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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第7章 初花返し

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1、揺籠布の匂い

言ってしまったあとの朝は、思っていたより静かだった。


窓の外にはまだ雪が残っている。

主塔寄りの小部屋も、いつも通りよく整っていた。暖炉の火は強すぎず、扉は細く開いていて、廊下の向こうに人の気配がある。白湯はぬるくなりすぎる前に運ばれ、薬は小皿へ分けられ、エルナの手つきにも余計な乱れはない。


それでも、空気だけが少し違っていた。


昨夜、自分は父へあの言葉を言った。


またお父様に殺されたくない。


思い出すたび、胸の奥がひどく冷たくなる。

夢だったことにできればよかった。だが部屋の中の慎重すぎる静けさが、あれが夢ではなかったことを、朝の明るさの下でもきちんと告げていた。


エルナが寝台脇へ白湯を置く。


「少し冷める前に」


いつも通りの声だった。

そのいつも通りがありがたくて、少し痛い。


リリアは杯を両手で包んだまま、小さく頷いた。


「……うん」


飲みこむと、喉の奥にぬるい熱が落ちていく。

けれど胸の奥に引っかかったものは、少しもほどけない。


父は朝になっても昨夜のことに触れなかった。


部屋へ来る回数が減ったわけではない。

むしろ扉の外の気配は、以前よりきちんと整っている。夜番の交替も、廊下の灯りも、出入りする侍女の順も、すべてが昨日までよりさらに揃えられている気がした。


父はいつも通り短く指示を出すだけだった。


「夜番はそのまま」

「伯母君は今日も通すな」

「花は入れるな」


そういう実務の言葉ばかりで、昨夜の一言には、一度も触れない。


それがありがたいのか、ただ怖いのか、リリアにはまだわからなかった。


昼前、父がまた部屋へ来たときも同じだった。


黒い軍装のまま入ってきて、暖炉、窓、卓上の薬、エルナ、寝台の上のリリアを一度で見る。視線は短い。けれど何も見落とさない目だ。


「具合は」


問いはエルナへ向けられている。


「熱もなく、昨夜も後半はお休みになれました」

「……そうか」


父は頷いたとも言えないほど小さく顎を動かした。


それからリリアへ一度だけ目を落とす。

長くは見ない。

見ないまま、次の命令を口にした。


「出産時の品を出せ」

「……出産時の、でございますか」


エルナがわずかに目を上げる。


「産着。揺籠まわりの布。保管箱もだ」

「かしこまりました」


リリアは白湯の杯を持ったまま固まった。


出産時の品。

母が死んだ夜に近いもの。

それを、父が。


理由は言われない。

けれど理由を聞く空気でもなかった。


父はもう一度だけ部屋を見たあと、短く言う。


「ここへ運ばせろ」


それだけ残して出ていく。


重い足音が廊下を遠ざかる。

リリアはしばらく、その音の消えた先を見ていた。


エルナもすぐには何も言わなかった。

ただ、リリアの指先が杯を強く握りすぎているのを見て、そっと手を添える。


「熱くはありませんか」

「……へいき」

「そうですか」


それで終える。

それ以上、なぜ出産時の品なのかも、旦那様が何をなさるつもりなのかも言わない。


昼の光が少し傾きはじめたころ、古い箱が運ばれてきた。


大きすぎない箱だった。

艶は失われているが、雑にしまわれていたものではないとわかる。金具は古く、木肌には細かな傷がある。それでも丁寧に拭かれ、長いあいだ大事に残されてきたものの静けさがあった。


箱を運んできた年長の侍女が、暖炉から少し離れた卓へそれを置く。


「奥方様のお部屋の保管箱より」


そう告げて一礼し、下がった。


奥方様。

母のことだ。


その言葉だけで、部屋の空気が少し変わる。

父が戻ってきたのは、ちょうどそのあとだった。


黒狼公は箱の前へ立つ。

エルナが一歩下がり、リリアは寝台の上からその背を見た。


父は箱を前にしても、しばらく開けなかった。

ただ木目を見て、金具の古さを確かめるみたいに指を置く。感傷に浸る顔ではない。あくまで何かを調べる男の手つきだった。


やがて蓋が上がる。


中には、きれいに畳まれた布がいくつも入っていた。

小さな産着。薄い包み布。細い紐。揺籠へ敷くためのやわらかな布。


どれも色は褪せている。

けれど傷んではいない。洗われ、畳まれ、長く眠っていたものの匂いだけがある。


父が一枚ずつ取り上げていく。


リリアは最初、それを遠くから眺めているだけだった。

だが、箱の底近くからもう少し大きな布が出てきた瞬間、喉の奥で何かがひくりと動いた。


それは揺籠布だった。


赤子を包むには少し大きく、揺籠へ掛けるにはやわらかすぎるような、不思議な薄布。色はもともと白かったのだろうが、今はごく淡い灰に近い。縁には細かな刺繍がある。華美ではないのに、目を離しがたい。


