121話 雪の精は太陽に帰る
「もうこれ以上あなたと一緒にいることはできません。私たち、別れましょう」
静寂が教室を支配し、あたりは次の動きを待っていた。
「…………は?」
その静寂を破る間の抜けた声。それが広瀬のものだと理解するまでに少しの時間を要した。
その一声を革切りに、教室にざわめきが伝播していく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 一体何でそんな話になるんだい? テストで疲れているのは分かるけど、少し落ち着いて――」
「私はちゃんと落ち着いてます。もう我慢の限界、もうあなたの彼女でいるのは無理なの」
「なっ……!」
驚きを隠せない広瀬。きっとこいつにとっては晴天の霹靂だろう。しかし俺達にとってはこれで予定通りだ。
「――まず、動き出すのはテストの後だよ。全部のテストが終わってからすぐ、雪芽はクラスのみんなに見せつけるように優利を振って」
作戦会議で庭が言った言葉に、雪芽は戸惑いを隠せない様子だった。
「み、みんなに? そんなことしなくても呼び出すとか他にも方法あるんじゃないかな?」
「だめだめぇ、そんなことしたら優利に対策する時間を与えちゃうでしょ? 今回の作戦はスピードが命なんだから!」
「それにリンリンは他人にどう見られるかをとっても重要視するからな。みんなの前で別れ話を切り出されでもしたらその対応に追われる。その隙をつくってわけ」
「そう。それにこの作戦では優利を徹底的に追い詰める必要があるからね。そういった意味でもインパクトが大事! オッケー、雪芽?」
「う、うん、がんばる……!」
――とまぁ、庭と高野はそんなことを言っていたが、広瀬はいま目に見えて動揺している。隙を作るってのには成功したようだ。
「……分かった、でもこんなところで話すようなことじゃないだろう? ひとまず場所を移そう」
しかし広瀬は突然のことにもパニックにならず、冷静に場所を移すことを選択した。
広瀬は強引に雪芽の手を取り教室を出ていく。その去り際、雪芽は俺をちらりと見やると、真剣な表情で頷いた。
二人の姿が教室から消え、残されたクラスメイトたちは今見た光景について盛んに話し合っている。
「はい、テストお疲れ様……って、おーい、静かにしろっ! テスト終わりでテンション上がってるのは分かるが、さすがにうるさすぎるぞ!」
教室に入ってきた山井田さんも戸惑っているようで、声を張り上げてなんとか鎮めようとしている。
雪芽が広瀬に対して別れ話を切り出したことは、クラスメイトたちの中でも大きな衝撃となっているようだ。
……ここまでは作戦通りだな。雪芽のほうが心配だけど、今は信じて任せるしかない、か。
心配で気が気じゃないが、これも雪芽がやると決めたのだから任せるのが筋だろう。それにこのあとは俺が引き継ぐのだから、他人の心配をしている場合じゃないかもな。
ようやくあたりを沈めた山井田さんの話もろくに耳に入ってこず、祈るように固く組んだ手を見つめていると、ふと誰かが俺の肩に手をおいた。
「すけっち、そんな緊張すんなって。めっちゃんなら大丈夫っしょ」
見上げると気さくな笑みを浮かべた高野が立っていた。後ろには庭もいる。
どうやら山井田さんの話は終わり、いつのまにか放課後になっていたらしい。
「そうそう。雪芽ってば肝座ってるし、ヒナ的には柳澤君のほうが心配だよ」
「それはそうなんだが……。広瀬が激高しでもしたらと思うとな……」
「いまんところリンリンはやっちゃヤベーことはしねぇって。めっちゃんが体に傷でもつけて帰ってきたらどんな噂が立つか、分からねぇはずねぇし」
まぁ、高野の言うとおりか。どうやら俺もだいぶ緊張しているようだな。高野に励まされてちゃ世話ない。
