111話 冬の太陽は無力さに打ちひしがれて
1月2日。窓の外にはまだ雪が降り続けていた。
『それではまだ目を覚まさないんですね?』
「はい……」
ファンヒーターからガスの炎が揺れる音が聞こえる。
設定温度は19度。部屋も随分暖かいはずなのに、どうしてか俺の体は寒いままだった。
『今日もまだ目を覚まさないんですか?』
「これからお見舞いに行きますが、おそらく……」
『そうですか……』
飯島さんは溜息をつくように呟くと、黙り込んでしまった。
今日で雪芽が目を覚まさなくなって6日が経った。相変わらず体調に変化は見られず、何かの病気の可能性も低いという。
鉄信さんの話では未知の病気かもしれないから、より精密な検査ができる病院に近々移るかもしれないとのことだった。
そう言った事も含めて飯島さんに電話をしているのだ。
『あくまで予想ですが、雪芽さんが目を覚まさないうちは安全なのかもしれません』
「ということは、目を覚ましてからのほうが危険だと?」
『そうなると思います。十分に注意して下さい』
「はい……」
『ごめんなさい、こんなことしか言えなくて』
飯島さんは電話口で静かにそう言った。
電話だから表情は見えないけど、きっと少ない動きで精一杯に申し訳ない表情をしているに違いない。
「そんな、十分ですよ。誰かに話を聞いてもらえるだけで気が楽になりますから。それに、飯島さんの言う通り俺は自分で選ばなきゃいけないんですよね。飯島さんに頼ってばかりではだめだって分かってますから」
『そう言ってもらえると、こちらも助かりますが……』
それでも沈んだままの飯島さんに、俺は努めて明るく返した。
「大丈夫ですよ、俺だって伊達にあの夏を乗り切ってませんから! 絶対に挫けませんよ。なにがあっても、絶対に」
『柳澤君……。分かりました。私もそちらの方では力になれませんが、ループ事件の犯人については調べを進めておきます。近いうちにある程度の進捗報告はできると思いますので』
「はい、よろしくおねがいします」
『ではまた何かありましたら連絡を』
「はい。それじゃあ、また」
そして電話は切れた。
……なにがあっても絶対に挫けない、か。随分と大きな見栄を張ったもんだ。本当は今すぐにも挫けてしまいそうだというのに。
ただまだ挫けずにこうして立っていられるのは、偏に目指すべき未来があるからだ。
雪芽が、みんなが普通に笑っていられる、なんてことのない日常。一度は手に入れて、あえなく手放してしまった未来。そこに至ることを心の支えにして、俺は今も立っている。
その心の支えは、なにがあっても折れやしない。それだけは確かだから。
「さてと、晴奈にそろそろ行くって言わないとな」
だから俺は今日もお見舞いに行く。今はそれしかできないから、できることを精一杯していこう。
そうして俺は、晴奈を呼びに行くべく部屋を後にした。
――――
「折り鶴もだいぶ増えてきたな。もうそろそろ千羽行くんじゃないか?」
「うん、あと百羽くらいかな。昨日夏希さんも追加してくれたから」
「といっても私は30羽くらいだけどね。晴奈ちゃんなんて50羽は作ったでしょ?」
「まぁ、それくらいしかできないのでっ」
轍からこぼれ落ちた雪の塊を踏んで、車ががたんと大きく揺れる。
それに小さな悲鳴を上げながら、後部座席の晴奈と夏希は楽しそうにしていた。
「それなら俺も手伝おうか?」
「いいよ、別に。お兄ちゃんなんか忙しそうだし、最後だけ手伝われて俺も参加したんだみたいな顔されんのもやだし」
「あははっ、それ言えてるわよ晴奈ちゃん」
「へいへい、そうかよ」
俺が延々続く白い道を眺める作業に戻ると、運転席の母さんが意味深な笑みを浮かべた。
……なんだよ、別にのけものにされてるわけじゃないからな? 女子の結束の中に男子が混じっていくのは少々難易度が高いってだけだからな?
