117話 その再会は運命に導かれて
病院の受付に名前を書いて、俺は雪芽の病室へと向かっていた。
いろいろあって晴奈にも雪芽の両親にも連絡しないできちゃったけど、雪芽はまだ目覚めてないだろうな。
一応スマホを確認してみると、晴奈のメッセージにはまだ雪芽が目覚めていないと書かれていた。
人の少ない病院の廊下を、俺の足音だけが響き渡る。
リノリウムの床をこする濡れたゴムの音が、反響して耳障りだった。
まっすぐ雪芽の病室を目指して足を進めながら、俺は先程の広瀬とのやり取りを思い出していた。
広瀬はどうして最後にあんな風に尋ねたのだろう。すがりつくような、あんな声で……。
よく考えたら俺、広瀬のことをなにも知らないんだな。あいつがどうして雪芽を欲するのかも、俺を嫌うのかも。庭や高野と仲がいい理由や、優等生の皮の下にあんな狂気を隠している理由も、俺は一つとして知らない。
……またいずれ決着をつけなくちゃいけない時が来る。そのときに知ることができたらいいな。
雪芽の病室の前に来ても、あたりはとても静かだった。
正月ということもあってか、やはりどこに行っても人は少ない。なんだかそのことが悲しく思えた。
まぁ、受付で聞いた話だと雪芽の両親も今丁度出ていてしばらく戻ってこないそうだし、扉の先の病室が賑やかなのも変な話か。
せめてこんな静かな夜だから、雪芽の傍でいままでにあった色んな話でもしよう。由美ちゃんとのこと、広瀬とのこと、これからのこと。話したいことはたくさんある。
そういえば俺一人でお見舞いに来るのは体育祭のときに倒れて以来だな。なんか少し緊張するな……。まぁ起きてないだろうからなにを緊張する必要があるのかって話だけどな。
俺はそっと扉に手をかけると、音を立てないようにゆっくりと引いた。
病室の中は暗くて、外から差し込む星灯りと、雪が反射した灯りでほんのりと青く照らされているだけだった。
そっと扉を閉めて、雪芽の眠るベッドに向かう。カーテンの向こう側にいる眠ったままの雪芽のもとへ。
そうして俺の目に写った光景に、俺はただ息を呑んだ。
「……雪芽?」
ベッドから半身を起こして窓の外を眺める彼女は、ほのかな明かりに照らされてまるで絵画の主役のようだった。
黒い髪は夜のようで、その肌は雪のように白い。
そしていままで閉じられていた目は、俺の目と確かに交差し、驚きで小さく見開かれた。
「陽介……? ど、どうしてここに?」
……あぁ、本当に、本当に雪芽だ。間違いなく今俺の目の前にいるのは雪芽だ。確かに息をして、目を開けて……。
祈りは届いたんだ。世界は繰り返さず、未来は続いていく。よかった、本当によかった……。
俺はこみ上げる感情の波を抑え、努めて平静を装って笑って見せる。だって、再開の時が涙じゃ湿っぽいじゃないか。
「俺はちょうどお見舞いに来たんだ。お前の、雪芽のそばにいたくて」
「そ、そばに……」
コートを脱いで雪芽のもとへ歩み寄ると、雪芽の顔がほのかに赤いことに気がついた。血色もだいぶいいみたいだ。よかった……。
そこで雪芽は何かを思いたしたように声を上げる。
「あっ! で、でも陽介はこんなことしちゃダメだよ。私なんかよりもっと大切にしてあげないといけない人がいるし……」
「……由美ちゃんのことか?」
「うん……。友達の私なんかより恋人の由美ちゃんを優先してあげなきゃダメだよ。私と一緒にいる時間も少なくしないと、由美ちゃんが悲しむだろうし」
そうだよな……。普通がどうなのかは知らないけど、彼氏ってのは彼女を優先するものだと思う。
それなのに俺は雪芽と一緒にいることを優先した。それはどうしてだ? もちろん雪芽の命がかかっていたからだ。それ以外の理由なんて……。
「だからもう私のお見舞いには来なくていいよ。陽介は早く由美ちゃんのそばに帰って」
雪芽は窓の外に顔を向ける。それは俺を拒絶しているようにも思えた。
なぜだろう、そのことがとても悲しく感じるんだ。
「いや、もうその必要はないんだよ」
「どうして……?」
「別れたんだ」
「えっ?」
雪芽は窓の外に向けていた視線を再び俺に向けたとき、その視線を信じられないものを見るようなものに変えていた。
「なんで、どうして? 由美ちゃんとは私そんなに交流ないけど、少し一緒にいただけでも分かるほどいい子だったのに! 陽介のことをあんなに好きで、なのにどうしてっ?」
「……そうだな。いつか雪芽が言ったみたいに俺にはもったいないくらい良い子だったよ。でも俺には由美ちゃんより大切なことが、大事にしなきゃいけない人がいるから」
どうしてかな。俺には由美ちゃんと一緒に過ごす未来もあったはずなのに。あのまま、初めて俺を正面から好きだと言ってくれた女の子と進める未来が、俺の目の前には広がっていたはずなのに。
でも嫌なんだ。どれだけ幸せでも、愛してもらえても、雪芽がいない未来になんて何の価値もない。
