118話 これまでの時間はこの想いに繋がって
「雪芽に広瀬と別れてほしい」
それはいつか言った言葉。かつて叶わなかった願い。
今度はもう諦めない。例え雪芽が拒んでも、もう引き下がらない。背を向けない。
雪芽の目をまっすぐに見て、俺は本気なんだと覚悟を込める。
しかし雪芽は繋がれたままの手に視線を落とし、黙ったままだった。
「……前言ったときはさ、雪芽にもう関わらないでくれって言われてショックで、俺は雪芽が広瀬のことを好きじゃないのかどうか分からなくなった。
でも、雪芽が倒れてから思ったんだ。庭の雪芽が広瀬のことを好きじゃないって言葉に嘘はなくて、やっぱり雪芽は俺を守るために広瀬と一緒にいるんだって。だからあの時、広瀬と別れないと言われたあの時、雪芽はまた俺を守るために無理をしたんじゃないかって思ったんだ」
無理をして広瀬と一緒にいることで雪芽は倒れた。なら雪芽は俺を守り続けるために広瀬と付き合い続けてきたってことになる。雪芽の心が満たされているなら、雪芽は倒れるはずなんてないんだから。
俺はずっと、守らなきゃと思ってきた女の子に守られてきたんだな。それほどまでに情けない姿を晒してきたんだ。
「だから教えてくれよ。雪芽が広瀬と付き合い続ける理由を。守ってもらってばかりなんてもう嫌だからさ」
雪芽はそっと視線を上げると、まっすぐに俺の目を見た。
その瞳の奥に渦巻く感情は、複雑に混ざり合い、たった一つに表すのが難しいほどだった。
そして雪芽はそっと目を閉じる。
「……そうだね。ずっと黙ってばかりなんて卑怯だもんね」
次に目を開いた時、雪芽の瞳にもう迷いはなかった。
なにかに背を押され決心した、そんな瞳だった。
「私ね、広瀬君に陽介の噂を消してやるから付き合えって、そう提案されたの。そうして私は好きでもない広瀬君と付き合い出すことになった。そこまではヒナの話と一緒だよ」
「……やっぱりそうだったのか。俺が不甲斐ないせいで……」
「ううん、違うよ! 陽介のせいじゃない、私がよく考えもせずに動いちゃったせいだから……」
繋いでない方の手で必死に俺が悪いのではないとアピールする雪芽は、その手をそっと下ろすと、当時を思い出しているのか申し訳無さそうな表情を浮かべた。
「それでその後、広瀬君が陽介を陥れた犯人だって知って別れようとしたんだけど、そのときに広瀬君に言われたの。自分と別れればまた陽介がありもしない噂に苦しめられて、暴力とかもっとひどいことをされるかもしれない、って」
「あいつ……!」
どこまで、一体どこまで卑劣になれば気が済むんだッ……! 雪芽の弱みに付け込むような真似をして、そんなことをしてまで雪芽をそばに止めようとするなんて、恥ずかしいと思わないのか?
……でも、これは俺の責任でもある。俺が情けない姿を見せてばかりだったせいで、雪芽にそんな選択を迫ることになってしまった。
俺がもっと雪芽を安心させてやれるような男だったら、そもそも広瀬の罠にかからなければ……。そう思わずにいられない。
「だから私は広瀬君とは別れられなかったの。ごめんね陽介、話せばきっとまた陽介が苦しむことになると思って言えなかった。だからああして何も言わず断ることしかできなかった……」
「……そっか、俺が思っている以上に雪芽には負担をかけていたんだな」
俺は、愚かだ。
自分ひとりが傷ついても、大切な人たちが無事ならそれでいいという考えが、結果的に雪芽を苦しめ、死の危険にまで晒してしまった。
雪芽を死の運命から救う。そう誓ったのにたった一度の拒絶で諦めてしまった。
そんな俺を慰めてくれた由美ちゃんの優しさに甘え、彼女までも傷つけた。
俺はいつからか、間違えてばっかりだ……。
……でも、まだ何も終わってない。雪芽はこうして目覚めて、今も俺の隣りにいる。
大事なのは間違えたあとにどう動くかだ。俺はここからもう一度やり直すんだ。すべてがもとに戻るわけじゃないとしても、大切なものをもう一度この手に掴むために。
「なぁ、雪芽。きっと雪芽から見て俺はどうしようもなく情けない男なんだと思う。広瀬の悪意を退けることもできない、言いがかりをつけるクラスメイトを黙らせることも、一人の力でお前たちを守ってやることもできないかっこ悪いやつだ。
