120話 雪解けの水は街に流れる
まだ少し雲がかかった空の上で、太陽は柔らかな光で俺を照らしていた。
少し溶け始めた湿った雪を踏みしめて、向かう先は無人駅だ。
集合時間にはまだ余裕があるが、夏希や退院したばかりの雪芽を待たせるのは気が引ける。
それにあまり家にいたくない理由もあった。
――お兄ちゃん、どうして由美と別れたの? 大切にするって、泣かせないって、そう約束したじゃん!
雪芽が目覚めた翌日、俺はお見舞いには行かずに、飯島さんに雪芽の事を報告しに行っていた。そんな俺を出迎えた晴奈の一言は今も俺の胸に突き刺さったままでいる。
晴奈は俺と由美ちゃんが別れたあの日、由美ちゃんの家に泊まりに行っていたんだ。俺と由美ちゃんが別れたことを知らないほうがおかしいというものだろう。
――由美より大切なものってなに? 雪芽さんのこと?
そう尋ねる晴奈の目は、どこか縋っているように見えた。
答えを。納得できる答えをくれる。そう願っている目だった。
確かに俺は雪芽が好きだ。好きだと気づいた。でもそれは由美ちゃんと別れたあとの話で、それが原因で別れたわけじゃないのだと思う。
俺は雪芽を救い、彼女が生きる未来を掴まなければならない。そのために俺は、それ以外の未来を捨てると決めた。
でもそのことを晴奈たちに話すわけにはいかないんだ。あいつらには何も知らず、平穏に過ごしてもらいたいから。
だから、俺は言えなかった。本当の理由を。晴奈が求めていた理由を。
由美ちゃんをどうしても晴奈の友達としか見れなかった。だから別れることにしたんだと。そう言っても晴奈が納得することはなかった。
――夏休みに入ってからお兄ちゃん、変だよ……。雪芽さんとなにかあったんでしょ? それも教えてくれないの……?
言えない、言えるわけがないと。俺は晴奈に背を向けた。
何も変なんかじゃない、雪芽とはなにもないよと、そう言い残して。
隠しきれるとは思ってなかった。今はもうなかったことになってしまった夏休みの中でも、晴奈は俺を心配してくれた。きっと夏希や雪芽たちも俺の異変に気づいているだろう。
心配をかけてしまっているだろうか。不安にさせてしまっているだろうか。もしそうだとしても、俺は隠し通さなくてはいけないんだ。
そんな事があってから、俺はなんとなく晴奈とは顔を合わせづらくなってしまった。
今も思い出して少し胸の奥が苦しくなる。
ふと俯けていた視線を上げると、そこはいつもの無人駅だった。
いつの間にかついていたんだな。雪芽たちはもう来ているだろうか。
「あ、陽介。おはよう」
駅舎の中に入ると、すでに雪芽が暖房のきいた待合室のベンチに座っていた。どうやら夏希はまだのようだ。
「ああ、おはよう。夏希は?」
挨拶を返しながら雪芽のもとへと向かう。
そして一瞬迷ってから雪芽の隣に腰掛けた。
「まだみたい。集合時間までまだあるもんね」
「そうだな。にしては雪芽はずいぶん早いな?」
「……少し考えたいことがあって」
「……そうか」
それはこれからのことだろうか。それともこの間のことだろうか。
なんだか微妙な空気が待合室を覆って、俺はせわしなく動き出そうとする腕を組み伏せた。
雪芽への気持ちに気づいたあの日以来、俺と雪芽の間に流れる空気は言葉を口にしづらいような、お互いを探り合っているような、そんな微妙なものだ。
二人きりでないときはそうでもないが、こうして二人きりになると意識してしまう。
好きな子と二人きりなんだもんな。うん、だいぶ緊張してきたぞ。
「あー……、あれから体調はどうだ? どこかおかしかったりとか、ないか?」
「うん、大丈夫だよ。1週間も寝てたなんて嘘みたいに元気だもん」
「そうか、よかった」
「うん……」
「……」
「陽介はどう? 晴奈ちゃん心配してたよ?」
「……ああ、雪芽が元気になってくれたから一番の心配事は減ったかな。晴奈には由美ちゃんのことで色々言われたけど」
「そっか」
雪芽は待っている。あの夜の言葉の続きを。そして俺もこの気持を雪芽に伝えたいと思っても、あのときの勇気を取り戻せないでいた。
まだ雪芽は広瀬と付き合っているんだし、それらが全部片付いてからでもいいじゃないか。こんなにバタバタしているときに言ったら余計に状況を混沌とさせてしまう。そんな言い訳をしては何でもない話題をダラダラと続けている。
「……ねぇ陽介。あの日、私が目を覚ましたあの夜。陽介言ったよね? 由美ちゃんより大切なことが、大事にしなきゃいけない人がいるって」
「……ああ、言ったな」
隣の席から痛いほどの視線を感じる。
きっと真剣な目をしているんだろう。でも俺は目を合わせることができなかった。そうしてしまったらきっと言わなくてはいけなくなってしまうから。そうして自分の気持ちを口にする勇気をまだ、俺は持てないでいる。