「ちょっとヒナ、本当にこんなのでいいの? 確かに広瀬君とユッキーが別れるかもって話で持ちきりだけど、これじゃあ広瀬君のファンの子からユッキーが恨まれたりとかするんじゃない?」
あたりのクラスメイトたちの会話に耳を傾けながら俺の席まで来た夏希は、不安を拭いきれないといった表情を浮かべている。後ろにいる隆平も少しだけ不安そうに顔をしかめていた。
それに対して庭は安心させるようにニカッと笑うと、
「だいじょーぶだって! 確かにその可能性はあるけど、そうならないために今雪芽が頑張ってるんだから」
と、そう言った。
その笑顔は自信に満ち溢れていて、なんだか眩しかった。
雪芽が公開別れ話を切り出した理由。それはクラスメイトに広瀬と雪芽が別れるという事実を知らしめるためだと、作戦会議で庭は言った。
「――噂を使う? それって広瀬が俺にやった手法と同じじゃないか? 本当に通用するのか……?」
「優利は人望が厚い。それって言いかえれば注目を集めやすいってことなの。だからそれを逆手に取って――」
「リンリンが対策を取る前に、噂で身動きを封じるって寸法な!」
「……ちょっと明、ヒナのセリフ取らないでくんない?」
「ごめんごめんっ、我慢できなくってさぁ……」
「はぁ……。それで話を戻すけど、噂っていうのは尾ひれ背びれがついてどんどん大きくなっていくものなの。あとはこうだったらいいのにっていう願望も入ってくる。
だから”別れ話を切り出した”っていう噂が”別れた”って内容に変わる可能性は高い」
それはそうだ。俺も実際にやられたから身にしみて理解できる。
「でも保証はないじゃない? もしそうならなかったらどうするのよ?」
しかし、夏希は慎重な意見を庭にぶつける。
だが、希望的な憶測で動くには危険なことも確かだ。夏希くらい慎重になるくらいが丁度いいのかもしれない。
「優利なら噂の変化パターンまで全部予測して対応するんだろうけど、ヒナたちには無理。だからそうなるように仕向けるの」
「仕向ける? どうやってよ?」
「それは――」
「俺たちで噂を広める!」
「あ~き~ら~!」
「うひゃぁ! ごめんヒナァ!」
――という話だったが、今のところは作戦会議で話したとおりに進んでいる。
”別れ話を切り出した”現場を見たクラスメイトたちが噂を広め、どうやら”別れた”らしいという話を俺たちが追加で広めていく。広瀬のファンの女子たちはそっちのほうが都合がいいから信じることになる。そういう計画だ。
そのための人手かと、夏希も隆平も納得していた様子だった。
それに雪芽が順調に話を進めていれば、”別れた”という噂は噂ではなく真実になるはずだ。
「んまぁそうだけど……。やっぱり心配よ」
「それは――、ほら夏希、帰ってきたみたいだよ」
庭の言葉に俺たちは一斉に教室のドアに目を向ける。
そこには教室を出ていったときと何も変わらぬ姿で立つ雪芽がいた。
「雪芽……!」
「ユッキー、無事で良かったぁ……」
「うん、ちょっと怖かったけど、なんとかやり遂げたよ!」
雪芽は俺と目が合うと、安心したような笑みを浮かべた。
その笑みに釣られて、俺の頬も少し緩む。
「それで雪芽、ちゃんと録れた?」
「うん、バッチリ!」
庭の言葉に雪芽は誇らしげに自らのスマホを掲げた。
庭は雪芽からスマホを受取ると、イヤホンを差し込み録音データの確認を始めた。
「それで雪芽、広瀬とはどうなったんだ?」
庭がデータの確認をしている間、俺は気になっていたことを雪芽に問いかけた。
別れられたのか、それともまだ雪芽は――
「ちゃんと別れてきたよ。もう何があっても広瀬君の彼女にはならないって、啖呵切っちゃった」
「……! そうか」
雪芽は少し照れくさそうに、俺の望む答えをくれた。
これで雪芽はもう広瀬のものではなくなった。あぁ、よかった。本当に良かった。これで雪芽は俺の――
……いや、それとこれとは話が別だろ。何浮ついてんだ俺は。
心の中で自分に喝を入れる。
