黒狼公の副官
黒狼公が黙っているときほど、まわりはよく喋る。
もちろん本人の前ではない。
そんなことをする者は、この城には長くいない。
喋るのは、扉が閉まったあとだ。
会議が終わり、命令が下り、廊下へ出たあと。
誰もが声を落とし、だが落としきれないまま、同じ話題を口にする。
最近の西棟のこと。
お嬢様のこと。
そして、黒狼公の基準がどこか狂い始めていること。
カイ・ルーヴェンは、主塔の回廊を歩きながら、その視線をいくつも受けていた。
副官という立場は便利でもあり、不便でもある。
誰もが本人には聞けないことを、代わりに知っているだろうと期待する。
だが実際には、知っていることより知らないことの方が多い。
たとえば今夜のこともそうだ。
執務室の机には、夜番の配置図が広げられていた。
そこへ黒狼公が自ら赤線を引き直したのは、もう三度目だ。
西棟から主塔までの回廊。
主塔寄りの小部屋の前。
階段の踊り場。
温室へ続く封鎖区画。
ひとつひとつを見れば、過剰とまでは言えない。
北辺大公家の警備として、理由の立たぬ配置ではない。
だが、全部が一人の子どもを中心に組み替えられているとなれば話は別だった。
「西棟側、交替の間をなくせ」
「二人組は崩すな」
「記録は夜明け前に持って来い」
「花は一切入れるな」
命令は短い。
理由は言わない。
だがここ数か月で、黒狼公の命令は明らかに細かくなった。
細かく、具体的に、個人に寄っている。
それが一番異様だった。
領境の巡回、備蓄の計算、城門の開閉、兵の移動。
そういう大きなことを一息に決めるのが、もともとの主君だった。
個人の寝つきや、扉の開け方や、白湯の順番にまで言葉を落とすような男ではない。
けれど今は違う。
白湯を先に飲ませること。
鏡を置かないこと。
夜は扉を閉めきらないこと。
乳母の出入りを固定すること。
伯母君の面会時間を切ること。
そのどれもが、気まぐれには見えない。
見えないからこそ、まわりは余計にざわついた。
主君が娘に甘い、のではない。
あの人は甘くなどない。
ただ、娘に関わることだけ、基準の置き場所が変わってしまったのだ。
「副官殿」
呼ばれて、カイは足を止めた。
会議室脇の小控室から、年かさの武官が顔をのぞかせる。
名をユルゲンといった。古くからヴァルグレイ家に仕える男で、慎重さと口の堅さで今の地位にいる。
つまり、その男が自分から呼び止める時点で、よほど気になっているのだ。
「何だ」
カイが問うと、ユルゲンは周囲を見てから声を落とした。
「西棟の夜番の件ですが」
「どの件だ」
「……本当に、そこまで要りますか」
単刀直入だった。
だが、それを責める気にはなれない。
ここ数日の命令は、それほど露骨に異常だった。
「要ると、閣下が決められた」
「それは承知しております」
ユルゲンはさらに声を潜める。
「ですが、相手はまだ幼いお嬢様です。ここまで人を貼りつけ、動線を変え、出入りまで絞る必要が……」
言いかけて、男は口をつぐんだ。
必要が何だというのか。
必要がない、と言い切れるほど、この城の空気も軽くはないのだろう。
カイはその顔を一度だけ見て、短く言った。
「お前も見ただろう」
「……」
「会議室だ」
ユルゲンは黙った。
あの日のことは、もう主塔の兵なら誰でも知っている。
お嬢様が会議の場へ現れたこと。
黒狼公が咎めなかったこと。
そして何より、その膝へ当然のように乗せたこと。
あれ以降、城の見え方は変わった。
それまでも、お嬢様が主塔寄りへ移されたことは皆知っていた。
夜番が増えたことも、鏡が外されたことも、乳母が固定されたことも。
だがそれらはまだ、表向きには「体調のため」と言い張れる範囲だった。
会議室での一件は違う。
あれはもう、隠す気のない扱いだった。
黒狼公は娘を以前の位置へ戻さない。
その事実が、城の人間に一度で伝わった。
「閣下は、あの子を手放さない」
カイが言うと、ユルゲンは目を伏せた。
「……はい」
「なら守りも変わる」
それ以上の説明はしなかった。
説明できるほど、自分でもわかってはいない。
主君が何を見て、どこまで知っているのか。
お嬢様の夜の怯えが何によるものなのか。
伯母君のやさしさのどこをそこまで警戒しているのか。
細部はまだ見えない。
見えないが、一つだけはっきりしている。
黒狼公は、あの子に関わることにだけ、判断の置き方を変えた。
ユルゲンはなおも何か言いたげだったが、結局「承知しました」とだけ言って頭を下げた。
カイは歩き出す。
主塔の窓は夜になると、外の雪明りを薄く返す。
石の廊下は冷えるが、今夜は西棟まで灯りが増やされているせいで、いつもより影が浅い。
それもまた、ここ数日で変わったことの一つだった。
西棟と主塔のあいだを、これほど明るく保つ必要は本来ない。
