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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第6章 またお父様に殺されたくない

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3、またお父様に殺されたくない

回廊でのことがあってから、父は前よりいっそう急に近づかなくなった。


それは、気づこうと思わなければ見逃してしまう程度の違いだった。


部屋へ入る前に一拍置く。

問いかけるとき、以前より少し低い位置から声を落とす。

物を渡すときは、エルナか侍女を間に入れる。

扉のところに立つ時間が、少しだけ長い。


誰もそれを口にはしなかった。

エルナも、侍女たちも、父自身も。


けれどリリアにはわかった。


気づかれてしまったのだ。

自分が、父の一歩に怯えたことを。


そのことがありがたいのか、つらいのか、自分でもわからなかった。


ありがたい、と思うのは簡単ではない。

父が怖いことは変わらないからだ。

でも、気づかれたのに無理に詰められなかったことは、たしかに少しだけ息をしやすくした。


それでも傷は消えない。


父が近づくと、一度目の夜が身体の奥で形を持ちかける。

甘い匂い。

黒いガラス。

見てもらえなかったまま終わる恐怖。


それを、いよいよごまかしきれなくなっていた。


その日の午後、オルタンシアは何も持たずに来た。


花も、香草も、細い箱もない。

だから扉が開いたとき、部屋の空気はいつもほど変わらなかった。

けれど伯母がそこに立つだけで、冬の部屋の温度が少し違って見えることは、もうリリアも知っていた。


「ごきげんよう、リリア」


「……ごきげんよう」


返した声は、少し乾いていた。


オルタンシアはそれに気づいたはずなのに、すぐには触れなかった。

部屋の中を見て、暖炉の火を見て、それから窓辺の椅子ではなく、今日は寝台の脇へ置かれた小椅子へ腰を下ろす。


近すぎない。

でも、逃げない位置だった。


「今日は、あまりお顔の色がよくないのね」


リリアは答えなかった。


回廊で文箱を落としたことは、伯母も知っているのだろうか。

城の中では、大きな出来事でなくても、必要なことだけ静かに伝わっていく。

それに父は、あのあと何かを変えた。夜番の位置か、回廊の見回りか、そういう現実のどこかを。

伯母が知らないはずはない気がした。


「何かあったの?」


やわらかい声だった。


責めない。

答えを迫らない。

ただ、その一言だけで、喉の奥にひっかかっていたものが少し動く。


「……なにも」


反射みたいにそう言うと、オルタンシアは小さく首を傾げた。


「そう。なら、何もないのに苦しいのね」


その返しがずるい。


否定したいのに、否定したところでまた同じことになる。

何もなかったわけではない。

けれど、何があったのかを一から言えるほど自分でも整理できていない。


伯母はそこで初めて、ほんの少しだけ身を乗り出した。


「レオンハルトが何かしたの?」


リリアの肩がぴくりと揺れる。


その反応を見て、オルタンシアの目が静かに細くなる。

やさしい、と思った。

同時に、そのやさしさへこのまま身を寄せたら、何かよくないところまで口が滑っていく気もした。


「……してない」


「でも、あなたは怖かったのね」


その言い方には、隙がない。


していない。

でも、怖かった。

その二つを一緒に置かれると、もう逃げ場がない。


リリアは膝の上の毛布を握った。

指先がまた強く絡みそうになって、そこで止まる。

前より少しだけ、自分でそれに気づけるようになっていた。


「回廊で、会っただけ」


やっとのことで、そこまで言う。


オルタンシアは「そう」とだけ答えた。

驚きもしないし、続きを急がせもしない。

けれど、待っている。


その待たれ方が、いちばん危ない。


「会っただけなのに、苦しくなったの」


伯母が静かに言う。


リリアは首を振ろうとして、振れなかった。


違うとも言えない。

苦しくなった。

こわくなった。

でも、それは今の父が何かしたからではない。

今の父は何もしていない。

ただ、一歩近づいて、文箱のことを訊いただけだ。


なのに身体は、もう「その先」を知っているみたいに怯えた。


「……わからない」