それにしても母さんのやつ、いきなり車出すなんて言うから何事かと思ったら、自分も雪芽のお見舞いに行くんだって言い出した。
ちゃんとお見舞いの品まで用意して、雪芽の両親に挨拶する気満々じゃないか。きっと正月でずっと家にいるのが退屈だったんだな。
それでもこのクソ寒い中足元もおぼつかない自転車で出かけるよりずっといい。
昨日は夏希も一緒に自転車だったが、何度か転びそうになって危なかったし、次からは車か歩きのほうがいいな。俺はともかく晴奈や夏希が怪我をするのはいただけないし。
それにしても昨日、由美ちゃんと一緒に初詣に行った後、夏希から連絡が来てこれから初詣に行かないかと誘われるとはな。
すでに初詣は済ませていたのだが、何回お参りに行っても別に問題ないだろうと夏希の誘いを受け、2回詣を済ませてから雪芽のお見舞いに行ったのだ。
神社も同じところだったし、神様もこいつらまた来ておんなじ願い事しにきてるよって呆れていたかもしれないな。
そんな事を考えていると、あっという間に病院に到着してしまった。やっぱり車だと何倍も早い。
それから俺たちは慣れた足取りで雪芽の病室までを歩いていく。
どうやら今日は静江さんしかいないらしく、挨拶に花を咲かせている母さんを尻目に、俺達は雪芽のもとへ向かう。
俺が花の世話をし、夏希と晴奈が折り鶴を付け足す。昨日も見た景色だった。
「本当に、ぐっすり眠ってるのね。苦しそうでもないし、ただ昼寝してるみたい」
「……あぁ、そうだな」
安らかな寝顔だと言いそうになって、俺はぎゅっと胸を鷲掴みにされるような寂しさに襲われる。
今にも起き出しそうな、すべての苦しみから開放されたような寝顔を、俺は何度も見てきたから。その時の記憶が蘇って、どうにも辛くなる。
「なんて顔してんのよ。あんたがそんなんじゃユッキーが起きた時に心配するわよ?」
「……分かってるよ」
「……なにがあったのかは聞かない。でも、話したくなったときは私に話しなさいよね。幼馴染、なんだからさ」
夏希は雪芽の顔をじっと見つめながら俺にそう言った。
「あぁ。ありがとうな、夏希」
「……ええ」
チラリと見た夏希の横顔は穏やかで、でも少しだけ寂しそうに見えた。
それから御暇することとなり、病室前で静江さんと挨拶を終えて別れたところで、俺は少し冷たい廊下の空気のせいでこみ上げる寒気を感じた。
「母さん、俺ちょっとトイレ行ってくる」
「はいよ、行ってらっしゃい。お母さんたち車で待ってるからね!」
「はーい」
トイレは……、帰る方向とは逆か。一度雪芽の病室を通り過ぎる感じだな。
そうして別れたばかりの静江さんに会釈をし、足早にトイレへ向かった。
「ふぅ。寒い寒い……」
トイレを終えて俺は急ぎ車に戻ることにした。
しかし、俺は雪芽の病室の前で足を止めることになった。
「……ん? やあ、あけましておめでとう、陽介」
「なんで、お前が……!」
そいつは俺を認めると爽やかな笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。
ありえない。雪芽が倒れたことをこいつは知るすべを持たないはずだ。なのに、なのにどうしてお前が、ここにいる……!
「広瀬……!」
「おいおい、新年の挨拶も無しかい? 陽介は冷たいなぁ。俺は雪芽の彼氏なんだよ? 雪芽に向ける友情の何割かを俺に向けてくれてもいいだろう?」
「どうしてここにお前がいる」
「はぁ、俺の話を聞くき無いだろ、君。……まぁいいさ、それでどうしてここにいるのかだって? 俺は雪芽の彼氏だよ? お見舞いに来るのは当たり前だろう」
「ならどうやってこの場所を突き止めた」
「簡単さ。この病院に母の知り合いがいるんだよ。その伝手で聞いたのさ。それにしても知ってたなら俺に教えてくれてもいいじゃないか。クラスのメッセグループがあるんだからそこから辿れただろう」
「教えてやる義理はない」
こいつは雪芽を体が目当てなんていうクソみたいな目的で恋人にしたやつだ。それも限りなく外道なやり方で!
