1、揺籠布の匂い
言ってしまったあとの朝は、思っていたより静かだった。
窓の外にはまだ雪が残っている。
主塔寄りの小部屋も、いつも通りよく整っていた。暖炉の火は強すぎず、扉は細く開いていて、廊下の向こうに人の気配がある。白湯はぬるくなりすぎる前に運ばれ、薬は小皿へ分けられ、エルナの手つきにも余計な乱れはない。
それでも、空気だけが少し違っていた。
昨夜、自分は父へあの言葉を言った。
またお父様に殺されたくない。
思い出すたび、胸の奥がひどく冷たくなる。
夢だったことにできればよかった。だが部屋の中の慎重すぎる静けさが、あれが夢ではなかったことを、朝の明るさの下でもきちんと告げていた。
エルナが寝台脇へ白湯を置く。
「少し冷める前に」
いつも通りの声だった。
そのいつも通りがありがたくて、少し痛い。
リリアは杯を両手で包んだまま、小さく頷いた。
「……うん」
飲みこむと、喉の奥にぬるい熱が落ちていく。
けれど胸の奥に引っかかったものは、少しもほどけない。
父は朝になっても昨夜のことに触れなかった。
部屋へ来る回数が減ったわけではない。
むしろ扉の外の気配は、以前よりきちんと整っている。夜番の交替も、廊下の灯りも、出入りする侍女の順も、すべてが昨日までよりさらに揃えられている気がした。
父はいつも通り短く指示を出すだけだった。
「夜番はそのまま」
「伯母君は今日も通すな」
「花は入れるな」
そういう実務の言葉ばかりで、昨夜の一言には、一度も触れない。
それがありがたいのか、ただ怖いのか、リリアにはまだわからなかった。
昼前、父がまた部屋へ来たときも同じだった。
黒い軍装のまま入ってきて、暖炉、窓、卓上の薬、エルナ、寝台の上のリリアを一度で見る。視線は短い。けれど何も見落とさない目だ。
「具合は」
問いはエルナへ向けられている。
「熱もなく、昨夜も後半はお休みになれました」
「……そうか」
父は頷いたとも言えないほど小さく顎を動かした。
それからリリアへ一度だけ目を落とす。
長くは見ない。
見ないまま、次の命令を口にした。
「出産時の品を出せ」
「……出産時の、でございますか」
エルナがわずかに目を上げる。
「産着。揺籠まわりの布。保管箱もだ」
「かしこまりました」
リリアは白湯の杯を持ったまま固まった。
出産時の品。
母が死んだ夜に近いもの。
それを、父が。
理由は言われない。
けれど理由を聞く空気でもなかった。
父はもう一度だけ部屋を見たあと、短く言う。
「ここへ運ばせろ」
それだけ残して出ていく。
重い足音が廊下を遠ざかる。
リリアはしばらく、その音の消えた先を見ていた。
エルナもすぐには何も言わなかった。
ただ、リリアの指先が杯を強く握りすぎているのを見て、そっと手を添える。
「熱くはありませんか」
「……へいき」
「そうですか」
それで終える。
それ以上、なぜ出産時の品なのかも、旦那様が何をなさるつもりなのかも言わない。
昼の光が少し傾きはじめたころ、古い箱が運ばれてきた。
大きすぎない箱だった。
艶は失われているが、雑にしまわれていたものではないとわかる。金具は古く、木肌には細かな傷がある。それでも丁寧に拭かれ、長いあいだ大事に残されてきたものの静けさがあった。
箱を運んできた年長の侍女が、暖炉から少し離れた卓へそれを置く。
「奥方様のお部屋の保管箱より」
そう告げて一礼し、下がった。
奥方様。
母のことだ。
その言葉だけで、部屋の空気が少し変わる。
父が戻ってきたのは、ちょうどそのあとだった。
黒狼公は箱の前へ立つ。
エルナが一歩下がり、リリアは寝台の上からその背を見た。
父は箱を前にしても、しばらく開けなかった。
ただ木目を見て、金具の古さを確かめるみたいに指を置く。感傷に浸る顔ではない。あくまで何かを調べる男の手つきだった。
やがて蓋が上がる。
中には、きれいに畳まれた布がいくつも入っていた。
小さな産着。薄い包み布。細い紐。揺籠へ敷くためのやわらかな布。
どれも色は褪せている。
けれど傷んではいない。洗われ、畳まれ、長く眠っていたものの匂いだけがある。
父が一枚ずつ取り上げていく。
リリアは最初、それを遠くから眺めているだけだった。
だが、箱の底近くからもう少し大きな布が出てきた瞬間、喉の奥で何かがひくりと動いた。
それは揺籠布だった。
赤子を包むには少し大きく、揺籠へ掛けるにはやわらかすぎるような、不思議な薄布。色はもともと白かったのだろうが、今はごく淡い灰に近い。縁には細かな刺繍がある。華美ではないのに、目を離しがたい。
見たことはないはずだった。
なのに、身体が先に知っている。
息が浅くなる。
まだ遠くにある。
父が手に取っているだけだ。
それなのに、胸の内側へ古い匂いが流れこんでくる気がした。
古い布の匂い。
乾いた箱の匂い。
それに混じって、薄く甘い、夜の底に近い匂い。
リリアの指先が毛布の上で冷える。
父の手が止まった。
揺籠布を持ったまま、わずかに顔を上げる。
灰銀の目が、布からリリアへ移る。
それだけで、反応を見られたのだとわかった。
「……リリア」
名を呼ばれて、肩がこわばる。
けれど昨夜のような鋭い痛みではなかった。
父の声は低いままでも、今は剣に近い音ではない。
問い詰める前の声ではなく、何かを確かめる声だった。
父は布を少しだけ持ち上げた。
「匂いがするか」
短い問い。
