115話 心の叫びは深雪に吸い込まれて
「大切な、お話があります」
「……分かった。聞かせてもらえるかな」
ウチは俯きがちに頷くと、緊張で乾いた口で冷たい空気を目一杯吸い込んで、白く煙る息とともに吐き出した。
「あたしと陽介さんのこれからについてです。こんなときに話すことじゃないのかもしれませんけど、もうはっきりと分かってしまったので……」
陽介さんはなにも言わずにただまっすぐウチを見つめていた。
……あぁ、皮肉だなぁ。最後のときになってようやくウチのことだけを見てくれるなんて。
「陽介さんはウチのこと、好きですか?」
「そりゃもちろん由美ちゃんのことは好きだよ」
「ちゃんと、恋人として好きかどうかです。建前じゃなくて、陽介さんの本音が聞きたいんです。ウチを傷つけないように体のいい言葉で取り繕うのはやめてください」
ウチの言葉に陽介さんは驚いたようだった。
そりゃそうだよね。今までウチだってこんなふうに本音で陽介さんと話すことはなかったんだから。
「……そうだね。確かに俺は由美ちゃんが言うような好きって気持ちを、君に抱いていないのかもしれない」
何かで覆い隠すことのない丸裸のウチの心が、陽介さんの心とぶつかりあって傷つき、傷つけていくのが分かる。
陽介さんの言葉がウチの心の柔らかいところをなで斬りにして、ウチは痛む胸を思わず抑えた。
「やっぱり、そうですよね……。なんとなく気づいていたんです。陽介さんはウチが聞くまで自分のことはあまり話してくれないし、デートに誘うのもいつもウチから。だから陽介さんはウチのこと好きじゃないんだろうなぁって」
「……正直に言うとね。俺にもよく分からないんだ。誰かを好きになる、誰かに恋をするって言うのがどんな気持ちを指すのか。
俺は由美ちゃんのことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きな方だと思うよ。でもこの気持が恋かって言われるとピンとこないんだ。
由美ちゃんに告白された後はきっとこれが恋なんだって思ってたけど、だんだん分からなくなっていって……。ごめん……」
「そう、ですか……」
そっか。そっかぁ……。分からない、かぁ……。
結局ウチの思いは一方通行で、陽介さんには届いていなかったんだ。
それなのにウチはバカみたいに浮かれて、陽介さんにウチの思いが通じたんだって思い込んで。
……馬鹿みたい。ほんとに馬鹿みたいだ。
固く握りしめた掌の中で、コートのボタンが苦しそうな音を立てた。
掌は冷たくて、痛くて。でもその程度の痛みじゃこの胸の痛みを誤魔化すことはできないんだ。
「ウチは陽介さんのこと、本当に大好きでしたよ。ううん、今でも大好きです。いじめられてたウチの背中を押してくれて、太陽みたいに輝く陽介さんはずっとウチの憧れでした。だから告白をオッケーしてもらったときは本当に嬉しくて、今まで生きてきて一番幸せな瞬間だって、そう思ったんですよ」
「うん……」
「でも連絡の頻度は少しずつ落ちていって、雪芽さんが倒れてからはそっちにかかりっきりで。だから気づいちゃったんです。あぁ、この人はウチのことを見てくれないんだなぁって」
「……」
「でも、それでもウチは陽介さんと恋人でいられて幸せでした。毎日目に映る全部が嘘みたいに綺麗に見えて、自分でも引くくらいテンション上って、買い物に行ったりご飯を食べたりするだけだったけど、陽介さんと一緒に過ごす時間はいつでも特別でした」
今でも鮮明に思い出せる。陽介さんと付き合えることになって嬉しさで爆発しそうになっていた夜。陽介さんと一緒に街にでかけて服を選んでもらったり、ゲームセンターで遊んだり、他愛ない会話で笑い合ったり。ありふれた日常だったけど、その全部がウチの宝物になった。
「きっとウチは陽介さんに出会わなければ、引っ込み思案で弱虫だったあの頃のウチのままだったんだろうなって。陽介さんと出会ってウチは変われた。陽介さんがウチを変えてくれたんですよ」
ウチにとってあれは運命の出会いだったんだ。ウチを照らして導く光。それが陽介さんだったんだ。
陽介さんの言葉でウチは明るくなろうって努めた。
