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一度目で黒狼公に討たれた私ですが、二度目の夜はお父様のそばでしか眠れません  作者: 師走
第8章 二度目の冬至祭

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5、囁きのない夜

温室を離れるとき、リリアは一度だけ振り返った。


黒玻璃の壁は、まだ夜の色をしている。

けれどもう、こちらを呼ぶ気配はなかった。

割れたガラスの隙間から漏れていた甘い匂いも、雪の冷たさに押されるように薄れていく。


オルタンシアの姿は、もう見えなかった。


白い衣も、やわらかな声も、母に似た面差しも。

全部があの黒の向こうへ沈んでしまったようで、そこにあったはずのものだけが、妙に遠かった。


父は何も言わず、リリアを支えたまま回廊を戻る。


抱き上げるほど強引ではなく、自分で歩けるだけの余地を残している。

けれど、ふらつけばすぐ支えられる距離を決して外さない。


その加減が、今夜の父らしかった。


途中でカイたちが追いついた。

兵の足音。短い確認の声。何かを指示する低い声。

父は必要なことだけを告げる。


「温室は封鎖しろ」

「誰も入れるな」

「朝まで灯りを絶やすな」


それだけで、後始末はもう父の手を離れて動き始める。

けれどリリアには、その声も遠かった。


ただ、囁きがない。


それだけが、信じられないほど大きかった。


いつもなら夜の底に必ずあったもの。

怖いときほど近づいてきた、やわらかな声。

慰めるようで、ほどくようで、最後にはどこかへ連れていこうとする声。


それが今夜は、どこにもいない。


静かだ。


こんな夜の静けさを、リリアは知らなかった。


主塔へ戻る頃には、膝の震えは少しおさまっていた。

けれど力が戻ったわけではない。

歩けているのは、父の手がまだ離れないからだと、自分でもわかる。


執務室の扉が開く。


一度目にも、二度目にも、何度も見た部屋だった。

厚い机。整えられた書棚。壁際の地図。暖炉の火。

いつもなら父の気配が濃すぎて、入るだけで少し息が詰まる場所。


今夜は違った。


怖くないわけではない。

でも、ここまで戻って来られたことの方が先に胸へくる。


父はリリアをソファではなく、自分の机の脇に置かれた深椅子へ座らせた。

座らせて、それで終わりにはしない。

毛布を引き寄せるでもなく、侍女を呼ぶでもなく、自分で暖炉のそばに寄せる。


そういう手つきを、リリアは今まで知らなかった。


やがてエルナが呼ばれて入ってくる。

顔色は悪い。泣いてはいないが、泣く寸前のように青い。

それでも室内へ入るなり、まずリリアの肩と頬へ目を走らせる。


「お嬢様」

声が少し掠れていた。


リリアは小さく頷いた。


「……いる」

それだけで、エルナの目元がわずかに緩む。


「はい」

エルナはすぐそばへ来る。

けれど抱きしめるより先に、旦那様、と短く父を見る。

その視線の意味は、父にもわかったのだろう。


「医師を」

「かしこまりました」


エルナが下がる。


部屋の中には、また父とリリアだけが残った。


暖炉の火が小さく鳴る。

外では雪がまだ降っているらしい。窓を打つほどではないが、時おり風が壁のどこかを撫でる音がする。


リリアは毛布の端を握ったまま、俯いていた。


何を言えばいいのかわからない。


終わった。

助かった。

父が間に合った。

災厄だけを断った。


その全部が本当のはずなのに、まだ身体のどこかが信じきれていない。

少しでも気を抜いたら、またあの甘い匂いが戻ってきて、今夜を呑みこむのではないかという気がする。


父は机へ向かっていなかった。

珍しく書類にも触れず、暖炉と椅子のあいだに立ったまま、こちらを見ている。


その視線に気づいても、リリアはすぐには顔を上げられなかった。


やがて、父が低く言う。


「匂いは」

問いは短い。

リリアは少しだけ息を詰める。

「……しない」

「囁きは」

「……ない」


言ってしまった瞬間、胸の奥が熱くなる。


ない。


その二文字が、こんなに大きいとは思わなかった。


父はしばらく黙っていた。

返事を探しているのかもしれない。

この人は、こういうときに何を言えばいいのか、たぶん今もまだ上手くない。


けれど、それでよかった。


うまく慰められたら、たぶんまだ信じられない。

父は下手なまま、短いまま、その代わり今夜ちゃんと間に合った。

そのことの方がずっと大きい。


「そうか」


返ってきたのは、それだけだった。


リリアはようやく顔を上げる。


父はそこにいた。

血も涙も流していない。

いつも通り黒くて、怖いままの男だ。


でも今は、その人が最初から最後まで自分を見ていたことを知っている。


温室でも。

剣を振るう前にも。

黒花を断つときにも。

終わったあとにも。


見ていた。


それだけで、胸の奥の傷が少しだけ違う形になる。


「……お父様」


呼ぶと、父の目が落ちてくる。


「何だ」


やはり短い。

けれど、もうその短さを冷たさだけで受け取らなくなっている自分に、リリアは少し遅れて気づく。


「……みてた」

父は答えない。

「ちゃんと」


声は震えていた。

けれど止まらなかった。


一度目には言えなかったことだ。

一度目には、最後まで言う前に終わってしまった。


父の沈黙が落ちる。


長いようでいて、息をひとつ数えるほどの間だった。

やがて、低い声が返る。


「ああ」


たったそれだけだった。


でも、その「ああ」は今まで聞いたどの返事より重かった。

肯定だった。

言い訳も、ごまかしも、何もないままの肯定。


リリアの目の奥が熱くなる。


泣くつもりはなかった。

大声で泣く年でもない。

でも、涙は勝手に滲んだ。


父はそれを見ても、慌てなかった。

慰める言葉も言わない。

その代わり、一歩だけ近づく。


近づいて、今度は迷わず、椅子の肘に片手を置いた。

逃げたいなら逃げられる距離。

でも、残りたいなら手を伸ばせる距離。


リリアはその手を見た。


一度目には、剣を握っていた手。

二度目の今夜は、自分を支えて、災厄だけを断った手。


怖さが消えるわけではない。

それでも今は、もう目を逸らしたくなかった。


そっと、自分の手を重ねる。


父の指が、ほんのわずかに止まる。

それから何も言わず、そのまま受ける。


その瞬間、リリアの胸からようやく最後の力が抜けた。


医師が来る前に眠ってしまう、と思った。

実際、その通りになったのだろう。


いつのまにか父の手の近くへ身を寄せていて、いつのまにか頬が軍装の黒い布に触れていた。

硬い布だ。あたたかいというより、体温があるとわかるだけのぬくもり。

でもそれで十分だった。


囁きはない。

甘い匂いもない。

あるのは、暖炉の火と、雪の気配と、父の手だけだ。


その夜、リリアは初めて、誰かにほどかれるのではなく、守られたまま眠った。


そして父は、眠りに落ちた娘を見ながら、長い夜を最後までそこにいた。

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