でも、もう大丈夫。もう負けない。もう一度広瀬と対峙したら、今度こそ俺は勝ってみせるから。もう雪芽にそんな心配はさせないからさ」
少し、繋ぐ手に力を込めた。
俺はもう大丈夫。心配しなくていい。そんな思いが伝わるだろうか。
「だから、だからさ、お願いだよ雪芽。広瀬と別れてくれないか」
「……どうして陽介は、またそう言ってくれるの? 理由があったとはいえ、私はあんな風に拒絶したのに……」
雪芽はそんな俺の言葉を受けて、顔をそらし顰めた。
過去の自分の行いを悔いるように。そしてどこか不安げに。
「それは――」
雪芽が苦しそうだから、そんな雪芽を見ていたくないんだ。
そんな言葉が喉元までせりあがってきて、なんだか少し違う気がした。
いや、もちろんそれもあるんだけど、なんていうかそれだけじゃない。雪芽が広瀬と付き合い始めたと初めて聞いた時、俺は広瀬の隣で笑っていた雪芽を見て胸の奥がモヤッとしたんだ。
それは雪芽が広瀬と一緒にいるのを見たときも、広瀬と別れるつもりはないと言われたときも、いままで何度となく感じてきた。
雪芽が幸せならそれでいい。そう自分を納得させてもまだ心の奥に残るしこり。その存在を今までずっと感じていた。
……そうだ、きっと俺は嫌だったんだ。雪芽が広瀬と一緒にいるのが。
気に入らなかったんだ。そこは俺の場所だって、そう思って――
「…………」
「陽介……?」
「あぁいや……、その、雪芽を助けるって決めたからな。だから苦しむお前を放っておけないんだ。それに雪芽をこんな目に合わせた広瀬とこれ以上を一緒にいさせるわけにはいかないし」
「……ふふっ、やっぱり陽介は優しいね。私はあんな風に拒絶して、しばらく距離をおいていたのに、それでも陽介は変わらずに優しいままだもん」
「……そうかな?」
柔らかな笑みを浮かべて俺を見る雪芽に、俺は曖昧な笑みを返した。
気がついてしまった自分の気持ちを隠すために。その優しさが偽りのものであることを隠すために。
「……うん、分かった」
そんな俺の心の内を知ってか知らずか、雪芽は繋いだ俺の手にもう片方の手を重ね、決意の籠もった瞳で告げた。
「私、広瀬君と別れる」
……そうか、やっぱりそうなのか。
だって、雪芽のこの言葉を聞いて、俺はこんなにも嬉しいのだから。今すぐにでも雪芽を抱きしめてありがとうと言いたいくらいなのだから。
「でもそうすると陽介が危険だから、まずはヒナに相談しないと。それで、その……、陽介も協力してくれる、かな? すごく身勝手なことを言ってるっていうのは分かってるんだけど……」
「……ああ、もちろんだ。むしろ俺からもお願いするよ。力を貸してくれるか? 雪芽」
「……っ! うん!」
この笑顔を見てこんなにも幸せな気持ちになる。繋いだ手から伝わる熱や想いが、こんなにも愛おしい。雪芽を守るためならなんだってできる気すらする。
ずっと、分からないでいた。誰かを好きになるっていうことを。
でも理解した。たった今、全部分かった。
思えば初めて会ったときから俺は雪芽に惹かれていたんだ。ちょっと変な女の子。笑顔が素敵な彼女に。
電車を待つまでの1時間で交わした会話。その全てが俺の心を踊らせ、特別な時間に変えていった。
引越の手伝いを経て彼女に友達だと言ってもらえて、とっても嬉しかった。また一歩仲を深められたことが俺を特別に見てくれているような気がして。
学校案内をした時、雪芽が俺のクラスに転入してくることを知って心が踊った。雪芽の抱えている不安を知って、それを話してくれることが嬉しくて。それから夏休みが明けて学校が始まることが本当に楽しみになったんだ。
デスティニーランドで初めて手を繋いでデートをして。友達のままでいることに少しだけ不満を感じていた。
だから雪芽が死んでしまった時、あんなにも悲しかった。この世の終わりかと思うくらいに絶望した。
だから繰り返す夏の中で再開できた時、あんなにも嬉しかった。
だから俺の手で雪芽を殺してしまった時、自ら死を選ぶほどに己を責めた。
この気持があったから、俺はあの悪夢のような夏を乗り越えてこられたんだ。でもいつからかそれは義務感にすり替えられていて、気づけなくなっていた。