見たことはないはずだった。


なのに、身体が先に知っている。


息が浅くなる。


まだ遠くにある。

父が手に取っているだけだ。

それなのに、胸の内側へ古い匂いが流れこんでくる気がした。


古い布の匂い。

乾いた箱の匂い。

それに混じって、薄く甘い、夜の底に近い匂い。


リリアの指先が毛布の上で冷える。


父の手が止まった。


揺籠布を持ったまま、わずかに顔を上げる。

灰銀の目が、布からリリアへ移る。


それだけで、反応を見られたのだとわかった。


「……リリア」


名を呼ばれて、肩がこわばる。


けれど昨夜のような鋭い痛みではなかった。

父の声は低いままでも、今は剣に近い音ではない。

問い詰める前の声ではなく、何かを確かめる声だった。


父は布を少しだけ持ち上げた。


「匂いがするか」


短い問い。


リリアはすぐには答えられなかった。

怖い。

でも、隠しきれない。

この布には、ただの形見ではない何かがあると、自分の身体が言っている。


エルナがそっとこちらを見た。

父はそれ以上重ねて訊かない。

ただ待つ。


その待ち方が、少しだけ前と違った。


リリアは毛布を掴んだまま、小さく息を吸う。


「……する」

父の目が少し細くなる。

「どんな匂いだ」


そこまで聞かれると、もう黙って頷くだけではいられなかった。


怖さを隠しきれなかったあとで、逃げきらない。

何を言えばいいのかわからないまま、それでも言葉を探す。


「……これ」

喉が乾く。

「これ、夜の匂いがする」


言ってしまったあと、部屋がひどく静かになった。


エルナが息をのむ気配。

暖炉の火の小さな音。

窓の外で風が雪を擦る音。


父は何も言わない。


ただ、もう一度布を見る。

今度はさっきとは違う見方だった。


布そのものを見ている。

模様のように見えていた縁の刺繍や、二重になった折り返しや、糸の細さを、一つずつ確かめるような目。


やがて父は布の縁へ指を走らせ、低く問う。


「これは、誰が残した」

年長の侍女が一歩進み出る。

「奥方様がご出産前にご用意なさったものと聞いております」

「誰が縫った」

「……そこまでは」

「母方の作法か」

「恐らくは」


父はまた黙る。


揺籠布を広げる。

縁の始末はあまりに細かく、城の針子の仕事には見えない。布の裏側へごく細く縫いこまれた糸が、普通の補強ではないとわかるほど不自然に整っている。


父の手がそこへ止まる。


「……二重だな」


誰に聞かせるでもない声だった。


年長の侍女が恐る恐る答える。


「奥方様のご実家では、産着や揺籠布へ守りの縫いを入れるしきたりがあると……昔、聞いたことがございます」

「守り」

「はい。子を災いから遠ざけるための、女たちの習わしだとか」


父の視線が微かに上がる。


その目が、今度は侍女ではなくリリアに戻る。


さっきまでみたいに、反応を測るためではない。

布とリリアを同じ線の上へ置いて見ている目だった。


リリアはその視線を受けて、胸の奥がざわつくのを感じた。

だが、さっきまでのように父だけが怖いのではない。

布が怖い。

この古い布が、自分の奥の何かとつながっていることの方が怖い。


父が近づいてくる。


一歩だけ。

前より遅く、前より浅く。


それでも身体は少しだけ強ばる。

けれど逃げなかった。

布の匂いの方が濃かったからかもしれない。


父は寝台の脇までは来ず、その手前で止まった。

距離を残したまま、揺籠布を少し低く持つ。


「こわいか」


問いは短い。


リリアは俯いたまま、頷く。


「……うん」

「布が」

「……うん」

「俺ではなく」


そこで初めて、リリアは顔を上げた。


父の目は、真っすぐこちらを見ていた。

けれど責める目ではない。

何かが違うと、今ようやく確かめた目だった。


リリアは小さく首を振る。


「……お父様も、こわい」


言ってから、胸がひどく痛んだ。

でも、それで終わらなかった。


「でも」

息を吸う。

「……これ、ちがう」


怖い。

けれど、父の怖さと同じではない。

それを前より少しだけ言えるようになっている自分に、リリアはあとから気づいた。


父はその答えに何も返さない。


ただ、揺籠布を見下ろす。

布の縁の針目をもう一度追い、折り返しの裏へ指をかける。

今やそれはもう、母の形見ではなく、何かの手がかりとして扱われていた。


やがて父は布をゆっくり畳み直した。


乱さず、崩さず、出したときより少しだけ硬い手つきで。

それを見て、リリアはなぜだか胸の奥が少し静かになる。


父は布を箱へ戻さなかった。


自分の腕へ抱えるように持つ。


「これは預かる」


低い声だった。


侍女もエルナも「はい」と答えたが、リリアだけはすぐには返事ができなかった。


父はそのまま踵を返しかけ、ふと止まる。

背を向けたまま、もう一度だけ言う。


「これに触れたことはあるか」


問いはリリアへ向けられている。


リリアは揺籠布を見た。


見たことはないはずだ。

赤子の頃の布だ。記憶にあるわけがない。

それなのに、身体のどこかは知っている。

夜の底へ落ちる直前の、あの甘い匂いに近いものとして。


「……わからない」

小さく答える。

「でも、知ってるみたいで、いや」


それだけでも、前の自分なら言えなかった。


父は振り返らなかった。

けれど、その沈黙の形が少し変わった気がした。


「そうか」


それだけ残し、父は揺籠布を持ったまま部屋を出ていく。


重い足音が廊下へ消える。


エルナがしばらく黙っていたあと、ようやく白湯の杯を取り替えた。

さっきのものはもう冷めていたらしい。


「お手が冷えております」


そう言って、温かい新しい杯を持たせてくれる。


リリアはそれを両手で包んだ。

指先に熱が戻ってくる。

でも胸の奥のざわめきは消えない。


父は自分を責めるためではなく、布の方を見ていた。

それが少し意外だった。


怖さはまだ消えない。

父が近づけば、また一度目の夜が身体の中で起きかけるのかもしれない。

けれど今、動き出したものはそれだけではない。


母の古い布に、何かがある。

父もそれを見過ごさない。

その違いが、部屋の中の空気をほんの少しだけ変えていた。


エルナが、空になった箱へそっと蓋を戻す。


その音は小さかったのに、なぜだかひどく重く響いた。

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