「あれはどういうことだったの? 晴奈ちゃんはきっと私が関わってるって言ってたけど、それはあの夜陽介がいいかけたことに関係してるの……?」
「……」
直ぐに返事をすることはできなかった。付け焼き刃の答えじゃ雪芽は納得しないだろうし、かと言って本当のことを話すわけにもいかないからだ。
そうして逡巡していると、駅舎の扉が開かれる音がした。
俺と雪芽は弾かれたように扉に目を向ける。
「あれ、ユッキーに陽介、もう来てたのね。まだ私遅れてないわよね?」
そこには寒そうに鼻先を赤らめた夏希が立っていた。
正直助かった……。これで雪芽の答えの出せない問いに答えなくて済むのだから。
「……うん、まだ大丈夫だよ。電車もまだ来ないみたいだし」
「そ、ならよかった。……って二人ともどうしたのよ? なんか暗くない?」
「そりゃ突然あんな事言われたら緊張もするだろ」
「なんだそんなこと? 陽介って意外と小心者よね」
「うるへえ」
「……」
揶揄いの言葉を口にしながら、夏希は俺の隣に腰を下ろした。
とっさに口から出た嘘は、どうやら夏希を納得させたようだったけど、雪芽は好ましく思っていないようだった。
無言のまま投げられる視線を、俺を攻めているような風に感じてしまうのは、きっと俺の心の問題だ。
「でも急に広瀬君のことで話しておきたいことがあるなんて、なにかしらね?」
「作戦があるとかどうとか、そんな事を言ってたな」
「作戦って聞くとちょっとワクワクするね!」
「ユッキーは陽介と違って肝が座ってるわねぇ」
「広瀬と別れるための作戦なんだから、雪芽が主役になるんだぞ?」
「えぇ!? そうなる、のかな……? あんまり目立つことはしたくないなぁ」
いつだったか、高野と庭が広瀬から雪芽を取り戻すための計画を考える、そんな事を話した。
あれから雪芽に拒絶されたり、由美ちゃんと付き合い始めたりといろいろなことがあったから忘れかけていたが、どうやらその作戦とやらができたらしく、昨日庭から連絡があったのだ。
これでバッチリ雪芽を取り戻せるよ! やったね柳澤君! と言われたのだが、本当に大丈夫なんだろうか……。ちょっと心配だ。
だってあの高野と庭が立てた作戦だろ? 穴だらけの気しかしない。
まぁ、だからこうして確認に行くわけだ。そう、こうして雪芽や夏希と待ち合わせていたのは、これから庭たちに作戦の全容を聞くためだしな。
どうやら人は多いほど良いらしく、夏希も連れてきてくれとのことだった。隆平にも声をかけておいてくれと言われたので、このあと街の駅で待ち合わせだ。
「そうだ、明日から学校だよね? 実力テストだってあるし、終わってからでも良かったんじゃないのかな?」
「学校が始まってからじゃ広瀬君とヒナたちはいつも一緒になっちゃうでしょ? 作戦会議どころじゃなくなっちゃうじゃない」
「それもそっか。そういえばなっちゃんはテスト勉強した?」
「当然してるわよ? ユッキーが心配かけるせいであまり進んでないけどね」
「あはは……、ごめんねなっちゃん。陽介はどう?」
「……テストなんてあったか?」
「……いまので全部察したわ」
「作戦会議が終わったら勉強会でもしよっか。私も寝てたせいで全然進んでないし」
「おねがいします……」
テスト、テストかぁ……。そんなの今の今まですっかり忘れてたぞ……。
休みに入って雪芽がすぐ倒れたせいもあって、宿題すらろくに進んでないのに、ここに来てテスト勉強までしろときた。
山井田さんに事情を話したらテストを免除とかしてくれないだろうか? きっとそれはそれ、これはこれと言われるのがオチだな……。
「ほら、電車きたわよ。行きましょ」
寒さにのそのそと立ち上がり、ホームで待っている電車に乗り込む。
そうして電車は走り出す。俺の憂鬱も一緒に乗せて。
――――
電車を降り、太陽の熱で溶けかけた雪が歩道を満たす街を歩く。向かう先は庭に指定されたチェーン喫茶店だ。
街で合流した隆平は、皆からこれまでにあったことの概要を聞かされて、呆けたようにため息をついた。
「そんなことがあったのかぁ……。なんか、何から言っていいのか分からないけど、とりあえず池ヶ谷が元気そうで良かったよ」
「びっくりさせちゃってごめんね」
「池ヶ谷のことも十分びっくりだけど、陽介に彼女ができていたっていうのもびっくりだよ」
「ほんとよ! 言っとくけど私はまだ納得してないからね」
「ま、まぁそれについてはまた今度でいいだろ」
「ははっ、夏希が俺以上にびっくりしている様が目に浮かぶようだよ」
「笑い事じゃないわよ隆平!」
夏希は何が気に入らないのかずっとこんな調子だ。