そう言うと、オルタンシアは深く頷いた。


「わからないことが、一番つらいわね」

少し置いて、

「怖い理由が言葉にならないと、ずっとそこへ閉じこめられてしまうもの」


暖炉の火が小さく鳴る。


その音のあいだに、伯母の声が静かに落ちてくる。


「でもね、リリア。怖い人を怖いと思うことは、悪いことではないのよ」

「……」

「守ってくれる人でも、怖いなら怖いでいい。近づかれたくないときは、そう思っていいの」


その言葉が胸へ入る。


やっぱり、伯母の言うことは正しいように聞こえる。

父のそばは安全だ。

でも怖い。

その「でも」を、伯母だけが最初から許している。


「お父様のこと、こわいの」


問われたわけではなかった。

なのに、その問いの形が部屋の中にはっきり見える気がした。


リリアはすぐには答えなかった。

答えたら何かが動く。

そうわかっているのに、沈黙ももう安全ではない。


「……こわい」


小さく言う。


「でも」


それで終われなかった。


「……いないと、だめ」


その言葉は自分でも聞き苦しかった。

情けなくて、みじめで、子どもじみていて。


伯母はそれを哀れむような顔をしない。

むしろ、当然だというふうに受け止める。


「そう。必要なのね」

「……うん」

「でも必要なことと、傷つかないことは別だわ」


その一言で、喉の奥がまた熱くなる。


傷つく。


その言葉を父のそばに置かれると、胸のどこかがひどく静かになる。

今までずっと、夜の怖さ、父の怖さ、自分の弱さ、そういう別々のものだと思っていたものが、一本の線でつながってしまいそうになる。


「あなたは、あの人の近くで休んでいるのではなく、耐えているのかもしれないわね」


オルタンシアが言う。


その響きがあまりにやわらかくて、リリアは思わず目を閉じた。


一度目にも、夜の底では、やさしい声ほど危なかった。

かわいそうに。

つらかったでしょう。

もう頑張らなくていい。

そう言われるたび、耳を塞ぎたいのに、胸の奥だけが少し楽になってしまう。


伯母の声は、まだそこまで甘くない。

でも、ほどける場所が似ている。


「お伯母様」


気づけば呼んでいた。


オルタンシアが「なあに」と低く返す。


「……お父様は」

そこまで言って、言葉が詰まる。


怖い。

必要。

見てもらえない。

でも、近くにいないと夜が深くなる。


何を言いたいのか、自分でもわからない。


オルタンシアは待つ。

待ちながら、ほんの少しだけ椅子の前へ体を寄せる。


「お父様は、こわいのに必要なのね」

「……」

「それは、とてもつらいことよ」


つらい。


その言葉が落ちた瞬間、扉の外で足音が止まった。


重く、短い、聞き覚えのある足音。


父だった。


部屋の空気が一変する。


エルナが立ち上がり、侍女が身を引く。

リリアの呼吸も、さっきまでとは違う形で浅くなる。


扉が開き、父が入ってくる。


黒い軍装。

灰銀の目。

今日もまず部屋を一度で量る。オルタンシア、エルナ、侍女、暖炉、そして寝台の端に座るリリア。


父の視線がリリアへ落ちた瞬間、胸の奥で何かが強く縮む。


父は一歩も近づいていない。

それでも、近づかれる予感だけで、回廊の白さが一度目の温室の黒へ変わりかける。


「時間だ」


父が言う。


その声はいつも通り短い。

なのに今日は、その短さがひどく遠くて、ひどく近い。


オルタンシアがゆっくり立ち上がる。


「ええ、わかっているわ」

それからわざとらしさのない声で続ける。

「でも、この子は少し疲れているの。無理に緊張させないであげて」


父の眉がわずかに寄る。


「無理はさせていない」

「そうかしら」

伯母は微笑む。

「この子、あなたが来るだけでこんなに固くなるのに」


その言葉で、父の視線がもう一度リリアへ落ちる。


見られた。


その実感だけで、喉の奥が強く閉まる。


父はまだ近づいていない。

でも、次の一歩が来るかもしれない。

問いが来るかもしれない。

その手が伸びるかもしれない。


一度目の夜は、いつだってその「かもしれない」の先にあった。


「リリア」


父が名を呼ぶ。


それだけで、視界の端がひどく白くなる。


甘い匂い。

黒いガラス。

剣の光。

見てもらえなかったまま、最後にようやく向いた目。


足がすくむ。

逃げたいのに動けない。

体の奥で、もう一度「あの夜」が起きようとしている。


父が一歩、近づく。