陽介さんに振り向いてもらいたくておしゃれも頑張った。
陽介さんに少しでも大人っぽく見られたくて話し言葉も意識したりして。
「それでもまだ、陽介さんの隣に立つにはウチは子供だったんですね」
陽介さんはただ、申し訳無さそうな顔をして俯いていた。
固く口を閉ざして、拳を握りしめて。この雪の冷たさに耐えるように。
見上げれば空を舞う雪の量は随分と減ってきて、厚く垂れ込めていた雲にも切れ間が見える。
……あぁ、もう終わっちゃう。とっても短くて、でも夢のような素敵な時間だった。
これはきっと、雲が太陽を隠している間だけの、素敵な夢を見せてくれる雪の魔法。空が晴れて再び太陽が輝く時、とけてしまうんだ。
「だから陽介さん、もう終わりにしましょう」
泣きたいほどに切なくて。
今にも体が震えてしまいそうなほどに寒くて。
でも喉の奥からこみ上げてくるものは、どうしようもなく熱くて。
だけど泣かない。泣きたくない。
ホントのウチはまだまだ子供だけど、今くらいは、魔法が完全に解けてしまうまでは、大人のふりをしていたいから。
「でも最後に、まだウチと陽介さんが恋人同士であるうちに、お願いしたいことがあるんです」
「……なにかな?」
「ウチに、恋人としてキスしてくれませんか」
最後に素敵な思い出を貰えれば、きっとこの魔法が解けてもウチは幸せな夢を見られる。陽介さんの彼女であったという確かな証を得られる。
そう、思っていたのに。
「ごめん、そのお願いは聞けない」
陽介さんはそっと首を振った。
「どうして……!」
「きっと、俺はとんでもなくひどい彼氏だったんだと思う。由美ちゃんのことも考えないでいつも自分のことばっかり。デートプランもろくに立てられなくて、由美ちゃんが本当に望んでいることを叶えてあげられなかった。いつももらってばかりでなにもあげられなかった」
悔しそうにそう口にする陽介さんに、ウチはただ俯くことしかできなかった。
……確かに、陽介さんはウチが望むような彼氏ではいてくれなかった。でもそれはウチにだって責任はあるんだ。
……でも、陽介さんのその言葉を否定することはできなかった。
「だから恋人のキスなんて言われても、俺にはそれがどういうものか分からないんだ。情けなくて笑っちゃうだろ? でもこれが本当の俺だ。俺は由美ちゃんが思ってるほどかっこよくもないし、優しくもなければ大人でもない」
「そんなこと! ……ないですよ」
陽介さんが一歩ウチに近づく。そうして手を伸ばせば触れられる距離で、陽介さんは屈み込んでウチと目線を合わせた。
「だから約束通りのキスはできないけど――」
そう言って陽介さんはウチの前髪を手のひらで押しのけると、そっと額に口づけした。
一度ゼロになったウチと陽介さんの距離は、額に確かな熱だけを残して離れていく。
……少し乾燥した、男の人の唇だった。
「こんなのでも、いいかな……?」
そう言って申し訳無さそうに、でも少しだけ照れたように微笑むのだ。
……結局最後までウチは子供扱いなんだなぁ。それはちょっと寂しくて、こらえていた涙が溢れそうになる。
「……そんなの、ずるいですよ……。結局最後の最後まで、陽介さんはウチの彼氏にはなってくれないなんて……。こんなキスだけ残していなくなっちゃうなんて……」
「……うん、ごめん」
「卑怯ですよ……。これで最後だ、諦めようって思ってたのに、陽介さんはそうやってまたウチを引き止める」
「……え?」
だからこそ、キョトンとした顔をする陽介さんに、ウチは言ってやるんだ。
「こんな風に子供扱いされっぱなしなのは屈辱ですもん。いつか絶対素敵な女性になって、陽介さんの方から、あのときはごめん、もう一度彼女になってくれって言わせるんです!」
まだ終わりじゃない。むしろここからなんだって。
そう、笑顔で終わりたいと思ったから。涙でお別れなんて、ウチらしくもないから。
「……ああ、分かった」
「ほらっ、だったらもう行ってください! 雪芽さんに会いに行くんでしょう?」
「でも、由美ちゃんは……」
「いまさら何言ってるんですか! ウチのことはいいですからっ! ……雪芽さんのこと、ちゃんと取り返してきてください」
「……うん。ごめん、由美ちゃん」