ここまでは順調だが、大変なのはむしろここからだ。広瀬が次の手を打ってくる前に事を起こさなきゃならない。
「……よしっ! バッチリ録れてるよ、雪芽! これだけの証拠があれば最後の詰めができる」
雪芽のスマホからイヤホンを抜き去り、庭は満足げにピースサインを掲げる。
どうやら録音データには、広瀬が雪芽を脅している様子がバッチリ録音されていたらしい。
「おぉ……! どんな感じだ?」
「あっー、ちょっと待って! 柳澤君は確認しなくても大丈夫かな〜……?」
俺も録音データを確認しようとすると、庭はなぜか言葉を濁して応じない。
これは広瀬を追い詰めたあとに、ダメ押しの証拠品として雪芽と広瀬の別れ話の様子を録音したものだ。それがきちんと有効なものかどうか、俺も確認しておきたいのだが……。
「え、どうして? 別にみんなで聞いても大丈夫じゃ……?」
「いやいやっ! だって雪芽これ……ゴニョゴニョ……」
キョトンとした表情を浮かべる雪芽に、庭はそっと近づいて耳打ちをする。
その内容は聞き取れないが、雪芽の表情がみるみるうちに焦りを浮かべて固まっていくのを見るに、何か俺の知らない秘密が録音されているらしい。
「あ、あ〜……。そうだね、ヒナの言うとおり確認しなくてもいいかもネ」
「なんかすごく怪しいんだが?」
「全然怪しくないって! それにこれは最後に証拠として使うんだから、今急いで聞く必要はないと思うのっ!」
必死の形相で詰め寄ってくるところを見ると、相当聞かれたくないらしい。
……というか距離が近い! 思わず仰け反っちゃったじゃないか……。
「お、おう、分かった分かった。別に確認しなくても平気ならいいんだ」
「そ、そう? なら良かった」
そうして雪芽と庭は胸をなでおろす。
……一体何が録音されているのか、すごく気になる……。
「それじゃあこれから第2段階ね。ヒナと明は優利の目があるからあまり動けないけど、夏希と塚田君は噂の拡大に努めて」
「分かったわ」
「了解ー。陸部の男子は任せてよ」
夏希と隆平の返事を受けて、庭は真剣な表情で頷いた。
「雪芽は噂の中心だから、誰かに別れた理由とか聞かれたら正直に答えちゃっていいからね」
「うん、分かったよ」
雪芽もここから広瀬と別れた理由を拡散していく役目がある。
録音したデータには広瀬が雪芽を脅していた証拠があるし、嘘だと一蹴されたり、形勢が広瀬に傾いたときなどにこちらの主張が真実だと証明できる。
だからこそ強気に全責任を広瀬に押し付けていくことができる。そうして夏希も心配していた雪芽への恨みつらみを減らすことができるというわけだ。
「庭、俺は何をすればいいんだ?」
しかし、俺はこの第2段階でなにかをしろとは言われてない。作戦会議のときに言われなかったから、夏希や隆平と同じことをしろってことなのかと思ってたんだが……。
「あっ! 今ヒナのこと名字で呼んだでしょ!? はい、柳澤君一点ゲンテ~ン」
「……なんのポイントが減点されたんだ?」
「う~ん、ヒナの好感度?」
別に下がっても問題ないポイントだったな。
しかしこの感じ、庭は「ヒナ」とあだ名で呼ばない限りこっちの質問には答えてくれそうもないし、従うとするか。別に俺にあだ名で呼びたくない理由があるわけでもないしな。
「それでヒナ。俺は何をすればいいんだ?」
「うんうん、やっぱりヒナの好感度は大事って感じ~?」
「「……」」
庭のその発言の直後、雪芽と夏希からの視線がそれとなく冷たくなった気がするが、きっと気のせいだろう。
「それで柳澤君のすることだっけ? 今は特にないよぉ?」
「え、ないのか」
「うん。だって柳澤君って交友関係狭そうだし?」
「言えてるぅ~! すけっち友達100人って感じじゃねぇもん!」
「うるへえ。少数精鋭なだけだ」
まぁ確かに。俺の友人と言ったら夏希に隆平に雪芽。高校の中ではこいつらとその周辺人物だけだ。