だから広瀬に雪芽を取られた時、義務の喪失だと勘違いして、これからは広瀬が雪芽を守ってくれるなんて諦めたふりをして。
でも広瀬と別れてほしいと言って雪芽に拒絶された時、あんなにも悲しくて、苦しくて。
そうして今までに感じてきた気持ち、想いのすべてが、きっと――
恋、だったんだ。
その瞬間、世界は色を取り戻し、俺と雪芽の二人だけになった。
繋いだ手の柔らかさが、触れた肩の温かさが、空気を震わす息遣いが、痛いほど雪芽を感じさせる。
そのことがこんなにも幸せで、愛おしくて。今すぐに叫びながら病院中を駆け巡りたくなるような、そんな衝動に駆られる。
「雪芽、俺」
気がつけば、言葉は勝手に飛び出していた。
二人だけの部屋で、気がついてしまったこの思いを打ち明けるため、頭よりも先に心が動いたんだ。
「雪芽のことが――」
真っ直ぐに雪芽の目を見つめる。
雪芽のなにを言われるのかという疑問の目は、一瞬の後にすべてを理解したものに変わる。
期待。俺が雪芽の瞳の奥に見たものはそれだった。
――好きだ。
俺の最後の一言は、唐突に開け放たれたドアの音に遮られた。
「ふぅ……、寒い寒い」
二人だけの静寂の世界は終わりを告げ、ドアの向こうから誰かがこの病室に入ってくる。
病室の電気がつき、一気に明るくなって目を細めた。
「わっ、陽介君来てくれてた、のね……?」
驚いた表情で俺に声をかけたのは静江さんだった。用事を終えて帰ってきたのだろう。
しかし静江さんは俺の隣に座っている雪芽に目を留めると、言葉を失った。
「雪芽……? 目を覚ましたのね!? 嘘じゃないのよね!?」
そして静江さんは手に持った荷物も何もかも放り出して雪芽に駆け寄り、きつく抱きしめた。
「あぁ良かった、本当に良かった! もう7日も眠ったきりで本当に心配したんだからっ!」
「い、痛いよお母さん……」
「あぁごめんね。それでどこか具合の悪いところとかはないの? もう起きても大丈夫なの?」
「うん、心配かけてごめんね。もうどこも悪くないみたい」
「そう……!」
今にも泣きそうな顔で雪芽を見つめる静江さんは、ふと繋いだままだった俺達の手に視線を落とした。
「……あら? あらあらあら? もしかしておばさんお邪魔だったかしら?」
「い、いえ、別にそんなことは……」
「……」
「あぁごめんね雪芽! お母さんったらとんでもないタイミングだったみたいでっ! ひ、ひとまず先生呼んでくるから、陽介君もゆっくりしてってね!」
「あ、はい」
雪芽の不満を顕にした圧力を受けて、静江さんはそれだけを言い残して病室を去ってしまった。
そして静江さんが去っていくのを見届けてから、雪芽は何事もなかったかのように笑顔でこちらを向いた。
「それで、さっきはなんて言おうとしたの?」
「あー……、なんて言おうとしてたんだっけ、忘れちまった」
さすがに言い直せるような雰囲気じゃなかった。だからそんな風に忘れたふりをして誤魔化してしまった。
「……そっか、じゃあまた思い出したらさっきの続き、教えてね」
「あぁ。じゃあ俺はそろそろ行くよ」
「え、もう少しゆっくりしていけばいいのに……」
「もう遅い時間だし、目が覚めだばっかりで検査とか色々あるだろ? 多分」
「むぅ……、分かった」
繋いでいた手を離してベッドから立ち上がる。
温もりが遠のく。それはまるで引力のように、俺をこの場に止めようとする。
「じゃあ広瀬のことについてはまたしっかり話そう。そろそろ学校も始まるしな」
「うん、じゃあ……、またね」
「ああ、またな」
荷物を手に、俺は病室をあとにする。
来たときと変わらず静かな病院を歩きながら、俺はなにかを間違えた気がしてならなかった。
思い出したら続きを教えてくれと言った雪芽の表情が、俺がもう帰ると言ったときの目が、去り際に放たれた言葉が、俺にそう思わせる。
残念そうなあの顔が、寂しそうな目が、引き止めるような声が、頭から離れない。
「……あぁ、くそっ」
大切ななにかを間違えてしまった。そんな気がしてならなかった。
お久しぶりです。更新再開しましたので、今後もお付き合いくださると幸いです。