俺を貶めるのはいい。それを理由に雪芽に近づくのも。でも、雪芽のことが好きでもないのに恋人になるように脅して、こんなになるまで放っておいたこと、それは許されない!
……雪芽、広瀬のことでもう関わるなと言われたけどさ、広瀬と直接対峙するならいいよな?
「なんだよ、今日はやけに食って掛かってくるじゃないか。さては俺のしたことにようやく気がついたのかい?」
「……あぁ、全部聞いたよ。お前が俺を陥れるためにありもしない噂を流して、罪をかぶるように提案して、それをネタに雪芽に彼女になるように強要した。体目当てなんていうクソみたいな理由で!」
俺が広瀬のしてきたことを暴露すると、広瀬は首をかしげる。
「体目当て? ふむ……、まぁあながち間違いではないか。それに、それはそれで期待できそうだし」
「お前……!」
しかし、すぐにその顔を先程の爽やかな笑みとは比べ物にならないほど邪悪に歪めた。
「はんっ、しかし自分で気づいたわけじゃないのか。やっぱり君は期待はずれだよ。まぁ、それも仕方ないか。君は彼女とイチャイチャするので忙しかったようだからねぇ!」
「違う! 俺はただ雪芽の気持ちを尊重して……!」
「尊重ぅ? 笑わせないでくれよ! ただ怖かっただけだろう? 自分の弱さを他人に押し付けるなんて、ほとほと君には呆れ果てたね」
「ぐっ……!」
……確かに、広瀬の言うとおりかも知れない。俺は雪芽が広瀬のことを好きだと、幸せだと言った言葉に頼って踏み込むことを恐れた。庭や高野に雪芽の本当の気持ちを聞いてようやく広瀬と別れろと言えても、これ以上関わらないでくれと言われただけであっさり引き下がったりして。
本気で雪芽のことを思うなら、恐れずに踏み込むべきだったんだ。それなのに俺は、由美ちゃんと付き合えるようになったからって浮かれて、情けない言い訳を並べて……。
「まぁ、君の情けなさは今に始まったことじゃない。それよりその話、誰から聞いたんだ?」
「……そんなこと言うわけ無いだろ」
「ま、そうだよね。俺もどこから情報が流出しているのか調べてるんだけど、なかなか見つからなくてさ。この俺から逃れるなんて、相当腕が立つんじゃないかな?」
「知るかよ」
「おいおい、君なんかよりよっぽど俺の相手にふさわしいやつだよ? もう少し興味を持ったらどうだ」
俺が無言で返すと、広瀬は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「あら? 陽介君まだいたのね? それと、こっちの子は……、お友達?」
少しの間そうして広瀬と対峙していると、雪芽の病室から静江さんが出てきた。
すると途端に広瀬はさっきまでの邪悪な笑みを引っ込めて、爽やかないつもの笑顔を浮かべる。
「これはこれは、雪芽さんのお母様ですか? 僕は陽介のクラスメイトで、広瀬優利と申します。雪芽さんと恋人としてお付き合いさせていただいております」
「え、え? こ、恋人? 雪芽の……?」
「はい。至らぬ身ではありますが、雪芽さんとはそれなりに良い関係を築けていると思います」
ニコニコと笑みを浮かべながらつらつらと自己紹介を済ませる広瀬に、静江さんは驚きを隠せない様子だ。
俺と広瀬を交互に見てから俺に視線を固定させると、静江さんはなにか言いたげに口をパクパクさせた。
その目が、信じられない、一体どういうことなのか説明してくれと言っているように感じられたが、俺にはどうすることもできず、ただ目を伏せた。
「あぁ……、そ、そうなのね! 雪芽に彼氏が……。あの子ったらそんなこと一言も言わないものだから! じゃ、じゃあおばさんはちょっと出てくるけど、ゆっくりしていってね!」