まぁ彼女ができたなんてことは言いふらすようなものでもないし、こうして別れてしまった以上恥を晒すだけだ。自ら進んで言うようなことでもないだろ。
それでも隆平も驚いているところを見ると、俺に彼女ができた事が驚愕の事態なんだろう。
そんな風に夏希の追求を躱し続けていると、雪芽まで夏希に加勢しはじめ、隆平はそれを見て楽しそうに笑っていた。
そうしているうちに気がつけば集合場所に到着し、店内で先にコーヒーを手にした庭たちを見つけた。
「やっほー! みんな久しぶり~! ってほどでもない?」
「いやいや久しぶりっしょ! すけっちとか見ないうちに随分老けた感じ? マジおじさんじゃん!」
「お前らも相変わらず元気そうで何よりだ……」
店に入って顔を見せるなり、庭と高野の陽キャ組は随分と賑やかだ。
こう底抜けに明るいと、喧しいと思う反面羨ましくもなる。
俺は雪芽や由美ちゃんのことでそれなりに悩んでいるのに、こいつらはのんきなもんだなぁ、と。
挨拶を済ませ、高野と庭にも休みに入ってから今までの経緯を簡単に話し、俺にとってはもはやお決まりとなった揶揄いの言葉を受け取る。
「しかし優利が雪芽んとこまで行くとはねぇ~。正直ヒナでもそこまでは予想できなかったよ」
「広瀬って意外と粘着質なのかなぁ?」
「多分違うっしょ、ダッペイ。リンリンは目的のために手段を選ばないフシがあるからさ」
「ダッペイって……?」
「塚田隆平だからダッペイっしょ?」
「はぁ……」
ダッペイ、ダッペイ……? と自分のあだ名に疑問を拭いきれない隆平は、高野の独特なネーミングセンスの渦に飲み込まれていってしまった。
「でも確かに、広瀬は異様に雪芽にこだわってたな。なにか理由があるんだろ?」
「ま、そうだね。予想はつくけど、ヒナたちも優利に聞いてみたいし、今は言わないどく」
「それより作戦会議しようぜ! 俺とヒナの考えた完璧な作戦に、きっとすけっちたちも震えて眠ること間違いなし!」
「震えて眠るの……?」
「ユッキー、深く考えちゃだめよ」
夏希の言う通り、高野の言動をまともに受けていたら話が進まないからな。ここはスルーが堅実だ。
庭もそれを悟ったのか、高野を押しのけてずいっと前に出る。
「それじゃあ作戦会議始めるよっ! 題して、優利から雪芽を取り戻そう大作戦~! いえーいっ!」
「ひゃっはッー!」
「い、いえーいっ」
庭と高野につられて拳を突き上げる雪芽は、俺達が誰もノッていないのを見ると恥ずかしそうに手をおろした。
「いいねぇ雪芽! 皆はノリが悪いんだよねぇ」
「いやいやヒナ! 俺はノッたっしょ!?」
「明のはなんか違うからだめー」
「なにそれひどっ!?」
「ふふっ、確かにちょっと変だったよね」
「だよねー! 雪芽はいい子っ」
作戦会議という割にはなんと和気あいあいとした雰囲気だろうか。雪芽の笑顔が見れることはいいことだけど、これからあの広瀬と対面するんだろ? こんなことで大丈夫だろうかと少し心配になっていしまう。
「ほら、作戦会議するんだろ? どんな計画を立てたのか、聞かせてくれ」
「うんうん、相変わらず柳澤君はがっついてるねぇ。いいよ、それじゃあ早速作戦会議だぁ!」
そうして軽いノリで始まった作戦会議。雪芽を広瀬のもとから取り戻す、そのための第一歩を踏み出したのだ。
――――
まだ寒い教室の中は、テストが終わった興奮で満たされていた。
休みが明けて、すぐテストが始まって。皆鬱憤が溜まっていたことだろう。所々でこれからどこに遊びに行くだとか、そんな話が聞こえてくる。
「雪芽、テストの感触はどうだったかな?」
そんな雰囲気の教室をさっそうと歩いて雪芽に声をかけたのは広瀬だった。
広瀬は雪芽の隣に座る俺を目にとめると、一瞬底の知れぬ憎しみを目に宿し、次に勝ち誇ったような笑みで雪芽に向き直る。
「……」
「雪芽?」
少しの間緊張したように黙っていた雪芽は、突然音を立てて立ち上がると、教室中の視線を一身に集めた。
途端に静かになる教室に、雪芽は緊張からか拳を握りしめる。
俺はそんな雪芽の背を、広瀬からは見えないようにそっと押した。
雪芽はちらりと俺を見やると、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
「広瀬君、お話があります」
「うん? なにかな?」
「もうこれ以上あなたと一緒にいることはできません。私たち、別れましょう」
去り始めていたはずの寒さは再びこの教室を支配し、まるで時が止まったかのような静寂が訪れる。
一瞬、そのほんの一瞬の最中。窓の外を覆っていた雲は晴れ、太陽が一条の光を差し込んだ。
――さあ、作戦開始だ。




