116話 冬の暗雲は太陽に払われて
静かな夜だった。正月で外を走る車や人の気配はなく、まるで俺一人だけの世界になってしまったかのような、そんな気さえする。
俺は口からもくもくと白い息を吐き出しながら、積もったばかりの雪の上に新しい足跡を刻んでいた。
そして考えるのは由美ちゃんとのやり取りのことだった。
傷つけないように体ていのいい言葉で取り繕うのはやめてください、か……。俺はなにも分かっていなかった、なにも気づいていなかったんだな。
傷つけないことが優しさだと思っていた。平和に笑って過ごせるようにすることが優しさなのだと。
でも、違ったんだな……。
はじめてだ。あんなに人を傷つけたのは。知らず知らずで傷つけることは何度かあったかもしれないけど、ああして明確に相手が傷つくことを分かっていて言葉を発したのは、きっと今日が初めてだ。
俺の一言一言で由美ちゃんが傷ついていくのが分かった。それが分からないほど俺は鈍感じゃない。
そして傷つくのが分かっていて非情にも好きではないと言い放つことは、それなりに堪えるものだ。
そして由美ちゃんの話を聞いて、俺は今日だけじゃない、付き合い始めてからいままでずっと由美ちゃんを傷つけてきたのだと悟った。
初めは由美ちゃんの好意を受け入れることが優しさなのだと信じていたけど、俺はとても残酷な仕打ちを由美ちゃんにしてきたのかもしれない。
由美ちゃんがどれだけ傷ついたのか、理解できるとは言えない。ただ、由美ちゃんを傷つけてしまった俺の何倍、何十倍も辛いのだということ、それだけは確かだった。
「俺は、最低だっ……」
そう吐き捨ててみても、俺の過去の過ちが消えるわけではない。
どうすればよかったんだろう。どうするのが正解だったんだろう。
きっと傷つけない方法は一つだけあったんだ。俺がちゃんと由美ちゃんを好きになること。
でも、誰かを好きになるってことは思っていたよりも難しくて。ゲームや漫画みたいに分かりやすいものじゃなかった。
恋だと思っていた感情は恋ではなくて。きっと誰かに好意を寄せられる嬉しさだったんだ。
俺がそうしてはっきりとしない気持ちのままでいることで、由美ちゃんを不安にさせて、傷つけて、終わりにしましょうと、そう言わせてしまった。
こんな結末になると知っていたなら、告白されたときに断るべきだったんだ。それができなかったのは、俺がまだまだ未熟だったからだ。
ごめん、由美ちゃん。本当にごめん。
……でも、それでも俺は君を置いていく。最低な男だと、もう顔も見たくないと、考えつく限りの悪口を言ってもらって構わない。俺はそうされても当然のことをしたのだから。
ただ謝ることしかできなくて、次に顔を合わせたらどんな顔をすればいいのか分からないけど、それでも俺は行く。救うと決めたあいつを救うために、ただ走る。
ヒーローみたいにかっこよくもない、強くもない。特別な力も、あると思っていた優しさでさえ、きっと俺にはなにもない。
それでも、これが俺の選ぶ選択肢。できることをできる限りやって、雪芽を救う。そのために俺ができる、最善の選択肢。
そして今の俺にできること、それを俺はもう知っている。
「待ってろよ、雪芽……!」
雪芽の傍にいてやること。だたそれだけだ。
――――
夢中で走るうちに、俺は気がつけば病院の目の前まで来ていた。
足を止めて初めて自覚するあがった息。首に巻かれていたマフラーはすでに手に握られていた。
じんわりと滲んだ汗をマフラーを握ったその拳で拭うと、俺は大きく息を吸って病院の入口へと向かって歩き出す。
数歩歩みをすすめると、正面に捉えた病院の入口が開き、誰かが出てきた。
その人物は俺を認めると苦々しい表情を浮かべた後、いつものように笑みを浮かべた。
「やあ、性懲りもなく来るなんてね。認めてやるよ、君は俺の想像を超えて馬鹿だったとね」
「……なんとでも言えよ」
「おいおい、昨日あれだけみっともない姿を晒しておいて今日は強気じゃないか? なにか秘策があるなら披露してくれよ。俺が採点してやるからさぁ?」
広瀬は片眉を釣り上げて挑発的に俺を見る。
しかしその挑発に俺が乗ることはない。こいつはこうして他人の感情すらも利用して人を操るのが得意だ。思惑に乗ることなく、冷静に、落ち着いて……。
「秘策なんてないさ。なんせ俺は馬鹿らしいからな」
「……は? 馬鹿なことを誇ることほど愚かなことはない! 落ちるところまで落ちたなぁ、陽介!」
「そうかもな」
肩をすくめてそう言ってやると、広瀬はすっと表情を消して俺を睨みつけた。
「……なんだよその態度はさ。そもそもなにしにここまで来たんだ? 雪芽の彼氏としてはさ、他の男が何度も彼女の見舞いに来るのって気分が悪いんだよね」
「お前の気分なんてしったこっちゃない。そこ、どいてくれないか」
広瀬の横を通り抜けようと半歩前に進むと、広瀬は俺の進路を阻むように横にずれた。
「おい、俺を通り抜けていこうとするなよ」
ドスの利いた低い声でそういう広瀬は普段の温和な印象からは対極にあって、俺は思わず退いてしまいそうになる。
……いや、この程度で引いてどうする。俺にできる唯一のことですらできないなら、本当に俺はなにもできない男になってしまう。