リリアはすぐには答えられなかった。
怖い。
でも、隠しきれない。
この布には、ただの形見ではない何かがあると、自分の身体が言っている。
エルナがそっとこちらを見た。
父はそれ以上重ねて訊かない。
ただ待つ。
その待ち方が、少しだけ前と違った。
リリアは毛布を掴んだまま、小さく息を吸う。
「……する」
父の目が少し細くなる。
「どんな匂いだ」
そこまで聞かれると、もう黙って頷くだけではいられなかった。
怖さを隠しきれなかったあとで、逃げきらない。
何を言えばいいのかわからないまま、それでも言葉を探す。
「……これ」
喉が乾く。
「これ、夜の匂いがする」
言ってしまったあと、部屋がひどく静かになった。
エルナが息をのむ気配。
暖炉の火の小さな音。
窓の外で風が雪を擦る音。
父は何も言わない。
ただ、もう一度布を見る。
今度はさっきとは違う見方だった。
布そのものを見ている。
模様のように見えていた縁の刺繍や、二重になった折り返しや、糸の細さを、一つずつ確かめるような目。
やがて父は布の縁へ指を走らせ、低く問う。
「これは、誰が残した」
年長の侍女が一歩進み出る。
「奥方様がご出産前にご用意なさったものと聞いております」
「誰が縫った」
「……そこまでは」
「母方の作法か」
「恐らくは」
父はまた黙る。
揺籠布を広げる。
縁の始末はあまりに細かく、城の針子の仕事には見えない。布の裏側へごく細く縫いこまれた糸が、普通の補強ではないとわかるほど不自然に整っている。
父の手がそこへ止まる。
「……二重だな」
誰に聞かせるでもない声だった。
年長の侍女が恐る恐る答える。
「奥方様のご実家では、産着や揺籠布へ守りの縫いを入れるしきたりがあると……昔、聞いたことがございます」
「守り」
「はい。子を災いから遠ざけるための、女たちの習わしだとか」
父の視線が微かに上がる。
その目が、今度は侍女ではなくリリアに戻る。
さっきまでみたいに、反応を測るためではない。
布とリリアを同じ線の上へ置いて見ている目だった。
リリアはその視線を受けて、胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、さっきまでのように父だけが怖いのではない。
布が怖い。
この古い布が、自分の奥の何かとつながっていることの方が怖い。
父が近づいてくる。
一歩だけ。
前より遅く、前より浅く。
それでも身体は少しだけ強ばる。
けれど逃げなかった。
布の匂いの方が濃かったからかもしれない。
父は寝台の脇までは来ず、その手前で止まった。
距離を残したまま、揺籠布を少し低く持つ。
「こわいか」
問いは短い。
リリアは俯いたまま、頷く。
「……うん」
「布が」
「……うん」
「俺ではなく」
そこで初めて、リリアは顔を上げた。
父の目は、真っすぐこちらを見ていた。
けれど責める目ではない。
何かが違うと、今ようやく確かめた目だった。
リリアは小さく首を振る。
「……お父様も、こわい」
言ってから、胸がひどく痛んだ。
でも、それで終わらなかった。
「でも」
息を吸う。
「……これ、ちがう」
怖い。
けれど、父の怖さと同じではない。
それを前より少しだけ言えるようになっている自分に、リリアはあとから気づいた。
父はその答えに何も返さない。
ただ、揺籠布を見下ろす。
布の縁の針目をもう一度追い、折り返しの裏へ指をかける。
今やそれはもう、母の形見ではなく、何かの手がかりとして扱われていた。
やがて父は布をゆっくり畳み直した。
乱さず、崩さず、出したときより少しだけ硬い手つきで。
それを見て、リリアはなぜだか胸の奥が少し静かになる。
父は布を箱へ戻さなかった。
自分の腕へ抱えるように持つ。
「これは預かる」
低い声だった。
侍女もエルナも「はい」と答えたが、リリアだけはすぐには返事ができなかった。
父はそのまま踵を返しかけ、ふと止まる。
背を向けたまま、もう一度だけ言う。
「これに触れたことはあるか」
問いはリリアへ向けられている。
リリアは揺籠布を見た。
見たことはないはずだ。
赤子の頃の布だ。記憶にあるわけがない。
それなのに、身体のどこかは知っている。
夜の底へ落ちる直前の、あの甘い匂いに近いものとして。
「……わからない」
小さく答える。
「でも、知ってるみたいで、いや」
それだけでも、前の自分なら言えなかった。
父は振り返らなかった。
けれど、その沈黙の形が少し変わった気がした。
「そうか」
それだけ残し、父は揺籠布を持ったまま部屋を出ていく。
重い足音が廊下へ消える。
エルナがしばらく黙っていたあと、ようやく白湯の杯を取り替えた。
さっきのものはもう冷めていたらしい。
「お手が冷えております」
そう言って、温かい新しい杯を持たせてくれる。
リリアはそれを両手で包んだ。
指先に熱が戻ってくる。
でも胸の奥のざわめきは消えない。
父は自分を責めるためではなく、布の方を見ていた。
それが少し意外だった。
怖さはまだ消えない。
父が近づけば、また一度目の夜が身体の中で起きかけるのかもしれない。
けれど今、動き出したものはそれだけではない。
母の古い布に、何かがある。
父もそれを見過ごさない。
その違いが、部屋の中の空気をほんの少しだけ変えていた。
エルナが、空になった箱へそっと蓋を戻す。
その音は小さかったのに、なぜだかひどく重く響いた。