となると夏希や隆平が噂を拡散すれば、俺の友好関係の範囲もカバーできる。俺は必要ないってわけだ。
何もすることがないっていうのもこの状況じゃ辛いものだが、余計なことをして作戦の進行を妨げるのも良くないよな。
「まぁ強いて言えば優利と話すことがあったら強気に接してほしいってくらいかなぁ」
「怒りは行動力を生むけど判断力を奪うって、リンリンも言ってたしな」
「まぁそういうことっ! 柳澤君には優利にとどめを刺してもらう役目があるんだから。それまで英気を養っててよ」
「……んんっ? エーキってなに? ナントカ液的な?」
「……明は黙ってて。それじゃあ皆、よろしくね!」
庭の言葉に皆、それぞれの返事を返す。
それはどれも短く、バラバラではあったけど。そのすべてはまったく同じ、決意に満ち溢れていたのだった。
――――
「ねぇねぇ聞いた? 1組の広瀬君別れたって」
「聞いたぁ~。彼女のほうが振ったんでしょ? 広瀬君フリーになったのは嬉しいけどさぁ。別れた子はなにが不満だったんだろうね?」
「なんでも広瀬君が脅したとかで、無理やり付き合わされてたらしいよ?」
「えぇ、マジ!? 広瀬君と脅しとか、一番遠い感じじゃない?」
雪芽が広瀬と別れた翌日の朝。校舎に入るなり、廊下では広瀬の噂が飛び交っていた。
それはおおよそ俺たちの作戦通りのものであったが、そうでないものも含まれていた。
「なんか広瀬君が散々優しくしてくれたのに、急に別れたいとか言い出したらしいよ?」
「うわぁ、なんかそれ贅沢を通り越して不遜じゃん? その彼女って1組の子でしょ? マジありえないんだけど」
噂の拡散の速さから広瀬の知名度を実感するとともに、こうして広瀬を擁護する声が多いことから、広瀬の好感度が高いことが伺える。
あるいは広瀬が、俺たちが流そうとしている噂を妨害しようとして流したものなのかもしれない。
昨日は雪芽との別れ話を済ませてから広瀬の姿を見かけてないし、さっそく対策に動き出しているのだろう。
「……噂になってるね」
隣を歩く雪芽は、少し俯いて肩身が狭そうにしている。
雪芽が俺の隣りにいて、一緒に歩いている。登校している。そのことが嬉しくて、むず痒くて、俺は一瞬だけ雪芽の姿を目に収めると、すぐに前を向いた。
「そうなるようにしたんだからな。作戦は順調ってことだ」
「そうだけど……」
「気にせず堂々としていればいいんだよ。何かあれば俺が守るから、さ」
「……うん。ありがとう」
またそう言えることが、その言葉を受け入れてもらえることが、俺はたまらなく嬉しかった。
一度雪芽を守ることを諦めた俺を許してくれているような、そんな気がして。
そうして飛び交う噂に耳を傾けながら廊下を進むと、教室の前で件の男に出くわした。
「広瀬……」
俺の口からこぼれた名前に、広瀬は弾かれたようにこちらを向いた。
そして俺と雪芽を見るなり、憎しみを隠そうともしない瞳で呟くように吐き捨てる。
「……よくもやってくれたな」
「人気者ってのも案外大変なんだな」
「お前……! ……いや、今はそうして皮肉でもなんでも言って勝ち誇っていればいいさ。こんな噂すぐにかき消して、お前をまた地獄に叩き落としてやるよ」
飛び出しかけた怒りを抑えて、不敵な笑みを浮かべる広瀬は、それだけ言うと俺達に背を向けて歩き出した。
それはかつての堂々とした背中ではない。疲れを滲ませた、小さな男の背中だった。
「……広瀬君、怒ってたね」
「ああ。怒ってもらわないと困るしな」
「第3段階、もうすぐかな?」
「……そうだな」
近づく決戦の足音に、俺は拳を固く握り込んだ。
新型コロナウィルスで大変な時期ではありますが、皆様どうか健康には気をつけてお過ごしくださいね。
外出自粛中の暇つぶしになりますよう、なるべく早めに更新していきますので、どうかご自愛ください。