「邪魔だ。どいてくれ」
「邪魔……? おいおい、今俺のことを邪魔だって言ったのか? はっ、ははっ! 初めてだよ、俺のことを邪魔だって面と向かって言ったやつはさ!」
広瀬は一転して楽しそうに声を上げると、手で顔を覆ってクツクツと笑い始めた。
そうして少しの間笑うと、広瀬は長く息を吐き、指の間から背筋が凍るような冷たい視線を覗かせる。
「邪魔なのはお前だよ、陽介」
低く静かな声でそう言うと、広瀬は顔に当てていた手をだらりと下ろした。
「お前さえいなければ万事うまく行っていたんだよ。すべて俺の計画通りに事が運んだんだよ。それなのにお前は金魚のフンみたいにいつも雪芽の傍にいて、駒を使ってどん底まで突き落としても這い上がってきて、俺が直々に叩きのめしてやったのにも関わらずこうして目の前に立ってやがる。
なんなんだよお前は。ハエみたいに潰しても潰してもすぐに湧いてきて煩わしく俺の周りをブンブン飛び回りやがって……! なにがお前にそこまでさせるんだよ? 雪芽はお前のなんなんだ?」
「雪芽を救うと決めた。ただそれだけだよ」
「救う? なにから救うんだ? 俺か?」
「さあな。なにから救おうとしているのか、きっと俺もよく分かってない」
「は? なんだよそれは。馬鹿も休み休み言ってくれよ」
「相手は誰なのかも分からない。それでもあいつの未来のために俺にできることがあるなら、俺はあいつを救いたいって、そう思ったんだよ」
「おいおいおい、何様だよ? たかだかお友達風情でなにを偉そうなことを言ってるんだ。そういう行動力は自分の彼女のために使いなよ!」
チクリと胸が痛んだ。
そうして胸を痛める権利すらない気がして、さらなる痛みが俺の胸を刺す。
「別れてきたよ。彼女とは」
「…………は?」
広瀬は拍子抜けしたような表情で声を漏らすと、呆れたように笑った。
「はっ、それがどうした? だからなんだって言うんだい? もしかしてそれで雪芽を俺から取り返せるとでも思ってるのか? ははっ、あははっ! 大層できのいい頭じゃないか! 君はどこまで愚かなんだ! もはやかける言葉も見当たらないよ!」
それからしばらくの間、広瀬はかける言葉も見当たらないと言ったわりに、様々な言葉で俺がいかに愚かで馬鹿であるかを高説垂れてくれた。
その全てはいまさら言われることもなく理解していることであって、改めて言われても出てくるのは笑いだけだった。
「……なにがおかしい?」
「ん? いやすまん、全くその通りだと思ってな。俺は馬鹿で愚かで未熟で。だから彼女にあんな思いをさせてしまった。だけど、そんな思いをさせてまで俺はここに来たんだ。悪いが通してもらうぞ」
俺は一歩広瀬に近づき、その肩に手を置く。
押しのけてさらに一歩。しかし俺の歩みはそこで止められた。
「そうはさせないって言ってるだろ。お前は俺から尻尾を巻いて逃げるのがお似合いなんだよ。通り抜けようとするんじゃない。超えていこうとするんじゃない」
厚い服の上からでも痛みを感じるほどの握力で、広瀬は俺の腕を掴んだ。
そうして実感する俺と広瀬の差。俺にこの手を振り払うだけの力はない。引っ張られればたやすく引き戻されてしまいそうな気すらする。
だけど、由美ちゃんを傷つけて、それでも俺はここに来た。ならここで引くことなんてありえないんだ。
ここで引いたら俺は、俺の目指す未来にはたどり着けない……! 雪芽の未来を守るなんてこと、到底できないッ……!
「……広瀬、確かにお前はすごいよ。一度はお前から逃げてしまったほどに。でもお前じゃ雪芽は救えない」
こいつは雪芽のことをなにも知らない。ただ自分の目的のために雪芽を利用しようとしているだけの屑だ。
そんな奴に俺は、もう二度と背を向けて逃げ出したりしない。
「形だけの関係にこだわって、大切なものすら見えないお前に、俺は負けない」
「……ッ!」
一瞬、広瀬の手が緩んだ。
俺はその隙に腕を振り払って前へと進む。広瀬を超えて、雪芽のもとへと。
「……どうして」
背後からかけられた広瀬の声は、さっきまでの強さを失い弱々しかった。
「どうしてお前は、そんな目ができる……!? そんな顔ができる!? 何度も俺に打ちのめされて、希望なんてなかったはずなのにっ! すべての面で俺より劣っているはずなのにッ! どうしてそんな、決意に溢れた目ができるッ!」
その悲痛な叫びに、俺は足を止めた。
なぜだろう、広瀬の声がまるで正解を求めて泣きじゃくる子供のそれに思えたんだ。
「なにがお前をそこまで強くさせる!? なにがお前をそこまで奮い立たせるんだよッ!!」
俺の原動力。そんなの決まってるじゃないか。
「たどり着きたい未来があるからだ」
それこそが、俺の中にあるなにがあっても決して折れない心の支えだ。その未来への希望さえあれば、俺の心は何度打ちのめされても立ち上がる。また前を向ける。
そして俺を支えてくれる多くの人たちが、俺の背中を押してくれる。
「だから俺はお前を超えていく」
再び踏み出した歩みを阻むものはなかった。
ただ、背中に感じる静かな視線があるだけだった。