むしろ軍事上だけ考えれば、夜は暗い方がよい場面もある。
それでも主君は、暗がりを減らす方を選んだ。
娘のために。
その事実は、口にすると奇妙だった。
あの黒狼公が。
必要なら人も怪物も切るあの男が。
一人の幼い娘のために、廊下の灯りまで数え直している。
だが、奇妙であることと、偽物であることは違う。
執務室へ戻ると、主君はまだ机に向かっていた。
灯りの下で見る横顔は、相変わらず感情に乏しい。
疲れも、怒りも、後悔も、簡単には表へ出さない顔だ。
だが副官として長く仕えていれば、その沈黙のわずかな重さくらいは読める。
今夜は重い。
「西棟側、配置は済みました」
カイが報告すると、主君は書類から目を上げずに言った。
「交替は」
「間をなくしました」
「伯母君の出入りは」
「昼のみ、記録付きで」
「花」
「すべて止めております」
そこで初めて、主君の手が止まった。
ほんのわずかな一拍だった。
それから低く問う。
「侍女どもは」
「現時点で不審な動きはありません」
「……そうか」
また沈黙が落ちる。
カイはそこで言うべきか迷った。
だが迷うくらいなら言った方がいいと、この男の下では学んでいる。
「閣下」
灰銀の目がようやく上がる。
「伯母君の件ですが」
「何だ」
「まだ足りませんか」
「何がだ」
「面会制限です」
主君は一瞬だけ黙った。
「足りるなら増やさない」
「……では」
カイは少しだけ言葉を選ぶ。
「お嬢様の夜の乱れと、伯母君の来訪が」
「つながっていると?」
「お考えかと」
主君はしばらく答えなかった。
その沈黙は、知らないから黙っているのではない。
言い切るだけの材料がまだ足りないから黙っている沈黙だった。
やがて、短く落ちる。
「偶然ではない」
「……承知しました」
それで十分だった。
主君が偶然ではないと言うなら、もうそれはただの懸念ではない。
この先は、証を積み上げる段階に入る。
カイは一礼しかけて、もう一つだけ引っかかっていたことを口にした。
「本日の件ですが」
主君の視線が戻る。
「お嬢様のお言葉です」
また室内が静かになる。
今夜、この城でその一言を聞いた人間は多くない。
だが、聞いた者の耳にはたぶん一生残る。
またお父様に殺されたくない。
あの言葉を受けたとき、主君は何も言い返さなかった。
それは正しかった、とカイは思う。
あそこで否定していたら、きっと何かが決定的に壊れていた。
だが正しいことと、無傷でいられることは違う。
主君は少しのあいだ、何も言わなかった。
その沈黙はいつもより長い。
ようやく落ちた声は、ひどく低かった。
「あの言葉には理由がある」
それだけだった。
誤解だ、でもない。
そんなことはしない、でもない。
理由がある、とだけ言った。
カイはその答えに、かえって背筋が冷えた。
主君は本気で、娘の言葉を軽く扱っていない。
ただの錯乱や言い間違いとして流す気がない。
理由があるなら、それを見つけるつもりなのだ。
そして、見つけた先で何を背負うことになるのかを、たぶんもう少しだけ察している。
「カイ」
不意に名を呼ばれる。
「は」
「以後、リリアのことはお前が見ろ」
「……私が」
「報告はお前を通せ。他を挟むな」
その指示の意味は重かった。
夜の乱れ。
伯母君の来訪。
回廊での反応。
主塔寄りの生活。
そのすべてを、副官である自分が直に握れということだ。
「承知いたしました」
答えると、主君はもう机へ視線を戻した。
それで会話は終わりだった。
けれどカイはその場をすぐには動けなかった。
主君は変わった。
それは今や、誰の目にも明らかだ。
だがその変化は、世に聞くような「娘に甘くなった父親」などというものではない。
甘くはない。
むしろ、以前より厳しい命令も増えている。
締めるところは締め、切るところは切り、城の人間にまで新しい基準を強いている。
ただ、その基準の中心に一人の子どもがいる。
それが異様だった。
必要なら人を切れる男が、娘に関わることだけは切る前に止まる。
必要なら理に従える男が、娘の夜のために廊下の灯りを数える。
必要なら誰に嫌われても構わない男が、娘の一言で何も言えなくなる。
カイは一礼し、執務室を出た。
主塔の廊下はまだ明るい。
その明るさが西棟まで続いているのを見て、ふと思う。
あのお嬢様は、まだ気づいていないのだろう。
自分を守るために引かれた線が、今やこの城全体の運用を変えていることを。
そして主君もまた、たぶんまだ認めていない。
自分が娘のために、ここまで基準を狂わせていることを。
回廊の先で、兵が灯りを直していた。
火が揺れる。
影が薄れる。
夜の輪郭が少しだけ後ろへ退く。
カイはその灯りを見ながら、ようやくはっきり理解した。
次に来る冬至祭は、ただの行事では終わらない。