俺は知ってしまったから。雪芽がいない世界がどれほど暗くて悲しいか。俺はそれほどまでに雪芽を知ってしまった。そして救えるかもしれない可能性が少しでも残されているなら、俺は雪芽のいる未来へと進みたい。そう決めてしまったから。
「だから俺は由美ちゃんと別れてここに来たんだよ」
「そんな、そんなのダメだよ……」
雪芽の声がかすかな震えを孕んで、静かなこの病室を震わせる。
「私は陽介が無事なら、幸せならそれでいいって、そう思ってたのに……!」
伸ばされた手が、俺の服の袖をつかんだ。
弱々しいその手が引っ張るままに、俺は腕を雪芽に預ける。
「だから広瀬君と一緒にいたくもないのに付き合って、陽介が別れろって言ってくれた時も断って、由美ちゃんと付き合いだしたって聞いた時もお幸せにって、そう言ったのにッ……!」
俯いていた雪芽が顔をあげる。その目に大粒の涙をいくつも浮かべて。
「なのにこれじゃあ、これじゃあ私っ、もうっ……!」
涙はこらえきれずに流れ、頬に一筋の道を敷く。その道を次から次へと涙が流れて、それでも雪芽はまっすぐに俺を見ていた。
俺は雪芽の肩にそっと両の手を置く。とても細くて今にも壊れてしまいそうな肩だった。
この細い肩にはあまりにも大きなものを背負い込んで、俺はそれを一緒に背負ってやるどころか背を向けて。
「……ごめん。ごめんな、雪芽」
「うぅっ……、陽介の、ばかぁっ……!」
雪芽は俺の胸に飛び込み、堰を切ったように声をあげて泣き始めた。
震える声に、涙で濡れた熱に、切なさがこみ上げる。
泣きじゃくる雪芽の背に、俺はゆっくりと手を回す。
思ったよりも簡単に俺の胸に収まった雪芽の体を優しく抱きしめて。……あぁ、なんて華奢なんだろうと思う。
「おかえり、雪芽」
涙が枯れるまで、抑え込んできた感情が、言葉が全部が吐き出されるまで、俺たちはずっと雪が照らす静かな病室で二人、抱き合ったままでいた。
――――
どれくらいの時間が経っただろうか。雪芽はだいぶ落ち着いてきていた。
「ありがとう、ちょっと落ち着いてきた」
「そうか」
雪芽がそう言うので離れようとすると、きゅっと手を握られた。
何かと思って見れば、雪芽は泣きはらした目を伏せて、寂しそうな表情を浮かべていた。
「……でも、もうちょっとだけそばにいて……」
「あ、ああ、もちろん」
なぜだろう。雪芽のその表情に、仕草に、言葉に、胸が跳ね、締め付けられるような痛みが襲う。
触れた手が熱い。呼吸がしづらくなって、思わず生唾を飲み込んだ。
「じゃあ隣、いいか?」
「うん……」
雪芽の隣に腰掛けるとベッドの軋む音が病室に響き渡る。
ベッドの上は狭くて、座った拍子に足が、肩が、手が、触れる。
「あ、ごめんっ」
「ううん、いいよ。もう少し近くに来て」
思わず身を引くと、雪芽は逃げようとする俺の手をとった。
言われるがままに再び体を雪芽に寄せると、雪芽は握ったままの俺の手に、自分の指を絡ませた。
「陽介の手、温かくて大っきいね」
「そ、そうかな?」
「うん、温かくて大っきくて、優しい陽介の手」
きゅっと、雪芽の手が俺の手を軽く握る。それに返すように俺も雪芽の手を握った。
……なんだ、なんなんだこれは。胸が苦しくて、体が熱くて、手に汗をかいてないかと不安になる。
ちらりと雪芽を見ると目があった。慌てて二人して目を逸らす。
とてもこそばゆくて、触れた肩が、繋いだ手が、燃えるようだ。
「……私ね、夢を見てたの」
雪芽はポツリとこぼすように呟いた。
その表情は嬉しそうに見える。
「とても不思議な夢。いつからか忘れていてようやく思い出せた。いつも使うあの駅で、誰かに一つ願いを叶えてあげるって言われる、そんな夢だった」
「へぇ、何を願ったんだ?」
「素敵な恋がしたいって、そうお願いしたの」
それは叶ったのか。俺にはそれを尋ねる勇気がなかった。
その問の答えがどちらであっても、きっと俺は傷つくような気がしたから。だから聞けなかった。
「夢の中ではそう願ったんだけど、目が覚めて願ったのは別のことだったの」
「……何を願ったんだ?」
雪芽は横目でちらりと俺を見ると、いたずらっぽく笑った。
「秘密っ」
その言葉がなんだか懐かしくて、こうしてまた雪芽と話せることが何より嬉しくて、目頭が熱くなってしまう。
「……でもね、その願いはもう叶ったんだよ」
そっと俺の手を握る雪芽は、はにかみながら恥ずかしそうに目を伏せていた。
その仕草が、表情が語る答えに、俺は嬉しさと恥ずかしさがごちゃまぜになって同じように目を伏せた。
「……そうか」
「うん……」
……こんなとき、どうするのが正解なんだろう。もっと気の利いた言葉をかけるべきなんだろうか。それとも言葉はなく、ただ行動で示せばいいのか。あるいはおどけてみせるのか。
何も分からない。そんな自分が情けなかった。
「……俺も一つ願いがあるよ」
「なに?」
だから俺は、雪芽の答えに返事をするように、自分の願いを口にした。
「雪芽に広瀬と別れてほしい」