陽介さんはそう言ってウチに背を向けた。ウチがずっと追いかけて、追いついたはずの背中が、また遠のこうとしている。
「それと、ありがとう」
最後に一言そう言い残して、陽介さんは走り出した。振り返ることもせず、目的地に向かって真っ直ぐに。
その背中はどんどん小さくなって、やがて雪の中に消えていった。
「……やっぱり陽介さんはずるいよ……。ウチをこんなに夢中にさせておいて、お礼だけおいていなくなっちゃうなんてさ……」
空を見上げる。いつの間にか雪は止んで、黒い空に無数の星が瞬いていた。
微かな星あかりを反射して、雪はあたりをまるで夕方のように明るく照らす。
これなら明かりがなくても歩いて帰れるっしょ。よゆーよゆー。
「……」
微笑みを浮かべたままのウチの口元が、少しだけ震えた。
……やっぱり雪が止んでも寒いものは寒いし。早く帰ろう。晴奈も来ちゃうし。
「由美」
ウチが帰ろうとしたその時、背中から声がかけられた。
よく知ったその声は、しかしここにはいないはずの人物のものだった。
「…………晴奈? いつからいたの?」
「……少し前から。由美んち行こうとして歩いてたらお兄ちゃんと一緒にいるのが目に入ってさ。ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど……」
晴奈は知ってるんだ。ウチと陽介さんが別れたこと。
「……そっか、見られてたか! いや〜、恥ずかしいとこ見られちゃったなぁ〜! さっきのことは忘れて忘れて!」
なんとかごまかそうと、まだ残っていた空元気を集めてそうまくし立てても、晴奈は表情を一切変えずにこう言った。
「由美、どうして笑ってるの?」
「……え? な、なんかおかしいかな?」
「うん、おかしいよ。だって由美はお兄ちゃんのことあんなに好きだったじゃん。付き合えたって喜んですぐにあたしに電話してきたくらいにさ」
晴奈はゆっくりウチとの距離を縮めると、目の前で立ち止まった。
「由美はいつもそう。自分が辛いのに助けてって言えないでいる。こんな時くらい吐き出してもいいんだよ? 泣きたいなら泣いてもいいんだよ?」
「そんなこと、ないよ。泣きたいことなんて一つも――」
――ツーっと、ウチの頬を温かい何かが流れていった。
それは堰を切ったように次から次へと溢れてきて、拭えども拭えどもとどまるところを知らなかった。
「あ、あれ? おかしいな……。ウチ、なんでっ……」
ぎゅっと、ウチは小さな腕に抱きしめられた。それはとっても細い腕で、小さな手のひらで。
でも、とっても暖かかった。
力強く抱きしめられたウチの、抑え込んできた感情がせり上がってくる。
「……本当はウチ、まだ陽介さんのこと好きだよ……。別れたくなんて、ひぐっ、なかったのぉ……」
「うん」
「でも陽介さんはっ、雪芽さんのことが好きでっ! ウっ、ウチはどうすることもできなかったのぉっ!」
「うん」
「まだっ、全然何もしてないのにっ! グスッ、まだまだやりたいことたくさんっ、あったのにッ!」
「うん」
「なにがいけなかったのかなぁ……。ウチが子供だから? ウチがもっとちゃんと、ッズ、考えてればよかったのかなぁ……?」
「由美のせいじゃない。全部バカ兄貴が悪いんだから」
「悔しいよ……、晴奈ぁ……。ウチ悔しいよぉっ」
「うん。悔しいね」
「うっ、うわぁぁぁあああぁぁぁあッ!!」
押し込めていた思いが、涙と一緒に溢れて止まらなくて。
流れる涙と、抱きしめた晴奈の体が暖かくて、なぜだかそれが余計に悲しくて、ウチは子供みたいに声を上げて泣いた。
泣いても、泣いても。悲しみは消えなくて。
滲んだ視界に浮かぶのは、陽介さんの姿ばかり。
そんなふうに大声で泣きじゃくるウチの背を優しく叩きながら、晴奈はただ静かに相槌を打ってくれた。
そうしてそんな優しさが、またウチに涙を流させるのだ。
あたり一面を白で満たした深雪が、ウチの心の叫びを吸い込んで消していく。
そっか、ウチのこの声でさえ、陽介さんには届かないんだ。
ウチは雪に照らされた夜の中で泣き続けた。
静かな冬の夜にウチの心の叫びを聞く者は、抱き合った親友と、晴れ渡る空に散りばめられた無数の滲んだ星だけだった。