そうして静江さんは動揺を隠しきれぬままその場を去っていった。
広瀬はそれを相変わらず貼り付けた笑みで見送っている。
静江さんの姿が見えなくなると、広瀬はなにも言わずに雪芽の病室に入っていく。
「お、おい、待てよ!」
慌てて後を追って病室に入ると、広瀬は貼り付けた笑みを消して、迷惑そうな表情で振り返った。
「なんだい? 用が済んだならもう帰ってくれないか?」
「お前と雪芽を二人っきりになんてできるわけ無いだろ」
「おいおい、自分が恋人とイチャイチャしているときはさんざん放置してたじゃないか。今更なにを言うんだい」
「それはっ……!」
俺が言葉に詰まると、広瀬は笑みを浮かべる。この上なく邪悪な、見るものすべてを心底から恐怖させるような、そんな禍々しい笑みを。
「返す言葉もないかぁ? そうだよなぁ? 俺は事実しか言ってないもんなぁ? ほら、分かったら出ていってくれ。恋人同士の逢瀬を邪魔するものではないよ?」
そう言いながらゆっくりと雪芽に近づいていく広瀬。ついには眠る雪芽にその手をゆっくりと伸ばして――
「おい! 雪芽に触れるな!」
ピクリと広瀬の伸ばされた指先が震える。
そして広瀬は振り返ると、今まで見たこともないような恐ろしい表情で俺を睨みつけた。
「なぜお前にそんな命令ができる? 雪芽は俺のものだ。心はまだ手に入れられてないが、いずれ俺の手中に収まる。たかだか親友程度のお前がでしゃばるなよ」
「ッ……! ゆ、雪芽はお前のものじゃない!」
「だとしてもお前のものでもない。俺は恋人だ。雪芽もそうありたいと望んでこの関係でいるんだ。俺は雪芽に触れる権利があるんだよ」
そう言うと広瀬は再び雪芽に手を伸ばし、その髪に触れた。
「……ッ!」
そのまま、まるで芸術品を愛でるかのようにゆっくりと頭を撫でて、髪を一房取り、手から滑り落ちていくそれを眺めていた。
俺はただ唇を噛んでその光景を見ていることしかできなかった。
「ふーむ、想像していたよりも柔らかいな。当初そのつもりはなかったけど、本気で俺の女にするのもいいかもな」
「お前っ、お前ぇ……!」
「あれ? なんだ、まだいたのか。さっさと出ていってくれよ。それともここで俺を殴るかい? そんなことをしたら君は出禁になるだろうけどね! まぁ、間抜けな陽介ならそんなことも頭が回らずに殴ってしまうかも知れないけどさ!」
俺は歯を食いしばって、拳を痛いほど握って、この体の内から溢れ出そうになる怒りを抑え込んだ。
だめだ、ここで殴ったら広瀬の思うつぼだ。落ち着いて、今日は一度引くしかない。
……ごめん雪芽。俺は、どうすることもできない……。
「お、やっと帰る気になったのか。そうさ、君はそうやって尻尾を巻いている姿がお似合いだよ!」
悔しくて、悔しくて、悔しくて。どうしようもなく悔しかった。
なにもできない自分が、目の前で雪芽に迫る広瀬を見ていながら、止められる距離にいながら止められない自分が、悔しかった。
……力がほしい。雪芽を守れる強さが、広瀬になんか負けない力が。
今の俺は、あまりに無力だった。
トボトボと歩き、気がつけば外に出ていた。
雪は一層勢いを増して、空を見上げる俺の頬にあたっては溶け、流れていく。
「くそっ……、くそぅ……!」
静かに、言葉をこぼす。
こぼれ落ちた言葉は、深々と積もった雪に吸い込まれて消えていく。
頬を伝う雪解け水は、顎先からポタポタと落ちていく。
それはとめどなく溢れて、足元の雪に穴を穿つ。
「ごめん、雪芽……。ごめんなぁ……」
見上げた空は、一面滲んだ鈍色に染まっていた。