たった一歩だった。


でもその一歩で、リリアの中の何かが決壊した。


「……こないで」


最初に出たのは、そのかすれた声だった。


父の足が止まる。


部屋の中の誰も動かない。

暖炉の火だけが小さく鳴る。


リリアは息を乱したまま、父を見る。


今の父を見ているのに、視界の奥には一度目の父が重なっている。

討つことを決めた男の、迷わない目。

娘ではなく、災厄へ向けるための目。


違う。

今の父はそんな目ではない。

わかっている。

でも身体がそれを信じない。


「リリア」


もう一度名を呼ばれる。


その瞬間、喉の奥でずっと形になれなかったものが、一気に外へ出た。


「またお父様に殺されたくない」


言ってしまった、と思った。


言葉は部屋へ落ちて、どこにも逃げなかった。


暖炉の火も、扉の向こうの気配も、エルナの息づかいも、全部がその一言のまわりで止まる。


父は動かなかった。


ほんとうに、何も言わなかった。


近づきもしない。

否定もしない。

そんなことはしないとも、違うとも、何を言っているとも言わない。


ただ、その場で止まる。


灰銀の目だけが、まっすぐリリアを見ていた。

見ているのに、見つめ返すことができない。

その沈黙が痛かった。


オルタンシアが、ひどく静かな声で息を吐く。


「……そう」


それだけだった。


やさしい声だった。

慰めるでもなく、驚くでもなく、ただ受け止める声。


「そんなに怖かったのね」


その一言が、かえって残酷だった。


リリアは唇を噛む。

何か言わなければと思うのに、もう続きは出てこない。

説明なんてできない。

一度目の夜のことも、死ぬ瞬間に思ったことも、父が今は何も知らないことも、全部が喉の奥で絡まって、もう言葉にならない。


エルナが一歩だけ前へ出ようとした気配がした。

けれど父がほんのわずかに手を上げて、それを止める。


その手も、少し震えているように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。


父はまだ何も言わない。


長い沈黙のあとで、ようやく動いたのは、父の足ではなかった。

視線だった。


リリアの顔から、きつく握られた指先へ、そしてまた顔へ戻る。


それだけの短い動きが、なぜだかひどく苦しかった。


伯母がリリアのそばへ寄る。


触れようとする前に、目線だけで問う。

いつも通りの、許可を待つやり方だ。


リリアはそれを見たのに、頷くことができなかった。


伯母のやさしさは、今もやさしい。

でもそのやさしさに触れたら、何かが決定的にほどけてしまう気がした。


その沈黙を見て、オルタンシアは無理に触れなかった。

ただ、リリアの隣に立つ。


父はなおも何も言わない。


やがて、ひどく低い声で、エルナへ告げた。


「今日はもう、誰も入れるな」


それだけだった。


エルナが息を呑み、「はい」と答える。


父はそれ以上命じない。

伯母にも、リリアにも、何も言わない。


ただその場に立ったまま、言葉の届かない場所へ落ちたものを、自分も一緒に見ているようだった。


それが、いちばん痛かった。


リリアは毛布の端を握りしめたまま、視線を落とす。


言ってしまった。

とうとう父へ届いてしまった。

言葉になった以上、もうなかったことにはできない。


けれど、言ったからといって何かが楽になったわけでもない。

むしろ傷の輪郭だけがはっきりして、前より苦しい。


オルタンシアの気配が隣にある。

父の気配が、少し離れたところに立っている。


その二つのあいだで、リリアは息をするしかなかった。


やがて父が踵を返す。


足音は重いままなのに、入ってきたときより少しだけ遅かった。

扉のところで一度だけ止まる。

けれど振り返らず、そのまま出ていく。


黒い足音が遠ざかる。


部屋にはまだ、さっきの一言が残っていた。


またお父様に殺されたくない。


自分の声だったのに、まだ誰か別の子の声みたいに聞こえる。


オルタンシアがそっと言う。


「今日はもう、何も言わなくていいわ」


リリアは頷けなかった。


うなずくことも、首を振ることも、今はできなかった。


ただ、暖炉の火が小さく鳴るのを聞きながら、さっき父が何ひとつ言い返さなかったことだけが、胸の奥で鈍く痛み続けていた。

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