先に室外へ出ていった。
部屋にはリリアとエルナと父だけが残る。
父は扉のところで足を止め、振り返らないまま言う。
「明日も来るか」
問いは短い。
だが今度は、何のためかがわかった。
調べるためだ。
布のことを。母の家のことを。夜のことを。
怖い。
でも、逃げたくはなかった。
「……いく」
答えると、父はほんのわずかに間を置いた。
「そうか」
それだけで出ていく。
揺籠布を抱えた黒い背が、廊下の灯りの方へ消えた。
残された書記室の中で、リリアはようやく大きく息を吐いた。
胸の奥はまだざわついている。
でも、昨日までとは少し違う。
父は今、自分の言葉を疑っていない。
伯母のやさしさも、母の形見も、夜の匂いも、全部を1つの線で追い始めている。
それが少し怖くて、少しだけ心強かった。
エルナがそっと背を撫でる。
「お部屋へ戻りましょう」
リリアは頷いた。
廊下へ出ると、灯りはまだ多い。
影は薄く、夜の輪郭も前ほど深くない。
けれどその明るさの向こうで、冬至祭は静かに近づいているのだと、なぜだかはっきりわかった。




